第18話 冥府の代書屋さんふたたび

「可不可、厄落としに泰廟へお参りに行きますよ」

 夏月は先に店を出るなり、さかさかと歩きだした。

 いくら自分が理由で婚約破棄されたのではないとは言え、本家に戻ったら父親から説教のひとつやふたつ飛んでくるだろう。しかし、自分だってまだ気持ちが収まりきっていない、いますぐに、父親の怒りを受ける気にはなれなかった。

 こういうときは時間を置くにかぎる。

 時間がすべてを解決してくれるわけではないが、荒ぶっている水だって時が経てば静かな鏡面のようになる。

 そこまでの心境に至れば、父親の小言くらい、右から左に聞き流せるだろう。

 夏月は婚約破棄ののついた酒楼からいち早く離れようと、足早に路地を通りぬけた。

 酒楼が建ちならぶ区画から大路を渡り、運京うんけいの東側へと入る。

 そこまで近づくと、小山の頂上に立つ朱色の門や吹き流しが遠目にも見えた。

 賑わう門前町を横目に、瓦屋根をいただく立派な門をくぐり抜けようとしたときだ。

 まだ動揺が残っていた夏月は、朱銅印は店の支払いをしただろうか、それとも、藍家のつけにしただろうか、などと考えごとをしながら泰廟の門の高い框を跨ごうとして、

「あっ……」

 と短い声をあげた。しまったと思ったときには、また框に足を引っかけて転んでいたのだった。


 ――気づけば、星も月もない漆黒の天空に、極光がゆらめいていた。

「代書屋……おまえはよほど冥府の仕事がしたいらしいな」

 整った顔を呆れたように歪めて言われたが、反論できない。

 以前の縁に引きずられたのだろうか。今回は泰山府君たいざんふくんの御殿にそのまま落ちたらしい。杭を打たれた幽鬼の嘆きを見なくてほっとしたが、白砂の真ん中に寝転んでいるというのはいかがなものだろうか。

 むくりと立ちあがった夏月は、冥府の王に拱手して礼を尽くした。

「お久しぶりでございます。泰山府君におかれましては、ご機嫌麗しいようでなによりでございます」

 冥府の王は、以前に冥府に落ちたときと変わらず、複雑な細工の施された背の高い椅子に座っていた。

 漆黒の世界に浮かびあがる白い霜衣そういが眩しい。

 わずかに身じろぐたびに氷の粒がきらりとはじけるかのごとく、残像が光る。

 その背後には、記録を保管するためだろう、薬箱のような棚が整然と真四角に並び、さらにその背後の岩山には、無数の蝋燭の炎がゆらゆらとゆらめいていた。

 以前と違うところはと言えば、法廷はすっきりとしており、死者がまばらにしかいないことぐらいだ。先日のように自分の罪を軽くしてくれと叫ぶ幽鬼もいないようで、白州はがらんと静かだった。

「別に冥府の仕事がしたくてわざわざ来たと言うことはございませんが……ほかに気になることがあったせいで、框をうまく跨げなくてですね……すぐにお暇申しあげますので、どうぞおかまいなく」

 足早に以前案内された西の門へと向かおうとすると、ふわり、と無数の紙の霊符が飛んできて、夏月の行く手を塞ぐ。

「待て、代書屋。せっかく来たのだから、通行料代わりに仕事をしていけ。ちょうどほどよく竹簡ちくかんがたまっておったのだ」

 その言葉に振り向けば、幽鬼の官吏がいるかたわらには、竹簡が積まれている。

 どうやら、泰山府君の手はまだよくなっていないらしい。

 すぐに帰りたいが、手が悪い人を捨ておいて代書を断るのは、夏月の流儀ではない。

 ――人ではなくて、この方は神だけど……代書の依頼なのだから仕方ないでしょう。

 夏月は門へ向かうのをやめ、前回座らされた文机へと向かう。

 式神が運んできてくれた椅子に、着物を正して座ると、観念したと思われたのだろう。

「そこの竹簡をとってこい。禄命簿ろくめいぼもだ。これでしばらく法廷を休みにできる」

 夏月が首肯するのを待っていたとばかりに式神の官吏たちに命じる泰山府君を見て、どうも自分はうまく呼びよせられたのではないかという気がした。

 もっとも、矮小な人間の身で、神の気まぐれに逆らえるわけがない。

 現実の為政者と等しく、いやそれ以上に人間の生殺与奪を握る神を相手になにを言えるというのだろう。

 思うところをのどの奥に押しこんで、夏月はゆっくりと硯で墨を摩り、禄命簿の書き入れをはじめた。

 二回目だからだろうか、あるいは、先日よりも死者の数が少ないからだろうか。夏月の仕事ぶりにも余裕ができて、ぽつりぽつりと雑談をしてしまう。

「先日、幽鬼の客が訪ねてきたのですよ。蝶の舞う図柄の、上等な絹の襦裙を纏った幽鬼でして……」

 かいつまんで、幽鬼の客が来たことと、偶然にも後宮で同じ村出身の宦官から代書の依頼を受けたことを話す。

 婚約破棄の話もしたが、それはさわりだけだった。

 三ヶ月続いた朱銅印との婚約者関係は、世間一般からすると『たかが三ヶ月』かもしれないが、夏月にしては長く続いたほうだ。それで父親のほうも今度こそうまくいくかもしれないという期待が強くなり、より夏月への注意が強めの言葉になっていたのだろう。

