第29話 夜の月も悪くない③

 夏月は一度直に会ったことがあるが、闊達で諧謔を理解するご老人だった。

 もし、朱大人が怒っていたとすればそれは、良良に対してではないだろう。

「この手紙は、意味があるように見せかけて、なにもないんですよ。これはただのなんです」

 きっぱりと断言する夏月に、どういう意味ですかと言わんばかりの声をあげたのは可不可だった。

「なぞなぞとはどういうことです、お嬢」

 身を乗り出すようにして聞かれるのは、まるで師匠になったようで気分がいい。夏月にしては珍しく機嫌よく、先生役ぶって説明する気になった。

 墨を摩って、筆をとると、写しを作った竹簡のほうに、すらすらと○を書き入れていく。

「こうすると、よくわかるのではないですか?」

 竹簡の文字がよく読めるようにと明かりで照らしてやると、良良と可不可が前のめりに顔を近づけてきた。


  娘学[子]有、羞[丑]演[寅]

  昴[卯]晨[辰]、祭祀[巳]許[午]

  暢[申]気春酔[酉]滅[戌]

  空刻[亥]々悠々


「このように十二支の名前が隠されているのです。物の名前を詩に隠した戯書ですよ。ところどころにある関係ない文字は、単なる引っかけですね」

「ひ、引っかけ……ですか? なぜ、そんなことを……」

 意外と真面目な性格なのだろうか。こんなことで「なぜ」と聞かれるとは思わなかった夏月は、

「そのほうが面白いからではないでしょうか?」

 と答えながら笑ってしまった。

 朱大人の顔を思い浮かべると、あの老爺なら、そうするだろうと思えた。意地悪ではない。すぐにわかっては面白くないから、間違った方向に誘導するために、ちょっとした諧謔を仕込んだだけだと哄笑するだろう。

 夏月は墨を摩り、紙に文鎮を置いて、すらすらすらっと、十二支の名前を書き連ねた。ついでに、引っかけの部分に答えるように、「学のない私にはつまらない回答しかできませんが、悠々自適に楽しませていただきました。どこかの宴ででもお目にかかれればさいわいです」などと、手紙の文章を添える。

 琥珀国ではみな宴が好きだ。花が咲けば酒を飲み、二十四節気が来れば酒を飲み、祭日があれば酒を飲む。

 そういうときに、まずは顔を合わせていただけませんかという控えめな主張を織り交ぜた。

「こんなものではないでしょうか。この文章を良良さんの字で書いて出せば、大丈夫です。きっといい返事がくると思いますよ」

 夏月はにっこりと笑って良良を励ました。

 ――代金ももらえるし、なぞなぞを解くのは、彼女よりできることを証明したし。

 ささやかな復讐を果たした気分で、悪くない。良が何度も頭を下げながら帰ったあとの『灰塵庵』はいつになく、やり遂げた感のある満たされた空気が漂っていた。

 幽鬼が相手ではこうはいかない。いい仕事をしたという職人の矜持を満たしてくれるのは、やはり生者が相手であればこそだろう。今日はいい気分のまま、もう寝ようと夏月が片づけをはじめたときだ。可不可がしみじみとした調子で言った。

「恋敵に塩を送るなんて、お嬢も大人になったんですねぇ……」

「誰が恋敵よ。誰が大人になったのよ……可不可」

 朱銅印を奪われたと言っても、夏月は彼に恋していたわけではないと何度しつこく言ったらわかるのだろう。それとも、わかっていて言っているのだとしたら、可不可に灸を据えてやる必要があるかもしれない。一瞬、頭に血が上りそうになったところで、さっき文机の上に持ちだした鏡が目に入った。

 よく磨かれた青銅の鏡のなかには、影のような自分がのぞきこんでいる。

 婚約破棄したことに対して、格別な感情はない。ただ、父親に対して申し訳ないと思っていただけだ。代書屋なんて早くやめて普通の結婚をしてほしいと夏月に望んでいたことは痛いほどわかっていた。

