エピローグ

なぞられた過去

 バタンと、音を立てて扉が閉まった。風圧で、赤茶の髪の毛が目にかかる。僕は首を振って雑に髪を避けて、一茶の方へと目をやった。彼は、楽しみや悲しみ、そして心配など、様々な感情が混じったような。実に複雑そうな顔をしていた。

 ついに、と思う。

 僕は自分のスニーカーを踏んずけて玄関へ身を乗りだし鍵を閉めて、意図的に明るい声を発してみせる。


「楽しみ、だねっ」


「……うん」

 

 一茶は、たっぷりと時間を置いたのちに小さく首を縦に振るのだった。




 たった今、詩音くんと楓が北海道へと旅立った。つまり、勝負の日だ。

 たくさん、詩音くんの相談に乗ってきた。行き先はもちろん、告白する場所から、その後の流れまで、本当に、色々。


 僕は知っている。この告白は成功する、と。だって、楓は僕が悲しくなるくらいに、

 ずっとずっと、詩音くんのことが大好きだったから。


「ひなた」と、一茶が僕の名を呼んだ。「楓と詩音くんてさ、なんか俺たちみたいだよね」


 一茶は、いつもはきりっとした眉毛を下げて、まるで作り笑いかのようにくふくふと大人しく笑った。

 彼が言わんとしていることは、僕にもわかる。本当にそっくりなのだ、何もかも。






「おかえり、楓! ご飯できてるよ~、早く~」

「おん、ありがとなー」


 あの日の楓は、お出迎えにきた僕の顔を見るなりふわりと優しい笑顔を浮かべて目を細めた。ドキリと胸が音を立てる。この決して中性的ではないのに“美”を感じさせる顔、僕よりも高い声色、絶妙な訛りのある話し方、そしてなにより。

 目の奥にある確かな疲労を隠してまで僕に笑顔を向ける優しさが、本当に大好きだった。


 僕は、そんな彼と少しでも言葉を交わしたくてやんややんやとふざけて笑う。今日も彼から返ってくる鋭いツッコミがなんだか楽しくて、僕は喉から飛び出してきてしまいそうな心臓の音を無視して彼に着いて歩くのだった。


 しかし。僕には何もできなかった。この気持ちを伝えるなんてもってのほか。それどころか、その瞳の奥に感じる疲労や孤独感。そんなものを和らげてあげることすらできなくて。だから。僕はただ見守ることにした。

 そうして見守る、という口実の中彼を四六時中目で追うこと数年。僕は、ある事実に気づいていた。


 楓は、詩音くんが好きだった。

 確かに、彼の言動はあまりに強かだった。誰が見ても、そんなの気づきっこない。でも。長年小学生の頃から想いを寄せている僕には、それはあまりに露骨に見えた。だって、楓の視線は、常に同じ人に注がれていたから。


『詩音くん詩音くん、今日何時に帰ってくるん?』

『なぁ詩音くん、これ見てや!』

『詩音くん、今日一緒に飲まんっ?』


 楓は、詩音くんに話すときだけあまりに幸せそうで。それでいて、どこか浮かれたあざといしゃべりをした。僕に、それを向けてくれればいいのに。そう思わなかったこともない。でも。

 諦めようと、そう考える始めるのに時間はかからなかった。その、僕にも一茶にも見せないような無邪気な顔が、あまりに僕の心を射抜いたから。





 そんな決意をしたあくる日も、ソファに寝転がっているところにまたガチャっと鍵の開く音が玄関から響いた。思わず顔を上げると、皆もまた揃って顔を上げ、僕を見つめる。しかし、僕は見つめていたスマホへ視線を戻した。もた諦めることにしたのだから、無駄に付きまとうのは楓の恋心を邪魔するだけだと思ったから。だから僕は必死に、画面に表示される一茶がおすすめしてくれた漫画へ意識を向ける。なのに。文字も絵も、全くという程頭に入らなくって。僕は同じページを何度も読み直した。

 ふと、背後の電気が遮られて視界が暗くなった。そして、その原因を探るべく僕が振り向く前に、その原因は名乗りを上げた。


「今日は珍しく僕より漫画なんや?」


 背後からそう、大好きな高い声が降ってくる。僕は気が付けば、栞を挟むこともなく画面を閉じて彼の方へと振り向いた。

 楓がぽかんと首を傾げると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。

 僕は負けた。なにもその、ケーキの香りにじゃない。まるで、僕を求めてくれているかのような物言いに。綺麗な人が、幼子のように首を傾げるというあざとい仕草とのギャップに。

 なるほど、と思う。彼はこうして、数々の女子を射止めていたのだろう。そしてなにより、それに気づいていないところも、本当に。


「やなやつぅ~」

「え、何の話なん!?」


 目を丸める彼の手にあるカバンを奪い、ソファの背もたれを乗り越えて楓の部屋へと向かう。彼は相変わらず不思議そうに首を傾げていたが、後にふはっと笑い声を上げながら僕に着いてくるのだった。

 そうして二人きりの部屋の中、僕は楓が脱いだ上着をハンガーへかける。楓はそんな僕を見てぷぷと面白そうに笑って片手で口を覆った。


「一茶がこんな光景みたら、びっくりするやろなぁ」

「なにが」と僕は口を尖らせる。

「ひなたん、上着かけれるんだー! って」


 一茶の声真似をして過剰に低い声を出す彼に思わず吹き出しそうになるのをこらえて、僕はむっと口を尖らせた。


「俺だってできるし」

「はいはい、ありがとーな?」


 そう言って僕の肩を叩くその手が暖かくて。やっぱり好きだと、僕はそう思った。


「そういえば」と楓が言う。「僕のバイト先の新商品に、めっちゃ甘いシュークリームが出てん」


 楓はそう目を輝かせた。別に、そんなに甘いものが好きなわけでもないくせに。

 それは僕も同じで、特別甘党なわけでもない。でも。楓のバイト先を見れる機会なんてそうそうないし、それに。一緒に食べに行けるなら、と思って。食べてみたい、と、そう言おうと思った。でも。勇気が出なかった。

 楓はそんな僕を見てハッとして、そして乱れてもいない前髪を弄りながら頬を染めた。


「ひなた、そんな甘いん好きちゃうもんな……詩音くんなら、喜ぶかな」


 そんなの、と思わず口を開きかける。一茶だって、甘いものは好きなはずだ。でも。

 そう呟く彼の表情はあまりに無邪気で、幸せそうで。悔しかった。楓にこの顔をさせられるのは僕じゃないと、見せしめられたようで。


 今思えば、この時だったと思う。詩音くんに、明確な敵意を覚えたのは。




 その日以来、上手く笑えなくなった。特に、詩音くんの前で。

 わかってる。僕では詩音くんに勝てない。優しくて、かっこよくて、なによりとっても面白い。だからこそ。

 詩音くんがいなければと、思わずにはいられなかった。


 良くも悪くも。僕の元気がないことには、皆気が付いていた。僕は、楓みたいに器用じゃないから。どうしてもうまく笑顔を作ることができなかった。

 故に、こんなことが起こった。


「ひなた~、前話してたゲームなんだけど。一緒にやらない?」


 詩音くんが、僕の隣に腰を掛けた。僕に見せようとしたスマホの画面のせいでその距離が近くって、ふわっと甘い香りがした気がした。それは、バイト帰りの楓の香りにそっくりだった。

 詩音くんが嫌いなわけではない。大切な幼馴染で、いつも可愛がってくれた。ゲームの話も合うし、なにより少しガサツなところとかが一茶や楓と違ってとても、僕に似ていた。だからまるで、実の兄よりも本物のお兄ちゃんみたいで。大好きだった、はずだった。なのに。

 今この距離がとても、不快に感じた。傍で見ると更に際立つ整った顔、耳がこそばゆくなるくらい低い声、そして、明らかに話を聞いていない僕を心配して肩を叩くこの優しい掌。その全部が不快だった。僕に、劣等感を抱かせるから。


