第2話 万事、代書うけたまわります。②

 それからどれぐらい落ちていたのだろう。夏月が意識を取り戻したとき、窓の外はうっすらと明るかった。

 漏窓に木戸を閉め忘れたのだ。飾り枠の隙間から朝靄が滲む庭が見えている。

「寒い……」

 いつでも寝ながら客を待てるようにと、椅子のそばに板敷を作ってあったのがさいわいしたらしい。布団の上に倒れていた。

 どうにか体を起こして、客と自分を隔てていた対面机を見れば、銭受け皿の上には、紙のお金が数枚残っていた。昨夜の客が律儀に置いていったようだ。

 紙で作られたお金といっても、兌換紙幣ではない。冥銭と言って、冥界で死者が使えるように焚きあげをして贈られるものだった。

「ああ……やっぱり幽鬼でしたか」

 ――うすうす、そんな気はしていた。

 死者が客として訪れてくるときには、『鬼嘯きしょう』という奇妙な叫び声がする。鹿の鳴き声のような、殺されたものの断末魔のような叫び声が。

 風の音に混じってはいたが、昨夜もかすかに聞こえていたのだ。

 机の上の砂盤には、まだ書きかけの覚えがきが残っていた。

「宛先のひとつは楽鳴省の護鼓村か……さて、どうしましょうか」

 なにを手紙に書いてほしいのか、よくわかってない。話をして核心に近づくまえに幽鬼が正気を保っていられなくなってしまった。

「早く運京に来て……か」

 郷里に恋人でもいて、迎えに来てくれるのを待っていたのだろうか。

 手紙の相手は家族だと言っていたが、本当のことを代書屋に話したくないという客は珍しくない。素直に心の裡をうちあけるのは人が思う以上に難しいことなのだと、代書屋をはじめてから痛感する毎日だ。

 綺麗な蝶の裙子を着ていたのだから、妓女だったのかもしれない。

「やれやれ……幽鬼になってさえ素直になれないのだから、生きている人間はもっと拗くれ曲がっていて当然なのでしょう」

 変な姿勢で倒れていたせいで凝り固まった肩を動かしながら、時間が経ってだめになってしまった墨を捨てる。もう一度、墨を擦りなおして、言われたままの言葉を記した。

 清書することで、いま一度、依頼を整理できる。

「幽鬼の代書にしても、変な客だったな」

 夏月は首を傾げた。恋人の迎えを待つうちに死んでしまう妓女というのは運京ではありふれた話で、そのひとつひとつに感情移入していたら、キリがない。しかし、幽鬼が零した恨み言はなにかが少しずつズレているような、どこか収まりの悪い言葉のように感じたのだ。

「もしかして……もう一通出してほしいと言った手紙と内容が混じっているのでしょうか?」

 だとしても、どの言葉が誰宛のものなのか、夏月には知りようがない。手紙を前に首をひねっていると、窓の外で人の気配がした。

「お嬢、起きてますか? 朝餉の支度をはじめていいですかね?」

 若い男の声がかかる。夏月の執事をしている青年・可不可かふかだった。

 声をかけただけで返事を待たずに、若い娘がいる部屋に入ってくるのはいかがなものだろうか。奥の扉が思いきりよく開き、長い黒髪を後ろで束ねた青年が入っている。

 机の上に書きかけの手紙と、銭受け皿にひらひらとはためく冥銭を見た可不可は、すべてを察したらしい。思いっきり顔をしかめた。

、ですか……」

 嫌みを言われる気配に、夏月は身構えた。

 この可不可という執事は、夏月の使用人でありながら、小言を言うときには遠慮がない。そこが気に入っている所以でもあり、もう慣れているのだが、昨夜、殺されかけたせいで、少しばかり疲れていた。

「また、というのが、また幽鬼の客が来たのかという意味なら、確かにそうです。しかし、そもそも代書屋というのはですね、可不可。頼まれたら断ってはいけないものなのですよ。特に手紙の代書は」

「また、師匠の教えとかいうやつですか……いい加減、聞き飽きましたよ」

 ぼやくような可不可の物言いに笑ってしまうが、その通りだ。

 ――『いいか、夏月よ。代書をしてほしいと訪ねてくる人を無下に断ってはいけない。そして、話をよく聞いてやりなさい』

 それが師匠の口癖だった。 

 運京から遠く離れた村外れに庵を結んでいた師匠の下には、村の人がひっきりなしに代書を頼みに訪ねてきたものだった。

 文字の読み書きができる人は少ないから、手紙をもらったときですら、文字の読める人のところまで訪ねていって読んでもらうしかない。仕事を休み、一日かけて頼みにくるものもいる。だから、文字の読み書きができる人間は代書を断ってはいけないというのが彼の持論だった。

