私のヨル

冬木洋子

私のヨル

 夜更けに、閉ざされた窓を通り抜けて飛び込んできた、不思議なけもの。黒い翼を持つ、大きな大きな、黒い猫……?

 古いアパートの二階の窓の、閉まったままのカーテンを揺らすこともなく。

 窓際のベッドの上にふわりと降り立って、大きな翼をたたみ、長い尻尾を前足に巻きつけて行儀よく座ると、

「あかりちゃん」と、あたしの名前を呼んだ。

 深く柔らかでなめらかな、夜のような声で。

 そうして、少し首を傾げて、金色の丸い目で、あたしをじっと見た。

 つやつやと黒い毛皮、丸い耳、太い鼻すじ、大きな前足――猫じゃなく……黒豹?

「あなたは、だれ?」

 ベッドの上で膝を抱えたまま、あたしは尋ねた。伸びすぎた前髪の下から、黒いけものの金色の目を見上げて。

「ぼくは、ヨル」

 翼のある黒豹は、大きな鼻面をそっとあたしの頬に押しつけて、それから、ざらざらしたピンクの舌で、あたしの頬をちろりと舐めた。ちょっと痛かったけど、温かかった。

「君を助けに来たんだよ」

 〝ヨル〟はそう言って、大きな頭をあたしの身体にすり寄せた。

 あたしはそっと手を伸ばし、ヨルの首を抱いてみた。大きな、どっしりとした、温かい身体。ひんやりとした鼻面。ちくちくする太いヒゲ。

 太い鼻筋に頬をすりつけてみたら、短くて固い毛が逆立ってざらざらする、その感触がおもしろかった。まあるい耳の後ろのところは毛皮がふかふかと柔らかくて、指を埋めて掻いてあげたら、ヨルは喉の奥で柔らかく唸って目を細めた。大きな前足が、ほんのちょっと、グーパーをするみたいに動いていた。大きいから豹かと思ったけど、やっぱり猫なのかも。

 ヨルの身体は温かかったけれど、ヨルからは、冷たいような匂いがした。しんと悲しいような、懐かしいような。

 それは、ひんやりとした、夜の匂い。湿った土と朽葉の匂い。森の匂い。お墓の、匂い。


 ……夕暮れに、森の湿った土を掘ったことを思い出した。


 ずっと前、まだこの街じゃなく別の街に、パパも一緒に住んでいたころ。

 小さいころのことだから、よくは覚えていないけど、そこはこんなに建物だらけじゃなくて、近くに山が見えて、街の真ん中をきれいな川が流れていて、家のすぐ裏は、森だった。

 その森で、あたしは、黒い仔猫を飼っていた。

 たった一日半だけ。


 ダンボール箱の中で鳴いていた仔猫を拾って連れ帰ったら、ママに『捨ててきなさい』と叱られて、泣きながら裏の森に行った。仔猫の入ったダンボールを、もし雨が降っても濡れないよう、葉っぱが屋根みたいになっている茂みの下に置いた。

 それからいったん家に戻って、仔猫が寒かったり寂しかったりしないように、こっそり持ち出したタオルと古いぬいぐるみをダンボールの中に入れてあげた。

 ごはんもこっそり持っていった。家にはキャットフードなんてなかったから、食パンをちぎって小皿の牛乳にひたしたものだったけれど。

 ごはんのお皿を目の前に置いても、仔猫は、細い声でみいみい鳴きながら、よろよろ這い回るばかりだった。しかたがないから、そっと持ち上げて、お皿に顔を近づけてあげたら、仔猫は鼻を突っ込んだけど、うまく食べられずにくしゃみをして、顔中が牛乳だらけになってしまった。

