第9話 黄泉がえりの娘にも怖いもの②


「ああ、なんだ。いたの、可不可かふか……水を持っていない? のどが渇いて渇いて死にそうなの……」

 首元を押さえながら、必死に訴えたつもりなのに、可不可には通じなかったらしい。

「お、お嬢!? まさか……まさかキョンシーになってしまうなんて!」

 すばやい動きで後退りすると、廟堂のあちこちに振られているなかから札を一枚剥ぎとり、「悪霊退散!」などと叫びながら夏月の額に叩きつけた。

 いったいなにがどうなっているのだろう。夏月は執事の不条理な行動を叱りつけたい衝動を抑えて、どうにか冷静な言葉を探す。

「可不可……少し冷静になって答えてちょうだい。そうしないと、おまえの給金を減らしますからね」

「お嬢から給金が出ないと言うことは本家に出戻りですか……どこかで雇ってもらえますかね……ってお嬢……なんだかキョンシーにしては生きているときと変わりませんね」

「誰がキョンシーよ……泰廟たいびょうの框に足を引っかけたことは覚えています。そのあとなんで廟堂なんかで寝る羽目になったのか、説明してちょうだい」

 辛抱強く夏月が繰り返すと、可不可もようやく頭が冷えてきたらしい。いつもの調子をとりもどして、かいつまんで話をしてくれた。

「――つまり、頭を強くぶつけたわたしは息をしておらず、医師が死んだと言ったと……それで廟堂に三日ばかり安置されていたと、そういうことね?」

「脈がありませんでしたからね……ほら、こんなふうに」

 さっきまでキョンシーだと怯えていたくせに、可不可はきやすく夏月の手首に指を当てる。その仕種からは自分の言っていることが正しいと思っているのがわかるのに、しばらくすると、訝しそうな表情に豹変した。

「あれ? おかしい……確かに脈がなかったはずなのに!」

「ほほほほほ……きっと衝撃のあまり仮死状態になって脈がひどく遅くなっていたのでしょう。可不可、これでわかったでしょう、わたしは死んでいないのよ?」

 にっこりと笑みを浮かべて自分の従者を落ち着かせる一方で、内心では動揺を隠せなかった。

 ――三日! あの竹簡の山を片づけるのに三日もかかっていたなんて!

 どうりで体が重いはずだ。泰山府君の鬼のような催促を思いだして、頭を抱えてしまう。

 それとも、三日もの時間が過ぎているのは、代書ではなく、蝋燭の火を眺めていたせいだろうか。問答をしていた瞬間の、法廷の静寂や、泰山府君が微笑んでいた顔を思いだすと、十年ほど一気に年をとってしまったかのような錯覚に陥る。

「お嬢? 気分が悪いんですか? 医師を呼んで来ましょうか……いますぐ」

「お待ち、可不可。のどが渇いてお腹が空いているだけです。ここは泰廟なんでしょう? ひとまず、『灰塵庵』に帰ります。水を飲んで髪を洗って……酒楼に行くわよ!」

 急に生者の国に帰ってきたからだろうか。夏月の腹はぐるぐると忙しい音を立てて、空腹を主張していた。

 ――あるいは、冥界での労苦がきつかったせいかもしれないわね。

 働いたらお腹が空くという主張は正しい。いますぐ酒楼で好物の餃子でも包子でも大量に注文して空腹を満たしたい。しかし、そのためには街の目抜き通りを歩く必要があった。

 運京は、城壁に囲まれた城市だから、基本的に墓は街の外に作られる。しかし、なにごとにも特例はあるもので、名家一族の廟堂は泰廟のなかにあった。

 真っ白な装束でよろよろと歩くところを他人に見られたときには、先祖の墓参りを装い、可不可の背に隠れるようにして歩きながら小山を下りる。

 見慣れた住み処――『灰塵庵』の門をくぐり代書屋の店先に入った夏月は、安堵するあまり、板敷きの上にどっと倒れこんだのだった。

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