第27話 夜の月も悪くない
その夜、代書屋『灰塵庵』の軒先には木札の看板が下がっていた。
――『万事、代書うけたまわります』
営業中である証の札に
日中、
しかし、今日、夏月は店を開けたかった。
月が出ない夜は、幽鬼がよく来る。空が重たい雲に覆われ、いまにも雨が落ちてきそうで落ちてこない、いかにも幽鬼が出そうな曇天の夜だった。城から歩いて帰宅しながら、夏月は決めていたのだ。今宵はどんなに疲れ切っていても代書屋の看板を出すと。
「お嬢、夜更かしなさるんですか?」
可不可の声には、やめたほうがいいと言わんばかりの非難がましい調子が滲んでいた。言いたいことはわかっている。可不可は夏月の体のことを心配してくれていることも。
それでもなお、非難する声音と言うのは、固い石を金属で引っかいたときのように、耳障りな音に聞こえてしまうのはなぜなのだろう。
「そんなにわたし、疲れた顔をしているのでしょうか……」
手鏡をとりだして顔を映せば、目の下には隈がくっきりとある。疲れた顔なのかどうかまではわからないが、やっぱり寝ようか。そんな迷いが心をよぎったときだ。外で、がたり、と物音が聞こえた。
「あら、話してるうちに誰か来たような……」
耳をすませるから少し黙ってと可不可を制したとき、こんこんと扉を叩く音がした。幽鬼が来たときなら、夏月は「どうぞ」とだけ声をかけて扉を開けはしない。
幽鬼というのは、ささいなことでいなくなるから、こちらが幽鬼を待っている素振りを見せないほうがいいからだ。けれども、今宵は
「ごめんください」
入ってきたのは女の客だった。
灰塵庵は幽鬼の客に合わせて作られており、入口に立たれると、灯籠の明かりが顔に届かない。それでも、幽鬼か生きた客かは気配だけでなんとなくわかる。明かりが当たっていなくても、女の顔には、幽鬼にありがちな、拭いきれないような陰がない。ふっくらとした頬に赤い唇は、生者のみずみずしさに溢れていた。
「あの……藍家のご令嬢がここで代書屋をやっているとうかがって……それでお願いしたくて訊ねてきたのです」
おずおずとなかに入ってきた女は物珍しそうに、店のなかを見回している。壁に大きく掲げられた『
「おや? あなたは朱銅印様の恋人ではありませんか?」
可不可が驚いた声をあげた。その言葉を聞いて、夏月は手元でもてあそんでいた筆を置いた。手燭を掲げながら顔を上げれば、客の顔がはっきりと見える。
朱銅印との会食のときに現れた女だ。秘書省の仕事を嫌がって女官を辞めたという。
「確か名前は……
いつもの口上を滑らかに述べたが、内心では、なぜ彼女が来たのだろうと訝しんでいた。勝ち負けで物事を決めるのは好きではないが、略奪愛というのはやっぱり奪ったほうが勝ちだし、とられたほうは敗者だろう。いまさら、敗者に対して傷に塩を塗るようなことをしに来たのだとしたら、ただ面倒なだけだから帰ってもらえないだろうか、などと考えていたのが態度に出ていたらしい。良良は幾分気まずそうな顔を見せた。けれども、先に聞くべきことは聞いておかなくてはならない。
「良良さんは写本府に勤めていたのでしょう。洪長官から、あそこは字の読み書きができる女官を雇っているとうかがいました。でしたら、わたしごときの代書は不要かと思いますが……」
夏月としては珍しく本音を表に出してしまった。
――どうぞすみやかにお帰りください。
そんな空気を言外に匂わせている。
しかし、さすがは、閑職と言われた写本府で、よその部署の官吏と親しくなるだけの人付き合いを心得ているだけはある。良良は遠回しに冷たい接遇をされたぐらいでは怯まなかった。
「もちろん、お礼はきちんとさせていただきます。それに、私ではだめなのです……どうしても藍家のお嬢様のお力を貸していただきたいのです」
下手に出るようにして、訴えかけられた。瞳を潤ませた女から、膝をついてずずっと近づかれると、なるほど、男でなくても話を聞いてやりたくなる。そういう雰囲気を作るのが抜群にうまい人だった。それに、「お礼」という言葉に、可不可が反応している。事情を知っている可不可からも「話くらい聞いてやったらどうです?」と言われては、さすがに断りづらかった。
一時休戦とばかりにため息をつくと、可不可がお茶を淹れた。これはかなりの賓客扱いであった。
字の読み書きができる上に、曲がりなりにも、朱銅印の家族に紹介されたくらいだ。良良はそれなりの家柄の娘なのだろう。お茶を飲むときの所作は手慣れている。お茶を飲んで一息ついた良良は手持ちの巾包みを開いて、すっと手紙を差し出した。
「この手紙の返事をお願いしたいのです」
そう口にしたときの彼女の顔にはいつになく、憂いが漂っている。そういう顔をされると夏月としては弱い。
手紙を手にとり、折りたたまれたのを丁寧に開いた。
さっと目を通してわかったのは、手紙の差出人は朱府――朱銅印の祖父からだということだった。朱銅印の婚約相手は、朱家の当主である祖父に決定権があるのだという。以前、父親から朱銅印を婚約者にどうかと打診されたときに、夏月も手紙をもらったことがあった。その話を朱銅印から聞いてきたのだろう。
「あなたはすぐに返事を出して、
大人というのは目上の人に対する敬称だ。名家の当主に対して、名前を呼ぶのは失礼に当たるから、朱大人などと呼ばれる。
「それは……そういうこともあるでしょうね」
夏月はそっけなく答えた。彼女に冷たくしたいからではなく、単なる事実だった。
朱家が藍家との結びつきが欲しかったのなら、夏月との婚約破棄は悪手となるからだ。
夏月の姉・紫賢妃は国王の寵妃で、後宮における序列も高い。祖霊信仰が強い琥珀国においては、国王の母親というのはたいそうな権力を持つ。未来の国王を生むかもしれない妃たちとの結びつきは、どの家ものどから手が出るほど欲しがっていた。
しかし、それとは別に、朱大人が怒ったのは、夏月が個人的に彼から気に入られていたからだろう。
手紙の返事を書いたあと、やたらと上機嫌な返事が来て、そのまま何通かやりとりをしたほどだ。夏月と朱銅印の婚約が長く続いたのは、この祖父が一因で、それほど、彼の言葉は朱家では力があった。
「返事をしたためてもいいですが……わたしは何通か手紙のやりとりをして字を覚えられています。わたしが返事を書いたのでは、まずいのではありませんか?」
朱大人は、夏月の手紙の返事だけではなく、書を褒めてくれた。女性にしては自由闊達な書だと絶賛して、ひそかにかけ軸の一筆を注文してくれていたくらいなのだ。向こうに手紙が残っているかもしれないし、見比べられたら、返事を書いたのが夏月だと、すぐにわかってしまうだろう。
「あ、別に仕事を受けるのが嫌だという意味ではありませんよ。念のため」
意地悪をしているわけではないと、そこは強く主張しておく。
良良は夏月の言うことも一理あると思ったのだろう。手詰まりになったときの悲壮感を漂わせて、ぐっと押し黙ってしまった。
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