第26話 夏月のひそかな企み③

 誰もが呆気にとられるなか、真っ先に反応したのは、洪長官だった。

譚暁刻たんぎょうこくとは……か? 書聖しょせいとして名高い……」

 書画の蒐集家なら誰もが欲しがる書家をひとりあげよと言われれば、真っ先に名前が挙がる。

 それが譚暁刻という人だった。

 いくつもの書体に通じ、繊細な詩から、迫力ある格言まで、見る者が手元に置いて、おのれの生涯の師と仰ぎたくなるような字を書くと言われている。

「まさか……譚暁刻に弟子なんていたのか?」

「聞いたことがないぞ。いや、それよりも、譚暁刻と言えば、天原国てんげんこくの……」

 つい一瞬前まで、水を打つように静かな空気が満ちていたのが嘘のようだ。官吏たちの顔に不安と疑念が渦巻いている。

 この場にいるのは官吏ばかりで、決して噂好きの町人と言うわけではない。それでもひそひそと言葉を交わさずにいられない。

 それだけの力が『譚暁刻』という名前にはあった。

 同僚たちの動揺冷めやらぬなか、異を唱えたのは、またしても桑弘羊だった。

「おいおい……冗談も休み休み言え。譚暁刻と言えば、天原国の宰相を務めた、六聖公のひとりだ。天原国が琥珀国に滅ぼされて、もう百二十余年になる。もし、生きていたら、それはもう人間じゃなくて、仙人だろう」

 知識に裏付けされた確かな指摘は、さすがは科挙の合格者だと思わせる。

 琥珀国の近辺には、いくつもの小さな国があるが、それらはみな天原国に源を発している。

 かつて中原は天原国の圧倒的な支配に置かれていた。高度な文化が花開き、城市がいくつも開かれたのは、天原国の統治力あってのことだ。

 なかでも、天原国の力を決定づけたのが、六聖公と言われる高官の存在だった。

 国の中枢に位置する高官は特別な色の袍を纏わせて、そこに六聖公ありと知らしめたのだという。

 なかでも、天原国滅亡直前に宰相を務めた譚暁刻は、その辣腕とともに書聖として、いまでも名高い。琥珀国の王は天原国の最後の王を討ちとった、いわゆる敵国に当たる。その王でさえ、譚暁刻の美しい書を燃やすことを惜しみ、書を残すことを許したのだとか。

 官吏になろうと考える身にも、書を嗜む身にとっても、憧れの人物なのだった。

「確か、譚暁刻公は生きていたときから、仙人ではないかという噂があったそうですね。どうなのです、夏女官。彼は仙なのですか?」

 洪緑水はほかの官吏たちほど驚いている様子はない。夏月の顔から、なにか情報が引き出せないかとうかがうような視線を向けてくる。

「さあ、どうなのでしょう。実はわたくし、物心ついたときからずっと六聖公に憧れておりまして……師匠が譚暁刻だったらいいなあ、という願望を口にしてみたのです。申し訳ありません。まさかここまで真剣に受けとられると思わなくて……」

 夏月はにっこりと笑みを浮かべて、今度は追究を受け流した。

 もともと、そんな大物の名前が出てくるとは思っていなかったのだろう。官吏たちの肩から、一気に力が抜ける。

「教えていただいたのは、近所の師兄しけいなのです。雅号もあざなもない人でしたが、とても根気よく教えていただいたんですよ」

 ひとりで所在なく遊んでいた夏月に声をかけて、筆を持たせてくれた。

 市井にだって無名ながらも字がうまい者はいるというのは、譚暁刻の弟子と言うより信憑性があるからだろう。紙に墨を落としたときのように、夏月の言葉が、この場にいる人々の心に染み渡っていくのがわかる。

「なんだ。冗談か……夏女官の迫力に負けて、半ば信じかけていたではないか」

「そうそう。でも、憧れる気持ちはわかるよ。俺だって六聖公に憧れて科挙を受けたから」

「わかるぞ。一度だけ、譚暁刻のかけ軸を見たことがあるけど、まのあたりにしただけで震えが湧きおこった」

 さっきまで、やる気がなさそうにしていた官吏たちが、頬を紅潮させて話をしている。

 その様を夏月はにこにこと笑みを浮かべたまま、眺めていた。


        †     †     †


 天原国てんげんこく六聖公ろくせいこう――それは官僚にとっての最高峰であり、目標でもある。

 国主は黄色の袍を中心に朱色、紫、天色を差し色に纏う。その間近に立つ宰相は緋色に紫、大司馬は鮮やかな天色に紅などと、白と黒を交えた衣装に、鮮やかな上着と肩掛けを纏い、ほかの官僚と一線を画していた。

