第25話 夏月のひそかな企み②

 明かりとりの天窓から光が射しこむと、ただの小娘にすぎない夏月でさえ、まるで戯曲の女優にでもなった気分だった。

 吹きこんだわずかな風に簪の歩揺が揺れ、ちりん、と涼やかな音を立てる。

 外廷のなかでも、城壁際のひと気がない場所だから、写本府はいつも静かだ。静謐と言えば聞こえがいいが、どちらかというと、停滞し、澱んだ空気が吹きだまっている。

 それが建物から吐きだされるものなのか、勤める官吏たちから吐きだされる鬱屈とした感情のせいなのか、夏月には区別がつかない。

 仕事なのだし、黙々と働く官吏というのは正しい。十分に給料に見合った働きと言える。

 洪長官が写本府に顔を出したときも、この気怠い空気に対して、特に引き締めるような声は出していなかった。だから、昨日来たばかりの、員外の女官にすぎない身でなにか言うのは、出すぎた真似にすぎない。それでも、夏月は本が好きだから、書物を作成する写本の仕事を素晴らしいと思っている。ただそれを伝えておきたかった。

 官吏のうち、何人かは訳がわからなさそうな顔をして、何人かは逆に気まずそうに顔を見合わせている。その、気まずそうにしているうちのひとりが、頭を掻きながら口を開いた。

「なるほど……書物に残してあったから、時を経て、遠い場所であっても、それを読む人がいれば知識は伝わると……」

 初日に夏月が挨拶をしたとき、一番、やる気がなさそうな顔をしていた官吏だった。竹筒をひとつ手にとり、物言いたげな表情をして眺めている。無精髭を撫でる仕種は年季が入っていたが、よくよく見れば、顔立ちはまだ若い。

 写本府のなかでは一番年齢が若そうだった。

「今度の女官はどこのお嬢様で、どれくらい続くのかとみんなで賭けをしていたところだが……洪長官はまた変わった娘を勧誘してきたものだ」 

 竹筒の次はささらを手にして屈みこみ、黒ずみが浮いたところをこすっている。

「ふぅん……この水はほかにも効用があるのか?」

 などと聞かれたから、夏月もつい張り切って本から得た知識を説明してしまった。

「掃除には全般使えます。文机でよく手をつくところが黒ずむことがあるでしょう? それなんかよく効きますね。定期的に拭くといいかと思います。ここは人手が少ないので、お手数ですが、文机の清拭はご自身でよろしくお願いします。あとは、金属を拭くと鏡のようにきれいになります。それから、食用でしたら、豚肉を煮るときに加えますと、肉がやわらかくなり、まろやかな味になるのだとか……」

 自慢げに説明するあまり、自分が話しすぎていることに気づく余裕はない。

 話に聞き入っていた官吏たちが、夏月の背後を見て、はっと我に返り、そそくさと自分の席に戻っていくまで、夏月はまったく空気を読めないでいた。

「なるほど……夏女官はよほど本が読みたいようですね」

 背後から聞こえてきた穏やかな声にぎくりと身をすくめて、ゆっくりと振り返る。

「ずいぶんと官吏たちと親しくなったようでなによりです……途中から聞いていましたが、夏女官の台詞はなかなかいい教訓だと思いました。桑弘羊そうこうよう。空いている席に、一組、額装した紙と墨、それに硯を用意してください」

 仕事の手が止まっていたことを怒られるのかと思いきや、洪長官は予想外の指示を出した。自分たちの上司は、いったい、なにをはじめるつもりだろうと、官吏たちはそのまま手を止めて眺めている。桑弘羊と呼ばれた無精髭の官吏は、「ええ……」と嫌そうな声を出しながらも、言われたとおりに机の上を整えた。

「さぁ、夏女官。せっかくだから記念に、写本府のみんながやる気を出る一言を書いて見せてください」

「……はい?」

 夏月としても怒られる身構えをしていたところだったので、気の抜けた、上司に対してあるまじき返事をしてしまった。もっとも、魂まで腑抜けたわけではない。上等な紙と墨を前にして手が疼くのを抑えながらも、代書屋としての本分を忘れてはいなかった。

「ちょっと待ってください。洪長官……額装で飾るような大きい書は別料金ですよ?」

「そうなのですか……ではその料金は、私が個人的にお支払いしましょう」

 夏月としては、話をなかったことにしてもらうためにごねたのに、あっさりと了承されてしまった。引きどころを失ってしまう。

 写本用のものではない、大きな字を書くための筆を持ちだされて、写本府の面々から注目を浴びている。

 正直に言えば、なんの嫌がらせがはじまったのかと思っているところだ。弘頌殿で夏月に声をかけたときもそうだ。洪緑水という人がなにを考えて、自分になにをやらせようとしているのかが、さっぱりわからない。一方で、代金を払うと言われてしまえば、断る理由がなかった。

 ――これは女官としての仕事ではない……代書屋・藍夏月への依頼だ。

 そう割り切ることにした。

 一度、息を吐き切ってから息を吸い、さっき自分が配った水を惜しげもなく硯に入れる。

 大きな額に字を書くにはたくさんの墨がいる。墨を摩りはじめて、あらためて気づいた。秘書庫に納める写本を作っているだけはあって、さすがに最高級の墨を使っている。気持ちよく書けそうだと、躊躇なく手を動かして墨を減らしていく。墨も紙も自分の店のものじゃない場合、代金はどうしたものか。可不可なら、それでも満額いただくのが商売ですとでも言うだろうか。