 でも、良良と話してわかったのだ。

 ――わたしが引け目を感じていたのは、彼女のようになれない自分自身に対してだったのかもしれない。

 鏡に映った虚像のように、似て非なるところがたくさんありながら、仕事を辞めて結婚を選ぶ彼女が眩しい。それでいて、まだ彼女のようになりたいと言い切れない自分もいる。

 まるで、太陽と月のようだ。

 同じ空に浮かぶ丸いものなのに、彼女と自分は正反対だ。

 恋愛も結婚相手の家族とのしがらみも、すべてが生きている者ならでは悩みだった。ときに煩わしく、ときにすべてを投げ出したくなるほど簡単に解決しないし、生きているかぎり、おのれの陰のように、いつまでもつきまとう。でも、彼女は自分で望んで、普通なら敬遠するはずの元婚約者に頭を下げに来たのだ。面倒なしがらみをいとわず、しなやかに対応するその姿が、引きこもり同然の夏月には眩しい。

 振り返ってみれば、自分はまるで、半分、死者の国に足を突っこんでいるかのようだ。朱大人に気に入られてはいたが、それだけだった。婚約者である朱銅印とは、父親から強制されないかぎり会いたいと思ったことはない。先方の家族ともそうだ。

 自分はそういう性格なのだと割り切りながらも、正反対の人を見ると、引け目を感じてしまう。

「それにしても手紙に物の名前をなぞなぞで入れるなんて、洒落た遊びですねぇ。そのご当主はそういう遊びがわかる結婚相手なら認めてやると、そういうことだったんですね」

 外の灯籠の火を消し、戸締まりをすませながら、可不可が感心した声をあげる。店仕舞いをのんびりしながら話をする時間は久しぶりで、夏月はいつになく機嫌がよかった。だから、可不可にくらいは種明かしをしていい気持ちになったのだ。

「馬鹿ね、可不可。朱大人の結婚相手じゃないのだから、そんなことは求めてませんよ。あれはね、わたしに対しての気遣いなのです」

「え……お嬢に対しての気遣いって……どういうことです?」

 手燭を残して明かりを消し、炭を灰のなかに埋めると、裏口から店を出た。『灰塵庵』は藍家の別宅の片隅にあり、外廊下を通って寝室に向かうからだ。曇り空のままだが、雨は降りそうにない。ただ厚い雲が空を覆うばかりという夜だった。

「朱大人は私のことを気に入ってくださっていて、朱銅印様との婚約の後押しをしてくれていた……でも、朱銅印様がほかの女と浮気をして、婚約破棄を持ちかけた――そうなるわね?」

「まぁ、そうですね」

 夏月は手燭を持って、山裾に張りつくようにして続く暗い外廊下を進んでいく。新月ではないからだろう。曇っているはずなのに、不思議と空は少しだけ明るく、廊下にはうっすらと陰が落ちていた。

「文字の読み書きが書ける女でなぞなぞがわかるような娘なら、よし。そうでないなら、読み解ける誰かに助けを求めるはずだ……」

「あ……」

「良良さんがに協力をお願いして答えを教えてもらったなら、藍夏月は朱銅印とその娘の結婚を許してやったと言うことにする――そういう仕掛けでしょう」

「ああ……そういうことなんですか……」

 歩いているうちに厚い雲がわずかに切れたのだろう。夜なりに空が明るくなり、庭を照らしていた。月のない闇夜を知ってしまうと、太陽には及ばないはずの月の明るさが、どれほどありがたい存在なのかが身に沁みる。夜道を行く旅人にとって月はなくてはならない存在だ。

 仄かな月明かりがうっすらと石畳を浮かびあがらせ、物陰を作ると、すべてがまるで薄墨で描かれた世界に見えた。濃い黒と薄い黒と灰色の世界。そのささいな月明かりを確かめながら歩く夜というのも風流だと思った。

 久しぶりに夜の散歩をしたせいだろうか。

 ――太陽の地上を遍く照らす明るさだけではなくても、月のひそやかな光も悪くない。

 そんな気持ちになり、口元が自然と綻ぶ。

「朱大人は良良さんを気に入らなかったのではなく、わたしを買ってくださっていたから、わたしの代わりに怒ってくださったんですよ」

 その心遣いがいまは素直にうれしい。

 ――落ち着いたころに、お礼の手紙を差しあげてみようか。

 生者の客が『灰塵庵』を訪れた夜、元婚約者の祖父と手紙のやりとりをしようかなどと、夏月にしては珍しいことを考えたのだった。

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