第34話 頭蓋骨が多すぎる!

 どっぽーん、と大きな水音が洞窟のなかに響きわたる。

 水面に叩きつけられた瞬間の衝撃で、手燭を落としてしまったのだろう。目を開けていても少しの光も見えない真っ暗闇に夏月の体は落ちていた。漆黒の滑らかな帳に包まれて、上も下も右も左もわからない。水底から誰かに足を捕まれているかのように、体がどんどん沈んでいく。

 それでも、飛びこんだ勢いで深く沈みこんだあとは少しずつ浮きあがり、吐く息すらなくなりそうになった瞬間、水面に顔が出た。ようやく息が吸えたとよろこぶのもつかの間、今度は息苦しさのほかに、鼻から口から水を吐きだす苦しさも相まって、体がどうにかなってしまいそうだった。

 それに、夏月は泳げない。どうにか水面でもがいているうちに、手で掴める岩を探りあてたのは、ただの幸運としか言いようがなかった。

 夢中で体を引きあげ、どうにか岩棚の上に転がりこむ。

 胸が激しく上下して、ぜぇぜぇと荒い息を繰り返していた。乱れた息がなかなか元に戻らないのは、衝撃のあまり混乱しかかっているせいだ。

 袖を絞り、襦裙の裾を絞っているうちに、どうにか鼓動が早鐘を打つのが収まってきた。

 ぽたぽたと、髪から頬から、体中に張りついた布から雫を垂らしながら、自分がどのような状態なのかをひとつひとつ確認する。

「……っはぁ、はぁ……荷物は、ある。手燭は……諦めるしかないか……」

 手燭は金属でできているから、庶民には高価な物だ。

 ――弁償しろなどと言われたら、どうしよう。

 巻物の捜索費用のなかから新しいのを買ってもらえるかどうか、洪長官にお願いするしかない。あるいは、頭を下げて父親にお願いするか。

「ここから無事に地上に戻れたら、という話ですけど……」

 途方に暮れた心地で、自分の上にのしかかってくる、ねっとりとした漆黒を見据える。光のない闇というのが、ここまで色濃く重たいものだとは思わなかった。先日、落ちたばかりの冥府と、どちらの闇が濃いのだろう。どこまでも果てしなく続く常闇と、狭く押し迫ってくるような匣のなかの漆黒と。

 夏月には、簡単に比べられなかった。冥府の常闇のなかには、豪奢な御殿があり、そのなかには極光が光り輝き、眉目秀麗にして、人間の命の生殺与奪を握る王がいることを知ってしまってからはなおさら。鵲の羽の白だ。漆黒のなかに一点の白があるからこそ、その白はより眩しく、漆黒はより昏い。

 身につけていた荷物も手探りで下ろして、手燭の代わりになるものがないか確認する。

 夏月としては、こんな風穴のなかを冒険する予定はなかったが、荷物を渡してくれた眉子は知っていたのだろうか。開いた巾のなかには、筆と墨と硯の筆記用具のほかに、油紙に包んだ火打ち石と蝋燭が入っていた。

 髪から落ちる雫が鬱陶しくて、髪もまとめて絞る。袖もよく絞って、場所を移す。

 手探りで乾いていそうな場所を探して、蝋燭を立てて火打ち石をかちかちと打ちつけた。

 何度かやるうちに、蝋燭の芯が乾いてきたのだろう。仄かな明かりがともると、ほっと安堵の息が漏れた。

 これは正真正銘の、夏月にとっての命の炎だ。

 この炎が尽きるまでに、どうにか出口を見つけないといけない。

 やはり手探りで探りあてた硯を裏返し、

「師匠、申し訳ありません。大事な硯を蝋燭台の代わりに使います」

 と拱手しつつ頭を下げてから、底に蝋をぽたりぽたりと垂らした。固まりきらないうちに蝋の上に蝋燭を載せる。こうすると、蝋が冷えて固まり、蝋燭が安定するからだ。

 夏月は硯の蝋燭台を背の高さに掲げ、自分のいる場所がどんな場所なのかと見回した。

「落ちてきたところは水の上だから、そこから戻るのは難しい。でも、風穴同士はどこかで繋がっている可能性が高いはず」

 その可能性に賭けるしかなかった。

 わずかな明かりだけを頼りに少しずつ進んでいると、ふと、人工的な文様の陰影が目の端に映った。暗闇のなかにいるから、ちょっとした物陰を人工物だと思いたいのかもしれない。期待しすぎないようにしなくてはと、高鳴る心臓を抑えながら蝋燭の明かりを近づける。