 汚れて痩せこけて目ヤニだらけの、小さな小さな猫だった。

 そんな仔猫に、あたしは〝ヨル〟という名前をつけた。

 夜のようにまっ黒だったから。


 この子が、ごはんをいっぱい食べて、はやく元気になるといいな。元気になったら、ママのいない間に、こっそりお風呂に入れてあげよう。そしたらきっと、汚れた毛皮もきれいになって、ふわふわになって、目もぱっちりと開いて、絵本に出てくるみたいな可愛い仔猫になる。そして、きっと、あたしに懐いてくれる。あたしの後を、どこへでもついてくる。首にピンクのリボンをつけて、お友達に自慢しよう。あたしの猫よって。ちょっとだけなら触ってもいいよって――


 ダンボールの中の仔猫を見下ろして、あたしはそんな夢を描いた。きっとそうなると信じていた。


 そして、次の日は、何度も森に通って、また新しいパンをあげたり、ダンボールのお家の上に小枝で屋根を作ったり、雑草の花を摘んできてお家のまわりに飾ったり、うずくまっている仔猫の背中をそっと撫でたりした。


 けれど、夕ごはんのあとでこっそり家を抜け出して、もう一度森に行くと、仔猫はダンボールの中で冷たくなっていた。

 冷たくなった仔猫は、とても軽くて、硬くて、なんだかぺしゃんこで、生きてるときよりずっと小さくなった気がして、何かぜんぜん別のものに変わってしまったみたいだった。

 秋の夕暮れ。空はまだうっすらと昼のなごりを残していたけれど、森陰は黒々と闇に沈みはじめていた。

 重なり合う枝葉が作る暗がりにしゃがみこんで、落ち葉の下の湿った土を泣きながら棒きれで掘り、タオルにくるんだ仔猫を埋めた。夕ごはん用に持っていったパンも、一緒に埋めてあげた。天国でお腹が空かないように。

 暮れ方の森は、湿った土と朽葉の匂いがした。

 夜の匂い。暗がりの匂い。秘密の匂い。罪の匂い。

 小さな白い花を摘んで、黒く盛り上がった新しい土の上に置いた。それが、〝ヨル〟のお墓。


「――ヨル。おまえを、思い出したよ」

 そう言うと、ヨルは嬉しそうに喉を鳴らして身体をすり寄せてきた。かすかに、森の土の匂いがした。

「あかりちゃん。あのとき、君がぼくのために泣いてくれたから、ぼくは翼を手に入れて、ここに来ることができたんだよ」

 びっくりしてまばたきをすると、ヨルは金色の目を細めた。きっと、笑ったんだ。

「ぼくらのように幼いまま死んだ小さな動物は、人間が自分のために泣いてくれたら、翼を持って、その人のところに帰ってこられるんだ。ぼくたちの姿が見えたり、声が聞こえたりする人は少ないから、帰ってきても、たいていの人は気づかないけれどね。でも、君は気づいてくれた」

 そう言って、重たい身体を、猫がするみたいにぐいっと押しつけてきたから、あたしはベッドの上に転がってしまった。そうしたら、顎の下あたりにヨルが頭をこすりつけてきた。固いヒゲがちくちくして、くすぐったかった。

 大きな頭を押しのけて身体を起こし、聞いた。

「どうしてこんなに大きくなったの?」

「小さい姿でいることもできたよ。でも、ぼくは、この姿を選んだんだ。大きい方が、こうして君をいっぱい温めてあげられるから」

 ヨルはそう言って大きな翼を広げ、柔らかな羽毛であたしをふんわり包み込んでくれた。

 あったかい……。

 長いこと、この部屋で、こごえていた。ストーブは危ないからつけちゃダメって、ママが言ったから。火事になったら死んじゃうからって。だから、ずっと、頭からお布団をかぶって、身体を丸めて座っていた。

