幕間
第24話 約束
――――side 比良――――
「なっ……な……なにをっ……なぁにをしとるんだっ! お主らはぁっ!」
「この馬鹿息子っ。いつかやらかすとは思っていたがなぁっ! まさかこんな。こんなっ」
「さっきからうるせぇ。
「うん」
人の世で最も過酷といわれた修行に
悟りに近づくために行われるそれは、1000日間という気が遠くなるほど長きにわたり続く修行だ。内容もひたすら山の中の危険な獣道や崖っぷちを歩きながら巡礼を繰り返し行うというもので、前が見えない程の嵐だろうと
総歩行距離は約4万キロ、地球1周分を超えるとされ、失敗すれば自害しなければならないという厳しい
7年間、決められた期間内に命懸けで行われるそれらの修行は、人類の歴史上数えるほどしか達成者を出していない正真正銘の荒行だった。
その修行と似て非なる鍛練を、天狗は3倍に凝縮した内容で休みなしの9年間、ぶっ続けで行う。それが
あいつが人間の世界に戻った後、そんな鍛練とは名ばかりの旅行にオヤジは唐突に行くと言い出した。
もちろん里の連中は
オヤジも厳しい顔つきだったため、他の連中は上手く言いくるめられたようだが俺だけは誤魔化されない。
あの時、オヤジはご機嫌だった。全部怒ったフリだ。むしろ長年の頭の痛い悩みが解決したような晴れ晴れとした雰囲気をまとっていた。息子だからわかる。そんなオヤジが――――帰ってきた途端コレである。
「こっ、こ……これが。これがぁっ、黙っていられるか!? わ、わしはっ。儂はどう責任を取ればいいのだっ。こんな。こんなっ。腹切って詫びても許して貰えんだろうっ……」
わなわなと顔を真っ赤にして震えながら、唾をまき散らす一喝に隣の飯綱も顔をしかめている。驚きすぎているのだろう。浜辺に打ち上げられ、パクパクと呼吸困難になってしまった魚みたいに口を開閉しているオヤジは、先程から俺達の方を見ていない。
「やれやれ。落ち着けって。コレの何が不満なんだ? オヤジは知らないみたいだが、これは飯綱があいつから聞いた人間の最新の治療らしいぜ? こうごうせい? って言ったか? 確かにちょっとばかし奇抜で理解に苦しむ方法だが……」
そう言って俺はオヤジがさっきから目が離せないでいる巨木を見上げる。
「ち、治療? だ、と? まさか。そんな事がありえるのか? ……だが……実際に…………なんと面妖な。わからん。人間が考える事がまるでわからんっ! ……あやつが、彼奴が確かにそう言ったんだな?」
「ああ。そうだよな?」
「うん」
再び飯綱に問えばはっきりとした返事があった。ちなみに翔がいなくなった今、この木の隣の家にはコイツがひとりで暮らしている。
今は落ち着いている飯綱だが翔が帰った日の事は思い出したくもない。
あの日、門の気配を感じ取った飯綱は狩りの遠征からすぐさまとんぼ返りする。遠征に行った他の天狗の制止を振り切り、走って、走って、そして――――間に合わなかった。
そこからはもう滅茶苦茶だ。
普段はポケーッとして何も考えていないような飯綱が、翔が既にいない事を知るやいなや泣きながら暴れに暴れたのだ。
(コイツがあんなに取り乱すなんてなぁ。今でも信じらんねぇ)
飯綱は感情を表に出さないだけ、胸に秘めた思いは誰よりも深く、そして強いのだとその時になって初めて知った。
結局、飯綱はそれからオヤジの家を飛び出してこの家に引きこもってしまう。遠征と重なるタイミングで開いた門。運が悪かった、と言えばそれまでだが初めて見る従妹の涙に、今まであまり構ってやらなかった俺もなんだか罪悪感を感じてしまった。
オヤジは『若いうちは色々あるもんだ。何事も経験であろう』とまったく気にしていなかったが。
(しばらくしたら気にせずさっさと旅行に行っちまうし。そうなるとコイツの事は次に