「これは……祭壇?」

 ときを経て角がすり減り、文様がかすれていたものの、なにかの祭壇だった。石棺より背が高く、目の前に立つと、ちょうど経文を置きやすいようになっている。その周りをよくよく探すと、壁に古い繊維くずが残っていた。こちらも古色蒼然としていたが、暗闇のなかだからだろうか。わずかに色が残る。

「これは……旗? 書かれている文字は……さすがに読めないか」

 ぼろぼろの旗は、まるで誰かがあえてそうしたかのように、真ん中の、姓の部分が崩れ落ちていた。

 さらによく確認すると、祭壇の前、高い場所に石棺があった。これは大発見だ。石棺より高いところに穿たれた空間は、真ん中がぽっかりと空いている。もしかすると、上の階にあった泰山府君の神像は、もともとここに祀られていたものなのだろうか。左右に残された祖霊像は顔が潰されていた。

 上で見た琥珀国のもの以上に、こちらの石棺も古めかしく、側面の文様はすり減っている。手燭を近づけて手でなぞってみると、かすれた文字には覚えがあった。

「天原国……景祖……」

 景祖というのは、天原国の最初の王、そのおくりな(死んでからの呼び名)だ。

「つまり……ここは天原国の祭壇?」

 どきり、と心臓が震えた。なにか大発見をしてしまったのではないかという期待と、国の重大な秘密を知ってしまったのではないかという怖れとが入り交じった鼓動の音だった。

 ――琥珀国が滅ぼしたはずの天原国の祭壇が、なぜ、琥珀国の城の奥も奥……後宮の最奥にあるのでしょう。

 その秘密が知りたくて、知るのが怖い。

 石棺のなかの骨はだいぶもろくなっていたようで、足の大きな骨はともかく、いくつかは自然と風化して壊れている。頭蓋骨はまだしっかりと形をとどめていたから、手燭を置き、礼を尽くして手にとってみる。

「こうやっていくつもの頭蓋骨をまとめて見ると……意外と違うものですね」

 一族の特徴が違うからだろうか。先ほど見た琥珀国の王よりも頭が大きく、鼻の形も違う。

「これが天原国の王の顔……」

 天原国の初代の王は伝説のような存在で、実在していたという実感が夏月にはない。なのに、頭蓋骨と向き合っていると、かつて本当に天原国があったのだという驚愕の入り交じった感動がじわじわと指先から這いあがってきて、心を震わせるのだった。

「その昔、が六聖公のひとりとして辣腕をふるったという天原国とは、どのような国だったのでしょうか?」

 夏月は頭蓋骨と向き合って、語りかけていた。

「名高い詩人たちが、これこそまさに理想郷のようだと詠いあげた国は、なぜ滅んでしまったのでしょう?」

 高度な文明で堅固な城市を築き、花が咲き乱れる美しい園林があり、学者たちは研究に勤しんだと言う。

 ひそやかな問いかけは闇のなかに消えて、答えはない。あるいは、沈黙こそが頭蓋骨の答えなのかもしれない。

 ――栄枯盛衰。どんなに満ち足りて美しい王朝であっても、いつかは滅ぶ。物言わぬ亡骸は、そこにあるだけで歴史の必然を体現しているのだった。

 しかし、ここが古い祭壇なのだとわかっただけで上等だ。

「祭壇なら祀る人がいて、入ってくる場所があるはず……」

 多くの場合、祭壇は入口の正面に作られる。そちらへ向かおうとして、夏月はふと祭壇の裏に回りこんだ。さっきの祭壇の中身は空だった。しかし、いま目の前にある祭壇を手探りで確認したところ、木匣の蓋が手に当たる。結んである紐は、夏月が解こうとするより先に崩れてしまった。引きだして匣の蓋を開けてみると、いくつもの巻物が並んで入っている。

「これはもしかして……」

 小花が散った巻物の装丁にわずかに見覚えがある。冷たい手で髪の雫を気にしながら開くと、予想どおり、なかは天原国の秘書だった。

「やっぱり」

 巻物の中身を見たい。このまま読み解きたい、という欲求をこらえて、夏月は匣の蓋を閉めた。隙間なく作られた匣は頑丈で、長年巻物を守ってきたようだ。このまま巾に包んで持ち運んだほうがいいだろう。

 さっきのように水に落ちても大丈夫なように、巾包みの匣をきっちりと体に結わえつけると、今度こそ出口を探そうと手探りで壁を伝う。

 足を踏みだした先に、こつ、と当たるものがあった。なにか岩でも落ちているのだろうかと、蝋燭を近づければ白い。この風穴のなかの岩は、黒ばかりだ。赤黒い岩もあるが、白はない。

 ――滑らかでまろみを帯びていて……。

 片手でひょいと持ちあげてみれば、それは頭蓋骨だった。

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