第17話 このよきめでたき日に婚約破棄されまして
実家の
婚約者との会食の日、重ねて父親から言われたことと言えば、
「婚約者・
という大変ありがたい注意だけだ。
夏月はもう十六なのだし、早く結婚相手を決めたい父親の心配はよくわかる。
相手は仮にも名家の子息で、しかも官庁勤め。夏月にとっては破格にいい条件のお相手なのだ。
今日もし「結婚を決めましょう」と朱銅印から言われたら、夏月は黙って従うつもりだ。
それが父親の希望だろうし、養ってもらっている身で否定する気はない。
覚悟を決めて天を仰げば、本日は極上の日和だった。
地の底を通りぬけ、冥府にまで届きそうなほど日射しが眩しい。
桃の花がほころび、築地塀の外にまでその香りが届いてくる城市のなかは、あちらこちらで春の気配を漂っていた。
ここ、運京では、桃が咲く季節に、いらかの波がどこまでも続く光景を見られるのは珍しい。薄曇りの天気が続いたあとだからなおさら、
「きっと今日はいいことがある」
誰もがそんなふうに思うほどの上天気だったのだ。
襦裙の裳裾を風にはためかせて、お付きの可不可を置いていきそうな勢いで酒楼へと足を運んだ藍夏月を待っていたのは、しかし、『いいこと』ではなかった。
「君とは婚約破棄させてほしい」
「……はい?」
にっこりと笑みを浮かべながらも、夏月は言われたことが一瞬、理解できなかった。
もし、結婚を急がれたらうなずくだけだという、正反対の仮装訓練をしていたあとだっただけに、思わずうなずきそうになったほどだ。婚約破棄というのは結婚の話ではないなと、かろうじてとどまった。一拍置いたあとで言葉の意味が追いついてきて、安易にうなずかなくてよかったと安堵している。
本日はお日柄もよろしく、婚約者との会食――つまり、懇親会の席である。
間違っても婚約破棄などという不穏な言葉を聞く予定は、夏月にはない。
しばらくして衝撃が冷めてきた頭をよぎったのは、後宮で代書屋をしているところを見られたことだ。
「あ、あの……朱銅印様……先日のは、姉に頼まれてやった、ちょっとしたままごとのようなものでして……」
代書をままごとなどというと、師匠に怒られそうだが、現状、父親のほうが恐い。
――これは進退窮まったのでは……お父様に知られたら、今度こそ代書屋をやめさせられてしまうのでは……。
そもそも、結婚するなら代書屋どころではないのだが、そんなことも抜け落ちるほど焦っている。
怒れる
どう言って、これ以上、代書屋の件をごまかしたものかと頭をひねっていたが、沈黙は朱銅印になんの影響も与えなかったらしい。
ただ自分の発言がうまく聞きとれなかったと思ったようで、同じことを重ねて言われてしまった。
「先日とはなんのことだ? 聞こえなかったのなら、もう一度言う。婚約破棄してほしい。まだ婚約を交わして三ヶ月でしかない。お互いの傷はそんなに深くないはずだ」
こんなに滑らかに話す人だったのだろうか。これまで何度か顔を合わせたことはあったが、一言以上の単語を続けて聞くのは今日が初めてではないだろうか。
その事実のほうにこそ意識を奪われた夏月は、呆然と話を聞くだけだった。
「もともとこの婚約の話は、藍思影殿から、どうしてもと持ちこまれたものだと聞いている。もちろん私としても、親から『不惑四十などと言わず、早く身を固めろ』とせっつかれていたのもあるが、君が相手でなければならないというほどの話ではない。だから、婚約はなかったことにしてほしいのだ」
決意を固めた顔で、とうとうと言い切られてしまった。
わずかの間、水を打ったような沈黙が流れる。
酒楼の一角の、衝立で仕切られた個室だ。顧客の秘匿性を守ると同時に、露台に向かって飾り窓が開かれ、開放感もある。
浮き彫りが施された
どちらにも蝶が意匠されていることから、ここは胡蝶の間と呼ばれている。
胡蝶とは、夢とうつつの狭間を指す。
まだ結婚が決まったわけではなく、婚約を交わしただけといういまの関係は、夢とうつつの狭間のようなものだ。
婚約者との懇親会などという、楽しいのか単なる義務なのかわからない行事にはうってつけの名前だと思って、夏月はいつもこの部屋を予約するように可不可に言いつけていた。
蝶の文様を見るだけで、またざわりと、幽鬼の客のことが頭をよぎってしまう。
意識が代書屋に引き戻りにそうになるのをとどめて、夏月はちらりとお茶を飲む婚約者を盗み見た。
「確かに三ヶ月ほどのつきあいでしかありませんが、家と家とが決めた婚約とはそのようなものではありませんか。いったいどんな理由で婚約破棄なさりたいと思ったのか、もう少し詳しく聞かせていただいても、よろしいでしょうか?」
神妙な顔をして、夏月は婚約者に訊ねる。
まだ朱銅印の人となりを見極めるほど親しくはない。そもそも、この婚約は個人の約束と言うより、朱家と藍家の結びつきのためだったはずだ。現在、権勢を誇る藍家との縁談を袖にするなどと、朱銅印の父親は承諾しているのかどうか。
夏月の振る舞いが理由で婚約破棄される可能性はかぎりなく高かったから、そればかり注意されてきたが、なにかが違う。なぜ、と思ってしまう。
朱銅印の焦りが滲んだ振る舞いは、自身の父親に対して話を通してきた者の、それではない。
