第7話 鵲の白きを見れば黄泉がえり③


「なぜ、そんなことを聞く?」

 禄命簿ろくめいぼを手にしたまま泰山府君は静かに微笑んでいる。

 まるで面白がるような気配を感じて、夏月はこの質問は正しかったと察した。

 手に手を重ねる拱手の姿勢をとり、泰山府君に対して礼を尽くす。

「万が一、わたしがうかつに泰山府君の通り道の邪魔をして頭に足をかけたとして、確かにそれは、冥府に落ちて申し開きをするだけのことはございますが……それと、わたしの天命が尽きることとは別なのではないかと思いまして」

 慎重に言葉を選びながら、心に落ちた染みのような違和感をひとつひとつ拾いあげる。

 どうして、夏月は冥界に落ちたのか。

 なぜ、泰山府君は法廷で、あのような物言いをしたのか。

 ――『藍夏月、おまえはこの泰山府君の頭を踏んだ罰として冥府に落ちた。現世の罪の申し開きをするがよい』

 泰山府君は法廷でそう告げた。

 『冥府に落ちた』とは言ったが、天命は読みあげられなかった。ほかのものの禄命簿にはすべて、天命――定められた寿命が書かれていたにもかかわらず。

 ――あれは……わたしが冥府に落ちたことが、なにかの間違いだからかもしれない……。

 泰廟たいびょうの框に足を引っかけたことがきっかけだったのは間違いない。幽鬼の代書を引きうけたあとだから、より引きずられたということもあるのだろう。もともと、泰廟というのは、冥府に縁の深い場所なのだ。

 泰山府君の廟をお参りしていたのだから、そこに泰山府君が通りかかり、間違って夏月が頭を踏んでしまったということがあるのかもしれない。

 自分で推測しておきながら、あまりにも想像に想像を重ねた推論だとは思う。

 しかし実際には、なにかの間違いというのは、ありえないことがいくつも重なった瞬間に起こりえるのだ。

「もし……もし、ちょっとしたあやまちで、この藍夏月が冥府に落ちたのだとしたら、公明正大な泰山府君のことですから、きっと間違いを正して、わたしを現世に戻してくださるはずですが……いかがでございましょう? 泰山府君の矜恃に賭けて、あやまちの埋め合わせくらいして帰してくださる度量をお持ちだとお見受けします」

 神様の考えは夏月にはわからない。

 矮小な人間の身では抗えない力を持つのが神様だ。ときとして、人ひとりの運命を変えるほどの神力を奮い、夏月ごときの力では抗うことはできないのだろう。

 ――それでも、生きる見込みがあるというなら……わたしは生きなくてはいけない。

 泰山府君の震える手が、自分の罪を思いださせた。

 ――わたしは……わたしの罪をあがなうために、生きて足掻かなくてはいけない……。

 街外れで代書屋を営むような引きこもり生活は死んでいるも同然ではないかと言われると困る。しかし、冥府に落ちたことで、まだ現世にやり残したことが無数にあるのを、まざまざと思い知らされてしまった。

 死にもの狂いとは、こういう感情なのだろう。もう死んでいるのかもしれないが。

 死を身近に感じるからこそ、生がひときわ眩しい。

「天命か……」

 夏月の禄命簿の頁を指先で繰りながら、冥府の神の言葉はそこで途切れた。

 ぴちょんぴちょんと、雫が滴る音が響く。

 不思議なことに、門の外で響いていた不気味な呻き声は、泰山府君の屋敷に入ったとたん、まったく聞こえてこないのだった。おかげで、神が纏う長衣の、衣擦れの音さえ聞こえるほど、あたりは静まりかえっている。

「紅騎」

 泰山府君は側に控えていた部下を呼びよせ、最後に残っていた竹簡を手渡した。

「確かに、この娘の天命はまだ尽きていない。たまたま、この泰山府君が地上との行き来をしたさいにその通り道にこの娘がおり、巻きこまれて冥府に落ちたようだ。よって、藍夏月。おまえの死後裁判はなしとする」

