僕はこのまま熊の命を奪いたくない。


 もちろん、それが正しい選択なのかは分からない。いや、人間の側から見ればきっと僕は間違っているんだろう。だけど何かもっと別の選択肢があれば……。


「…………」


 僕は俯いたまま、何も言えずに考え込んでいた。


 するとしばらくしてミューリエは大きく息を吐き、握っている僕の手を離させて剣を鞘に収める。


「アレス、この場はお前が収めてみろ。もしそれが出来ないのなら、私はこの熊にトドメを刺す。異論は認めん」


「え……。収めるって、それはどういう――」


「良いなっ?」


 僕の言葉を遮り、強く問いかけてくるミューリエ。そして真っ直ぐ僕の瞳を見つめながら返事を待っている。その表情はいつになく冷たくて険しい。まるで師匠が不出来な弟子を突き放すかのような。まぁ、それと似たような状況かもしれないけど。


 でも僕はどうすればいいんだろう? 収めろって言われても意味が分からないし……。


「アレスっ! 良・い・なっ?」


「は、はいぃっ!」


 強く迫られ、思わず僕は返事をしてしまった。


 するとミューリエは一歩下がり、腕を胸の前で組んで僕の一挙手一投足に注目している。


 ――もうあとには退けない。僕の対応次第で、この熊は命を落とすことになる。



 …………。



 くそ……熊と意思疎通さえ出来れば……。



 …………。



 ……意思疎通……か……。



 そうだ、熊に向かって念じてみよう。『僕は敵じゃない。争うつもりはない』って。


 かつて虫や獣に対して『こっちへ来ないで』って念じた時、いつも彼らは不思議とどこかへ行ってくれた。それってもしかして僕の想いが本当に伝わっていたということなんじゃないだろうか?


 もちろん、もしそうだったとしても、その理由は今でも全く分からないけど……。


 でも想いが伝わるなら、こちらからの一方通行にはなるけどある程度の意思疎通は出来るかもしれない。


 うんっ、ダメで元々! 試してみるかっ! 意思疎通が出来るかどうかは分からないけど、自分の想いを精一杯を念じてぶつけてみよう!


「ぐるるるる……」


 未だ警戒心を解かず、低く唸りを上げる熊に僕は一歩近寄った。そして目を瞑ると相手を慈しむ心持ちで、優しく問いかけるように想いを念じる。


『お願いだから人間を襲うのをやめて。僕は敵じゃない。危害は加えないよ。だから落ち着いて……』


 僕はゆっくりと目蓋を開き、熊に対して微笑みかける。すると――っ!


「…………」


 なんと熊が唸るのをやめたっ! しかもなんとなくだけど、気持ちが落ち着いたようにも感じられる。警戒心を少しは解いてくれたのかもしれない。


 熊に対して想いを念じたのは初めてだけど、やっぱり動物に対しては何らかの効果があるみたいだ。


 嘘みたい! 奇跡が起きたっ! 思わず心の中が嬉しい気持ちで一杯になる。


 それは気持ちが通じたという嬉しさもあるけど、これで熊を救えるかもしれないという嬉しさの方が圧倒的に強い。


「うそっ!? 熊がおとなしくなった?」


 女の子はこの事態に驚嘆の声を上げていた。そりゃ、そうだ。僕だって驚いているんだから。


 一方、ミューリエはさっきから表情を変えず、依然として静かに様子を見守っている。どう感じているのかは窺い知れない。


 うん、まだここで気を抜いちゃいけない。熊が戦う意思を完全になくすまで想いを伝えないと。


 だから僕は再び目を閉じ、さらに念じ続ける――。


『人間に対して腹が立つこともあるだろうし、いきなり攻撃してくるヤツもいるかもしれない。でも僕のように戦いが嫌いだったり、危害を加えたりしない人間もいる。出来れば争いにならない方がお互いのためになるでしょ?」


「……ぐるる……ぐぐぅ……」


『だからお願いだよ、今後は人間を襲わないって約束してくれないか? さっき僕の仲間がキミを攻撃したことは謝る。薬草で手当もするよ。切断された前足はどうにもならないけど』


「…………」


 その直後、熊はヨロヨロと立ち上がり、切断された前足を僕の前に差し出した。もはや敵意も戦意も感じられない。まるで借りてきた猫みたいだ。猫にしては大きすぎるけど……。


 僕はそんな彼の姿に対し、申し訳なさと愛おしさを込めて柔らかな瞳を向ける。そして持ち物の入った袋から包帯と薬草を取り出し、手当をしてあげたのだった。


 その後、熊はおぼつかない足取りで静かに森の中へ去っていった。怪我が心配だけど、きっと大丈夫だよね?


「ふぅ~、うまくいった。きっとあの熊は今後、人間との争いを避けるようにしてくれると思う。不意に人間と遭遇するとか、そういう不測の事態さえ起きなければね」


「あんた、一体何をしたのっ!? 何者なのっ?」


 女の子は目を丸くしながらこちらに駆け寄ってくると、僕の両肩を掴んで激しく揺すった。


 その瞬間、僕は激しい目まいがして世界がブレるような感覚に襲われる。




 ……あれ? なんだろ、この脱力感は?




 ホッとしたから疲れが一気に出てきちゃったのかな。立っていられないほどじゃないけど。休憩で回復した分の体力と気力を使い切っちゃったとか?