夏月としては、本心から婚約破棄したい理由が知りたいわけではなかった。自分の行いにも問題があったし、それが理由で断られた可能性もあると思っている。
ただ、自分が理解しがたい状況に置かれたとき、『なぜ』を知りたがるのが夏月の性分だったのだ。
そして、先ほどからの流れるような口ぶりからすると、朱銅印も本当は話したかったらしい。訊ねたことで、易々と理由をうちあけてくれた。
「実は……好きな人ができたのです。私が出仕した先で雑用をしていて、いつも丁寧に受け答えしてくれる姿がいじらしくて、つい一緒になりたいと告白してしまったのです」
「では……わたしの代書屋が理由ではなかったのですね」
「代書屋とはなんのことでしょう? 紫賢妃の手伝いのことですか?」
「ああ……いえ。その、そのような……ものです」
どうやら、彼は夏月の適当な言い訳を信じていたらしい。
その誠実さには好感が持てる。なにより、代書屋が原因でないなら、父親に対しては面目が立つというもの。
ほっと安堵したのと同時に、夏月の頭のなかで別のなにかが引っかかった。
「雑用……ということは、もしかしてお相手は黒曜禁城に勤める女官ですか?」
「はい。仕事で秘書庫に通ううちに親密になりまして……」
女官という言葉以上に、秘書庫の一言が夏月に劇的な効果があった。
夏月に声かけしてきた官吏の言葉が、巡り巡って、ここに繋がっていたのだと気づく。
――『先日来たばかりの女官も結婚が決まったから辞めたいと言いだして』
――秘書省での仕事を辞めて結婚したいだなんて……なんて、なんて……。
「――もったいない」
悔し涙を流したくなる理由を聞かされて、夏月は呆然と呟いた。
よりにもよって、女官とこの婚約者は、秘書庫のなかで極上の書物を前にして、男女の仲を深めていたというのだから、絶句するしかない。
――秘書庫という聖域をなんだと思っているのでしょう。職場は集団見合い会場だとでも思っているのでしょうか。
怒濤のように言い返したい気持ちをぐっとこらえる。
「短い間であっても、朱家と藍家の間で結ばれた婚約ですから、本当に婚約破棄なさりたいというなら、お父様を前にしてお話ししていただくほうがいいでしょう。わたしの一存で、いい悪いを決められませんから」
夏月としては、自分の大好きな書物を袖にされた衝撃をひとまず置いて、最大限譲歩したつもりだ。しかし、相手はそうは思わなかったのだろう。
次の瞬間、衝立の向こうから、突然、娘がひとり現れ、一転して愁嘆場になった。
「申し訳ありません。私が悪かったのでございます。まさか藍家のお嬢様の婚約者とは存じあげず……求婚していただいてすっかり浮かれてしまって……朱銅印様はなにも悪くありません! 私を……この愚かな女を罰してくださいませ」
娘は卓子のそばで拝跪すると、額を床につけた。いわゆる、叩頭礼だ。
「ちょっ、あなたなにをして……顔を上げなさい!」
驚いた夏月は、彼女を立ちあがらせようと、慌てて席を立った。
夏月は仮にも藍家のお嬢様だが、叩頭礼をされるほどの身分ではない。ひれ伏されて逆に困惑しているところに、元婚約者までもが膝をついてきた。
「いや、悪いのは私なのです……
いったいなんの小芝居がはじまったのか。婚約破棄を言い渡された夏月が一番可哀想な存在のはずなのに、目の前で「自分が」「いや私が」が悪いから罰してくれと、かばい合いをはじめられてしまった。途方に暮れるしかない。
間の悪いことに、ふたりが床に膝をついているところへ、店子がお茶を運んできて、憮然とした夏月の顔をちらりと見やった。まるで、夏月がふたりを床に座らせて罰しているかのように見えないこともない。というより、あきらかにそう見える。
「藍家のご令嬢は意地悪お嬢様……」
礼をして衝立の陰へと消えた店子がぼそりと呟いた言葉に、夏月は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
――なぜ……なぜ、ここにいるというだけで、わたしは悪者にさせられているのでしょう。
しかも、可不可までもが、
「お嬢様、婚約破棄して差しあげたらいかがですか。このふたり、おかわいそうではありませんか。どうせお嬢様はもう九十九回目の婚約破棄なんですし」
などと耳打ちしてくる。
「九十九回目?」
可不可の言葉がどこまで聞こえたのかどうか。より近くにいた娘のほう――良良が目を大きく瞠っている。
――それ以上口にしたら、ただではすまさない。
夏月が鋭い目線で睨みつけると、懸命にも娘はそれ以上口にしなかった。
可不可のほうは帰ったらお仕置きのひとつやふたつくれてやっても罰は当たるまい。
「お黙りなさい、可不可。私としてはこの話は承知しました。しかし、正式な婚約破棄に関しては、お父様にきちんと説明してください。ええ……わたしの代書屋が問題ではないと言ってくださるだけでかまいませんから」
そう虚勢を張るのが精一杯だった。
――藍夏月・十六才。
すがすがしく晴れたよき日に、めでたく九十九回目の婚約破棄が決まった瞬間であった。
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