5 舞台練習初日(2)

「一回経験してみよう。やってみないとわからないこともある。間違いなくね」


 その言葉に、川嶋先輩たちも大きく頷いた。

 やってみなければわからないこと。身体で覚えろ、ってことか。

 横にいる神崎にあまり恥ずかしいところは見せたくないが――いや、神崎はこういうことを恥と笑ったりしない子だ。むしろ震えながらも挑戦するタイプ。なら、俺が挑戦しないことの方がとんだ恥だ。


「わかりました。頑張ります」

「うむ。その意気だ。さあ、泥船へようこそ」


 絶対失敗すると思われてるじゃん、と内心毒づきながらも、ここは開き直って実験台になろうと腹をくくる。

 川嶋先輩たちが下手側の階段を降り、入れ替わるように俺は上手側の階段から舞台に上がった。


「では、ベンヴォーリオ役の私と、ロミオの登場シーンからだ。全力で、思った通りのロミオを演じてくれ」

「ひゃいっ」


 声がめちゃくちゃ上擦った。恵先輩が噴き出した声が聴こえた。恥ずかしい。

 でも、今恥をかいたおかげで、少しくらいのミスならもう気にならない気がしてきた。

 よし、やってやろうじゃないか。


「じゃあ、俺が合図とるから――ハイ!」


 川嶋先輩が手を叩く。俺は峰岸先輩の見よう見まねで、台本を斜め上に掲げた。体験入部のときにこうするといいって言われたこと、覚えているぞ。




 ベンヴォーリオ『おはよう、ロミオ。』




 力強い峰岸先輩の呼び声。女性の声なのに、中性的な雰囲気。男性役をやっているのだとすぐにわかる。

 いたく感心しながら、喰らいつこうと必死に声を振り絞ろうとする。

 腹筋に力を入れ、丹田を意識し、横隔膜を動かし、思いっきり大講堂全体に声が届くようにイメージを膨らませて。




 ロミオ『まだ朝か。』




 おっ。我ながらこれはうまくいったんじゃないか。

 夢現のような心地のロミオを、一言で表現できた気がする。

 その証拠に、田中先輩が柔和な笑みを浮かべたのが見えた。目つきは鋭かったけど。

 観客席の顔も見えている。視界は良好。思考も澄み渡っている。いい調子だ。




 ベンヴォーリオ『九時を打ったばかりだ。』




 自画自賛していると、すぐに峰岸先輩の相槌が飛んできた。やばい、集中だ。




 ロミオ『ああ! つらい時間は長いなあ。今、急ぎ立ち去ったのは、わが父上か。』

 ベンヴォーリオ『そうだ。何が悲しくて君の時間は長くなるんだい?』

 ロミオ『時間を短くしてくれるものがないからさ。』

 ベンヴォーリオ『恋か?』

 ロミオ『恋……。』




 ロミオは、まだジュリエットに会っておらず、別の女性に恋焦がれている。

 俺は恋したことがないけど、「もし自分が恋に落ちたら」という妄想と、「ロミオはどんな心持ちなのだろう」という空想を合わせて尽力する。


 そして、ロミオの長台詞が入る。自分の世界に入って、恋について滔々と語るシーン。感情のアップダウンが激しい。


 体験入部で学んだことを思い出す。


『まずは大袈裟にやってみよう。演技をしようとすると、自分で思っているよりも縮こまっていることが多いから。少し大げさなくらいが、外から見るとちょうどいいことが多いんだ』


 大袈裟に有頂天になって、大袈裟に落胆して、感情の波を表現する。

 加えて、峰岸先輩に引っ張られてボルテージがどんどん上がっていく。近くに実力者がいると、釣られて限界まで力を引き出してもらえる。今、普段の実力以上のものが間違いなく発揮されていた。


