第24話 夏月のひそかな企み
後宮では余計なことをしてはいけない。
そう初日に学んだ夏月は、しばらくおとなしく言われたことだけをこなしていた。しかし、あれ以来先輩女官の姿を見かけず、二輪車も借りたままなのはずっと気になっていた。車のついた台車というのは貴重な備品で、水を貯めた壺の近くに放置していいものかと室内と壺の並んだ建物の裏手を行き来するたびに、ちくり、と罪悪感のようななにかに苛まれていたのだった。
洪長官が顔を出さず、今日は手が空きそうだと思ったその日、夏月はもう一度、後宮の奥へひとりで出かけてみることにした。二輪車を返しに行くのだ。
教えてもらったように、写本府の札を持ち、門兵に
一番面倒なのは、外廷から後宮へと入る身体検査で、返却のための二輪車もあらためられた。
桶のなかに人が隠れていないか、なにか危険なものを持ちこんでいないかを確認するためである。
「通ってよし」
と言われるまでの間、匣のなかから、さらに匣のなかへと入るために、身を縮めていくような錯覚に陥っていた。
一回り小さくなったような緊張感とともに後宮に入れば、あとはひたすら歩くだけだ。
それでも、最後に
庭の緑というのはそれだけで、人の緊張を解く効果がある。
水が入っていないとはいえ、慣れない二輪車を真っ直ぐに進ませるだけで精一杯だったから、庭を楽しむ余裕はなかったが、それもまた楽しかった。
どうにか西の井戸まで歩いてきて二輪車を返し、持ち運んできた竹筒を手にとる。
節をひとつくりぬいて持ち手の紐をつけただけの、いわゆる水筒である。節に二つ穴を開けて、穴と同じ大きさの木を詰めてあるから、逆さにしても水が漏れない。これなら壺と違って持ち運びやすいし、たとえ框に足を引っかけても水を零さないですむ。
「蓮を摘むのは面倒ごとになる……でも、水を汲むだけなら問題ないでしょう」
自分のここまでの仕事に満足げに微笑んで、いま来た道を戻りはじめた。
西側から東側の園林に入り、通りかかりの泉まで戻ってきたところで、夏月はそれが決まりきった道であるかのように遊歩道を外れた。石を敷き詰めて整った小道から一歩出ると、ぬかるんだ泥が広がっている。
先日、先輩女官に怒られた場所だ。
庭の端には、ゆるやかな小山があり、その陰に泉が湧いていた。
歩いている人は、遊歩道に敷かれた舗石の白に目を奪われやすい。菖蒲の葉の少し先、葉の陰に澱むぬかるみに気づかなければ、見落としてしまいそうな小さな泉だった。
泉と言っても、整えられた形跡はない。泥に沓の底を沈め、滑りやすいぬかるみに足をとられないようにゆっくりと近づく。
もうすぐそこが水際というところまで来たところで、夏月は袖から葉っぱを一枚とりだした。着ている服を汚さないように裾をたぐりながら屈み、泉のなかに葉を沈める。
まだ、みずみずしい緑を残したドクダミの葉だった。
この葉は、夏月が『灰塵庵』の裏手の藪から摘んできたものだ。二輪車の桶の底にひっつけてきた。
本来、後宮にはなにも持ちこめないが、二輪車は写本府の備品だし、後宮に置いてある。
園林を通れば葉の一枚や二枚、張りつくことのは当然だろう。特に疑われもしなかった。
写本府付き女官のひそかな特権だった。
ドクダミは異国では毒という名前がついているが、薬草の一種である。琥珀国にも自生しており、探せば後宮の庭にも生えているかもしれないが、昨日の今日で探し回る気にはなれなかった。
そこまでの手間をかけて、ドクダミの葉を持ちこんだのは確認したいことがあったからだ。泉の水に沈めた葉っぱが黒ずんでいくのを見て、夏月は自分の推測が正しかったと確信する。
「ああ、やっぱり……」
その水はだめだと注意されたときから、気になっていた。
