Chapter2-6 休息

 ふと、車内放送が熱海に到着することを伝えた。

「そう言えば、シャワーカードを買ったって言ってなかったか?」

「ええ」

「じゃあ、汗を流したい」

「わかったわ」


 そう言うと、恵がビニール袋を差し出してきた。中を物色すると、白のバスタオルとハンドタオルが一枚ずつと、黒のボクサーブリーフが入っていた。

「下着はそれでよかったかしら」

 なんだか恥ずかしい。

「トランクスよりはこっちの方が好きだ」


 恵も同じように着替えを入れているのか、ビニール袋を取り出して立ち上がった。そして、羽織っていたスーツの黒のジャケットを抜いで、ハンガーにかけて、ベッド上にあるフックに引っ掛けた。

思えば、こうやって女性と二人きりになるなんて、母さんとくらいしかなかった。


 ジャケットを羽織っていた時にはわからなかったが、恵の胸元は大きかった。なぜか、心臓の鼓動が早くなる。落ち着け。そんな目で異性を見るなんて失礼じゃあないか。

「浴衣はいいのか?」


 自分の気をそらすために、話題を変えた。浴衣姿の恵……。折りたたまれた浴衣は、生地が少し薄い気がする。ホテルとかで置いてる浴衣がどんなものか知らないのでこれが薄いのかどうかもわからない。ただ、この薄さなら、体のラインは出るだろうし、あの大きな胸が強調されるかもしれない……。


 おかしい。体が熱い気がするし、鏡を見なくてもおれの頬が赤くなっているのがわかる。

「かさばるし、いざと言う時はシャツの方がいいわ」

「……そうだな」


 おれが脳内で描いたヴィジョンは、走行音に紛れて崩れ去った。これでいいんだ。おれたちは親父を追っているだけなんだ。直前の熱が引いていく感覚がする。よかった、風邪ではなかった。

 おれは恵と部屋を出た。ドアにはボタン式の鍵があり、任意の数字を指定して部屋を後にした。


 通路を進み、二つ隣の車両へ向かった。両側に大きい窓があり、椅子が三つずつ設置してあるラウンジがあり、その奥にシャワー室と書いたドアがあった。

「入って」


 ドアを開けると一畳くらいの脱衣所があった。左手にはドライヤーと、非常時に押す赤い連絡用ブザー、シャワールーム洗浄ボタンと書かれた青いボタンがある。下にはゴミ箱。右手には大きい鏡と手すりが設置してある。足元は黒いすのこだ。奥には磨りガラスがついた折りたたみ式のドアで、奥にシャワーヘッドが見えた。


 おれが入ると、恵も続いて入ろうとした。

「えっ、待ってくれ! こう言うのは一人づつ浴びるんじゃないのか?」

「シャワーカードは一枚しか買えなかったの。狭くて申し訳ないけど、二人で浴びた方が効率的」

「効率的、って二人で同時に浴びるのか!?」


 あの狭いシャワールームで、生まれたままの姿になって、汗を流すと言うのか!

 すると、恵は首を傾げた。

「そうだけど。大丈夫? 顔が真っ赤よ」

 突然、恵が手のひらをおれのおでこに当てた。

「なっ!」

「……三十六度二分ね」


 次はおれの手首をとって指を当てて、軽く押してきた。柔らかく、暖かい。血管が浮き出て、がっちりしたおれの手とは違う、丸く、柔軟性のある手だ。

「少し脈が早い。疲労かしら」

 顔が近い、間近で見れば、かなり可愛い。最初はクールな印象を抱いていたが、よく見れば若干タレ目で、まつ毛が長い。ほのかにいい匂いがする、香水ではない、自然な……。そして直接触れてはいないはずだが、なぜか暖かさを感じる。こんなことは初めてだ。


「そもそもどうやってシャワーを浴びるんだよ!」

 おれのトンチキな質問に、恵はすぐに答えた。

「ここのシャワーはシャワーカード一枚で六分浴びれるから、二人で分けて一人三分」

「じゃあ三分浴びた後に出て、入れ替わったらいいじゃないか! そこの椅子に座っておくから! それにどうやって三分で分けるんだ?」

「残念だけどそれはできない。シャワーを一度始めて外に出ると自動的にシャワーは終了するわ」


 恵は奥に指をさしながら続けた。

「後、そこにボタンとタイマーがあって、浴び始めれば六分のカウントダウンが始まって、赤のストップを押せばカウントダウンが止まる。その間に頭や体を洗って、緑のスタートを押せば再開するわ」