 ヨルの翼の中は、温かくて暗くて、そうしてやっぱり、懐かしく湿った森の土と朽葉の匂いがした。

「ねえ、あかりちゃん。ぼくたちは、翼を与えてくれたひとの願いを、一度だけ叶えてあげられるんだよ」

 ヨルが言った。

「ぼくはそのためにここに来たんだ」

「……一度だけ?」

「そう。小さい動物たちのための神様は、小さい神様だから、そんなに力がないんだ。だから、一度だけ。願いを叶えてあげるまで、そばにいられる」

「そのあとは? どこかへ行っちゃうの?」

「そうだね。この姿は捨てて、もう一度、新しい命として生まれるんだ」

「じゃあ、なにもしないで」

 あたしはヨルにしがみついた。

「願いなんか叶えなくていいから、ずっと、ここにいて」

 ひとりぽっちのこの部屋に、せっかく友達が来てくれたのに、またひとりになりたくない。

 ヨルは、困った顔をしたみたいだった。人間みたいに表情は変わらないけど、ちょっと首をかしげた姿が、そんなふうに見えた。

「でも、あかりちゃん。ぼくは君を、ここから連れ出してあげられるよ」

 ヨルの金色の目が、あたしをじっと見る。もつれた髪、汚れた服、細い手足の、痩せこけた女の子を。

 自分がどんな姿をしているか、ずっと、あまり考えたことがなかったけれど、今、ヨルの目を通して見る自分がどんなふうか、自分にも見える気がした。

 きっとあたしは、ダンボールの中の弱った捨て猫みたいに見えている。

 ヨルはあたしのこと、可哀想だと思っているんだね。あたしのこと、助けてくれたいんだね。でも――。


 あたしは急いで言った。

「出たくない」


 だって、あたしはここで、ママの帰りを待っていなくちゃいけないから。

 ――ママは、帰ってくる。いつも帰ってきたもの。今度もきっと、帰ってくる。


 外から鍵を掛けられ、カーテンを閉めきった小さな部屋。

 ここに引っ越してきてからずっと、あたしはこの部屋にいる。誰とも会わず、窓際のベッドの上で膝を抱えて、いつもママの帰りを待っている。

 鍵は、中からは開くのかもしれない。でも、あたしは開けたことがない。鍵を開けたら、怖い人が入ってくるかもしれないから。ママが、誰が来ても開けちゃ駄目と言ったから。


「ママが言ってた。外には怖い、悪い人がいっぱいて、あたしをどこかへ連れて行っちゃうって」

 そう言うと、ヨルは、

「ぼくがいれば、何も怖くなんかないよ。ぼくはこんなに大きいから、悪い人が来たら、ぜんぶやっつけてあげる」と、やさしく言った。

 それでも、あたしは、ここを離れない。

 ママが帰ってきたとき、あたしはここにいてあげなければならないから。

 でないと、ママは、きっと泣くもの。


 ここへ引っ越してきてから、昼も夜もお仕事に行くようになったママ。最初のうちは、毎日、夜遅くや朝早くに疲れた顔で帰ってきたけれど、だんだん、帰ってこない日があるようになった。ときには何日も帰ってこなくて、置いていってくれたパンやお弁当が全部なくなってしまうこともあった。そんなとき、あたしは、おなかをすかせたままベッドの上で膝を抱えていた。

 でも、ママは、いつも帰ってきた。パンやおにぎりや、いろんな食べ物を持って。

 家にいるときのママは、いつも疲れた顔をして、ときにはいらいらと怒鳴ったり、あたしを叩くこともあったけど、外から帰ってきたときには、いつもぎゅっと抱きしめてくれた。何日もいなかった日は、ごめんねと謝って、食べ物をたくさんくれた。

 そして、あたしを抱きしめて泣いた。

 ――ママの大事なあかり。いろんな人が、寄ってたかってママからあかりを取り上げようとするの。ママにはあかりしかいないのに、あかりをどこへ連れて行こうとするの。だから、ごめんね、隠れていてね――