普通の湧き水でも、水が湧くところから気泡が出ることはある。でも、遠目からでも、湧き水の気泡にしては細かいように見えた。
「書物に書いてあったとおり、泡が出る水だ」
珍しい成分を含んだ水で、普通の水にはない効果が見込めるのだという。
こういう葉は『試薬』と呼ばれており、師匠の下で暮らしていたときも、いくつか栽培していた。水に沈めて色の変化を観察し、水に含まれている成分を判別するのだ。泡が出る水については、書物で読んで知っていたが、まさか後宮にもあるとは思わなかった。
書物で読んだ知識を現実で試してみて正しいとわかったときの感動はひとしおである。
本好きの
念のため、髪に挿していた簪を引き抜いて水に浸したが、銀色の簪はきれいに輝いたままだ。巾で水分を拭きとってみると、むしろ、曇りがとれたように見える。銀器を磨くのにも使えそうだと、満足げな笑みが零れた。
泰山府君にどういう意図があったのかはわからないが、銀の簪は使い勝手がよく、ありがたい。毒に触れると銀は変色するから、その判別に使えるからだ。女官にしては高価な簪だと咎められるかと心配していたが、特になにも言われなかった。
単純に、官吏は夏月の容姿になど興味がなかったのである。あるいは、神様がくれた簪だ。なにか特別な術がかけてあるのかもしれないが、夏月にはわからなかった。
泉の水に問題がないとわかると、持ってきた竹筒を沈めて水を汲む作業に入る。
「最後に竹筒に栓をして……と」
重たくなった竹筒は二つ組になるように紐で繋がっており、二組、合計四つの竹筒を両肩にかける。これなら、歩いていても邪魔にならない。内定から外廷へと出る門のところでなにを持ちだしたのかと誰何されたが、「ただの水です」と説明して手の上に雫を零し、一口飲んで見せた。整備されていない泉だったが、毒は入っていないと簪で確認してわかっている。口に含むことに躊躇はなかった。
「持ち運びしやすいように竹筒に入れただけです」
と重ねて説明すると、先日も水を汲みに来たせいだろう。写本府の女官と言うこともあって、それ以上、足止めされずにすんだ。
「もっとも、この水は墨を摩るためじゃなくて、別のところに使うんですけど」
衛兵から十分に遠ざかったところで夏月は小さく舌を出した。
「それで……新しい女官さんはなにをしているんだ?」
「床に這いつくばって水を垂らして……」
「写本府の床は、上等な土間だ。水を零しても問題ないが、汚れは困るぞ」
写本府に戻ってきた夏月は床の隅に膝をつき、作業をはじめていた。なにせひとりしかいない女官である。いなくても気にされないが、室内でなにかをしていると目立つらしい。興味を引かれた官吏が集まってきた。竹筒の水を黒ずみに垂らし、しばらく置いたあとで、竹を細かくしてまとめたささらでこする。すると、
「おお、きれいになった」
「なんだそれは。魔法の水か?」
拍手喝采を浴びて、夏月としてもまんざらではない。
「後宮から湧き出ている水です。ほかとは水質が違うのでうち捨てられていましたが、この泡が出る水は利用価値があるのでございます。書物で読みました」
竹筒を手にして夏月がにっこりと笑うと、官吏たちは呆気にとられた顔をしている。
当然だろう。閑職とは言え、ここにいるのは科挙に受かり、仕官している優秀な官吏ばかりだ。それが、掃除に関わる話とは言え、女官ごときからこのような講義を受けるとは夢にも思っていなかったはずだ。
「書物というのは素晴らしいと思いませんか。時代を越えて、あるいは幾千もの山を、広い海をも越えて、見知らぬわたしたちにまで、見慣れた植物や泉に新たな発見を与えてくれるわけですから」
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