 これで結審だと言わんばかりに、ぱたりと音を立てて、禄命簿を閉じられる。

 死後の戸籍を書き入れる必要はないと言うことらしい。

 やはり、直感は正しかった。夏月の天命は尽きてなかったのだ。 

「紅騎、この娘は西の門から帰してやれ」

 それで話は終わりだと言わんばかりに、泰山府君は椅子から立ちあがった。

 袖を正すようにして身じろぎした瞬間、おぞましい死の国に似合わぬ、雅やかな香りが漂う。

 地上を行き来したときに線香の香りが衣服に移ったのだろうか。青空に朱色の柱がよく映える、泰廟をお参りした瞬間を思わせる、香りだった。

 畏怖すべき冥府の王なのに、その気配が、どこか懐かしいと思うのは、泰廟をいつも霞ませている、線香の香りのせいなのだろうか。

 巾を巻いた手を袖に隠して、

「私の頭を踏んだ罰は代書の料金と相殺だ。それでよいな」 

「承知いたしました。お客様の要望とあれば、代書はいつでもお引きうけいたしますので、どうぞまたご贔屓に」

 思わず、いつものとおりの営業用の言葉が、するりと口を衝いて出た。すると、冥府の王はくすりと笑いを零して、

「そうだな……私はまだ手が悪いし、また代書屋の手を借りることもあるだろう」

 それで立ち去ろうとして、ふと思い返したように、

「藍夏月、このたびは確かにおまえの天命は尽きなかった。しかし、それはおまえの選んだ道がたまたま先に繋がっていただけだ」

 これは警告だと言わんばかりの、戒めを含んだ物言いで続けられる。

「おまえの顔には死相が出ている」

「死相……ですか?」

 冥府の王から言われて、これほど不吉な言葉はあるだろうか。

 夏月は先だって幽鬼に首を絞められたことを思いだして、自分の首が繋がっているのかどうか、手をやってしまった。

「そうだ。天命は確かにあり、天命の蝋燭が尽きないかぎり、おまえは死なない。しかし、運命にはいくつ分岐点があり、その選択いかんによっては、寿命を左右する。間違った道を行けば、直ちにおまえの天命は尽きる――そういう凶相が出ている」

「運命の分岐点……」

 生きている人間なら誰でも思い当たる『もしも』の未来。

 ――もしも、あのとき、わたしが大きい桶を選ばず、井戸に落ちかからなければ、兄弟子は怪我をしなかったはず……。

 もしも、あのとき、夏月が夜遅くにも代書屋の看板を掲げていなければ、幽鬼に襲われることはなかった。

 もしも、夏月がいなければ……。

 いくつもの『もしも』、いくつもの『分かれ道』を経て、夏月はいま冥府にいる。

 そのうちのどれかで、違う選択をしていたら、あるいはもっと早くに死んでいたかもしれないという警告でもあった。いままだ生きたいと思ったばかりなのに、自分の命が薄氷の上にあると知って、少なからず衝撃を受けている。

 泰山府君は、その場で固まっている夏月に近づいて、なにを思ったのだろう。

 おのれの髪に挿したかんざしをひとつ抜きとった。

 貴人が身につけるような、銀の簪だ。先のところには宝石がついて、狼の飾りが揺れている。

「代書屋の働きぶりに免じて、ひとつ、埋め合わせをしてやろう。おまえの命が危機に遭ったら、三度だけ助けてやる。どうしても進退窮まったときには、泰山府君の名を呼ぶがいい」

 そう言うと、その簪を夏月の髪に挿して、鋲の打たれた扉の奥へと、華麗な殿宇のほうへと去っていく。

「おお、我が泰山府君はさすが……なんと寛大な処置だ。ほら代書屋、礼を言わぬか」

 言われて、夏月は例を言いそこねたことに気づいた。

 正直に言えば、もし間違いだったのならば、埋め合わせをしてほしいなどと言ったのは、ちょっとした嫌みで、本当になにかが欲しいと強請るつもりはなかったのだ。

 しかし、お団子を結った髪に手をやれば、そこには軽やかな音を立てる簪の手触りが確かにある。

 ――神様が持っていた簪なんて……魔除けとしては破格じゃないでしょうか。

 簪は古代には魔除けのひとつだったと言われている。

 もし、本当に夏月に死相が出ているのなら、それを払うためにくれたのだろう。

 夏月はもう去っていった冥府の王の背中を思いだして、拱手の姿勢で礼を尽くした。

 長い黒髪に白い長衣は一度も振り返らなかった。人間ごときが礼をするのを見る価値はないと言わんばかりだ。

 しかし、紅騎は夏月が頭を下げて満足したのだろう、「ついてこい」と言って、歩きだしてしまった。

 西の門と言われた巨大な門を出たところで振り返れば、扁額を掲げた屋根の向こうには、まだ青白い極光の幕が天空で輝いている。冷たく美しい輝きは、目に見えていても、掴めはしない。手を伸ばしてもけっして届かない。 

 その孤高の輝きは、どこかしら、星冠を戴き、霜衣を纏った神の姿と重なって見えた。

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