 そう言って、ママはあたしにすがりつく。そんなとき、泣きじゃくるママは小さい子どもみたいで、あたしはママの背中を、そっと撫でてあげる。

 ……だから、ママが帰ってきたとき、あたしはここにいてあげなければならないの。


 ヨルは太い四足をふんばってベッドの上に立ち上がると、前足からするりと床に降りて、部屋の真ん中であたしを振り返った。

「ね、行こう?」

 半分開いた二つの翼の間でつやつやした背中がしなやかに伸び、軽く持ち上げた長い尻尾が誘うみたいにゆらゆら揺れて、金色の目が、ぴかっと光った。

「だめ。行かない。ここにいるって、ママと約束したの」

 そう言うと、ヨルは、ちょっと悲しそうな顔をして、のっそりとベッドの上に戻ってきた。

 そうして、座っているあたしのまわりに巻き付くみたいにゆったりと寝そべりなおして、言った。

「それじゃあね、あかりちゃん、夢の中で、窓からお外に出ようよ。ぼくの背中に乗って、一緒にお空を散歩しよう。夢の中なら大丈夫。目が覚めればすぐにここに戻れるから、ママに叱られることもないよ」

 あたしはぼんやり窓を見やった。

 ママがカーテンを開けちゃ駄目って言うから、あたしはもうずっと、空を見たことがない。窓から誰かに姿を見られるといけないからと、ママが言った。悪い人に見つかってしまうかもしれないから、と。

 あたしは、窓の外が怖い。

 あたしが心の中でそう思ったのが聞こえたみたいに、ヨルはやさしく言った。

「だいじょうぶ。怖くないよ。夢の中でなら窓を開けても悪い人に見つからないし、それに、お空の上なら、悪い人の手も届かない。だから、さあ、目を閉じて、おやすみ」

 そう言われたとたん、なんだか眠くなってきて、ヨルの大きな温かい身体が作るちょうど良い窪みにすっぽりと収まって丸くなり、ヨルが低く喉を鳴らすやさしい音を聞きながら目を閉じた。

 ヨルの翼が、あたしを包みこんだ。


 夢の中で、あたしは、ベッドの上に立ち上がったヨルの背中の、首の後ろあたりに座っていた。ヨルはさっきまでよりもっと大きくなったみたいで、背中は広々としていて、あたしは重さがないみたいに居心地良くその場所に収まっていた。あたしの足の後ろに、翼がある。ヨルの太い首に両腕で抱きつくと、柔らかな毛皮がふかふかとあたしを受け止めた。

「さあ、行くよ」

 ヨルがそういって翼を広げ、ふわりと浮き上がる。

 あたしとヨルは、いつのまにか窓を通り抜けて、空に浮かんでいた。

 見下ろせば、アパートの前の路地が見えた。ブロック塀に立てかけた誰かの自転車や、塀の下に落ちている割れた植木鉢、転がっている空き缶。ずっと窓のすぐ下にあったはずなのに、長いこと見ることがなかった光景。

 けれどそんな光景は、ヨルが黒い翼をばさりと羽ばたかせると、たちまち眼下に遠ざかり、あたしたちはぐんぐん空の上に昇っていって、すぐに、一面に広がる光の海の上を飛んでいた。

 それは、ちらちらと瞬く街の灯り。

 遠くに、山並みも見えた。空の際がぼんやりと明るいから、山並みは平らな黒い影に見える。地平線から目を上げてゆけば夜空は徐々に色を深め、そこには、頼りなく瞬く小さな星たち。

 街の灯を見下ろしてぐるぐる飛び回りながら、ヨルが言った。

「ごらん、あかりちゃん。あの灯りのひとつひとつに、人がいるんだよ。あの小さな光のひとつひとつが、人なんだ。あかりちゃん、君も、そういう小さな光のひとつ。あかりちゃんの窓にはカーテンがかかっているから、空からは見えないけど、君はちゃんとそこにいて、暗い部屋の中でも、君の命は小さな星みたいに光ってる」

 耳のまわりで風がびゅんびゅん鳴っていても、ヨルの声は、身体から直接伝わってくるみたいによく聞こえた。

 あたしの髪を冷たい夜の風が吹き乱してゆくけれど、お尻の下のヨルの身体が温かいから、ちっとも寒くない。

 世界が、目の前いっぱいに広がってゆく。

 広い、広い、広い――!

