第19話 冥府の代書屋さんふたたび②

 ――歪さ、綻び、第六感の囁き。

 人の生死を決める神の声で後押しされると、やけに真実みがある。

 あの夜、夏月が感じていたであろう、そんなささいな感覚を研ぎ澄ましてみよと言われても、普通なら無理だったかもしれない。

 しかし、冥府の王の声は記憶を呼び覚ます効果でもあるのだろうか。

 やけにまざまざと、くだんの幽鬼が訪れたときの『灰塵庵』の記憶、その絵姿が、夏月の脳裏に次々とよみがえった。

 その場にいたときには、注意してみていたように思えなかったのに、思い返してみると、夏月の目は幽鬼の姿をはっきりと捉えていた。

「宦官の少年の話も同じであろう。釈然としないなら、それはなにがしかの違和感をおまえが捉えているからにほかならない。目にしたか耳にしたか……あるいは五感を越えて訴えるものがあったか。よく思いだして、その違和感をたんねんに追ってみるがいい」

 思いがけず背中を押されて、夏月は顔を上げる。

「違和感を追いかけて……なにか意味はあるのでしょうか」

 可不可からは、幽鬼の客の手紙など出すのはやめましょうと言われた。

 父親からは、そもそも代書屋をやめて早く結婚しろとせっつかれている。

 陽界の現実は、けっして夏月にやさしくはない。そんな自分が、幽鬼の物言わぬ言葉を汲みとる余裕などあるのだろうか。

 背の高い椅子に物憂げにもたれた泰山の主は、夏月をじっと見つめるだけだった。

「物事を順序立てて整理し、おまえがどうしたいのかをよく考えてみるがいい」

「わたしがどうしたいのか……」

 胸に手を当てて言葉を繰り返す。

 父親や可不可とは違う。

 このところ、なにかをやめろと言われることはあっても、夏月がなにをしたいのかと問われたことはなくて、正直に言えば、とまどってしまった。

「そうだ。おまえがしたいことがないなら、幽鬼の依頼など捨ておけ。これは冥府の王からのありがたい助言だ。感謝するがいい」

 今度は偉そうに言われたが、実際偉い神様なのだから、頭には来なかった。

 ただやりたいようにやっていいのなら、夏月の願いは決まっている。

「わたしは幽鬼の手紙を目的の相手に届けてやりたいのです」

 夏月は真摯な心持ちで一礼した。泰山府君は、夏月がそういうのを初めからわかっていたのだろうか。ふん、と鼻で笑っていた。

「死者と関わり合いになりたいなどと不遜な娘だ。しかし、やりたいことがそれなら、おまえの話は長すぎる。まずは幽鬼の客の依頼と後宮のできごとは分けて考えるがいい」

「やってみます」

 言われてみれば、確かにそうだ。

 幽鬼自体が放っていた違和感と後宮で宦官の少年と話して生じた疑問は、別のものだ。

 宛先を探す役に立つのではないかと思ったのに、瑞側妃が生きていると知って、混乱してしまった。文字を書きすぎて真っ黒になった紙のように、すべてがぐしゃりと塗りつぶされてしまったのだ。そのひとつひとつをより分けて、文字を別々に読み直せば、また見えてくることがあるのかもしれない。

「そういえば、幽鬼というのは死んでいるわけですから、泰山府君が禄命簿を見てくだされば、誰に宛てて手紙を書きたかったのか、すぐにわかるのではありませんか」

 思いがけず、背中を押されたせいか、図に乗って気になっていたことを訊ねてみる。

 しかし、さすがにあさはかな考えだったらしい。

 ふん、と鼻で笑い飛ばされてしまった。

「私からすれば人間など、おまえたちにとっての蟻のようなものだ。ひとりひとりの来し方行く末をなぜ泰山府君が気にかける必要がある?」

「わたしは蟻ですか」

「蟻だな。神の前ではいつ踏みつぶされるともわからぬ蟻だ。気をつけてもの申すがいい」

「では、矮小な蟻の身でおうかがいますが、なぜ神の力で手を治さないのですか?」

「うっ……そ、それはだな……神にもいろいろと都合というものがあるのだ」

 泰山府君の気分を表しているのだろうか。無数の霊符がふわりと壁のように周囲に舞いあがり、それ以上の質問は許さないという空気を感じる。

 どうやら、手は治せないらしいとわかったところで、積まれていた竹簡が終了した。

「では、わたしは帰らせていただきます。どうぞ今後ともご贔屓に」

 代金は通行料として相殺されるから、可不可がいたら「こんなのただのただ働きじゃないですか。赤字ですよ」と文句を言われそうだ。

 それでいて、話を聞いてもらったおかげで、すっきりとした気分になっていた。

 神を相手に「友だち感覚」というのも不遜な話だが、茶飲み友だちと世間話をするというのは、こういうふうであろうかとも思う。

 しかし、陽界へは早く帰ったほうがいいだろう。

 また、泰廟で死んでいたなどと噂を立てられたら、『黄泉がえりの娘』などという渾名に信憑性を与えるようなものではないか。

 あるいは、今度こそ、とっとと墓のなかに埋められてしまうかもしれない。

 筆を整え、道具をしまって拱手一礼。

 足早に去ろうとした背中に、よく響く声が追いかけてくる。

「そうだ、代書屋。後宮の疑問に関しては秘書省というところを、もっとよく探ってみたらどうだ。婚約破棄されたとあれば、勤めを遠慮する必要はなかろう」

 ――思わぬ水を向けられてしまったのだった。

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