5.産神

 産屋近くの草原に座り、昇っていく朝日をていは眺めていた。こうして朝日を拝んだのはいつぶりかと、あまりの美しさに涙さえ出てきてしまう。

 ていの姿は誰にも見えない。産神のもとへやって来たのは、病に蝕まれた体から幽体離脱したていの魂。魂を体から抜く、小さなおなごがするにはかなり勇気がいったことだろう。


 いつの間にか、ていの側に産神が立っていた。気づいたていが慌てて立とうとすると、産神の白魚のような手がそれを制する。胡座をかいて、ていの隣に腰掛けたその顔は未だに張り詰めた表情をしていた。


「お七夜までは油断できぬ。いつ死魔のような妖魔が襲ってくるか分からんからな」


 右手に常に大槍が握られ、奇襲をも許さぬ集中力で周囲を警戒していた。

 産まれてから七日間は、命を脅かす妖魔達に狙われやすい。だが、お七夜を過ぎれば少しずつ体力がつきつつある赤子や産婦に、死魔や他の妖魔が近づくことは滅多にない。お七夜の後はその家の先祖の霊が守護霊となって、産の忌が明けるまで赤子と産婦を守ることになっている。


「あたしも一緒に守ります。せめてもの、罪滅ぼしです」


 小さな拳を作るていに、産神は一瞬口元を緩ませた。


「お前はもうじき黄泉の国へ旅立たねばならぬだろう。その気持ちだけ受け取っておく」

「黄泉の国……」


 はて、黄泉の国とは何処にあるのかと、ていは首を傾げる。その時になれば行く道がひとりでに分かるものだろうかと考えていれば、隣から「案ずるな」と声がかかった。


「黄泉の国の入り口までは案内しよう」

「うぶ様がですか?」


 この国の何処かで命が生まれ、死んでいく。産も死も穢れとして扱われ、人も神も避けていく。忌みと言われる生死に深く関わるのは、産神の他には誰もいない。


「死者を送り届けるのも私の役目だ。しかし、正確には私の使いが案内する」

「うぶ様の、使い?」


 産神が甲高い指笛を鳴らすと、木々を揺らす爽やかな風と共に山の方から一匹のオオカミが駆けてきた。中型の犬のような風貌だが、耳は小さく尻尾は長い。

 産神の側に座ると、甘えるようにすりすりと頭を産神の手に擦り付けている。産神が頭を撫でてやると、気持ちよさそうにとろりと目が蕩けた。獰猛な獣の覇者の姿など、そこにはなかった。野生を忘れ去ったその姿に、最初のうちは怖くて身を固めていたていも「可愛い」と言いながら産神のようにオオカミの頭を撫で回していた。


「うぶ様は、怖くないのですか? 生き死にには穢れが伴うと言われてますのに」


 幼いていは好奇心の塊だ。産神相手でも、気になったことを聞かずにはいられない。


「この世に生を受けた全ての生き物は、必ず死ぬ。誰もが通ってきた道、通るべき道に怖れがあるのは認めよう。ただ、命が命を産む神秘や、世話になった者や愛する者の死を穢れていると言うのは、命に対する冒涜だ。命が生まれる瞬間の輝きを、生を全うし黄泉の国へ行く死者の門出を、生者はもっと敬意を表すべきではなかろうか」


 強い意志を孕んだ言葉は、ていの胸に深く染みていく。


 日が高く昇った頃、村の隅にある家では、ていの最期を看取った家族の悲痛な泣き声が聞こえてくる。

 途端に、産屋近くでオオカミを撫でていた、幽体離脱したていは自身がふうっと軽くなっていく感覚に陥った。魂が宿るべき場所をなくし、世界が不安定に揺らいでいる。

 産神の使いのオオカミがていに向かって小さく鳴いた。まるで、自分についてこいと言っているように聞こえてくる。歩き出したオオカミは、何度も後ろを気にして振り返っては、少しずつ歩を進める。ていがちゃんと自分の後をついてきているか確認するかのように。


 山道を辿っていくと、やがて霧が深くなっていった。オオカミが霧をものともせずに突き進んでいけば、深い霧の中にぼんやりと幾重にも連なる朱色の鳥居の道が見えてくる。

 大人が屈まなければ通れない鳥居の前に、オオカミはしゃがみ込んだ。視線はていと鳥居を往復している。


(ここから先は、私ひとりで行くんだ)


 オオカミの視線からそう感じたていは、拳に力を込めて一歩踏み出す。鳥居をくぐったていの体は、それっきり見えなくなってしまった。

 オオカミはしばらく心配そうに鳥居の道の様子を窺っていたが、やがて腰を上げて来た道を引き返していく。オオカミが去っていくと、鳥居は再び深い霧の中へと沈んでいった。ここが黄泉の世界への入り口だということは、このオオカミと産神の他は誰も知らない。


 産屋の中では、懸命に生きようと力強く泣き叫ぶ赤子に産婦が初乳を与えていた。

 産屋の外、青々とした草木を裸足で踏み締め、大槍を振りかざして赤子と産婦を狙う妖魔を蹴散らす産神の姿があった。

 舞を踊るようなその姿、まるで生まれたての命を鼓舞するようにも、死にゆく者を慰めるようにも見える。


 産神は産婦と新生児の守り神でもあり、生命が終わりを告げた時に死者の世界の入り口へと導く者。即ち、生命の営みに深く寄り添う、唯一の女神。



(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うぶのめがみさま 空草 うつを @u-hachi-e2

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