 そんなことを考えていたのだから必然ではあるけれど、僕はどうやら酷い顔をしていたらしい。詩音くんは僕の顔を覗き込んで眉を下げた。


「ひなた、最近元気ないよね。なにかあったの?」


 そして彼はそう、僕の肩に置いた手を僕の頭に乗せた。ふと、再び甘いケーキの香りが鼻についた。もう、限界だった。


「ごめん、詩音くん。頭冷やしてくる」


 今にもその手を振り払いたいのをぐっと堪え席を立ち、僕は自らの部屋へと駆けこんだ。

 息を切らしながら後ろ手に扉を閉める。ベッドの上にでは、楓の部屋から勝手に連れてきた白いクマのぬいぐるみが僕を見つめていた。堪えていたものが決壊し、涙が止まらなくなった。


「なんでッ」


 駆け寄って拾い上げたクマのぬいぐるみを形が変わるまで抱きしめ、声を殺す。

 本当に、心の底から許せなかった。詩音くんにムカついてしまう、自分のことが。いつから僕は、こんな器の小さい人間になったのだろう。楓を想うのなら、喜んで身を引くのが正解だろうに。


 そうして泣きじゃくる中ふと、扉がコンコンと音を立てた。一瞬、楓かなと期待して顔を上げる。しかし。そんなわけがない。状況的に、きっと詩音くんだ。そうとなると。

 僕はそのままベッドに飛び込み布団へ潜り、無視を決め込むことにした。

 しかし。扉を叩いた人物は何を思ったか、そのまま部屋へと入り込んできた。


「勝手に入ってこないでよ」


 この怒りをぶつけてやりたい気持ち半分、怒鳴り方が分からずもどかしい気持ち半分。こんなだから、こんな時にも勝手に部屋に入り込まれるんだと悲しくなる。

 部屋へ入り込んだ当人は、僕のベッドへ腰を掛けてそのまま布団の上から僕の背中を撫でた。思わず、その腕を強く握り勢いよく体を起こす。

 視界に飛び込んで来たのは、意外にも困ったように眉を下げる一茶の姿だった。


「ひなたん、詩音くんのこと、嫌い?」


 彼は、理不尽に詩音くんに当たる僕を怒る風でもなく優しい声でゆっくりと話し、詩音くんと同じように僕の頭を撫でてくれた。その手は、詩音くんと大した違いはないはずなのに。なのになぜか、とても安心できるものだった。

 だからつい、本音が漏れてしまった。


「好き。でも、嫌い」

「そっか」


 一茶は、そうとだけ言って手を離した。僕に、何も聞かなかった。代わりに彼は、もう一つの質問を投げた。


「じゃあさ、楓は?」


 僕は、その質問に答えられなかった。

 こんなの、ただ好きと答えればいいものだった。しかし。彼の質問は、ただそれだけの回答を求めているわけではないのが、こんな僕みたいな鈍いやつにでも分かってしまった。つまり。

 一茶はきっと、気づいているぞ、と。そう言いたかったのだと思う。

 どう答えるのが正解だろうかと、頭を悩ませる。ドキドキと音を立てる心臓や、額に滲む冷や汗が心地悪い。抱きしめたクマに口元を押し付けて眉へ力を籠めたところ。一茶は僕のそのぬいぐるみを取り上げ、そしてゆっくりと僕の頬へ手を添えた。


「なぁ、ひなたん。俺にしろよ」


 何を言っているのか分からなかった。言葉の割に、弱々しい表情に声。きっと、俺に頼れ、と。そう言われているのだと思った。

 それが告白の言葉だなんて、当時は考えもしなかった。


 だからこそ、なんだか心強くって。僕はその日から、何か嫌なことがあるたびに彼の部屋に通うようになっていった。そして気が付けば、楓といる時間よりも、一茶といる時間の方が長くなっていった。





 そんな毎日を送る、ある日。僕はまた楓の白いクマのぬいぐるみを抱きながら、いつものように一茶の部屋へ入り込み、僕の特等席であるソファへ我が物顔で腰かけた。


「なぁに、また何かあったの?」


 一茶もまた、いつも通りに僕の隣へ腰を降ろし優しく僕の頭を撫でた。それが暖かくて、気が付くとまた涙が溢れる。いつもの流れだ。僕はクマに顔を埋めながら、ぼそぼそと声をあげる。


「楓が、俺と遊んでるのにずっと詩音くんの話するっ……あいつ、絶対俺が好きなこと気づいてるくせに。ムカつくッ」


 こんなに感情が振り回されるのに、それでも好きで。自分一人では抱えきれなかった。だから、一茶に慰めてもらいたかった。辛かったねって。寂しいよねって。でも。一茶は今日に限って、『そっか』と頭を撫でてはくれなかった。


「それは」と一茶は言った。「お前も、人のこと言えないだろ」


 一茶の手が、強く握られて白くなっている。口元には、無理やり笑顔を作ったかのようなぎこちない弧が描かれていて。もしかしたら、と僕はあの日の一茶の言葉を思い出した。

 俺にしろ、と。その言葉は、もっとストレートな意味だったのではないか、と。


 僕はなんだかとんでもないことをしてしまった気がして、思わず顔を背けてクマを強く抱きしめた。


「ひなたん、こっち向いて」


 と彼は言う。

 もちろん、その言葉には従わなかった。従えなかった。従ったら、何かが終わってしまう気がしたから。

 一茶は、無理に僕にそっちを向かせるようなことはしなかった。代わりに彼は、その暖かい腕で僕を包み込んだ。


「俺、言ったよな。俺にしろって。なのにさ、なんで毎日泣いてるんだよ。他の男選んだのはひなたんだろ? ならせめて、幸せそうにしろよ……」


 一茶の声は震えていた。僕が、一茶を泣かせた。

 申し訳なくて、でもどうしていいかわからなくて。僕はそんな一茶の手を握って恐る恐る顔を向ける。彼は、真っ赤な瞳を僕に向けて、そして涙が零れる前に手で目を擦った。


「好きだったの? 俺のこと」


 聞かずにはいられなかった。知っていても、まさかそうだとは思えなくって。でも。

 何度も目を擦って肩を震わせる彼を見たら、それもすぐに愚問であったと気づかされる。今までだって、こんなにも僕を支えてくれて可愛がってくれて。その意味が今、わかった気がした。


 ならば、と思う。僕が返すべき言葉は、一つしかない。


「俺、好きな人いるから。ごめん」


 これが、僕なりの礼儀だと思った。

 好きでもないのに付き合うなんて、そんなの余計に傷つけるだけだから。

 一方で。そんな淡々とした僕の言葉を聞いても、一茶は僕に回した腕の力を緩めることはなかった。いいや。寧ろ、その腕に込められた力が強くなった。


「なら」と彼は言った。「もう二度と、俺に傷ついた顔見せるなよ」


 それは、今まで彼に叱られた時にも見たことのないような、恐ろしく鋭い瞳だった。怖かった。でも同時に、ムカついた。だってまるで、絶対に楓との恋が叶わないと、そう言われているようで。


「当たり前でしょ。楓は優しいから、きっと話せばわかってくれる」


 話す勇気もないくせに。僕の中の僕に、そう嘲笑された気がした。

 でも今の僕にはどうすることも出来ず、ただそう言い捨てて、彼の腕の中を抜けて腰を上げる。

 ドアノブへ手をかけた時、背後の一茶は言った。


「俺ならひなたんを泣かせたりなんてしない。それでも楓がいいなら、詩音くんに嫉妬なんてしてないで自分の力で振り向かせろよ。頑張ってもだめなら……俺が楓の代わりになってやるよ」


 悔しかった。楓を振り向かせるなんて、夢のまた夢だったから。だから、僕は言葉を返すことなく部屋を出た。絶対に二度と、この部屋には来てやるもんかと。そう心に誓いながら。


 そんな昂っていた僕だけれど、結局そんな喧嘩は長くは続かなかった。というのも、僕が部屋に帰る頃には既に、僕のスマホに謝罪のメッセージが届いていたからだ。


『嫌な言い方して、ごめんなさい。ひなたんならきっと振り向かせられると思います。頑張ってね』


 よくわからないけれど。それを読んだ僕はただ、一晩中泣きじゃくっていた。何が悲しかったのかは、あの頃の僕にはよくわからなかった。






 次の日の朝。案の定目の腫れた僕を見て、さすがの楓もえらく心配してくれたのを覚えている。そこで、僕は決心した。楓に、思い切って想いを伝えてやろうと。一茶のように、俺にしろって、そう言ってやろうと。もちろん、すぐに振り向いてくれるとは思っていない。でも。気持ちを伝えたら案外、意識してくれたりなんて。そう考えていた。

