4 舞台練習初日(1)

 二日後の水曜日から、本格的に舞台練習が始まった。


「あいうえお、いうえおあ、うえおあい、えおあいう、おあいうえ」


 活舌の練習。何のことはない、あいうえお、から頭を一文字ずつずらしていくだけだ。

 単純だが、これが存外と難しい。しっかり口を開けて発音しないと思わぬところでつっかえてしまう。


 筋トレは当然として、加えて早口言葉や、体験入部でやった「あえいうえおあお」など、活舌の練習も念入りに。普段からできないことが、本番に突然できるようになるわけがない。


「それじゃあ、読み合わせ、始めようか」


『読み合わせ』とは、役者が台本の台詞を読む稽古のことらしい。

 そこに動きを加えたのを『立ち稽古』と言うのだとか。


「まずはサムソン役の信二。グレゴリー役の健吾。二人で、新入生たちへの華麗なる手本、存分に見せてやってくれ」

「琴美……お前、ハードル上げんなよな」


 大講堂には、エキストラの田中先輩、菅原先輩、御厨さんを含む出演者全員が集まっている。


 田中先輩と菅原先輩とは、今日が初顔合わせだ。二人とも客席の最前列に座って台本を読み始めている。


 田中先輩は眼鏡の奥の眼光が鋭く、人をひと睨みで殺せそうだ。怖いからそんな感想、口が裂けても言えないが。


 菅原先輩は、ショートカットの、ダウナー系と言うのだろうか。物憂げな表情で気だるげな雰囲気を醸し出している。ギターかベースを持たせたらぴったり似合いそうだ。


 田中先輩が、席からすっくと立ちあがって、舞台に上がった。

 今は、舞台の下手しもて――客席から見て左側のこと。右側を上手かみてと言う――のそでに立っていて、舞台の真ん中に川嶋先輩と田中先輩が立っている。


 このまま台本を読み合わせ、それを見ながら全員でおおよその立ち位置について考える。最終的に動きは、各々やりたいように、ただし舞台上全員が把握し共有する。


 ということで、峰岸先輩を除いた全員が客席最前列に座っている。なぜか俺と神崎がど真ん中に座らされていて、なんだか落ち着かなくてソワソワする。


 けれどそれにも勝るくらい、先輩たちの読み合わせが見られるのがワクワクしている。動きがなくても、声だけでも、今から演技が始まると思うとのぼせあがってしまう。


「恵、プロンプを頼むよ」

「了解です」

「あの、プロンプって?」


 俺が疑問を口にすると、田中先輩が舞台上からすぐに返事をくれた。


「プロンプターの略。舞台の陰から、台詞の間違いや立ち位置の間違いを、客席に聞こえないように小声で教える係だよ」

「練習のときに間違いを指摘する係も、私たちはプロンプと呼んでいる。台本を読みながらでも間違えることは往々にしてあるし、立ち稽古ならなおさらだね。読み合わせのときは、細かい助詞の違いも指摘する。立ち稽古になったら、まあ、意味さえ通れば少しは大目に見るけどね」