完全に白い花の部分がなくなってしまった英雄の樹を見上げて思う。戦いにしか興味のない俺にとって、この道のりは長く辛いものだった。
拗ねてしまった飯綱からなんとか話を聞き出し、家から引っ張り出すために翔との日課の代理を申し出て……オヤジがいない間にふたりで地道に
「――――問わねば。問わねばなるまい。彼奴に
そびえ立つハゲあがった木を見ながら、魂が抜けてしまったようなオヤジがポツリとそう零す。
「あやつ? 翔にか? いったいどうやって? ……まさか、こんなくだらない事を尋ねるためにオヤジのアレを使うんじゃないだろうな?」
「くだらない事ではないっ。何度言ったらわかるのだ。これは里の一大事とも呼べ……?」
オヤジの説教が再び始まると思われたその時、それは起ころうとしていた。
違和感。ジワリと。白い紙に一滴の墨を垂らしたしまったような強烈な違和感だった。この世界に本来あるべきではない異物が現れたのだ。
思わず皆がその気配がした方角へ目を向ける――――この感覚にはとても覚えがあった。
「こりゃあ」
「あっ!」
「これも何かの思し召し、か」
これは門が現れる際に必ず起こる兆し。水面に伝播する波紋のような現象。それを天狗の研ぎ澄まされた感覚が瞬時に捉える。俺は純粋に驚き、飯綱は歓喜の表情を浮かべ、オヤジは何やら深く頷いていた。そしていち早く我に返った飯綱が、名案を思いついたとばかりに真っ先に声を上げる。
「翔に聞きたい事があるなら、飯綱が行く」
「それはならん」
「――どうして?」
飯綱の目がすぅーっと細められ、身にまとう雰囲気が一変する。まずい。木々に止まっていた鳥達がその気配に驚き一斉に飛び立った。いわゆる一触即発の状態だ。
(……おいおい。勘弁してくれよ)
天狗にはそれぞれゆずれないものがある。基本的に俺らは他者に対してあまり関心を示さない。だが道につながるもの追い求める天狗の性質上、各々のこだわりに対しての執着心はもの凄く強い。基本的に仲が良い里の住人同士であっても、それが原因で時たまぶつかったりする事もある程だ。
俺にとってのそれは闘争であり、コイツの場合それが翔なのだろう。
(でもなぁ、コイツの翔への執着はちょっとおかしい。たしかにアイツは面白い奴だが……んなくだらない事であのオヤジに真正面から逆らうか普通。さっぱり理解できねぇ。2人の間で何かあったんかな)
くだらない考えごとをしながら成り行きを見守っていると、オヤジは飯綱の殺気をため息をついて受け流し口を開く。
「お主はまだ若い。何より人の世を知らんし、圧倒的に経験が不足している」
「そんな事ない。みんな、みんないつも……いつまでもそう言ってる。なにもやらせてくれないから、いつまでも飯綱は経験不足のまま。翔だけ。人間の事も。翔から沢山聞いたっ」
「……時の流れの問題もある」
「関係ない。飯綱の道は飯綱が決める。天狗はそういうものだって叔父さんいつも言ってる」
「うむぅ」
(つか、全部あいつが原因じゃねぇか。めんどくせぇ――――そうだ。全部、翔が絡んでるなら奴に押しつけてしまえ。これで解決だ。うっし。なら、この場で俺がする事は)
「……別にいいじゃねぇか。コイツの事が不安なら俺がついて行ってやるよ。飯綱と俺で翔にのところへ行ってくる」
いきなり何を言い出すと言わんばかりの
「オヤジは飯綱が心配なんだろ? それについては俺がいれば問題ない。天狗が2人滅多な事は起こらないはずだ」
「……」
「ちょうど人の世に興味もあったしな。それに向こうには俺らの仲間の翔がいる。案内役もバッチリだ。ん? 時間の流れ? はっ。何、アイツは必ず生きてるさ」
援護に気づいた飯綱がうんうんと頷いているのを横目に、俺は最後にたたみかけるようにオヤジに言った。
「若い天狗が経験を積むいい機会だと思わないか? ってか、オヤジはようやく帰ってきたばかりなのにまた里をあけられないだろ? 連中にどう説明するんだ? 他に自分の鍛練ほっぽり出してまでこんなお使い行きたい奴もいないだろうし」