 今思えば本当にただの勢いで。浅はかな奴だったと思う。




「ねぇ楓、たまには詩音くんとじゃなくてさ、俺と飲まない?」


 そう切り出したのは夜。丁度、クリスマスイヴの日だった。

 みんなとのケーキパーティーのために久しぶりにバイトを休みにしてくれた楓が、お腹いっぱいになってソファでごろごろしている。僕はそんな楓の目の前に、彼の好きなレモン味のお酒を掲げ、彼を釣った。というのも。素面で幼馴染に告白なんて、とてもできそうになかったから。


「わぁ、ええの!? のむ~っ」


 楓は、僕の思惑通りに簡単に僕を部屋へと招き入れた。いける、とそう思った当時の僕を殴り飛ばしてやりたい。


 飲み始めて少しして。なのに、緊張からか僕は全然酔えなくて。上機嫌にケラケラと笑い声をあげる彼のテンションに若干おいて行かれつつも、どうにかそういう空気を作ろうと口を開いた。


「楓、楓は好きな人、いるよね」


 いるよー、と。そう言ってそして。誰―ってなって。そうきゃっきゃと話した後に、僕はね、って。そう話しだしてそして。僕が好きなのは楓だよって。そう言いたかった。でも。


「え、あ、うん」楓は少し戸惑ったうえで、頬を染めて頷いた。

「どんな人?」

「えっとね」そう言う彼は、あまりに幸せそうな顔をしていた。「優しくて、かっこよくてぇ、あ、あとなぁ、めっちゃ天然で面白い」


 確かに、と思う。それは楓の言う通りだ。


「いいね、そういう人」


 僕がそう言うと、楓はまるで自分が褒められたかのように、嬉しそうな顔をして照れくさ気に顔の横の毛を弄った。


「せやろぉ」


 その表情は、どこか無邪気で。詩音くんといる時の楓に似てる。でも、と僕は思う。それは、僕が引き出したものではない。単純に、恋バナが。いや、詩音くんの話が、楽しいだけだ。

 それは本当に、もう。楓の瞳の奥の闇すら見えないくらいには楽しそうで。僕が癒せなかったものが一瞬にして癒された。と、そう感じた。


「なぁ、ひなたは?」


 今度は、優しい声でそう尋ねられる。それは、僕が望んだ一番想いを伝えやすい流れだった。

 やっぱり、聞き上手な彼らしい。お酒を飲んでいるにも関わらず、僕にも話す時間を譲ってくれる。はしゃいでる姿はまるで幼子のようで微笑ましいし、まじめな話をすると見せる真剣な顔はどこまでも綺麗で。手先も綺麗で、家事もできて、バイトだって勉強だって、なんだって楓は完璧にこなしてしまう。だから。


 ──僕にはもったいないや。


「俺は、いないよ。楓の恋、応援してる」


 涙が溢れそうになったけれど、唇を噛んでぐっと堪えた。涙を流すべきは、ここじゃない。






 そうして一通り楓と飲み明かすこと数時間。気が付くともうとんでもない時間で。でも。

 僕は遠慮なく白色をしたクマのぬいぐるみを片手に一茶の部屋の扉を開け、真っ暗な部屋の中いつも通りにソファへ向かった。そして。その安全地帯で、僕は声を殺すことすらなくわんわんと泣いた。

 ベッドで寝息を立てていた一茶はすぐさま目を覚まして、スマホを拾い上げる。きっと、こんな時間によくも、とでも思っているのだろう。でも。一茶ならきっと、今日くらい許してくれるだろう。

 彼は深いため息とともにスマホを枕へ投げ捨て、ベッドを降りる。そして暗い部屋に明かりを灯し、クローゼットへと向かった。そこには、3つの大きな包みがあった。


「もうクリスマスだろ? 一茶サンタさんから」


 彼は、言葉に似合わぬ真剣な表情で振り向いた。

 思わぬ物の登場に面をくらう。とはいえ、涙は引っ込まなくて。僕は何度も二の腕で涙を拭いながら、手にしていたクマのぬいぐるみを隣へ置いてその包みに手を伸ばした。それらはどれも、大きくて柔らかかった。


「開けてみて?」


 差し出された内、1つ目の袋のリボンを解いて、封を開ける。そこには、まるまるとして大きな、クマのぬいぐるみが入っていた。もしや、と思い一茶がソファへ置いた残る2つのリボンも解く。思った通り、それらも全ておおよそ大学生男子に贈るとは思い難い可愛らしいクマのぬいぐるみであった。


「くま……」


 思わず3匹を見つめてか細い声を漏らす。一茶は、僕が初めから手にしていた白色のクマを僕の腕に抱かせると、ソファを占領していた今まさにプレゼントされた茶色のクマを抱き上げてから隣へ腰を掛け、そして抱いたクマを自身の膝へ乗せた。


「ひなたん、いっつもクマのぬいぐるみ持ってるから」


 僕は、別にクマのぬいぐるみが好きなわけじゃない。ただこの白いクマが楓のものだから好きなだけで。でも。彼がそう言って、とんでもなく寂しそうにふふと笑みを作るのを見たら、その説明が不要なことは何となく想像がついた。だから黙って、彼が抱かせてくれたクマのぬいぐるみへ顔を埋めた。


 彼の手が、頭へ触れた。それはあまりに優しくて、暖かい。そう言えば、一茶は今の今まで暖かい布団で眠っていたんだっけ、と思いだす。

 もう、いいや。と、そう思った。だから僕は、顔を上げて彼の瞳をしっかりと見据えて、こう言った。


「一茶、助けて」


 一茶は、喜ぶと思っていた。なのに。僕の言葉を聞いた瞬間、彼はまるで悲しそうな顔をし、そして再び深いため息をついた。

 

「せっかく応援してやったのに、俺のところに戻ってくるなよ」


 断られるのかと、そう思う余地はない。だって、一茶が僕を捨てるはずがない。

 僕は、彼から目を離すことなく目を合わせ続けた。ちゃんと本気だと、そう伝えるように。


 これで、よかった。こうすればみんな、幸せだ。


「わかったよ。なってやるよ、楓の代わりに」


 一茶はそう、僕のことを抱き寄せてそして、額へそっと口づけた。

 ドキッとは、しなかった。でも。どこか心の底から安心できるような、力が抜けるようなそんな気がして。気が付くと僕はまた、わんわんと声を上げて泣いていた。






 これが、一茶との友達の終わりで、恋人の始まり。

 ね、ほんと。そっくりでしょう? 詩音くんと楓の、不器用な恋愛に。#__i_0b36507a__#






「でもひなたん、詩音くんほどひどい扱いしてこなかったよなぁ」

「だって一茶、楓と全然似てないもん」

「え、じゃあなんであの時俺と付き合ったの」

「そりゃあ、楽だったから」

「え……傷つくんだけど」

「違う! いい意味だって! 俺がどれだけ嫌な奴でも、一茶は受け入れてくれるって思ったから」

「そっか」


 一茶は、先ほどとは一変。満更でもなさそうにニヤリと口角を上げた。こういう、僕への愛情だけやたらと筒抜けなところも大好きだ。

 

 ふと、家のチャイムが鳴った。僕も一茶も、ハッとして顔を上げる。しかし考えることは同じで、一茶もまた、腰を上げようとはしなかった。行って来いよとばかりにお互いに視線を送り合う。