 あたしは声をあげて笑った。

 ヨルも喉の奥で笑い声を上げているのがわかった。


 ――目が覚めたら、お布団の中で小さな黒猫がすやすや寝息をたてていて、それがヨルだった。小さくなっていても、翼がなくても、ヨルだとわかった。そっと頭を撫でたら片目を薄く開けて、「夜になったら、また大きくなって、背中に乗せてあげるからね」と言った。そうして、喉をごろごろ言わせながら、また目を閉じた。あたしも、小さなヨルの柔らかくて温かい身体を抱いて、もう一度、お布団の中で身体を丸めた。

 小さな猫になったヨルも、やっぱり、夜の森の暗がりの匂いがした。

 だけど、それだけじゃなく、夜空を吹き過ぎる風の匂いもした。

 ヨルの中で、さっき見た夜空の星たちが、小さく瞬いているような気がした。

 ヨルの中の小さな星を抱いて、あたしはお布団の中で目を閉じた。

 ヨルの身体に残る風の匂いを嗅ぎながら目を閉じていると、自分はいつか本当にここを出てゆくのかもしれないという気がした。ヨルと一緒なら、この小さな世界から出ていけるような気がした。そして、ママがもう帰ってこないことを、本当は知っていたような気がした。



 ――けれど、それはもう、みんな、遠い昔のこと。暗い部屋でおなかをすかせてママの帰りを待っていた無力な子どもは、もういない。


 ある日、知らない大人たちが鍵を開けて入ってきて私を部屋から連れ出し、それから私は、施設で育った。

 母とは、その後、一度も会っていない。どこにいるかも、生きているのかさえ、わからないまま。

 私を連れ出してくれた人たちは悪い人さらいなんかではなかったけれど、外の世界には、やっぱり、辛いことも、悲しいこともあった。愛と孤独しか知らなかった子どもは、怒りと憎しみを知り、妬みや軽蔑も知った。殺してやりたいと思った相手もいた。

 けれど私にはヨルがいた。

 大人たちが部屋に踏み込んできたとき、ヨルはいつのまにか姿を消していたけれど、それからも、夜になると、翼ある黒豹の姿で、私がどこにいても、私のもとを訪れてくれた。森の湿った土と、夜空の風の匂いをまとって。

 そうして、いつも、大きな翼でやさしく包んでくれた。

 私が泣いていると、「だいじょうぶ。大好きだよ」と、そっと鼻面を押しつけてくれた。少し冷たくて、ちくちくとくすぐったい、それがヨルのキス。

 おかえしに首の周りや顎の下を掻いてあげると、低く柔らかく喉を鳴らして目を細め、大きな、重たげな前足で、そっと足踏みをする。私はヨルの大きな丸い頭を両手で抱え込み、ふかふかの頭のてっぺんに鼻先をこすりつけて、ひんやりとした土と夜風と星の匂いを胸いっぱいに吸い込む。

 殺したいやつを思って憎しみにのたうち回っていた夜は、そっと身を寄せて、

「ぼくが殺してあげようか?」と、やさしくささやいてくれた。

 一瞬、心の中で激しい風が吹き荒れ、黒い希望が膨れ上がって、涙に濡れた顔を上げた。けれど、願いを聞いてもらったら、ヨルはいなくなってしまう。あんなやつのために、ヨルを失いたくなんかない。あいつにそんな価値はない。

 だから急いで言った。

「やめて」

 憎しみは消えない。でも、私にはヨルがいて、ヨルはいつでもそいつを殺せるんだと思ったら、なんだか、そいつにまつわる何もかもが、くだらなく思えた。ヨルを失わないためだったら、どんなことにも耐えられると思った。ヨルの温かな身体を抱いて、暗闇の匂いのする毛皮に顔を埋め、静かに嗚咽を殺した。ヨルは私が泣きやむまで、じっと抱かれていてくれた。