「わかりました。ありがとうございます」


 頭を下げると、峰岸先輩はニヤリと笑って田中先輩を見遣る。その視線を受けて、田中先輩が嫌な予感があったか、ムッと眉をひそめた。


「な、なんだよ……」


 それから峰岸先輩は俺を見て、


「健吾はね、反社会みたいな顔してるけど、本当は気が小さくて優しいやつなんだよ」

「恥ずかしいこと言うな! あと誰が反社会だ!」

「ちなみに、沙希は誰にでもこのひねくれた調子で仏頂面だが、別に不機嫌とかじゃないから心配しなくてもいい」

「琴美先輩って、超絶失礼極まりないですよね」


 さすがに今の菅原先輩は不機嫌になっていると思う。


「改めて、華麗なるお手本を期待する」

「ああ、逆にハードル下がった気がするから気楽にやるわ」


 そう言いながらも、川嶋先輩はピシッと背筋を張っている。少し身じろぎしても、上半身には一切のブレがない。美しい立ち姿だ。

 正式に入部してから一週間ほど。川嶋先輩も練習に参加するようになり、やはり高い実力なのだと実感させられた。


 部員全員が恐ろしくうまい。練習とはいえ、この中での主役。高揚感が、急に不安へと転化されていく。


 田中先輩の佇まいも、さすがに川嶋先輩には勝てないものの、間違いなく美しい。エキストラではあるが、峰岸先輩が評価する腕前は伊達ではない。


 神崎がゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。緊張がありありと伝わってくる。恐らく、俺も似たようなものだろう。


「んじゃ、やるか、健吾」

「いつでも」

「では、合図は私がやろう」


 峰岸先輩がチラリと恵先輩を見ると、恵先輩が指でOKサインを作った。


「始め!」


 パン、と手を叩いたのを合図に、川嶋先輩と田中先輩が台本を斜め上に掲げ、顔を客席に向ける。




サムソン『グレゴリー、俺は面汚しはまっぴらだぜ。』




 サムソン役の川嶋先輩による、戯曲『ロミオとジュリエット』の最初の台詞。第一声。

 観客には、サムソンが何に腹を立てているかまだわからない。どんな人物なのかは、役の紹介でしか知り得ない。登場シーンは、キャラクターの印象を方向づける。

 そして川嶋先輩の演技は、「喧嘩っ早いサムソン像」を的確に表現していた。




グレゴリー『うん、お顔の汚れ落としは、お化粧の基本だね。』

サムソン『じゃなくて、カッとくりゃ腰のものを抜くってことだ。』

グレゴリー『腰のものを抜いたら腰抜けだ』




 田中先輩が、川嶋先輩の間の取り方を受けて、適度なタイミングで相槌を打つ。目つきの鋭さは変わらないのだが、ひょうきんな読み方のおかげでそれもまったく気にならなくなっている。


「……凄いね」


 隣に座る俺にしか聞こえないささやき声で、神崎が話しかけてきた。


「頑張らないと、存在感、喰われるな」

「うん」


 不安と高揚に加え、感動、快哉、昂奮。様々な感情がない交ぜになって、頭がくらくらしてくる。

 そんな俺をギリギリで現実に繋ぎとめてくれたのは、恵先輩の「ああ、信二先輩かっこいい……」という呟き声だった。ひっそりとした声ながら熱がこもっていて、意識がぐんと引き戻されてきた。




グレゴリー『通りすがりにガン飛ばしてやろう。どう受けるかは奴rr――』




 突然田中先輩が巻き舌チックに噛んで、地団太を踏んで悔しがった。ドンドン、とステージの上で飛び跳ねる音がする。


「ああ! 悔しい!」

「よし、俺の勝ちだな」

「川嶋は部員だろ!」

「でも、先に噛んだのが悔しいんだろ」

「そりゃあ、ちょっとは格好いいところ見せたいだろ」

「残念。正部員をなめるな」

「腹立つなあ!」


 やっぱり凄い人でも噛むんだなあ、と少しだけホッとした。

 同じ人間だ。同じ高校生だ。当たり前のことが嬉しくなった。もちろん、失敗を喜んでいるわけではなくて。俺でも努力すればこのレベルまで上がれるのかも、という根拠のない自信が湧いてくる。それも大事なのだと自分に言い聞かせる。


「いや、むしろ健吾が噛んでくれてよかったよ。このままトントンと行ったら、新入生が気落ちしてしまうだろう」

「……ううむ。ま、これでよかったと思うべきか」


 田中先輩は小さく呻ってから苦笑いした。


「それでは、少し飛ばして、ロミオを登場させよう」

「え!」


 もう少し後だな、と気を抜いていた俺は、ひっくり返らんばかりの勢いで腰を浮かしてしまった。

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