「すみませんが、この硯だと一字分しか書けそうにありません。四文字書きますので、ほかの硯にも墨を摩っていただけないでしょうか」 

 女官が言うにしては不遜な申し出だが、洪緑水が後押しするように「誰か」と呼びかけると、人が動く気配がした。

 なりゆきを様子見しているのだろう。いったいこの新しい女官は何者なんだという、疑念と好奇心が入り交じった視線を感じる。でも、夏月としても、このぐらいのやりにくさは慣れている。慣れているから、平気になるわけではないが、いつものことだ。

 ――それに、と息を吐きながら、冥府の法廷を思いだす。

 胸に杭を打たれた幽鬼。常闇の世界のそこかしこに聞こえる、絶え間ない嘆きの声を思えば、写本府は穏やかな日の光に満ちて、あたたかい。ここで失敗したとしても、殺されるわけではない。それがわかっているだけで、肩から力が抜けるのを感じた。

 大きい文字を書くときは紙に対しての文字の配分もだが、墨の配分が大事だ。

 ――『夏月は、大きい字を楽しそうに書くのだな』

 子どものころ、兄弟子たちが他愛もない褒め言葉をくれるものだから、夏月は貴重な紙と墨をたくさん無駄にして大きい字ばかり書いていた時期がある。

 いま思いだすと、笑いごとのようで笑いごとではない。

 宣紙のような高い紙を子どもにだめにされたとしたら、夏月だったらきっとものすごい勢いで子どもを叱っただろう。この紙は高いのに、などと愚痴を零したはずだ。

 思いだすたびに、ほろ苦い感情が湧きおこる。

 無邪気に犯した罪の味だ。

 師匠も兄弟子たちも、みんな知識というものは、自分ひとりだけが知っていても誰のためにもならないことを知っていた。だから、幼くて無知な夏月にさえ、惜しみなく分け与えてくれたのだ。

 やわらかい筆先は、固い竹のように直線的な動きにはならない。手の動きとの、うねるようなずれを意識しながら、一画ずつ、墨を摩った硯を差し出されてまた一画と、筆を走らせる。

 自由闊達じゆうかったつな筆捌きのために、紙に手をつけずに大きい筆を動かすのは、見た目よりも重労働だ。いつのまにか、夏月の額には汗が浮きあがっていた。

 さっきまではいつもの写本府だった。気怠くて、無気力な空気が流れていた空間が、いまはまるで別の場所のようだ。一文字書くたびに、袖で無造作に汗を拭う少女を中心に、得体の知れない渦が蠢いている。

 夏月はふーっと長い息を吐いて、最後に桑弘羊が差し出した硯に筆を思いっきりつけた。息を吸いこんで止める。文字を書くときに呼吸をしていると字がぶれるから、集中すると、自然と息を止めてしまうのだ。

 水を打ったような静けさのなかで、夏月は筆を紙に下ろした。

 みんな息を詰めて眺めているなか、筆を走らせる音だけが響く。

 『矢』の字の左下を払い、『口』の字の横棒を勢いよく引いて、力強く止める。

格・物・致・知かく ぶつ ち ち――」

 物事の道理を追究し、知識もまた極める。

「それ、すなわち、書物なり……ということか。なかなかいい言葉ではないか。急なお願いだったというのに、我が写本府にぴったりの言葉だ。さすがは代書屋」

 洪緑水はまるで自分の手柄のようによろこんでいるが、緊張感の解けた官吏たちは、どこか夢から覚めたばかりのような顔をして、中心にいる夏月を見ている。

「代書屋って……この娘はただの女官じゃないのですか?」

 桑弘羊が不審そうな顔つきで、夏月と洪長官を見比べていた。

 その顔は、あきらかに、女の代書屋なんてあるわけがないと言っている。

「ああ……代書屋は儲からないというから、女官をやらないかと誘ったのだ。このように、なかなかよい字を書くから、もったいないと思って」

「それは確かに……確かに……字は……」

 年齢が若いはずなのに、このなかで上司に発言しているのは桑弘羊と呼ばれた官吏だけだ。ほかの者たちは、わずかな感情が垣間見えることはあっても、大半は死んだ魚のような濁った目をして、好奇心も知識の探求も、もう遠い昔に忘れてしまったと言わんばかりの覇気のない顔をしていた。

「まだ年齢も若いだろうに……ここまでの字が書けるとは、有名な書家に習ったのでしょう。師匠の名は?」

 桑弘羊から挑戦的に問われて、夏月の表情が固くなる。いつかは誰かに聞かれると思っていた。そのときには、どう答えようかと考えたことはある。もし問われたのが『灰塵庵』のなかで、相手が客だったなら、いくら人とのやりとりが苦手な夏月でも、気軽に流せただろう。

 でもいま、『格物致知かくぶつちち』などと自分で格言を掲げた場所で、嘘を吐く気にはなれなかった。光を受けて衆目を集めていることを意識しながらも、つい口にしてしまった。

「師匠は……師匠の名は譚暁刻たんぎょうこくと申します」

 いまこの場にいない師匠に礼を尽くすように拱手し、その名を口にする。

 自分にとっては、宝物の玉に等しい名前だ。生きるための文字を、代書や書画を仕込んでいただいた。知識を授けていただいた。

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