 この部屋の仕組みを説明され、おれは折れた。このまま押し問答をしても時間の無駄だし、汗が気になるし、背に腹はかえらなかった。

 二人で狭い脱衣所の入り。恵が戸を閉めて鍵をかけた後、ドライヤーの下にあるリーダーにカードを差し込んだ。すると奥のタイマーが《6:00》と表示した。


「本当に三分でいいのか?」

「三分あれば充分。お先にどうぞ」

 そう言って恵は直立したままこちらに背を向けた。一切こちらを振り向く様子は見せない。

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 おれは服を脱いで、ハンドタオルを一枚握ってドアを閉めた。

 中には手すりがついていて、リンスインシャンプーとボディソープが備え付けられている。スタートストップボタンの下にはダイヤル式の温度計がある。

 早速四十五度に目盛りを合わせて、スタートボタンを押した。すると、数秒で勢いよくお湯が流れ始めた。シャワーの強さは普通のものと謙遜がない。頭を流して、体を流す。ああ、なんだか落ち着く。心地よい。列車の揺れもほのかに感じる程度で、快適だ。


 ふとタイマーに目をやると、もう一分経過していた。まずい、あと二分もない。ストップボタンを押すと、ピタッとお湯が止まった。

この間に、シャンプーをとって頭を泡立たせた。そしてハンドタオルにボディソープをかけて同じように泡立たせ、体を洗った。


そしてスタートボタンを押して、急いで頭からつま先まで流した。

この十六年と十一ヶ月の人生で最も早く体を洗った結果、四分残して終わった。やれば二分で終わるんだな。

少しだけドアを開いた。恵は背を向けたままだ。おれは股間をハンドタオルで隠しながら、ビニール袋を取り出して、またドアを閉めた。


 そして、バスタオルを取り出し、体を拭き終わってから、用意されたボクサーブリーフを履いた。これなら見られても大丈夫だろう。

そして、シャワールームから出て、すぐにズボンとシャツを着て、脱いだ下着とタオルをビニール袋に入れれば終わりだ。


「今、終わった」

 そう言うと、恵は振り返った。

「わかった、次は私の番ね」

 おれは、恵と同じように背を向けて、壁に向かった。

 ドアが閉まる音がした後、足元から聞こえる走行音と、シャワーの音だけが流れる。落ち着け、汗を流してサッパリしたんだ。


 無限に終わらないような時間が過ぎる。もう三分経ったか? 時計は置いてきたからわからない。

 すると、シャワーが止まった。やっと出てくるんだな。そう思ったがドアは一向に開かない。そうか、恵の髪は長かった。頭を洗っているんだな……。


 黒くて、綺麗な髪を……肌に水滴が滴り……。

 いやいや、そんなことを考えるな。おれがここを出ればシャワーの権利は失われ、詰むんだ。

 無心になるんだ。そうだ、テキストの内容を思い出せ。おれは何度か聞いたリスニングの音声を思い出した。だがよりにもよって旅行先で風呂が壊れたことをホテルマンに訴えかける内容だった。


 違う、そうじゃないんだ……。

 脳内で悶々としているなか、体感で三時間は経過した頃、ついにドアは開かれた。

 もうすぐ終わるんだ。

 そう思った瞬間、大きく横に揺れた。倒れまいと、足を踏ん張ったが、濡れて滑ってコケそうになった。


「おっと!」

おれが右手を伸ばして、壁に手を当てて少し体重を預けた。バランスは取れて、足元をすくわれることはなかった。

 しかし違和感があった、おれが手にしたのは硬くななかった、異様に柔らかかった。


 目をやると、バスタオルを取ろうとした、恵の胸だった。

「はっ、あ、こ、これは」

「大丈夫? 結構強く揺れたわ」

 恵は血相を変えず、おれのことを気にかけた。

 すぐに手を離して、さっきみたいに背中を向けた。

「……ごっ、ごめんなさい」

 おれは声を振り絞ったつもりだったが、小さかった。


「怪我がなければいいのよ」

「えっ、怒らないのか?」

「別に」

 おれはそれ以上追求するのをやめた。自分が犯した失態を恥じた。足元から流れてくるガタン、ゴトンと続く走行音にだけ耳を傾けた。


「……ねえ。ねえ、大丈夫?」

「あ、ああ……」

 おれは肩を軽く叩かれたのに気づいた。

 条件反射で振り向こうとしたが、すぐにそれをやめた。


「もう着替えているわ」

 おそるおそる振り向くと、さっきと同じシャツ姿だった。

「髪は乾かす?」

「ああ」


 おれは渡されたドライヤーのスイッチを入れると、弱い温風が出てきた。強めようと手元を見ると、これがマックスパワーと書いていた。

「壁じゃなくて、鏡を見た方がいいわ」

 軽くうなづいて、鏡に映る自分の顔を見た。普段より紅い。湯冷めはしていないのか、まだまだ熱い。

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