4.涙

 夜明け間近の産屋から聞こえてきたのは、この世に生を受けたばかりの赤子の元気な産声。

 産屋近くで項垂れていた産婦の老父の顔にも、笑顔が浮かんでいた。


「元気なおのこだよ!」

「よく頑張ったね!」


 八重やつるが、お産でくたくたの産婦の体を支えながら健闘を讃えている。嬉し涙で滲む産婦の視線の先には、産湯に浸かった後、小綺麗な布に包まれて寝ている赤子がいた。

 いねは産屋の外で、ひとり佇んでいた。喜ぶ者達の表情とは裏腹に、悲哀が滲んだ顔で地面を睨んでいる。


「死魔を手引きしたのは、いね、お前だな」


 背中にかけられた冷徹な女の声に振り向くと、途端にその顔が恐怖で引き攣っていく。

 古の男装姿の女神、産神は、大槍を構えたままいねに鋭い眼差しを向けていた。人ではない佇まいに、今目にしているのが神の類、それも穢れを伴う産屋近くに立っていることから、この女性は産神なのだといねは直ぐに感じ取った。


「仕方なかったんです! 死魔が……啜った生命力を分けてくれると言って、それで」

「それで、何の罪もない母子を生贄にしたのか」

「あの子を助ける為には……ていを助けるにはそうするしか……方法がなくて……」


 産神の言葉に反論はせず、いねは膝から崩れ落ちた。懺悔と絶望と、複雑な胸中は限界を超えて涙として排出されていく。


 いねの孫のていは、数か月前から不治の病に倒れ、生死の境を彷徨っていた。


『オレに協力してくれりゃ、啜りとった生命力を分けてやるよ』


 いねの前に姿を現した死魔の甘い誘いに、いねは二つ返事で了承してしまったのだ。


 加護の札を破って結界を解き、はやめ薬を使って産神が到着する前に出産させる。そうして死魔が母子の生命力を啜る手助けをしていた。


「お前のした事は間違っている。死魔の啜った生命力を譲り受けて生き永らえたとて、他人から命を貪り生まれるはずだった命を殺めた苦しみを味わわなければならないのは、お前だけでなく、ていも同じだ」


 皺だらけの手で顔を覆い隠したいねの咽び泣く声は、赤子の誕生を祝う声にかき消されていく。

 産神は大槍をいねの首にかざした。


「孫が自分よりも早くこの世を去るのは、耐え難い悲しみだ。お前の気持ちも分かる。だが、他人の命と引き換えに生き永らえるなど、ていは望んでいなかった。だからこそ、ていはひとりで闇に沈む山奥に私を迎えにきたのだ。生まれてくるはずだった小さな命を、待望の我が子を迎えるはずだった者達を、悲しみの闇に突き落とし、ていを苦しめたことは許し難い。もうあの子の魂を、病に蝕まれた体から解放してあげなさい」


 それこそが、ていにとっての救いなのだと産神はいねを諭した。いねは覚悟を決めてその時を待ったが、大槍の刃は首から離れていく。呆気に取られ、いねは産神を見上げた。


「……殺さないのですか……?」

「お前を裁くのは私の役目ではない。お前の命が果てた時、その悪行に見合う裁きがくだる。その日までは、産婆として生まれゆく命を取りこぼさぬよう努めよ」


 辺りは少しずつ明るくなり始め、産神の背後から朝日が昇ってきた。後光に照らされたような産神の姿の、何と美しく荘厳なことかと、いねのしょぼくれた瞳から涙がこぼれ落ちた。

 山から昇った日の光は強くなる。神々しいまでの朝日に目を眩ませていれば、いつの間にかいねの前から産神の姿は消えていた。

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