「ひなたん、お前の大好きな楓のお帰りだぞ」

「嫌な奴! 一茶だって詩音くんにいっつもちょっかいだしてんじゃん」

「やだよ、緊張する」

「俺だって緊張するんだけど! 詩音くん振られてやばい雰囲気だったらどうするの!」


 そうして騒ぐこと数十秒。玄関からはガチャ、と鍵の開く音がした。

 思わず黙り込み、固唾をのんでリビングの扉を凝視する。やんややんやと聞こえる声を隔てる扉が開いたとき。

 そこから見えた楓は、むっとふくれっ面をしていた。思わず、冷や汗が額に滲む。


「おまえら」と、楓が声を上げる。


 僕と一茶は、ゴクンと生唾を飲み込んだ。


「なんで開けてくれへんねんっ! 詩音くん死にかけとるやんけ!」


 楓の背後から現れた詩音くんは、両手に大きな袋を持って息を切らしていた。


「いやぁ、お土産買い過ぎてさぁ」


 額を腕で拭いケラケラと笑う詩音くんの様子に、思わず胸をなでおろす。とはいえ。


「ほんまにやばかってんで? キャリーケースも重いし両手塞がってもうたし」

「でも、お土産めっちゃ美味そうだった!」


 距離が近づいたということもなく、逆に離れたということもなく、仲睦まじそうな様子。これではまるで。楓が恋する前、数年前に戻ったみたいだ。

 もしかして、詩音くんは怖気づいて告白ができなかったのではないか。そう思わざるを得なかった。そしてそれは一茶も同じで、思わず顔を見合わせる。そんな僕たちの様子に気が付いた詩音くんは荷物を床へ置いた後、楓をその場に置いてずかずかと僕たちへ近づいてきて。そして。

 ぐっと、力強く親指を立てた。


「一茶、ひなた、ありがとう! 無事、おっけーもらいました!」


 珍しく張り上げられたその声はあまりに大きくて。まるで、一茶みたい、と。そう思った次の瞬間。一茶はそれを上回る大声を上げて、詩音くんへと飛びついた。


「ぅうおめでとおぉおう!」


 一茶を抱いた詩音くんが、ぐるぐると回る。あまりに大げさに喜ぶ彼らは本当に嬉しそうで。

 僕も、そっち側に行けると思っていたのになぁ、と。そう、思った。

 実際はというと、喜びよりも、微かに感じる寂しさが僕の感情を支配していた。


 ちらりと、楓の方へ視線を送る。彼は微笑まし気に、はしゃぐ二人を見つめていたがすぐに僕の視線に気が付いてこちらへと視線をくれた。


「よーわからんけど、僕のことこっそり助けてくれとったんやろ? ありがとうな」


 そして彼は、ゆっくりと僕へ寄ってきて、ポンと頭を撫でてくれた。


「あれやる?」


 楓が、笑いながら回り続ける詩音くんを指さす。

 なんとなく、察しがついた。楓は、僕が寂しがっているのを察して、半ば最後のチャンスとして誘ってくれたのだろう。

 少しだけ、心が揺れた。でも。


「ううん、俺はいいや。代わりに」


 僕はそう言って、拳を突きだす。楓は目を丸めたけれど、ふはっと笑って僕の拳に拳を合わせた。


「仲良くやるんだよ、楓」

「お前に言われたないわ」


 楓は、面白そうにケラケラと笑う。僕もまた、それにつられてふふふと笑みを零した。

 拳が、離れた。僕は肩に籠った力を抜くように、ふうと息を吐く。

 そして。ひとつだけ最後に。

 僕は楓の目をしっかり見据えて、口を開いた。


「俺が幸せにしてあげるって言ったら、どうする?」


 楓はふっと柔らかく目を細めて、そしてゆっくりとかぶりを振った。


「僕は、詩音くんが好きや」


 きゅんと、胸が痛んだ。でも同時に。なんだか安心した。

 ──楓は、どうやら今、幸せらしい。


「新しいピアス、いいね。ガラス?」

「せやねん。詩音くんが買ってくれてん」


 彼の右耳に光るピアスは、とても綺麗だった。


 楓との会話に満足した僕は、彼から顔を逸らして詩音くんの手にあった大きな袋へと駆け寄った。大きな袋の中身を覗くと、そこには見覚えのあるような箱がたくさん並んでいる。僕は慌てて顔を上げ、詩音くんの方へと振り向いた。


「詩音くん、お土産忘れてたでしょ! 近所で見たことあるよ!?」


 はしゃいでいた詩音くんの動きが止まる。そして彼は、目の前の一茶からも目を逸らして頬を掻いた。


「約束のホワイトチョコクッキーは!?」

「それは大丈夫! 通販しといたから」


 僕の苦情に、詩音くんはなんだか的外れな返答をしてあわあわと駆け寄ってくる。お土産ってそういうものじゃないのに。でも。


「朝、楓が珍しく寝坊してさぁ」

「それは詩音くんが夜に……!」


 責任のなすりつけ合いをして笑う二人が微笑ましくて、思わずふっと息が零れた。

 本当は、詩音くんに協力する代わりに現地のお土産をたくさんもらうとの約束だったけれど。今回は許してやろう。僕は、そんな幸せそうにじゃれ合う二人を、ただぼーっと見つめていた。






「あはは、ひなたん早いね」


 お風呂も早々に終わらせて、本日の相棒、茶色のクマのぬいぐるみを片手に一茶の部屋へ駆け入る。彼はまるで僕が来るのが分かっていたかのような口ぶりでケラケラと笑ってスマホを枕へ放り投げた。僕はそれに「うん」とだけ短く返し、ソファへ腰を掛ける。一茶もまた、昔のように僕の隣へ腰を掛けて僕の頭を撫でた。


「今日は泣いてないんだね」と一茶は僕をからかった。

「泣いた方がいい?」と僕もまた笑って返す。

「いや。泣きたくないなら、それで」


 一茶は僕の頭から手を離した。

 寂しくなって、なでなでを催促しようと顔を上げる。彼は僕と違って、機嫌がよさげな顔をしてゆらゆらと身体を揺らしていた。

 僕はというと、そんな上機嫌な彼になでなでを要求する気にもなれなくて、ただその様子をぼーっと眺めた。別に、なにか物珍しいと思ったわけでもない。ただ、本当になんとなく。

 彼はそのうち動きを止め、そしてひょこりと立ち上がる。そして、ベッドへ移動しようと数歩歩みを進めて、そしてまた踵を返した。


「ひなたんは、まだ元気ないね。いつもは俺の後ろ着いてくるのに」


 まだ、ということは。きっと、僕の元気がない原因もわかっているのだろう。だからこそ。一茶を不安にさせては、いけないと思った。

 腕の抱いたクマを隣へ座らせ、彼へゆっくりと両手を伸ばす。そして、一茶を見あげた僕はぎこちないだろうが、精一杯に笑顔を作った。


「一茶、寂しい。ぎゅってして」


 彼は言葉を聞き、しゃがみこんで僕の視線に合わせた後。それはそれは優しく、僕を包み込んだ。僕もまた、遠慮なく彼の背へ腕を回す。

 こうしていると、不思議と心が落ち着いた。


「一茶が好き。かっこいいし、頼りになるし、一茶といる時が一番安心できて、心地いい。でも、さ」


 僕が言うと、彼は顔を上げて僕の瞳を覗き込んだ。僕は話を続けた。


「なんか、寂しいんだ。同窓会で、初恋の人の結婚を知らされた時みたいな気分」

「なんだそれ」


 一茶はぷっと噴き出した。だから僕も笑った。




 きっと、このよくわからない気持ちはいつか消滅する。そしていつの日か思い出すことすらも出来なくなって、今の僕を笑うだろう。僕は、それでいい。そうなったときには、四人で今日までの日のことを振り返って、涙が出るまで笑い転げてやろう。


「ねぇ、一茶」

「ん?」

「今度、告白のやり直ししない?」

「え、なんで」

「俺も楓みたいに、ロマンチックに告白されてみたい」

「わがままな奴だな」


 一茶は笑って僕の唇へそっと口づけた。思わず瞑った目を開いて、照れ隠しにむっと口を尖らせる。しかし。彼は、ニヤリと口角を上げて僕の頭をぐりぐりと撫でまわし、そしてゆっくりと立ち上がった。