 ヨルがいたから、私は強くなれた。

 私はもう、空腹を抱えて母の帰りを待つ子どもではなく、自分の力で生きていける大人になった。

 私はもう、一人で歩ける。包み込んでくれる庇護の翼は、もう必要ない。


 だから、私は、ヨルに別れを告げた。

 ヨルはその金色の目で私をじっと見つめ、静かにうなずいてくれた。

 首の周りのふかふかの毛に指を埋めながら、太い鼻筋に額をすり寄せて、別れの挨拶をした。

 ヨルは私の首もとに何度も頭をすりつけてから、頬に最後のキスを残してゆっくりと立ち上がり、静かに背を向けた。長い尻尾が、名残を惜しむみたいに私の腕を撫でていった。

 そうしてヨルは、窓の下でふっと身体を沈めると、軽々と跳躍して窓枠を越え、中空でばさりと黒い翼を打ち広げた。滑るように羽ばたきながら見る間に遠ざかって小さくなり、夜空の彼方へと消えてゆく後ろ姿を、私は窓辺で見送った。ヨルが消えていったあとの空には、小さな星々だけがちらちらと瞬いていた。

 さよなら、黒豹のヨル。小さなあなたが戻ってくるのを、待ってるね。


 ――そう。それが、私からヨルへの、最初で最後の願いごと。




 私は今、自分で借りた小さな部屋に住んでいる。

 ぼろぼろの古いアパートだけれど、近所に住んでいる大家さんが猫好きで、猫を飼ってもいいと言われている。だから、この部屋を選んだ。いつか仔猫のヨルと暮らすために。


 ――普通の猫に生まれ変わって、私のところへ来て――

 あの日、そう言って、私はヨルの金色の目をのぞきこんだ。

 私の願いを叶え終わったら、翼ある黒豹の姿を捨てて、今度は普通の猫として生まれるのだと、ヨルは言っていた。そうして、大人になるまで生きてから死んだら、もう蘇りはしないと。

 ヨルは、もともと、そうして生きるはずだった。あのころの私に、ちゃんと、小さな捨て猫を守りきる力があったなら。

 あのころ私はまだ小さくて、何も知らず、無力だった。だから、ヨルを救えなかった。私が救えなかったせいで、仔猫のヨルは死んだ。

 でも、大人になった今の私なら、仔猫をちゃんと育てることができる――。

 私の願いに、ヨルは、静かにうなずいてくれた。

 ――いつになるかは、ぼくにもわからないんだ。でも、きっと帰ってくるよ。君のところへ――

 そう言って、ヨルは約束のキスをくれた。


 それから、ずっと待っていた。

 今、私の手の中にいる、小さな小さな、この子を。

 あの日とおなじようにダンボールの中にうずくまっていた、汚れて痩せこけて目ヤニだらけで、夜のように真っ黒な――。

 言葉をしゃべらないただの猫になっていても、金色の瞳が仔猫特有の薄青になっていても、私にはわかる。あなたは、ヨル。

 私はこれから、あなたを守り、育てる。

 子どものころは何も知らずに牛乳なんかあげてしまったけれど、今度はちゃんと猫用のミルクを買ったし、仔猫用のフードも、トイレやケージも用意した。動物病院にも連れて行って、ワクチンもちゃんと受けさせる。

 そんなことを考えながら、手の中の仔猫の頼りなくふにゃふにゃした身体に頬を寄せれば、熱く湿った小さなけものの匂いがした。いのちの匂いがした。

 小さなヨルが、あどけないキトンブルーの瞳で私を見上げて桃色の口を開け、みゃあ、と鳴く。

 ――あかりちゃん。また会えたね。よろしくね――

 そんな言葉が、聴こえた気がした。


 ヨル。私のヨル。今度は私が、あなたを守る番。

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私のヨル 冬木洋子 @fuyukiyoko

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