第1話 万事、代書うけたまわります。

 ――『万事、代書うけたまわります』

 木板の看板には、力強くも個性的な手蹟でそう書かれ、ときおり吹く風にゆらゆらと揺れていた。ふらりと通りかかる近所の人もいない街外れで商売が成りたつのかと首を傾げたくなる風情の店だが、どこかで人伝に聞いてくるのだろうか。ぽつりぽつりと、深夜に訳ありの客が訪ねてくる。

「夜分遅くにすみません。代書をお願いしたいのですが……」

 女の声が言う。

 市井には文字が書けるものは少ない。

 字を書いたり読んだりしたいときには、みな代書屋に頼むしかなかった。燈籠の明かりだけをたよりに、背に重たそうな荷物を抱えた客を店先に招き入れる。

 店主の名前は、藍夏月らんかげつ。今年、十六才になる若い娘だった。

「代書ですね。どのような内容でしょう? 手紙、台帳の書き入れ、本の写しや看板書きと内容によって値段が違います。手紙の場合ですが……紙の種類はこちら。ふつう料金ですと飾りのない書面で駅伝いに送ることになります。送り賃は別料金になります」

 文字を読めない客が訪ねてくるのだから、すべて口頭の説明になるが、わかりやすいように、壁には木札のお品書きをかけてある。

 書を嗜むのは男の仕事だと思われているせいだろう。若い娘が出てくると、たいていの客はぎょっとする。しかし、壁に大きく掲げられた『運否天賦うんぷてんぷ』という書に『灰塵庵かいじんあん』と書かれた扁額、漢詩を綴ったかけ軸など、文字がたくさん飾ってあると、ちゃんと代書屋なのだと安心するらしい。

 夏月が指し示したお品書きやかけ軸を眺めた客は、意を決したような声を出した。

「手紙をお願いします。故郷の……家族に手紙を出していただきたいのです」

「手紙ですね。では、相手の方のお名前と住所からおかがいしましょうか」

 夏月は手慣れた様子で砂盤に書きつけをとる。

 実際には紙に墨で書くのだが、すぐに消してしまうようなささいな覚えがきは、浅く砂を敷き詰めた砂盤や裏の山からいくらでもとれる竹簡に書くことが多い。店では持ち歩く必要がないから砂盤、出先では竹簡などと夏月は使い分けていた。

楽鳴省護鼓村がくめいしょう ごこむらですね……通ったことがありますよ。小さな村ですが、音楽を嗜むものが多い村で……琴の名手――孫登そんとうの祠があったのを覚えてます。運京へは出稼ぎでいらしたんですか?」

「え、ええ、そうです。故郷では食べていけなくて……みんな芸を仕込まれたあとは村を出されるんです……」

 なるほど、と夏月は村を通りがかったときに流れてきた見事な琴の連弾を思いだした。

 運京には食事のときのおもてなしとして、楽奏を披露する店が流行っている。腕に覚えがあるものなら、田舎と違い、いくらでも仕事があるのだろう。

 ――故郷をひとりで離れることになるが。

 女の身なりからは、運京に来てからの暮らしがいいのか悪いのかまではわからない。

 胸の前をきっちりと合わせた上衣に、大袖の上着を纏っているからには、着るものには困っていないようだ。

――いや、むしろ……この着物は上等な絹のような……。

 薄闇のなかで椅子に座る女がわずかに動いたとき、明かりに照りかえした裙子には、ひらりと舞う蝶の図柄が浮かびあがる。ほんの一瞬、香が漂った。

 夏月は「そうですか」と簡単な相槌を打って返した。

 衣服に香を焚きしめるなんて雅なことをできる人間はかぎられている。しかし、王都での暮らしがうまくいっていても、わざわざ、深夜に人目を忍んで代書屋に来るからには、なにか心に秘めた想いがあるはずだ。