「じゃあ、やってやるよ」と彼は笑う。


 僕が笑顔で大きく頷くと、ヤツはふふと笑って目を逸らした。


「待ってろよ、プロポーズ」





「えっ……?」


 ドキリと今、胸が音を立てた。


 バタンと、音を立てて扉が閉まった。風圧で、赤茶の髪の毛が目にかかる。僕は首を振って雑に髪を避けて、一茶の方へと目をやった。彼は、楽しみや悲しみ、そして心配など、様々な感情が混じったような。実に複雑そうな顔をしていた。

 ついに、と思う。

 僕は自分のスニーカーを踏んずけて玄関へ身を乗りだし鍵を閉めて、意図的に明るい声を発してみせる。


「楽しみ、だねっ」


「……うん」

 

 一茶は、たっぷりと時間を置いたのちに小さく首を縦に振るのだった。




 たった今、詩音くんと楓が北海道へと旅立った。つまり、勝負の日だ。

 たくさん、詩音くんの相談に乗ってきた。行き先はもちろん、告白する場所から、その後の流れまで、本当に、色々。


 僕は知っている。この告白は成功する、と。だって、楓は僕が悲しくなるくらいに、

 ずっとずっと、詩音くんのことが大好きだったから。


「ひなた」と、一茶が僕の名を呼んだ。「楓と詩音くんてさ、なんか俺たちみたいだよね」


 一茶は、いつもはきりっとした眉毛を下げて、まるで作り笑いかのようにくふくふと大人しく笑った。

 彼が言わんとしていることは、僕にもわかる。本当にそっくりなのだ、何もかも。






「おかえり、楓! ご飯できてるよ~、早く~」

「おん、ありがとなー」


 あの日の楓は、お出迎えにきた僕の顔を見るなりふわりと優しい笑顔を浮かべて目を細めた。ドキリと胸が音を立てる。この決して中性的ではないのに“美”を感じさせる顔、僕よりも高い声色、絶妙な訛りのある話し方、そしてなにより。

 目の奥にある確かな疲労を隠してまで僕に笑顔を向ける優しさが、本当に大好きだった。


 僕は、そんな彼と少しでも言葉を交わしたくてやんややんやとふざけて笑う。今日も彼から返ってくる鋭いツッコミがなんだか楽しくて、僕は喉から飛び出してきてしまいそうな心臓の音を無視して彼に着いて歩くのだった。


 しかし。僕には何もできなかった。この気持ちを伝えるなんてもってのほか。それどころか、その瞳の奥に感じる疲労や孤独感。そんなものを和らげてあげることすらできなくて。だから。僕はただ見守ることにした。

 そうして見守る、という口実の中彼を四六時中目で追うこと数年。僕は、ある事実に気づいていた。


 楓は、詩音くんが好きだった。

 確かに、彼の言動はあまりに強かだった。誰が見ても、そんなの気づきっこない。でも。長年小学生の頃から想いを寄せている僕には、それはあまりに露骨に見えた。だって、楓の視線は、常に同じ人に注がれていたから。


『詩音くん詩音くん、今日何時に帰ってくるん?』

『なぁ詩音くん、これ見てや!』

『詩音くん、今日一緒に飲まんっ?』


 楓は、詩音くんに話すときだけあまりに幸せそうで。それでいて、どこか浮かれたあざといしゃべりをした。僕に、それを向けてくれればいいのに。そう思わなかったこともない。でも。

 諦めようと、そう考える始めるのに時間はかからなかった。その、僕にも一茶にも見せないような無邪気な顔が、あまりに僕の心を射抜いたから。





 そんな決意をしたあくる日も、ソファに寝転がっているところにまたガチャっと鍵の開く音が玄関から響いた。思わず顔を上げると、皆もまた揃って顔を上げ、僕を見つめる。しかし、僕は見つめていたスマホへ視線を戻した。もた諦めることにしたのだから、無駄に付きまとうのは楓の恋心を邪魔するだけだと思ったから。だから僕は必死に、画面に表示される一茶がおすすめしてくれた漫画へ意識を向ける。なのに。文字も絵も、全くという程頭に入らなくって。僕は同じページを何度も読み直した。

 ふと、背後の電気が遮られて視界が暗くなった。そして、その原因を探るべく僕が振り向く前に、その原因は名乗りを上げた。


「今日は珍しく僕より漫画なんや?」


 背後からそう、大好きな高い声が降ってくる。僕は気が付けば、栞を挟むこともなく画面を閉じて彼の方へと振り向いた。

 楓がぽかんと首を傾げると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。

 僕は負けた。なにもその、ケーキの香りにじゃない。まるで、僕を求めてくれているかのような物言いに。綺麗な人が、幼子のように首を傾げるというあざとい仕草とのギャップに。

 なるほど、と思う。彼はこうして、数々の女子を射止めていたのだろう。そしてなにより、それに気づいていないところも、本当に。


「やなやつぅ~」

「え、何の話なん!?」


 目を丸める彼の手にあるカバンを奪い、ソファの背もたれを乗り越えて楓の部屋へと向かう。彼は相変わらず不思議そうに首を傾げていたが、後にふはっと笑い声を上げながら僕に着いてくるのだった。

 そうして二人きりの部屋の中、僕は楓が脱いだ上着をハンガーへかける。楓はそんな僕を見てぷぷと面白そうに笑って片手で口を覆った。


「一茶がこんな光景みたら、びっくりするやろなぁ」

「なにが」と僕は口を尖らせる。

「ひなたん、上着かけれるんだー! って」


 一茶の声真似をして過剰に低い声を出す彼に思わず吹き出しそうになるのをこらえて、僕はむっと口を尖らせた。


「俺だってできるし」

「はいはい、ありがとーな?」


 そう言って僕の肩を叩くその手が暖かくて。やっぱり好きだと、僕はそう思った。


「そういえば」と楓が言う。「僕のバイト先の新商品に、めっちゃ甘いシュークリームが出てん」


 楓はそう目を輝かせた。別に、そんなに甘いものが好きなわけでもないくせに。

 それは僕も同じで、特別甘党なわけでもない。でも。楓のバイト先を見れる機会なんてそうそうないし、それに。一緒に食べに行けるなら、と思って。食べてみたい、と、そう言おうと思った。でも。勇気が出なかった。

 楓はそんな僕を見てハッとして、そして乱れてもいない前髪を弄りながら頬を染めた。


「ひなた、そんな甘いん好きちゃうもんな……詩音くんなら、喜ぶかな」


 そんなの、と思わず口を開きかける。一茶だって、甘いものは好きなはずだ。でも。

 そう呟く彼の表情はあまりに無邪気で、幸せそうで。悔しかった。楓にこの顔をさせられるのは僕じゃないと、見せしめられたようで。


 今思えば、この時だったと思う。詩音くんに、明確な敵意を覚えたのは。




 その日以来、上手く笑えなくなった。特に、詩音くんの前で。

 わかってる。僕では詩音くんに勝てない。優しくて、かっこよくて、なによりとっても面白い。だからこそ。

 詩音くんがいなければと、思わずにはいられなかった。


 良くも悪くも。僕の元気がないことには、皆気が付いていた。僕は、楓みたいに器用じゃないから。どうしてもうまく笑顔を作ることができなかった。

 故に、こんなことが起こった。


「ひなた~、前話してたゲームなんだけど。一緒にやらない?」


 詩音くんが、僕の隣に腰を掛けた。僕に見せようとしたスマホの画面のせいでその距離が近くって、ふわっと甘い香りがした気がした。それは、バイト帰りの楓の香りにそっくりだった。

 詩音くんが嫌いなわけではない。大切な幼馴染で、いつも可愛がってくれた。ゲームの話も合うし、なにより少しガサツなところとかが一茶や楓と違ってとても、僕に似ていた。だからまるで、実の兄よりも本物のお兄ちゃんみたいで。大好きだった、はずだった。なのに。

 今この距離がとても、不快に感じた。傍で見ると更に際立つ整った顔、耳がこそばゆくなるくらい低い声、そして、明らかに話を聞いていない僕を心配して肩を叩くこの優しい掌。その全部が不快だった。僕に、劣等感を抱かせるから。