 もっとも、師匠の教えが夜分に看板を出す理由になってはいないことは、夏月自身よくわかっている。幽鬼となった死者は生きていたときとは価値観が変わり、子どもや孫と会いたいために冥界に呼び寄せようとしたりと、一族に害を為すこともある。昨夜のように、突然豹変して襲いかかってくることも珍しくない。

 それでも、鬼がく時刻になると、看板を出さずにはいられない。夜陰に紛れて、昼間には来にくい客が訪ねてくるようで、どうしても後ろ髪を引かれてしまう。

 夏月のところにやってくる幽鬼の願いは、王都で死んだことを故郷の家族に伝えてほしいなどといったささやかな依頼が多い。その素朴な願いを叶えてやりたかった。

「ああ、お嬢。今日は仕事の前に、本家に顔を出すのを忘れないでください。表には休業中の札を出しておきますからね」

 朝の空気を連れて部屋に入ってきた可不可は、てきぱきと雑然としている机の上を整理したかと思うと、そのまま店の表玄関から外に出てしまう。

 土間と対面机と夏月がいる板敷き。数歩で通りぬけられる小さな店だ。

 明るい日射しのなかで見ていると、昨夜、幽鬼が訪れて首を絞められかけた気配なんて、微塵もない。

 夏月は寝ている間にゆるんだ帯を結び直して、板敷きから立ちあがった。

「本家に顔を出せだなんて、またお父様の小言かしら? 可不可だけでも鬱陶しいのに、困ったわねぇ」

 困ったと言いながら、少しも困っているふうでもない夏月が硯や筆を道具箱に仕舞っていると、竈では朝餉の支度が進んでいたらしい。また窓の外から声がかかった。

「夏月お嬢さま、可不可さん。朝餉ですよ。店は閉めて、こちらにいらしてください」

 老爺の声だ。この庵を預かっている老夫婦が食事の支度をはじめ、家の管理を手伝ってくれているのだった。

「はーい、いま行きます」

 表から『万事、代書うけたまわります』という看板を手に戻ってきた可不可の手のなかには、看板と一緒に飾っていた鬼灯の一差しがあった。

 幽鬼を呼ぶと言われている鬼灯だが、朝の光のなかで見ると、ひときわ鮮やかな朱色をしている。

 まるで昨夜の幽鬼の願いを聞いてやってくれと言わんばかりだ。

「……とりあえず、宛名のわかっているほうの手紙は出しておきましょう。もう一通の手紙も出してやりたいけれど……」

 宛名がわからない手紙はどうしようもないと、夏月はため息をついた。

 書きあげた手紙は折り畳み、宛名を書いた紙で包む。その仕種を見て、可不可は呆れた顔をしていた。

「幽鬼の手紙を出してやるんですか? 冥銭は実際には使えないし、やめましょう。受取人も亡くなっているかもしれませんよ」

「可不可、おまえはわかってませんね。男のほうも亡くなっていたら、冥界で会えるんだから、手紙を書く必要はないではありませんか」

「あ……なるほど、言われてみれば確かに」

 言い負かされたことを恨みに思うでもなく、可不可は妙に納得している。頭が悪いわけではないが、根が真っ直ぐな性格なのだ。

 夏月は手元の手紙にいま一度視線を落とした。

 この手紙は無事に届くだろうか。死して冥界へ墜ちてもなお、伝えたいほどの強い想いに手紙を受けとったものは、どう答えるのだろう。

「たとえば……可不可。わたしが亡くなったあと、幽鬼となって訪ねてきて、手紙を届けてほしいと言ったら、おまえは引き受けてくれるの?」

 夏月は手紙を手にしたまま、ぽつりと呟いた。

 誰でも自分がいつ死ぬかわからない。若くして病で亡くなったり、事故や戦争で命を落とすかもしれない。唐突な死を迎えた死者の願いもまた、生きている誰かの願いと同じく、無下に断れない重さを持つ。

「お嬢からの頼みなら手紙を届けてもいいですけど、他人からなら断りますね、俺は。それと、文字は書けませんから、代書は無理ですよ」

「まったく……ああいえばこういう……」

 一から十までの数字の読み書きはできても手紙のように長い文章となると、また別だというものは多い。

 だから、代書屋という商売が成り立つ。

 でも、その代書屋でさえ、一方通行の想いしか伝えることはできない。手紙を受けとった相手が、その内容をどう受け止め、どんな返事を出すのか知る術は代書屋にはない。

 ましてや、死者からの手紙なのだ。受けとってうれしいのかどうかすらわからなかった。

「深夜の幽鬼を相手にしてばかりでは、代書屋はまた赤字ですよ」

 追い打ちをかけるような可不可のお小言が耳に痛い。

 それでも、伝えたい人の想いを届けるために、代書を引きうける。

 ――この最期の手紙の想いを届けてやりたい。

 それが藍夏月の営む代書屋『灰塵庵』のささやかな矜恃なのだった。

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