 その鮮やかな色は、一里先からでも見えたと言われ、天原国に六聖公ありと常に知らしめたのだという。

 科挙を受けて官吏を目指す者なら誰でも知っている。琥珀国をはじめ、近隣の国々で六聖公に憧れない官吏はいないと言っても過言ではなかった。

 譚暁刻はそのなかでも、筆頭だった。官吏のなかの官吏。滅亡の最後の瞬間まで、天原国の王に仕えたという名宰相だ。

 子どもにとっての英雄と言えば、義侠心厚く、弱きを助け、強きを挫く侠客や、武勇を誇る将軍が多い。

 文官として名が上がるのは、譚暁刻だけだった。

 書を嗜み、官吏を目指す青年は、たいがい、剣をとって戦うのが得意ではない。武力に自信がある者なら、初めから軍に入ることを目指すからだ。机に向かって、経書を書き写すような子どもにとって、譚暁刻はどんな痛快な侠客にも負けない英雄なのだった。

 夏月がお茶を淹れに行くと言ってその場を去ると、桑弘羊は洪緑水に別室に来るように言って、真剣な面持ちで切りだした。

「しかし、譚暁刻などと……よろしいのですか。確かに憧れの六聖公、憧れの書聖ではありますが、黒曜禁城で気軽に発していい名ではないでしょう」

 皮肉を言うように、無精髭の生えるあごを撫でて、桑弘羊は洪緑水に水を向けてくる。

 敵国の宰相の名前だ。軽々に扱っていいわけがない。

 対して、洪緑水はこの状況を半ば楽しんでいるようだった。

「そうだろうか」

「名前を呼べば、案外、幽鬼となって訪れるかもしれないぞ? なにせ、ここ……黒曜禁城はもともと、天原国の城だったんだから」

 思わせぶりな上司の言葉を封じるように、「しぃっ」と桑弘羊は人差し指を立てる。

「そんなことを堂々と言わないでください。それは城内では禁句ですよ」

 慌てた素振りからは、真剣に上司の進退を心配する様子がうかがえた。いくら写本府が黒曜禁城では人目につかない場所にあり、長官室はほかの官吏たちとは隔てられているとは言え、口にしてはいけない言葉というのは、いらない災いを呼びよせる。

 百二十年というのは、微妙な時間だ。

 表だっては忘れられているが、まだ市井には、ここが天原国の都だったことを覚えている者がいて、国王は滅んだ国の名に敏感だ。いまだに残された王族がいると噂が流れれば、残党狩りが行われ、真偽を問わず惨殺されているくらいなのだ。書聖・譚暁刻の名前でさえ、国王の前で褒め称えようものなら、首が飛ぶことを覚悟しなくてはならないだろう。

「もし、夏女官が本当に譚暁刻の弟子なら、天原国の間諜だと疑われるかもしれません。雇っている写本府にも咎めがあるかも……」

「それはない」

 洪長官は部下の杞憂を一刀両断に切り捨てた。

「家の名を伏せてほしいと言われたから、『夏女官』という仮の名を用意したが、彼女は藍家のお嬢さんだ。藍家が所蔵していた譚暁刻の書で学んだと言う可能性はあるが、間諜はない。それなら、紫賢妃も間諜ということになってしまう」

 桑弘羊の過剰な心配がおかしくて、洪緑水は小さく笑ってしまった。

「藍家のご令嬢? なんでまたそんな娘が女官として出仕してきたんです?」

 一見、無骨でやる気がない素振りを見せながらも、元来は優秀な男だ。

 辞めさせたほうがいいと文句を言いながら、彼自身も夏月の書に心を動かされたのだと、目を見ればよくわかった。

 ほかの部下たちもそうだ。あんなに無気力な顔をしていたのに、夏月の書を見て、譚暁刻の名前を聞いたとたん、いつになくうれしそうに話をしていた。夏月が去ったあとの墨を摩る音は、どこかでなにかがいつもと違っていた。

「あの書に惹かれて、私が女官にならないかと声をかけたのだよ」

 ――『「迫力のあるよい字を書くなと思ってつい……こう言っては失礼だが、とても朱銅印の嫁に収まる字ではないなと』

 詩を読むための、形の収まった文字ではない。なにか強い感情をもてあました者特有の、勢いのある字だった。

「私の眼力も捨てたものではないと、いまさらながら思っているところだ」

 洪緑水は机の上に置かれた竹簡に目を通し、これからしばらくは退屈しそうにないとばかりに微笑んだのだった。

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