 そんなことを考えていたのだから必然ではあるけれど、僕はどうやら酷い顔をしていたらしい。詩音くんは僕の顔を覗き込んで眉を下げた。


「ひなた、最近元気ないよね。なにかあったの?」


 そして彼はそう、僕の肩に置いた手を僕の頭に乗せた。ふと、再び甘いケーキの香りが鼻についた。もう、限界だった。


「ごめん、詩音くん。頭冷やしてくる」


 今にもその手を振り払いたいのをぐっと堪え席を立ち、僕は自らの部屋へと駆けこんだ。

 息を切らしながら後ろ手に扉を閉める。ベッドの上にでは、楓の部屋から勝手に連れてきた白いクマのぬいぐるみが僕を見つめていた。堪えていたものが決壊し、涙が止まらなくなった。


「なんでッ」


 駆け寄って拾い上げたクマのぬいぐるみを形が変わるまで抱きしめ、声を殺す。

 本当に、心の底から許せなかった。詩音くんにムカついてしまう、自分のことが。いつから僕は、こんな器の小さい人間になったのだろう。楓を想うのなら、喜んで身を引くのが正解だろうに。


 そうして泣きじゃくる中ふと、扉がコンコンと音を立てた。一瞬、楓かなと期待して顔を上げる。しかし。そんなわけがない。状況的に、きっと詩音くんだ。そうとなると。

 僕はそのままベッドに飛び込み布団へ潜り、無視を決め込むことにした。

 しかし。扉を叩いた人物は何を思ったか、そのまま部屋へと入り込んできた。


「勝手に入ってこないでよ」


 この怒りをぶつけてやりたい気持ち半分、怒鳴り方が分からずもどかしい気持ち半分。こんなだから、こんな時にも勝手に部屋に入り込まれるんだと悲しくなる。

 部屋へ入り込んだ当人は、僕のベッドへ腰を掛けてそのまま布団の上から僕の背中を撫でた。思わず、その腕を強く握り勢いよく体を起こす。

 視界に飛び込んで来たのは、意外にも困ったように眉を下げる一茶の姿だった。


「ひなたん、詩音くんのこと、嫌い?」


 彼は、理不尽に詩音くんに当たる僕を怒る風でもなく優しい声でゆっくりと話し、詩音くんと同じように僕の頭を撫でてくれた。その手は、詩音くんと大した違いはないはずなのに。なのになぜか、とても安心できるものだった。

 だからつい、本音が漏れてしまった。


「好き。でも、嫌い」

「そっか」


 一茶は、そうとだけ言って手を離した。僕に、何も聞かなかった。代わりに彼は、もう一つの質問を投げた。


「じゃあさ、楓は?」


 僕は、その質問に答えられなかった。

 こんなの、ただ好きと答えればいいものだった。しかし。彼の質問は、ただそれだけの回答を求めているわけではないのが、こんな僕みたいな鈍いやつにでも分かってしまった。つまり。

 一茶はきっと、気づいているぞ、と。そう言いたかったのだと思う。

 どう答えるのが正解だろうかと、頭を悩ませる。ドキドキと音を立てる心臓や、額に滲む冷や汗が心地悪い。抱きしめたクマに口元を押し付けて眉へ力を籠めたところ。一茶は僕のそのぬいぐるみを取り上げ、そしてゆっくりと僕の頬へ手を添えた。


「なぁ、ひなたん。俺にしろよ」


 何を言っているのか分からなかった。言葉の割に、弱々しい表情に声。きっと、俺に頼れ、と。そう言われているのだと思った。

 それが告白の言葉だなんて、当時は考えもしなかった。


 だからこそ、なんだか心強くって。僕はその日から、何か嫌なことがあるたびに彼の部屋に通うようになっていった。そして気が付けば、楓といる時間よりも、一茶といる時間の方が長くなっていった。





 そんな毎日を送る、ある日。僕はまた楓の白いクマのぬいぐるみを抱きながら、いつものように一茶の部屋へ入り込み、僕の特等席であるソファへ我が物顔で腰かけた。


「なぁに、また何かあったの?」


 一茶もまた、いつも通りに僕の隣へ腰を降ろし優しく僕の頭を撫でた。それが暖かくて、気が付くとまた涙が溢れる。いつもの流れだ。僕はクマに顔を埋めながら、ぼそぼそと声をあげる。


「楓が、俺と遊んでるのにずっと詩音くんの話するっ……あいつ、絶対俺が好きなこと気づいてるくせに。ムカつくッ」


 こんなに感情が振り回されるのに、それでも好きで。自分一人では抱えきれなかった。だから、一茶に慰めてもらいたかった。辛かったねって。寂しいよねって。でも。一茶は今日に限って、『そっか』と頭を撫でてはくれなかった。


「それは」と一茶は言った。「お前も、人のこと言えないだろ」


 一茶の手が、強く握られて白くなっている。口元には、無理やり笑顔を作ったかのようなぎこちない弧が描かれていて。もしかしたら、と僕はあの日の一茶の言葉を思い出した。

 俺にしろ、と。その言葉は、もっとストレートな意味だったのではないか、と。


 僕はなんだかとんでもないことをしてしまった気がして、思わず顔を背けてクマを強く抱きしめた。


「ひなたん、こっち向いて」


 と彼は言う。

 もちろん、その言葉には従わなかった。従えなかった。従ったら、何かが終わってしまう気がしたから。

 一茶は、無理に僕にそっちを向かせるようなことはしなかった。代わりに彼は、その暖かい腕で僕を包み込んだ。


「俺、言ったよな。俺にしろって。なのにさ、なんで毎日泣いてるんだよ。他の男選んだのはひなたんだろ? ならせめて、幸せそうにしろよ……」


 一茶の声は震えていた。僕が、一茶を泣かせた。

 申し訳なくて、でもどうしていいかわからなくて。僕はそんな一茶の手を握って恐る恐る顔を向ける。彼は、真っ赤な瞳を僕に向けて、そして涙が零れる前に手で目を擦った。


「好きだったの? 俺のこと」


 聞かずにはいられなかった。知っていても、まさかそうだとは思えなくって。でも。

 何度も目を擦って肩を震わせる彼を見たら、それもすぐに愚問であったと気づかされる。今までだって、こんなにも僕を支えてくれて可愛がってくれて。その意味が今、わかった気がした。


 ならば、と思う。僕が返すべき言葉は、一つしかない。


「俺、好きな人いるから。ごめん」


 これが、僕なりの礼儀だと思った。

 好きでもないのに付き合うなんて、そんなの余計に傷つけるだけだから。

 一方で。そんな淡々とした僕の言葉を聞いても、一茶は僕に回した腕の力を緩めることはなかった。いいや。寧ろ、その腕に込められた力が強くなった。


「なら」と彼は言った。「もう二度と、俺に傷ついた顔見せるなよ」


 それは、今まで彼に叱られた時にも見たことのないような、恐ろしく鋭い瞳だった。怖かった。でも同時に、ムカついた。だってまるで、絶対に楓との恋が叶わないと、そう言われているようで。


「当たり前でしょ。楓は優しいから、きっと話せばわかってくれる」


 話す勇気もないくせに。僕の中の僕に、そう嘲笑された気がした。

 でも今の僕にはどうすることも出来ず、ただそう言い捨てて、彼の腕の中を抜けて腰を上げる。

 ドアノブへ手をかけた時、背後の一茶は言った。


「俺ならひなたんを泣かせたりなんてしない。それでも楓がいいなら、詩音くんに嫉妬なんてしてないで自分の力で振り向かせろよ。頑張ってもだめなら……俺が楓の代わりになってやるよ」


 悔しかった。楓を振り向かせるなんて、夢のまた夢だったから。だから、僕は言葉を返すことなく部屋を出た。絶対に二度と、この部屋には来てやるもんかと。そう心に誓いながら。


 そんな昂っていた僕だけれど、結局そんな喧嘩は長くは続かなかった。というのも、僕が部屋に帰る頃には既に、僕のスマホに謝罪のメッセージが届いていたからだ。


『嫌な言い方して、ごめんなさい。ひなたんならきっと振り向かせられると思います。頑張ってね』


 よくわからないけれど。それを読んだ僕はただ、一晩中泣きじゃくっていた。何が悲しかったのかは、あの頃の僕にはよくわからなかった。






 次の日の朝。案の定目の腫れた僕を見て、さすがの楓もえらく心配してくれたのを覚えている。そこで、僕は決心した。楓に、思い切って想いを伝えてやろうと。一茶のように、俺にしろって、そう言ってやろうと。もちろん、すぐに振り向いてくれるとは思っていない。でも。気持ちを伝えたら案外、意識してくれたりなんて。そう考えていた。

