第28話 夜の月も悪くない②

外は風が吹いて、がたがたとうるさい。生者の客が来たのなら、今宵はもう幽鬼は来ないだろう。夏月は立ちあがり、「ちょっと失礼しますよ」と店の外に出ると、札と鬼灯を下ろしてきた。文机の前に開けている飾り窓も板を八割方下ろして、部屋に風が入らないようにする。

 春分が過ぎたばかりのこの時期、風はまだ冷たい。炭で暖をとっているから締め切るわけにはいかないが、少しだけ部屋があたたかくなったようだった。

 夏月がもう一度、文机の前に戻ってくると、ずっと話を聞いていた可不可が、ぽつりと話に割って入った。

「文字が書けるお客さんなら、お嬢が書いた手紙を、もう一度書き写しなさったらいいんじゃないですかね?」

 その言葉は決して大きな声ではなかったが、狭い店のなかでよく響いた。

 一瞬、呆気にとられたような沈黙が流れて、夏月と良良は可不可の顔をじっと見つめてしまった。

「お嬢……俺はなにか変なことを言いましたか?」

 今度は、可不可が不思議そうに夏月と良良を交互に見る番だった。こほん、とわざとらしい咳払いをして、夏月は仕切り直す。

「いや、そうではありません……可不可。おまえの言うとおりです。わたしが見本を書き、それをあなたが書き写して手紙を出す――それでよろしいですか?」

「は、はい。それで構いません。大丈夫です。よろしくお願いします」

 良良がうなずくのを見て、夏月は代書屋としての本分を思いだした。

 朱銅印のことがことさら好きだったというわけでもないのに、夏月はどうしても彼女に対して苦手意識があった。

 名家の子女で文字の読み書きができるのは夏月と同じ。なのに、書物が読み放題の秘書庫を嫌って朱銅印と仲よくなり、夏月と婚約破棄までさせた。いまも、そうだ。言ってしまえば略奪愛をした恋敵の夏月に対して、頭を下げることをいとわない彼女を夏月は理解できていない。

 しかし、可不可の言葉で目が覚めた。

 ――理解できなくてもいい。

 個人的な感情は棚上げしておいて、ひとまず目の前の仕事をこなそう。彼女は客で、自分は代書屋なのだ。こんな夜遅くにわざわざ訪ねて来た客の仕事を断わったなどと報告したら、師匠に怒られてしまう。

 気を取りなおして、手紙の文面をさらった夏月は、粘土板では足りないとばかりに竹簡を机の上に積んだ。

「なるほど」

 夏月は視線だけで手紙の内容を追ったあとで、真筆を汚さないように、まずは全文を竹簡に書き写した。こうやって自分で書き写すと、手紙を書いた人の気持ちになれる。

「なるほど……不定形詩のような、そうでないような……

  娘学有羞演

  昴晨祭祀許

  暢気春酔滅

  空刻々悠々

そして、わたしとの婚約破棄に怒っておられたと……」

「はい」

「あなたならなんと読み、なんと返信するつもりでしたか?」

 朱銅印から『灰塵庵』のことを教えてもらったと言っていたが、自分で手紙の返事が書けるのに、この手紙をもらっただけで、すぐに恋敵のところまで相談に来るものだろうか。

「私は……手紙の内容はよくわからないのですが、お祖父様には嫌われているのだと思いました。中途半端に学のある女が夏月さんから彼を奪ったところで、いい気になるなよと釘を刺されたようで……でも、彼と結婚できたなら、精一杯尽くすつもりでいますと、そう返信しようと思って……」

 切々と訴えられなくても、夏月より彼女のほうが尽くすのが上手だろう。話をしてみると、朱銅印はそこに惹かれたのだとよくわかる。逆の発想をするなら、夏月のことを気に入ってくれた朱大人は、そういう女では彼の結婚相手として力不足だと思ったのかもしれない。

「ふむ……朱家には挨拶にうかがったのですよね? 朱大人とは直接お目にかかりましたか?」

 夏月は首を傾げながら質問を重ねた。のどに小骨が刺さったように、なにかが引っかかっていた。彼女が嘘をついていると感じたわけではない。それでも、彼女の言葉で聞いてしまうと、なにかが少しずつずれているような、小さな違和感が胸に広がる。泰山府君から指摘されて以来、夏月はこの違和感について丁寧に考え、つまびらかにしようと心がけていた。

