第5話 鵲の白きを見れば黄泉がえり

藍夏月らんかげつ、おまえはこの泰山府君たいざんふくんの頭を踏んだ罰として冥府に落ちた。現世の罪の申し開きをするがよい」

 極光を背にして座る冥界の王が告げた。

 ――藍夏月、享年十六才。あまりにも早すぎる死だった。

「わたしが……死んだ……?」

 冥府の光景をまのあたりにしたあとだから、自分が死者の国にいるということ自体は、すんなりと腑に落ちた。

 しかし、衝撃を受けなかったのかと言われれば、嘘になる。

 幽鬼の依頼を受けて、死者を間近に感じておきながら、夏月自身は病がちでもなければ、大けがをしたこともない。

 まだ死ぬつもりは毛頭なかったのだから、ただただ茫然とするばかりだ。

 泰山府君は、星冠霜衣せいかんそうい――頭には星飾りがついた金色の冠に歩揺ほようのついたかんざしをつけ、白い長衣を纏っていた。頭上に束ねた髪と、肩にかかった後れ毛から察するに、艶のある黒髪は背中を覆うほど長い。

 肩当ては目が覚めるような藍色の地に金細工が施され、被帛ひれを纏い、帯からは五色の飾り紐が垂れ下がっていた。一目見ただけで、豪奢な姿に圧倒されてしまう。

 神様に対して不遜かもしれないが、まるでかささぎの化身のようだと、夏月は思った。

 朝靄のなか、霜が降り、川に氷が張る寒さのなかでも、鵲はその凍りつくような空気に溶けこむように静かに佇んでいる。

 存在自体が自然の美と化しているかような厳かさがあった。

 泰山府君の前、卓子の上に広げられたのは、その人の運命をすべて記してあるという禄命簿ろくめいぼだろうか。

 ときおり、頁をめくる仕種からすると、泰山府君は開いた書物に視線を落としているようだった。

 さっきからこの冥府の法廷を眺めていたが、これが存外忙しい。

 なにせ、幽鬼となった人々は無限にいて、次から次へと自分の罪を軽くしてくれるようにと訴えているのだが、そのひとつひとつに官吏らしきものたちが答えている。その聞きとりの竹簡が卓子の上に次から次へと積みあがっていくのに、一向に白州にいる死者が減っていかないのだ。

 まだ自分の死を実感できない夏月は、叫び声や涙ながらの陳情を押しのけて、自分の申し開きをする気になれないでいた。

「罪の申し開きと言われましても……」

 もう死んでしまって、陽界――現世での生が終わりだというなら、ほかになにを言えばいいのだろう。生きている間には、ぴん、と張りつめていた糸のようなものが、ふつりと途切れてしまったかのような、所在なさを感じていた。

 生きていないというなら、地獄に落ちようと、幽鬼となって墓場を彷徨っていようと、そう変わりはないのではないか。

 まだ十六年しか生きていないが、なんの罪も犯していないわけでもない。過去の罪で死んだというなら、それを受け入れて死んでも仕方ないと、どこかで諦めてもいた。

 地獄の荒涼とした風景と、灰塵庵での侘びしい暮らしとでは、たいして違いはないだろう。

 ほかの死者の騒々しさをよそに、死を受け入れようとしていた夏月だが、ひとつだけ気になっていることがあった。

 泰山府君の手だ。

 さっきから筆を手にとってなにかを書こうとしては、震えて動かない。

 積みあがっていく竹簡に、白州を埋め尽くして一向に減っていかない幽鬼は、どうやら泰山府君の手が動かないことと、なにか関係がありそうだ。

 ――冥界の王が文字を書けない、ということはないはず……つまりあれは。

 夏月の目は、その泰山府君の手に釘付けになっていた。

 筆を持とうとしては、真っ直ぐに筆を持つ手を支えきれず、ふるふると震えて、字が乱れる。あれは間違いなく、手を痛めたもの独特のたどたどしい動きだった。

 自分の過去の罪――そのひとつを思いだす。

 まだ師匠に書を習っていたころ、夏月が小さかったときのことだ。自分のせいで兄弟子の手に怪我を負わせてしまったことがあった。字を書こうとしては、筆を持つ手が震える兄弟子を見るたびに、夏月の胸はひどく痛んだ。

 そんなことがあって以来、どうにも夏月は手に怪我をした人というのが苦手だ。

 苦手というのは少し違うだろうか。

 手が悪い人が嫌いと言うわけではない。ただ、見ているだけで苦い思い出がよみがえり、自分の心が痛くなる。いたたまれなくなってしまうのだ。

 情けは人のためならずという言葉が頭をよぎる。

 ――そう、これは相手のためにするのではなく、わたしのためにする行為です。

 言い訳のように自分に言い聞かせながら、

「畏れながら、泰山府君。もし、文字を書くものが必要なのであれば、お手伝いいたしましょうか。当方は代書屋を営んでおりますゆえ、早くに少しはお役に立つかと存じます」

 そう申し出ていた。

 一度、気になりはじめると、放っておけないのは夏月の悪い癖だ。そうわかっていても、職業柄も手伝って、見て見ぬ振りができなかった。

「代書屋だと……?」

 脅すような声が返ったと同時に、震える筆先が止まる。

 それでも、針で心臓を刺されるようなずきずきという自責の念は、まだ夏月を責めたてており、続く口上が滑らかに出てくる。

「はい。字を書けないものの代理で手紙を書いたり、扁額へんがくを書いたりする商売でございます。対価をいただければ、泰山府君の代理として字を書かせていただきます」

 震える指先を見させられているより、自分で書いたほうが、よほど心安らかでいられる。

 兄弟子の代わりが務まるようにと、幼い指先を動かして、必死に文字を覚えた。

「どうか、おまかせください」

 夏月としては、いつもの営業活動の、延長のつもりでいた。

 うずたかく積まれた竹簡は、いまや卓子の上から崩れ落ちそうなほどだ。冥府で代書のご用があるとは思わなかったが、字を書けないものを放っておくわけにいかない。

 ――自分にできることなら、やらなくては。

 現世であろうと冥府であろうと、変わりない。書けない人に代わって字を書くのが代書屋の矜持だ。心の奥底でゆらいでいた風前の灯火に、ふたたび確かな灯がともった瞬間、夏月の瞳には確かな光が戻っていた。

 しかし、法廷での営業活動はやはりまずかったのだろう。

「必要のないことを勝手に話しだすな!」

 警備に立つ、紅い服の騎士に槍の石突きで小突かれた。無理やりに頭を下げさせられる。

 ほかの幽鬼たちはもっと勝手に申し開きをしているというのに、夏月だけが小突かれているというのは釈然としないが、騎士の槍が届く場所にいたのがよくなかったようだ。

 ここは逆らわないでおく。

 頭を下げさせられたのとは別に、憤然となって抗議してきたのは、その竹簡をうずたかく積んでいた官吏たちだった。

「人間の死者ごときが、泰山府君の代わりに判決文を書こうなどと、無礼にもほどがあるわ」

「そうだそうだ。死者が罪状を書に連ね、判決を下すのは泰山府君の役目。人間に代われるものではない」

 囃し立てるように、冥界の官吏たちが夏月の申し出をそしりはじめる。その姿は泰山府君への忠義を表しているようで、どこかしら現実の官吏の姿と重なって見えた。

 ――ああ……人を化かすという狐のようなお役人様だこと……。

 浴びせかけられる悪口雑言を右から左へと流していると、

「黙れ!」

 泰山府君の怒声とともに、無数の札が放たれた。

 白い札――霊符は、まるで音の波に乗って届いたかのように白州に突き刺さる。頭を下げていてよかったと思いながら、その突き刺さった霊符が消えるのを凝視してしまった。

 そのひとつひとつに、呪がこめられていたのだろうか。

 あたりは突然、水を打ったように静かになった。あれほど騒いでいた幽鬼たちさえ、その場で凍りついている。

「代書屋。この泰山府君の代理で判決文を書くと言ったな」

「はい。当方が泰山府君の手となって、代わりに文字を書きます。泰山府君のお役目の代わりではありません。あくまで文字を代わりに書くだけです」

「私の手の代わり……」

 判決を代わりに下すのではない。

 代書屋がやることは、文字を書く手助けだけだ。

 これは、師匠から念を押して注意されたことのひとつだった。

 話を聞いているうちに、ときには自分の考えが強くなり、手紙に反映させそうになることがある。

 たとえば、『甲』と『乙』がいて、話を聞くかぎりでは、あきらかに『乙』が悪いのに、『甲』のほうが悪いと書いてくれと依頼人から言われたようなときだ。

 心情的には、『乙』が悪いと書きたくなってしまう。でも、それは夏月の意見であって、手紙に書くのは、あくまでも依頼人の気持ちだ。

 ――『代書屋は相手の仕事に関わる話を、書くときに歪めてはならない』

 そんなふうに諭されたことがあった。

「もちろん、商売ですから、対価はいただきます。しかし、まずはわたしの仕事ぶりを見て判断していただくというのはいかがでしょう」

 取引を持ちかけられそうな気配を察して、夏月にしては強く押してみた。

 人間も動物と同じで、弱っている姿を見せたくないのだろうか。手を痛めていても字を書こうとする人は、どういうわけか、具合の悪いのを隠そうとする。

 ――兄弟子もそうだった……もう手なんて痛くないと、笑ってごまかそうとして……。

 だから、ここは無理やり仕事を奪うくらいの気持ちで、代書させてもらう。

 そんな強い感情を抱いていると、ここが冥府だと言うことを忘れてしまいそうだった。

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