 今思えば本当にただの勢いで。浅はかな奴だったと思う。




「ねぇ楓、たまには詩音くんとじゃなくてさ、俺と飲まない?」


 そう切り出したのは夜。丁度、クリスマスイヴの日だった。

 みんなとのケーキパーティーのために久しぶりにバイトを休みにしてくれた楓が、お腹いっぱいになってソファでごろごろしている。僕はそんな楓の目の前に、彼の好きなレモン味のお酒を掲げ、彼を釣った。というのも。素面で幼馴染に告白なんて、とてもできそうになかったから。


「わぁ、ええの!? のむ~っ」


 楓は、僕の思惑通りに簡単に僕を部屋へと招き入れた。いける、とそう思った当時の僕を殴り飛ばしてやりたい。


 飲み始めて少しして。なのに、緊張からか僕は全然酔えなくて。上機嫌にケラケラと笑い声をあげる彼のテンションに若干おいて行かれつつも、どうにかそういう空気を作ろうと口を開いた。


「楓、楓は好きな人、いるよね」


 いるよー、と。そう言ってそして。誰―ってなって。そうきゃっきゃと話した後に、僕はね、って。そう話しだしてそして。僕が好きなのは楓だよって。そう言いたかった。でも。


「え、あ、うん」楓は少し戸惑ったうえで、頬を染めて頷いた。

「どんな人?」

「えっとね」そう言う彼は、あまりに幸せそうな顔をしていた。「優しくて、かっこよくてぇ、あ、あとなぁ、めっちゃ天然で面白い」


 確かに、と思う。それは楓の言う通りだ。


「いいね、そういう人」


 僕がそう言うと、楓はまるで自分が褒められたかのように、嬉しそうな顔をして照れくさ気に顔の横の毛を弄った。


「せやろぉ」


 その表情は、どこか無邪気で。詩音くんといる時の楓に似てる。でも、と僕は思う。それは、僕が引き出したものではない。単純に、恋バナが。いや、詩音くんの話が、楽しいだけだ。

 それは本当に、もう。楓の瞳の奥の闇すら見えないくらいには楽しそうで。僕が癒せなかったものが一瞬にして癒された。と、そう感じた。


「なぁ、ひなたは?」


 今度は、優しい声でそう尋ねられる。それは、僕が望んだ一番想いを伝えやすい流れだった。

 やっぱり、聞き上手な彼らしい。お酒を飲んでいるにも関わらず、僕にも話す時間を譲ってくれる。はしゃいでる姿はまるで幼子のようで微笑ましいし、まじめな話をすると見せる真剣な顔はどこまでも綺麗で。手先も綺麗で、家事もできて、バイトだって勉強だって、なんだって楓は完璧にこなしてしまう。だから。


 ──僕にはもったいないや。


「俺は、いないよ。楓の恋、応援してる」


 涙が溢れそうになったけれど、唇を噛んでぐっと堪えた。涙を流すべきは、ここじゃない。






 そうして一通り楓と飲み明かすこと数時間。気が付くともうとんでもない時間で。でも。

 僕は遠慮なく白色をしたクマのぬいぐるみを片手に一茶の部屋の扉を開け、真っ暗な部屋の中いつも通りにソファへ向かった。そして。その安全地帯で、僕は声を殺すことすらなくわんわんと泣いた。

 ベッドで寝息を立てていた一茶はすぐさま目を覚まして、スマホを拾い上げる。きっと、こんな時間によくも、とでも思っているのだろう。でも。一茶ならきっと、今日くらい許してくれるだろう。

 彼は深いため息とともにスマホを枕へ投げ捨て、ベッドを降りる。そして暗い部屋に明かりを灯し、クローゼットへと向かった。そこには、3つの大きな包みがあった。


「もうクリスマスだろ? 一茶サンタさんから」


 彼は、言葉に似合わぬ真剣な表情で振り向いた。

 思わぬ物の登場に面をくらう。とはいえ、涙は引っ込まなくて。僕は何度も二の腕で涙を拭いながら、手にしていたクマのぬいぐるみを隣へ置いてその包みに手を伸ばした。それらはどれも、大きくて柔らかかった。


「開けてみて?」


 差し出された内、1つ目の袋のリボンを解いて、封を開ける。そこには、まるまるとして大きな、クマのぬいぐるみが入っていた。もしや、と思い一茶がソファへ置いた残る2つのリボンも解く。思った通り、それらも全ておおよそ大学生男子に贈るとは思い難い可愛らしいクマのぬいぐるみであった。


「くま……」


 思わず3匹を見つめてか細い声を漏らす。一茶は、僕が初めから手にしていた白色のクマを僕の腕に抱かせると、ソファを占領していた今まさにプレゼントされた茶色のクマを抱き上げてから隣へ腰を掛け、そして抱いたクマを自身の膝へ乗せた。


「ひなたん、いっつもクマのぬいぐるみ持ってるから」


 僕は、別にクマのぬいぐるみが好きなわけじゃない。ただこの白いクマが楓のものだから好きなだけで。でも。彼がそう言って、とんでもなく寂しそうにふふと笑みを作るのを見たら、その説明が不要なことは何となく想像がついた。だから黙って、彼が抱かせてくれたクマのぬいぐるみへ顔を埋めた。


 彼の手が、頭へ触れた。それはあまりに優しくて、暖かい。そう言えば、一茶は今の今まで暖かい布団で眠っていたんだっけ、と思いだす。

 もう、いいや。と、そう思った。だから僕は、顔を上げて彼の瞳をしっかりと見据えて、こう言った。


「一茶、助けて」


 一茶は、喜ぶと思っていた。なのに。僕の言葉を聞いた瞬間、彼はまるで悲しそうな顔をし、そして再び深いため息をついた。

 

「せっかく応援してやったのに、俺のところに戻ってくるなよ」


 断られるのかと、そう思う余地はない。だって、一茶が僕を捨てるはずがない。

 僕は、彼から目を離すことなく目を合わせ続けた。ちゃんと本気だと、そう伝えるように。


 これで、よかった。こうすればみんな、幸せだ。


「わかったよ。なってやるよ、楓の代わりに」


 一茶はそう、僕のことを抱き寄せてそして、額へそっと口づけた。

 ドキッとは、しなかった。でも。どこか心の底から安心できるような、力が抜けるようなそんな気がして。気が付くと僕はまた、わんわんと声を上げて泣いていた。






 これが、一茶との友達の終わりで、恋人の始まり。

 ね、ほんと。そっくりでしょう? 詩音くんと楓の、不器用な恋愛に。#__i_0b36507a__#






「でもひなたん、詩音くんほどひどい扱いしてこなかったよなぁ」

「だって一茶、楓と全然似てないもん」

「え、じゃあなんであの時俺と付き合ったの」

「そりゃあ、楽だったから」

「え……傷つくんだけど」

「違う! いい意味だって! 俺がどれだけ嫌な奴でも、一茶は受け入れてくれるって思ったから」

「そっか」


 一茶は、先ほどとは一変。満更でもなさそうにニヤリと口角を上げた。こういう、僕への愛情だけやたらと筒抜けなところも大好きだ。

 

 ふと、家のチャイムが鳴った。僕も一茶も、ハッとして顔を上げる。しかし考えることは同じで、一茶もまた、腰を上げようとはしなかった。行って来いよとばかりにお互いに視線を送り合う。