「申し訳ありませんが……手紙を書く参考にしますので、朱銅印様と知り合ったときと、本家に行ったときのことを、なるべく正確にお話しいただけませんか?」

「え、ええ? そうですか? あの、では夏月さんが差し支えなければ……」

「差し支えませんので、よろしくお願いします」

 ここはきっぱりと断っておく。

 夏月が先をうながしたからだろう。良良はぽつぽつと自分の話をはじめた。

「普段、私は良良と呼ばれてますが、名前は史部良と申します。史部家の娘です。二年ほど女官として写本府に勤めておりました。

 ――私が初めて朱銅印様とお会いしたのは、秘書庫に本を運びこんだときでございました……」

 

 秘書庫には扉を管理する者と、写本をする眉子という宦官がおりますが、基本的には人手があまりありません。いくら後宮への出入りは女官のほうがいいとは言え、書物を運んでいくのは重労働でございます。そこを、偶然、通りかかった六儀府の朱銅印様が手助けしてくださったのでした。

 朱銅印様は仕事で秘書を探しておられると言うことで、今度は目当ての本を探す手伝いをして差しあげたところ、親しくなったのです。それに……女官というのは立場が弱いですから、さりげなく助けていただいたこともありました。後宮にはたまに書物を運びに行くだけで不慣れな身でしたから、とても助かったのでございます。助けていただいたお礼がしたいと言って、城の外で待ち合わせをしたいと言いだしたのは、誓って、私のほうです。お礼をカタにとって、無理やりお会いしたのです。それから、何度かお会いするうちに、秘書庫詰めの勤めが嫌で、辞めたいと言ったのです。後宮は……苦手で。そしたら、朱銅印様が結婚しようとおっしゃって……うれしかったのです。写本府は活気がない部署で、仕事を無理やりさせられないという点ではよかったのですが、出会いがありません。何度か助けていただいて惹かれていたこともあり、一も二にもなく了承いたしました。

 でも……そこで初めて婚約者がいることを聞かされたのです。藍家のお嬢様と婚約していると……。婚約破棄するから、大丈夫と言われたのですけど、私は心配で心配で、いても立ってもいられなくて、それで夏月さんと朱銅印様の会食をのぞきにいったのです。その節は申し訳ありませんでした。

 あのあと……夏月さんが婚約破棄を許してくださったあと、朱銅印様は私と結婚したいと彼の父君に話してくださり、父君はすぐに認めてくださったそうなのです。

 でも、朱家では結婚はお祖父様の意向を確認する必要があるそうで、しばらくして、朱家のご当主がご立腹になっていて、結婚を認めてくださらないと言われました。正直に言えば、困りました。そのときにはもう女官を辞める算段をすませてましたし、周りにも結婚すると話していたのです。それで、結婚できなかったらどうしましょうと、どうにかお祖父様に認めていただく方法はないかと朱銅印様と話して、お祖父様に贈り物をしたりと、お心を変えてもらうように働きかけていただいたところに、この手紙が来たのです。朱銅印様を通じてではなく、直接いただきました。自分で読んで、さきほども申し上げましたとおり、自分が非難されているのだと思いましたので、まずは彼に相談しました。文章の意味がわかりませんでしたし、それに、朱銅印様は仮にも六儀府の官吏ですから、私よりよく文字をご存じだろうと思ったのです。

 そこで、朱銅印様は父君にも相談なさって、藍家のご息女が代書屋をやっているそうだから、そこで聞いたみたらどうだと言われたと言うのです――。


 女の語り口は雄弁だった。声音にちょっとした抑揚をつけるのがうまく、それが妙に艶っぽい。文字の読み書きができると言ったが、この良良という女の本領は、語りのうまさだろうと思った。

 おかげで夏月も背景がよく理解できた。どうやら、朱銅印の父親には代書屋のことを知られていたらしいことも。

「つまり、正確には、『灰塵庵』のことを勧めてくださったのは、朱銅印様の父君なのですね?」

「はい。そういうことになります」

 朱銅印よりも彼の父親のほうが朱大人の性格をよくわかっているのだろう。いまは実質的に父親が家を切り盛りして、当主はご隠居状態だろうが、それでも、自分の父親の薫陶を受けたはずだ。

「結論から言いますと、朱大人は特に良良さんを貶そうとか気に入らないとかそういうことは考えておられないと思います」

「え?」

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