「ぬぅ」
口ではオヤジを説得しながら俺は違う事を考えていた。実は最近、俺にも悩みがあった。里の天狗相手のつまらない組み手にマンネリしているのだ。決まりきった顔なじみの相手とやり過ぎてはいけない制限つきの試合。ウンザリだ。刺激が足りない。
ああ。心の中でまで嘘をつくのはやめよう。この提案は決して飯綱のためなんかじゃない。俺は生きていると実感出来る命のやり取りがしたいだけ。
人間の世界。きっとまだ見ぬ強敵が山ほどいるに違いない。そいつらに片っ端から喧嘩を売ってやる。それでくたばってしまっても構うものか。戦いで死ねるならむしろ本望。闘争こそ我が生きる道。俺はそのために生きている。
「…………やむなし、か」
こちらの思惑に気づかず悩んだ末にオヤジはとうとう白旗をあげた。拳を握る飯綱の隣で俺は静かに口の端を歪めていた。
「おぉー。あれ全部人間の街か? 話には聞いていたけどすげぇな。見て見ろよ。あれ」
門をくぐった先にあった展望台から景色を眺める。思わず圧倒される。遠くに天狗の里とは比べ物にならない人間の街が広がっていた。飯綱に同意を求めるが軽く頷いただけで反応は薄い。そうだった。忘れていたがコイツは無断で一度だけこっちに来た事がある。
「で? これからどうするんだ?」
「決まってる。翔に会いに行く」
展望台のベンチに置きっぱなしになっていた
「飯綱に黙っていった。許せない」
「それはしょうがねぇだろ? そん時お前いなかったじゃねぇか」
「でも……伝言や、せめて
「許してやれって」
「許せない」
(……ん? あれ? 伝言? そういや翔からなんか頼まれたような……なんだっけ? あん時はコイツが暴れてそんな状況じゃなかったから記憶が曖昧だ。まぁいいか。別にこれから会うんだし)
飯綱はあの時の事を思い出して鼻息荒くふんふんと憤慨している。
それを他人事みたいに眺めていると……ふと例の治療をしていていてずっと聞きたかった事があったのを思い出す。俺は忘れないうちそれをに尋ねてみる事にした。
「聞きたかったんだけどさ。木の近くに散らばっていた岩の傷、あれお前がつけてたんだろ? どんな意味があるんだ?」
神々の放った隕石の
そしてそれらの岩には奇妙な文字が刻まれていた――――周囲にある岩のほぼすべてに、呪文のようにびっしりと。正というただひとつの文字。正直、気味が悪かったのでここではっきりさせておきたい。
「翔の真似。1日1本つける」
「毎日? 何の意味があるんだ?」
「意味は知らない」
「ああ? お前さぁ、知らないって冗談だろ?」
いくら好意を持っていた相手が続けていたとはいえ、意味も理由もわからないような儀式めいた作業、普通やるか? 手軽に出来るとはいえあんなにも長い間。俺にはまるで理解できない。やはりコイツの執着心は少々度を超している。
「でも……数はわかる」
「いったい何本あるんだよ?」
「翔が365、飯綱が3285刻んだ」
「ふーん」
落ちてきた太陽に照らされるだいぶ背が伸びた飯綱の横顔を見る。
「飯綱も大きくなった。これで結婚出来る」
刻まれた傷は合わせて3650。10年という日々。それは奇しくも彼といつか木の上で交わした約束と重なった。彼女は履行を求める。それが果たされるまでずっと、ずっと彼を追い続ける。
時間の流れ違う門は再びゆっくりと閉じていく。人の世に新たにふたつの規格外な脅威を産み落としたまま。
こうして、ひとりの男を追いかける執着の鬼と、野望を抱えた戦闘狂のふたりの若い天狗が人の世界に解き放たれたのだった。
僕の表裏怪奇譚 畔藤 @kurofuji
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