第4話 穢れを祓いに廟へお参りしたがゆえの厄日なり②
いつのまに、後ろにいたのだろう。振り返れば、ひとりの騎士が馬上から声をかけていたのだった。
暗くて顔はよく見えないが、手には槍を持っているところを見ると、この刑場の衛士らしい。なにかの制服なのだろうか。赤い羽織を纏っている。
夏月がなんて返事をしようか考えるまもなく、まるで騎士の言葉に呼応するように、巨大な門が音を立てて開いた。鋲を打たれた、まるで城門のごとき立派な朱門だ。さらには外と内を区切るために、高い框が横たわっていた。
「お……大きい……」
一瞬、躊躇してしまったのは、あきらかに泰廟の門で足を引っかけたせいだった。
「どうした、早く入れ」
背後の騎士は馬上のまま、槍で夏月を追いたてる素振りをしている。騎士の威圧と框とを見比べて、夏月は框をとる決意をした。どちらにしても、この門の先になにが待っているのかを見定めなければ、前に進めない。いまわかっているのは、ここに建物があり、騎士が守っているということだけだ。血と腐臭に満ちた不気味な刑場に戻るくらいなら、まだ槍を持つ騎士と対峙するほうがましに思えた。少なくとも言葉は通じている。
「一日に二度も框に足を引っかけないでしょう」
意を決して框を跨いでいるはずなのに、足を引っかけた記憶がよみがえると、足が重たくなる気がする。
――これは、試練だ。
夏月はひらひらと足に絡まりつく裳裾の襞を摘まんで、慎重に足を上げた。
神様の謎かけのなかには、一度した失敗を会えてもう一度体験させるというものがある。ここで失敗したら、なにか酷い目に遭いそうだという予感がひしひしとして、框に足をつけずに門の内側へ入っただけで、どっと疲れた気がした。
ドーンドーン、と規律を正すような太鼓の音が響く。
どういう奇妙な世界に入りこんだのだろう。
さっきまで暗闇のなかにいたはずなのに、門の内側はわずかに明るかった。
昼の明るさではない。極光だ。さっきよりも近くで、まばゆく頭上に揺らめいている。
暗い天空に薄布の幕がかかるように、青白い光が蠢いていた。
そこでまた、急かすように太鼓の音が響き、さっき通ったのとは違う門が開く。
「死者たちは伏して冥府の沙汰を待て。泰山府君のおなりである……頭が高いぞ!」
門をくぐった先は、白州だった。
正面の一段高い場所には、宝冠を被った代官が背の高い椅子に座していた。
高いところから見下ろされているからだろうか。ぬかづいた格好でも、凄まじい威圧を感じてしまう。
白州に引き立てられたものたちは、みな震えていた。寒いからではない。胃の腑が捩れるような、得体の知れないおののきは、畏怖のせいだった。畏れでのどが嗄れ、顔を上げたくないとすら思っていたのに、好奇心が許してくれなかった。
怖いのに、その源を知らなければ、もっと怖い。
その正体を確認しようと、ちらりと顔を上げたが、極光の下にいるせいだろう。逆光で代官の顔は真っ黒にしか見えなかった。
しかし、その見えない顔が怖ろしい。なぜだか、うっすらと微笑んでいるようにも見えた。
――これが……冥府の王――泰山府君……?
まるで複雑な器械のような、奇妙な模様の描かれた文机と椅子だ。背後には百薬箱のような規則正しい棚が並び、そのさらに向こうには、幾重ものゆらゆらとゆらめく光があった。
それが、人の天命を司る蝋燭なのだと気づいたのは、白州にいたひとりに沙汰が下されたあとだ。
法官が蝋燭の炎をふぅっと吹き消すと、その場にいた男が、断末魔の悲鳴をあげる。
その闇をつんざく怖ろしい声を聞くと、白州で頭を伏しているものは、みな震えあがるのだった。
「冥府と言うことは……もしかしてわたしは框に頭をぶつけて……死んだのでしょうか?」
夏月はようやく、自分がどこにいるのかを理解した。
死者の魂が集まるのが五聖山のうちの東岳――泰山である。
泰山の御殿には泰山府君が住まい、冥府を治める。死者といえども戸籍を持ち、現世の罪に応じて、どこかの町の
泰山府君は、人間の宿業や寿命を記した帳面――
冥府の王。冥府を治める神である。
響きわたるのは幽鬼の泣き声か、苦役に喘ぐ呻き声か。
――ここは泰山府君が支配する死者の国なのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます