第3話 穢れを祓いに廟へお参りしたがゆえの厄日なり ①
代書屋『
突き抜けるような青空には、朱塗りの柱がよく映えるせいだろう、晴れた日は特にお参りする人が多い。
廟のなかは、煙をくゆらせた長い線香が何本も立っており、朝早いというのに、座布団に膝をついて祈る人の姿があった。
夏月も賽銭を払い、手にした細長い線香に火を点す。
ひとすじの煙が青空に立ちのぼっていくのを見ながら、灰のなかに差した。線香とは別に、部屋に残っていた冥銭と一緒に焚きあげして、泰廟の主・泰山府君に祈る。
――師匠……お元気ですか? 運京はやっとあたたかくなってきました。代書の仕事は続けていますが、こちらは意外と訳ありの客がよく訪ねてきます。
祈りを捧げるとつい師匠のことを思いだして、心のなかで話しかけてしまう。泰廟で何度も師匠に話しかけるなんて、そのうち神様に怒られてしまいそうだと思いながらも、習慣を簡単に変えられそうになかった。
幽鬼と会うと陰の気にさらされて障りがあるため、幽鬼の依頼を受けたあとは厄払いに泰廟をお参りすることにしていた。今月、幽鬼がやってきたのは三回目だ。月に一回でも珍しいのに、三回も幽鬼の客が訪れるのはもっと珍しい。
「今年は鬼市の当たり年なのかしら?」
首を傾げる夏月に対して、一緒についてきた可不可がすばやく突っこみを入れる。
「幽鬼がよく来るのを、豊作みたいに言わないでください。神様の罰が当たりますよ。そうやってお嬢が店に迎え入れるから、幽鬼の客ばかり増えるんですよ」
「なるほど……もしかすると、冥界では口伝でうちの店の評判が広がっているのかもしれないわね」
泰廟をあとにした夏月は、門を出て階段を下りていく。
頭にはふたつのお団子を作り、艶やかな黒髪を長く背に流している。仕立てのいい高腰の襦裙を纏う姿は、良家のお嬢さんと言った趣があった。
ひらひらと帯紐をなびかせながら、夏月は早足で歩いていく。
「お嬢、冗談でもやめてください。これ以上、幽鬼の客が増えたら、ただの赤字じゃすみませんよ」
「それは……困りますわね……」
代書屋『灰塵庵』はこれから行く本家から出資してもらって続けているが、代書に使う紙や墨は基本的に売りあげで買っている。赤字が続けば、本家にお金を借りに行かねばならず、そうなると当然、
――『いい年をした娘が、結婚もせずに代書屋の真似事なんぞいいかげんにやめなさい』
などと父親から言われるのが落ちだった。
「結婚しないとは言いませんが、やはり困ります……少しは儲けを出さないと代書屋を続けられなくなってしまう……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら歩いていたせいだろうか。あるいは、幽鬼の陰の気に当てられた障りが残っていたのだろうか。
門に横たわる高い
青い空を背に、飾られた五色の吹き流しがぐるりとさかしまになる。
「お嬢!?」
可不可の驚いた声と、朱色の框が眼前に迫ったのと。
――どうして、今日にかぎって。
そんなどうでもいい考えが頭をよぎる。この国の建物の入口には高い框があり、それは敷地の境界を示す区切りであるとともに、魔を退ける意味を持つ。
一種の魔除けであるがゆえに、框に触れることは禁忌なのだった。
大きな横木は踏みつけるのではなく、跨いで通るものだ。夏月もいつもはほとんど無意識に足を上げている。いまもそのはずだった。足を上げて跨ごうとしたつもりが、実際には足を引っかけていて、額を框にぶつける勢いで、つんのめっていた。
何度も何度もお参りしたはずの泰廟で、框に足をかけて転ぶなんて……
――いったい今日はなんの厄日だというのだろう。
ゆっくりと近づいてくる硬そうな框を前にして、がっ、という不吉な物音を聞いたのを最後に夏月の意識は途切れたのだった。
† † †
寒くて、冷たくて、
……――震える。
しんしんと雪が降りしきるかのような凍れる静寂に自然と震えが湧きおこる。
ぶるりと身を震わせながら顔を上げると、低く高く、まるで鬼の
地の底から這いあがってくる声は不気味でいて、どこかもの哀しい。
あれは死者の声だと、夏月の勘は告げていた。
「ここは……どこ……?」
体を起こせば、見わたすかぎり、暗かった。
空には星も月もなく、夜よりも昏い。地面も漆黒の闇だ。さっきまで陽光の下で、赤や金に彩られた泰廟の山門があったはずなのに、それらはどこにも見当たらなかった。
青々と茂っていた緑も、突き抜けるような青空もない。
自分の視界が色を失ったのかと思うほど、唐突に色彩のない世界にいた。
しかも硬い岩の上に寝転んでいたらしい。手をついたとたん、そのごつごつとした冷たさにびくりと体がこわばる。
――なぜ、なにが自分の身に起きたのだろう。どうやって。
疑問は次から次へと湧いていたが、ひとまず夏月は立ちあがって歩きだすことにした。
沸きおこる震えが、ひとつところに留まらないほうがいいと本能に訴えかけていたせいだ。
こういう勘には逆らわないほうがいい。
大きな岩に手をついて、ぐるりと回るようにして坂を上りはじめた。
次第に目が慣れてくると、視界に隅にあった塊が岩ではなく、ときおり蠢いていることに気づいた。
「うう……うぅう……」
嘆きとも苦悶ともつかない声は、その塊から漏れている。
誰かが嘆きかなしんでいるのだろうかと、夏月はその塊に話しかけてみることにした。
「そこの方……どうかなさいましたか?」
声をかけたあとで、夏月はすぐに後悔した。
そこで蠢いていたのは確かに人間だった。髪があり、目があり、耳があり――少なくとも、頭は人間の形に見える。しかし、その体は大きな杭につらぬかれ、目からも口からも血がしたたり落ちているのだった。まるで刑に処された罪人のようだ。
よくよく闇に慣れた目でぐるりと周囲を見わたせば、あちこちに蠢くなにかはある。しかし、そのどれもが杭に穿たれたり、あるいは鎖に繋がれて大きな岩を動かしたりして、苦しげな声を漏らしている。
さきほどから響いてくる不気味な声は、苦痛の労役についている彼らの叫びであり、嘆きであり、苦しみなのだった。
「ど、どういうこと……? ここはもしかして刑場なの?」
普段、夏月が目にすることはないが、運京にもそう言った刑場があるのは知っていた。
それは城市を取り囲む、高い城壁の外にある。罪人は刑に処されたあと、飢えた動物に食われてもやむなしというのが、この国のあり方だった。
しかし、いったい夏月がなにをしたというのだろう。
――まさか……幽鬼の代書を引きうけた罪だとか?
そんな罪があるとは聞いたことはないが、夏月が知らないだけかもしれない。
善良な一般市民に対して、申し開きもなくいきなり刑罰に処するのだろうか、という疑問は頭の片隅に残っていたが、あちらこちらから響いてくる苦悶の声を聞くと、圧倒的な現実を前に疑問のほうが霧散してしまうのだった。
山を登るようにして歩いていていくうちに、虚空の空に、ちらりちらりと光が見えてきた。
「あれは……極光?」
闇のなかに蠢く、光の幕の話を夏月は書物で読んで知っていた。
輝く青白い幕は、まるで天仙の衣のようだ。誘うように揺らめいては形を変え、瞬きをしているうちに見えなくなってしまう。それでも、手を伸ばせば届きそうな気がして、その美しい光を追いかけているうちに、目の前に巨大な楼閣を持つ門が現れた。すると、
「そこの娘、入るがいい」
唐突に、命令じみた声をかけられた。
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