「手紙は……先生にお願いすれば間違いがないと……教えてもらったんです……」

 言葉少なに答える声には陰がある。

 燈籠の明かりで部屋が薄暗いというだけではない。俯きがちな女の顔は陰が落ちてよく見えなかった。

 文字が書けない人にとって書を嗜むものはすべて先生らしい。たんに代書屋と呼ばれることもあるが、頼んでくるものは先生と呼ぶことが多かった。

 夏月は覚えがきをとるかたわらで、ゆっくりと墨を摩り、机の上に紙を広げる。

 ざらざらとした紙は書きにくいが、値段が安い。もっと高い紙もあるが、別料金だ。商売っ気がない夏月は、客から特に頼まれないかぎりは安い紙で書くことにしていた。

「手紙の内容ですけど、まずは近況を伝えるのが相手によろこばれます。元気でいるとか、仕事がうまくいっているとか……なんでもいいんです。次に相手の近況を訊ねて、お願いごとをするなら、その次に書くといった進め方でいいでしょうか」

 手紙を出すのが初めてという人もいるから、型通りの内容でも、ひととおり説明するのが夏月の流儀だ。

 俯く女の顔を横目に見ながら、わずかに声を落として一言そえる。

「……なるべく、心の裡を正直に伝えたほうがいいですよ。面と向かって会うのと違い、手紙というのは微妙な気持ちを察してもらいにくいんです。だから正直に書きすぎたかなと思うくらいでちょうどいい。お金の無心をするのでも『生活に困っている』より『百文ほどお金を送ってほしい』と書くほうがわかりやすいでしょう?」

 話をするのが苦手な客でも、ちょっとしたきっかけで本当に伝えたいことを、ぽろり、と零すことがある。だから、ほどよい相槌と、ほどよく先をうながす言葉を巧みに使い分けるのが代書屋の腕の見せどころだった。

「そうですね。では……いますぐに来てほしいと。いつものところで待っているからと、そう書いてほしいのです」

 なにか符牒をお互いに決めている相手なのだろうか。『いますぐ』や『いつものところ』というのは、待ち合わせにしては、わかっている者同士でもずいぶんと曖昧な表現だ。

「日にちがずれても構わない待ち合わせなんですね? いえ、もちろんお客様の要望にはお答えしますが、受けとる側の立場にしてみると、少しわかりにくいかもしれないと思っただけなので……お気を悪くされたら申し訳ありません」

 夏月は念押しするように訊ねた。

 その言葉のなにが、客の女の心の琴線に引っかかったのかわからない。

「そうですね……わかります。正直に……正直言いますと、そう……先生。もう一通、お願いしたいのです」

 女の声が一段低くなった。

 こういう声音が変わった瞬間、本音を吐き出す客が多い。経験上、そうわかっているから、夏月は次の言葉を待った。自分の心が前のめりになるのを感じる。

「もうひとつは、宣紙で……早く……早く外に出してと……――ああ、どうして? ここは暗くて冷たくて……震えが止まらないっ……」

「え?」

 なにを言いだしたのだろうと、覚えがきをしていた夏月が振り向いたときだった。

 叫び声を上げた客が、いきなり、対面机を飛び越えてきた。一息に夏月の首を掴み、力任せに壁に叩きつける。

「ぐ……あ……」

 息苦しいのと、衝撃で眩暈がするのとで、一瞬、目の前に星が散る。

 夏月の体ごと、壁に叩きつけるなんて、ただの女の力ではありえない。

 首を服をつかまれ、吊されるような格好で首を絞められている。

「く、苦し……うっ……」

 藻掻こうとしても体がうまく動かなかった。

 息苦しさに意識が遠のきそうになる夏月の前に、女は嘆きを吐きだす。

「早く運京に来てって言ったじゃない……今度は私の番だったでしょう? それなのにどうして……どうして、私のしあわせを邪魔するの? 許せない許せない! ああ、あなた……どこ? 私と一緒になってくれると言ったのは嘘だったの? どうして……」

 次第に支離滅裂になっていく客の言葉を聞きながら、夏月の意識は途切れた。

 正確には、首を絞められ落ちたのだ。

 強く首を絞められると、死ぬ前に意識を失うことがある。その状態でしばらく放置されても、首を絞められ続けなければ、深い眠りに落ちたのと同じような状態になる。

 ――ああ……またやってしまった……。

 深い闇に落ちていくなかで、なぜか琴の美しい音色が聞こえていた気がした。

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