 しかし、冥府に落ちてしまえば、夏月がより気にかけていたことのほうが強く心に迫ってくる。

 どうやら冥府の法廷にはそういう作用があるらしい。

 冥府に来るのも二回目ともなると、落ち着いて自分の変化を感じとれるようになり、夏月は自分の懸念を心のままに語っていたのだった。

「そういうわけで、瑞側妃ずいそくひは亡くなっているのでは? と思って探ってみたのですが、まだ後宮にいるというし、側妃は交代もしていなかったんです。手紙の宛先はわからずじまいでした」

 自分で話しておきながら、他人に考えを話すというのは不思議な感覚だ。

 運京に来てから夏月にはろくに友だちがいないから、命令ではない自分の考えを聞いてもらうこと自体、久しぶりな気がした。

 父親や姉――年上の家族とも、可不可のような気が置ける従者とも違う。

 ――客が代書屋に世間話をするのは、こういう感覚なのかもしれない……。

 しがらみのない相手に話すというのは気楽だし、なにも知らない相手に説明するから、物事を客観的に捉えられる。要点を整理して話すことで、ばらばらだった自分の思考がひとつの形になっていくようだ。

 冥府の王が話をやめろというでもなく、黙って聞いてくれたというのも大きいのだろう。

 普段からやかましい幽鬼の陳情を聞いているだけあって、泰山府君は聞き上手のようだった。

 沈黙して目を閉じているから眠ったのかと思えば、しばらくして、口を開いた。まるで山がわずかずつ隣で動いているような奇妙な気配だった。

「代書屋、おまえは以前に冥府に落ちてきたとき、『わたしの天命はまだ尽きていないのではありませんか』と訊いたな。それはおまえのなかで、なにか気になっていたことがあったからではないのか」

「は、はい。泰山府君の言葉の端々に、小さな染みのような違和感を覚えまして……」

 なにか思い違いをしているのではないかと、冷静になって考え直したのだ。

「小さな染みのような違和感とは、言い得て妙だな。しかし、そのとおりであろう。よく考えてみるがいい……おまえがおかしいと感じたのはどの時点だ?」

「おかしいと感じたときでございますか?」

 質問を挟まれて、今度は夏月の筆が止まった。

 一度、筆の先を整えて禄命簿の文字を書ききる。禄命簿を脇に押しやると、今度は式神の官吏が別な棚に運んでいった。文字が乾くまで開いておくためだ。

 静かな冥府の法廷は、記憶をよみがえらせるのにちょうどいい。

 次の禄命簿に手をつける前に夏月は硯に水を足して、墨を摩った。

「後宮で宦官の少年――袍子から宛先を聞いたときでしょうか」

 手紙を楽鳴省護鼓村に出してほしいと言われた瞬間、頭のなかで蝶が舞った。なにか、あの幽鬼と関係があるのではと直感したのだ。

 夏月がよく考えて答えたにもかかわらず、泰山府君のお気に召さなかったらしい。

 札がざわりとあたりを舞って、強い言葉が法廷に響いた。

「違う。安易に物事に関連を持たせようとするな。おまえは話しているときに深夜の客が訳ありで幽鬼の代書を『変な依頼だった』と言っていた。つまり、おまえが最初におかしいと思ったのは幽鬼の客に応対した夜のはずだ」

「それは……」

 そのとおりだ。指摘されて初めて思いだした。

 ――『幽鬼の代書にしても、変な客だったな』

 それは夏月自身が呟いた言葉だった。

「よく思いだしてみるがいい。いつもの客と同じだと思って意識の外に追いやりながらも、小さな染みのような違和感はおまえの内側から広がっていたはずだ」

「意識の外に追いやりながら……」

「そうだ。目で見えていても、あまりにも当たり前のことだと違和感に気づかない。気づけない。判じ絵の謎と同じだ。全体を見たときの歪さ、詳細をひとつひとつ確かめたときに初めて気づく、ささいな綻びというのがある……視覚をごまかされていても、感覚は歪さを感じとっているから、気になっているのであろう」

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