「ひなたん、お前の大好きな楓のお帰りだぞ」

「嫌な奴! 一茶だって詩音くんにいっつもちょっかいだしてんじゃん」

「やだよ、緊張する」

「俺だって緊張するんだけど! 詩音くん振られてやばい雰囲気だったらどうするの!」


 そうして騒ぐこと数十秒。玄関からはガチャ、と鍵の開く音がした。

 思わず黙り込み、固唾をのんでリビングの扉を凝視する。やんややんやと聞こえる声を隔てる扉が開いたとき。

 そこから見えた楓は、むっとふくれっ面をしていた。思わず、冷や汗が額に滲む。


「おまえら」と、楓が声を上げる。


 僕と一茶は、ゴクンと生唾を飲み込んだ。


「なんで開けてくれへんねんっ! 詩音くん死にかけとるやんけ!」


 楓の背後から現れた詩音くんは、両手に大きな袋を持って息を切らしていた。


「いやぁ、お土産買い過ぎてさぁ」


 額を腕で拭いケラケラと笑う詩音くんの様子に、思わず胸をなでおろす。とはいえ。


「ほんまにやばかってんで? キャリーケースも重いし両手塞がってもうたし」

「でも、お土産めっちゃ美味そうだった!」


 距離が近づいたということもなく、逆に離れたということもなく、仲睦まじそうな様子。これではまるで。楓が恋する前、数年前に戻ったみたいだ。

 もしかして、詩音くんは怖気づいて告白ができなかったのではないか。そう思わざるを得なかった。そしてそれは一茶も同じで、思わず顔を見合わせる。そんな僕たちの様子に気が付いた詩音くんは荷物を床へ置いた後、楓をその場に置いてずかずかと僕たちへ近づいてきて。そして。

 ぐっと、力強く親指を立てた。


「一茶、ひなた、ありがとう! 無事、おっけーもらいました!」


 珍しく張り上げられたその声はあまりに大きくて。まるで、一茶みたい、と。そう思った次の瞬間。一茶はそれを上回る大声を上げて、詩音くんへと飛びついた。


「ぅうおめでとおぉおう!」


 一茶を抱いた詩音くんが、ぐるぐると回る。あまりに大げさに喜ぶ彼らは本当に嬉しそうで。

 僕も、そっち側に行けると思っていたのになぁ、と。そう、思った。

 実際はというと、喜びよりも、微かに感じる寂しさが僕の感情を支配していた。


 ちらりと、楓の方へ視線を送る。彼は微笑まし気に、はしゃぐ二人を見つめていたがすぐに僕の視線に気が付いてこちらへと視線をくれた。


「よーわからんけど、僕のことこっそり助けてくれとったんやろ? ありがとうな」


 そして彼は、ゆっくりと僕へ寄ってきて、ポンと頭を撫でてくれた。


「あれやる?」


 楓が、笑いながら回り続ける詩音くんを指さす。

 なんとなく、察しがついた。楓は、僕が寂しがっているのを察して、半ば最後のチャンスとして誘ってくれたのだろう。

 少しだけ、心が揺れた。でも。


「ううん、俺はいいや。代わりに」


 僕はそう言って、拳を突きだす。楓は目を丸めたけれど、ふはっと笑って僕の拳に拳を合わせた。


「仲良くやるんだよ、楓」

「お前に言われたないわ」


 楓は、面白そうにケラケラと笑う。僕もまた、それにつられてふふふと笑みを零した。

 拳が、離れた。僕は肩に籠った力を抜くように、ふうと息を吐く。

 そして。ひとつだけ最後に。

 僕は楓の目をしっかり見据えて、口を開いた。


「俺が幸せにしてあげるって言ったら、どうする?」


 楓はふっと柔らかく目を細めて、そしてゆっくりとかぶりを振った。


「僕は、詩音くんが好きや」


 きゅんと、胸が痛んだ。でも同時に。なんだか安心した。

 ──楓は、どうやら今、幸せらしい。


「新しいピアス、いいね。ガラス?」

「せやねん。詩音くんが買ってくれてん」


 彼の右耳に光るピアスは、とても綺麗だった。


 楓との会話に満足した僕は、彼から顔を逸らして詩音くんの手にあった大きな袋へと駆け寄った。大きな袋の中身を覗くと、そこには見覚えのあるような箱がたくさん並んでいる。僕は慌てて顔を上げ、詩音くんの方へと振り向いた。


「詩音くん、お土産忘れてたでしょ! 近所で見たことあるよ!?」


 はしゃいでいた詩音くんの動きが止まる。そして彼は、目の前の一茶からも目を逸らして頬を掻いた。


「約束のホワイトチョコクッキーは!?」

「それは大丈夫! 通販しといたから」


 僕の苦情に、詩音くんはなんだか的外れな返答をしてあわあわと駆け寄ってくる。お土産ってそういうものじゃないのに。でも。


「朝、楓が珍しく寝坊してさぁ」

「それは詩音くんが夜に……!」


 責任のなすりつけ合いをして笑う二人が微笑ましくて、思わずふっと息が零れた。

 本当は、詩音くんに協力する代わりに現地のお土産をたくさんもらうとの約束だったけれど。今回は許してやろう。僕は、そんな幸せそうにじゃれ合う二人を、ただぼーっと見つめていた。






「あはは、ひなたん早いね」


 お風呂も早々に終わらせて、本日の相棒、茶色のクマのぬいぐるみを片手に一茶の部屋へ駆け入る。彼はまるで僕が来るのが分かっていたかのような口ぶりでケラケラと笑ってスマホを枕へ放り投げた。僕はそれに「うん」とだけ短く返し、ソファへ腰を掛ける。一茶もまた、昔のように僕の隣へ腰を掛けて僕の頭を撫でた。


「今日は泣いてないんだね」と一茶は僕をからかった。

「泣いた方がいい?」と僕もまた笑って返す。

「いや。泣きたくないなら、それで」


 一茶は僕の頭から手を離した。

 寂しくなって、なでなでを催促しようと顔を上げる。彼は僕と違って、機嫌がよさげな顔をしてゆらゆらと身体を揺らしていた。

 僕はというと、そんな上機嫌な彼になでなでを要求する気にもなれなくて、ただその様子をぼーっと眺めた。別に、なにか物珍しいと思ったわけでもない。ただ、本当になんとなく。

 彼はそのうち動きを止め、そしてひょこりと立ち上がる。そして、ベッドへ移動しようと数歩歩みを進めて、そしてまた踵を返した。


「ひなたんは、まだ元気ないね。いつもは俺の後ろ着いてくるのに」


 まだ、ということは。きっと、僕の元気がない原因もわかっているのだろう。だからこそ。一茶を不安にさせては、いけないと思った。

 腕の抱いたクマを隣へ座らせ、彼へゆっくりと両手を伸ばす。そして、一茶を見あげた僕はぎこちないだろうが、精一杯に笑顔を作った。


「一茶、寂しい。ぎゅってして」


 彼は言葉を聞き、しゃがみこんで僕の視線に合わせた後。それはそれは優しく、僕を包み込んだ。僕もまた、遠慮なく彼の背へ腕を回す。

 こうしていると、不思議と心が落ち着いた。


「一茶が好き。かっこいいし、頼りになるし、一茶といる時が一番安心できて、心地いい。でも、さ」


 僕が言うと、彼は顔を上げて僕の瞳を覗き込んだ。僕は話を続けた。


「なんか、寂しいんだ。同窓会で、初恋の人の結婚を知らされた時みたいな気分」

「なんだそれ」


 一茶はぷっと噴き出した。だから僕も笑った。




 きっと、このよくわからない気持ちはいつか消滅する。そしていつの日か思い出すことすらも出来なくなって、今の僕を笑うだろう。僕は、それでいい。そうなったときには、四人で今日までの日のことを振り返って、涙が出るまで笑い転げてやろう。


「ねぇ、一茶」

「ん?」

「今度、告白のやり直ししない?」

「え、なんで」

「俺も楓みたいに、ロマンチックに告白されてみたい」

「わがままな奴だな」


 一茶は笑って僕の唇へそっと口づけた。思わず瞑った目を開いて、照れ隠しにむっと口を尖らせる。しかし。彼は、ニヤリと口角を上げて僕の頭をぐりぐりと撫でまわし、そしてゆっくりと立ち上がった。


「じゃあ、やってやるよ」と彼は笑う。


 僕が笑顔で大きく頷くと、ヤツはふふと笑って目を逸らした。


「待ってろよ、プロポーズ」





「えっ……?」


 ドキリと今、胸が音を立てた。


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夜空のダイヤモンド 柊 明日 @Hiragi_Ashita

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