 ま、いっか。また休めばいいんだし……。


「えっとね、熊を説得……というか、人間を襲わないでってお願いをしたんだ。その想いが熊に伝わったみたい。なんで僕にそんなことが出来るのか、自分でもよく分からないけど」


「なるほどな。シアの宿屋でブラックドラゴンとやり取りをした際の話を聞いたが、やはりアレスには異種族と意思疎通が出来る力があるのは間違いないようだな」


 ミューリエは悟ったような顔をして頷いた。


「えっ? あっ、もしかしてミューリエはそれを確かめようとして、僕をけしかけたの?」


「まぁな。おそらくその力があるのではないかと予想していたからな。……それにしても縁とは不思議なものだ。やはり私とアレスが出会ったのは必然だったのだ。だとすれば、なんとも複雑な気分だが……」


 ミューリエはなぜか苦笑しながら視線を逸らす。


 ――っ? ミューリエの言葉、どういう意味だろう? 縁がどうとかという部分から先がよく分からない。


 百歩譲って『縁が不思議だ』というのは、そういうものなんだろうなと捉えることが出来るにしても、僕とミューリエの出会いが必然だとか、それによって複雑な気分になるというのは意味不明だ。




 ……いや、ちょっと待てよ。


 そういえば僕はミューリエと出会った時、どこか懐かしいというか、縁の繋がりみたいなものを本能的に感じたような覚えがある。


 単なる気のせいなのか? あるいはやっぱり僕たちの間に何かがあるのか? 


 まぁ、考えても分かるはずはないけど……。



 その後、僕たち三人は一緒に休憩をしながら和やかに世間話をしていた。


 その際に聞いた話だと、熊に追われていた女の子はレインさんという名前で、魔法使いをしているらしい。詳細な年齢は教えてくれなかったけど、僕より少し年上なのは確かだそうだ。


 それと旅の目的は魔法の修行だとか。もっとも、ミューリエはその話を訝っていたけどね。だからといって真実を追究する気もないみたいで、すぐに話題を変えちゃってた。


 まぁ、僕もミューリエもまだお互いに全てのことを打ち明けていないわけだから、それも自然な対応なのかも。


「ところで、魔法使いの女。あの程度の獣を倒せないくせに、よく今まで旅を続けてこられたな? 私たちが助けに入らなければお前の方が死んでいたぞ?」


「失礼ねっ! いつもなら魔法で難なく倒してるわよ! こう見えてもそこそこの使い手なのよ? 高位の魔族さえ簡単に滅せるんだから。ふふんっ♪」


「ほぉ……」


 得意気に話すレインさんに対し、ミューリエはピクリと眉を動かす。


 ミューリエは今の話、どう思ったんだろう? レインさんのハッタリだと感じたのかな?


 でももしそれが本当の話なら、レインさんも僕たちと一緒に旅をしてくれたらありがたいなぁ。魔王討伐の旅をしている以上、いつかは絶対に魔族と戦うことになるはずだから。


 見たところ、誰かとパーティを組んでいる感じじゃないし、誘ってみようかな?




 ……あっ、ちょっと待てよ?


 それだけの魔法の使い手だとすると、それはそれで疑問が湧いてくるなぁ。


「あの、レインさん。そんなに魔法が得意なら、なぜさっきは逃げ回ってたんですか? 魔法で対処すれば良かったんじゃないですか?」


「えっ? あ……それが……少し前から魔法がうまく制御できなくなっちゃって……。使えなくはないんだけど、安定しないっていうか。なまじ強力な魔法が使える分、暴発したら危険でしょ。こんな風になること、初めてなんだけどね」


「少し前って、どれくらい前からですか?」


「二日くらい前からかな? 急に魔力が不安定になっちゃって。数日前にシアに着いたんだけど、その時は何も問題なかったのよ。で、いつまで経っても元に戻らないから、地域的に魔力を阻害する何かがあるのかもって思って、今朝、シアを離れることにしたわけ」


「……ふむ」


 その時、静かに話を聞いていたミューリエが小さな相槌を漏らした。


 何か心当たりでもあるのだろうか? そういえば、彼女は何か悟ったような素振りをすることがたまにあるけど、それとも関係あるのかな? ま、考えたところで分からないんだけど。


 いつかタイミングを見て、聞いてみようかな……。


「ミューリエ、あなたには何か心当たりでもあるの?」


「いや、状況を理解して頷いただけだ。そんなことより、魔法が使えないなら剣でも使って戦えば良いではないか。物理攻撃なら可能だろう」


「えっ!?」


 レインさんはなぜか息を呑み、動揺の色を浮かべた。落ち着きなく瞳を動かしながらソワソワしている。


 どうしたんだろう? 今のミューリエの指摘におかしな部分があったかな? 魔法が使えないなら物理攻撃をすればいいって僕も思うし。


 ……それとも僕みたいに剣が使えない事情でもあるんだろうか。腕力に自信がないとか、怪我を負っているとか、何かの病気があるとか。


「ぶ、武器を持って戦うなんて、エレガントじゃないから嫌いなの! それに熊を相手に生半可な武器で戦えると思う? 私は魔法使いなのよ? 戦士じゃあるまいし、物理攻撃は専門外なの! いえ、戦士だとしても低レベルだったら太刀打ち出来ない相手よ!」


「一応、筋は通っているようだな。エレガントかどうかという部分以外はな……」


「っっっっっ! 納得してないみたいな顔ね?」


「さてな……」


 ふたりの間に不穏な空気が漂い始めた。


 ミューリエには悪意はないんだろうけど、なんでもズバズバ言う性格っぽいからなぁ。このままだと、言い争いになったりケンカになったりするかも。



 ――さて、どうしよう?



●仲を取り持つ……→31へ

https://kakuyomu.jp/works/16816927859763772966/episodes/16816927859765702171


●レインの肩を持つ……→10へ

https://kakuyomu.jp/works/16816927859763772966/episodes/16816927859764592730


●ミューリエの肩を持つ……→38へ

https://kakuyomu.jp/works/16816927859763772966/episodes/16816927859765963791


●放っておく……→7へ

https://kakuyomu.jp/works/16816927859763772966/episodes/16816927859764481040


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る