第8話 黄泉がえりの娘にも怖いもの

 冥界の深淵というのは、人間の心の奥底に沈んだ記憶を澱みのなかから引きずりだしてしまうのだろうか。

 ――夢を見ていた。

 辺境の村で暮らしていたとき、夏月がまだ小さかったころの夢だ。

 両親は仕事で忙しく、夏月の面倒を見る時間がないときは、村外れにある師匠の庵に預けられていた。夏月としては書が習えるし、年が近い兄弟子たちも構ってくれるから、師匠のところに行くのをいつも楽しみにしていた。

 その一方で、師匠のところの細かい規則は幼い夏月にはよくわからない。なぜ、そうする必要があるのかを知らないと、簡単な方法に流されてしまうのは人の常だ。

 子どもなりのあさはかさで、決まりを破ってしまうことがたびたびあった。

 たとえば、墨を摩るための水を深井戸から汲むのがそうだった。

 いい墨を摩るためには水が大事だと言われており、村に引かれている川の水では駄目なのだと言う。

 しかし、子どもの夏月には井戸や川によって水質が違うことが理解できない。水はどれでも水だし、深井戸の水汲みは幼い子どもには、ただの苦行でしかなかった。

 同時に、深井戸は危険な場所でもあった。

 つるべを落として水を汲むだけの簡易な井戸で、体重の軽い子どもには見た目以上に難しい。落ちたら、まず助からない。だから、まだ幼い夏月は、小さな桶で汲むように言われていた。

 しかし、背伸びして、兄弟子たちと同じことをしたがる年ごろだったせいだろう。大きな桶を使って水を汲もうとしたことがあった。一度で終わらせて、手抜きをしようと言うわけだ。

 大人が使う桶は、一度でたくさん水が汲めるが、その分とても重い。息を切らしながら、四半刻ほど格闘し、桶が暗闇から見えてくるところまで、どうにか引きあげたときだ。

 ほっとして手が滑ったのだろう。桶を取り落としてしまい、綱が勢いよく戻りはじめた。

 慌てて綱を掴んだものの、勢いは止まらない。あげくに、夏月の体が綱に巻きこまれて、井戸のなかへと落ちそうになったときだった。

「夏月、なにをしてるんだ……この馬鹿!」

 水を汲みに行くと言って、なかなか帰ってこない妹弟子を心配して探しに来てくれたらしい。怒られたのと駆けつけてくれたのとはほとんど同時で、すんでのところで、井戸に落ちるのは免れた。勢いよく滑る綱を兄弟子が掴んでくれなかったら、夏月ごと井戸に落ちていたはずだった。なのに、怒られたことにびっくりして、夏月は泣きだしてしまった。

「夏月、先生の言うことを守らないから、叱られるのです。ああ、もう……こんな危ないことをして……どうしておまえは楽なことばかりしようとするんだろうね」

 自分のほうこそ怪我した手が痛かっただろうに、兄弟子は夏月が泣き止むまで髪を撫でて抱きしめてくれていた。

 手を怪我した彼はしばらく文字が書けず、その震える手を見るたびに、夏月は自分のあさはかさを悔やむしかなかった。

 ――いまはもう、遠い昔の記憶だ。

 しかし、心の奥底にはまだ、罪の記憶が鮮やかに残っているのだった。


        †     †     †


「…………師兄しけい

 手を伸ばせば、自分を叱る兄弟子に届きそうだと思った。なのに、指先はそのまま空を切り、夢の淡いから現実へと閉めだされる。その急激な変化に、一瞬、意識がついてこなかった。

 自分がどこにいるのか理解できなくて、夢のなかに戻りたいとすら思ってしまう。

「ここ……どこ……?」

 ぶるりと身震いしてしまったのは、体がすっかりと冷え切っていたからだ。

 どこだかわからないが、寒い。下手をしたら、夜明け前の『灰塵庵』よりも寒かった。

 しかも、身を起こそうとしたのに無理だった。体が異様に重い。ほんのわずか動かすだけで、体中の力を振り絞る必要があるくらいだ。ぎくしゃくと軋む腕を動かして、どうにか体を起こして、ああ、と納得する。おかしいはずだ。夏月が寝ていたのは、普通の布団の上ではなく、石の上だったのだ。途中で火が消えたのだろうか。燃えさしの線香が灰のなかに残っている。

 よくよく見れば、見覚えのある藍家らんけの廟堂だった。ただし、石棺の上で寝たのは初めてだ。いつもは先祖にお参りをして線香を上げるために来ていたのだから。

「なんで……こんなところで寝ていたのでしょう……」

 声を出そうとすると、その声も酷くかすれていた。のどが渇いて仕方がない。

「可不可はいないの? 水。水なんてどこかにあったかしらね?」

 ずりずりと石棺から下りて動きだそうとして、ようやく自分の着ている衣服がおかしいことに気づいた。季節に合わせて色合いを変えている、いつもの襦裙じゅくん姿ではなく、まるで葬式のように真っ白い服を纏っていたのだ。

「どういう……こと?」

 頭のなかを疑問符で埋め尽くしていると、がたり、と廟堂の扉が開いた。外からの風もぴりっと寒いが、どこかすがすがしい。

 その風とともに入ってきたのは、執事の可不可だった。

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