「よし、そこまで!」


 パン、と川嶋先輩が手を叩く音。

 ハッと意識が現実に引き戻された。


 無我夢中で、いつまでも続けられそうな夢心地。

 ああ、みんなが癖になるのがわかるなあ、としみじみ感じられた。


 まあ、俺の演技なんて高が知れている。そう思うと、これから待つであろう批評が恐ろしくもある。ずっと愉悦の世界に浸っていたかった。


「さて、ある程度は予想できていたが……」


 峰岸先輩が、不穏な言葉を告げた。

 急に、全身の毛穴がぶわっと開いたように冷や汗が噴き出してきた。


「弘子。感想をもらおうか」

「はい」


 正部員の中で二宮先輩だけ役割がないと思ったら、こういうことだったか。身体がカチコチに固まってしまう。


「あの、そんなに心配しないで」

「はい……」


 二宮先輩のフォローもあまり効果がなかった。もうダメ。心臓バクバク。

 でも、これで成長できるならと、そう思って逃げずに舞台上に立ち続ける。


「幸村くんは、琴美先輩が台詞を言い終わるのをきちんと待ってから、自分の台詞を言っていたよね」

「はい」


 そのつもりだった。そうしたつもりだったが、できていなかっただろうか。

 しかし、その後の二宮先輩の言葉は、思っていたのと真逆だった。


「それはね、時と場合によっては間違いなの」

「……は、はぁ」


 どういうことだ。向こうの台詞が終わらないと、次の台詞には行けないはずで。


「では、私と弘子で再現してみよう。弘子、座ったままでいいぞ」


 二宮先輩が台本に視線を落としたのを確認して、峰岸先輩はベンヴォーリオの台詞を読み上げた。




 ベンヴォーリオ『おはよう、ロミオ。』

 ロミオ『まだ朝か。』

 ベンヴォーリオ『九時を打ったばかりだ。』

 ロミオ『ああ! つらい時間は長いなあ。今、急ぎ立ち去ったのは、わが父上か。』

 ベンヴォーリオ『そうだ。何が悲しくて君の時間は長くなるんだい?』

 ロミオ『時間を短くしてくれるものがないからさ。』




 ああ、俺より絶対、二宮先輩の方がうまい。

 ショックを受けながら、それでもしっかり耳を傾ける。


「……ふぅ」


 峰岸先輩が一息ついて、


「どうだった、颯斗」


 二宮先輩が言っていた問題点が、はっきりとわかった。

 そういうことだったのか。


「……会話が、何と言うか、不自然でした。お互いが相手を見ずに、勝手に喋っているみたいな。ぶつ切りになっていて、会話とは呼べないものでした」


 そう。相手の台詞が言い終わるのを待つと、二人の言葉が独立してしまい、掛け合いが成立しないのだ。


 なぜこんな違和感が生まれてしまうのだろう。

 不思議に思っていると、二宮先輩が補足してくれる。


「あのね、知った仲で会話すると、人間は自然と相手の言葉を推測して、言い終わりに被さるように会話をするものなの。演劇も同じ。相手の語尾に被さるように台詞を言うことが、スムーズに会話をしているようにお客さんに見せるコツ」

「『今この人は話を終えるんだな』、というのを人間は察することができる。そうやって人はテンポよく会話をしているんだ。だから、掛け合いをするときには、会話の間を意識する必要があるんだ」


 ようやく腑に落ちた。最初に田中先輩の演技を見たときに感じた、タイミングのいい相槌。あれが正しい魔の取り方。

 シュン、と自尊心がしぼんでいく。せっかく見本を見ていたのに。もっとうまくやれたはずじゃないか。


「ま、そんなに気落ちしないことだ。弘子、他には感想はあるか」

「まだ粗削りですけど」


 けど。マイナスのあとに、逆説。

 ヘロヘロの顔をぐっと上げて、二宮先輩を見つめる。


「粗削りですけど、初めてでここまで堂々と演技ができるのは、褒められると思います。最初のころの私よりも、恵よりも、堂々としていました」

「いやあ、私も最初は結構ガチガチだったからね。それと比べたら二百点くらい上げられるよね」


 ニシシ、と笑う恵先輩。二人の言葉に、ガリガリ削られた体力ゲージがグゥンと回復していく。


「すぐにコツを掴めると思います。一番の秘訣は、挑戦する気持ちだと思いますから」

「そうだね」


 峰岸先輩が、大きく頷いてくれる。


「初心者は、恥ずかしさや緊張で喉が絞まってしまうことが多い。そうすると音が潰れたり、掠れたり、ね。でも、颯斗は違った。ちゃんと声が通っていた。ただし」


 プラスのあとに、逆説。

 これは注意されるパターンだ。逆が良かったなあ。俺、好きな食べ物は後に残しておくタイプなんだよね。会話の流れ的にこうなっちゃうのは仕方ないんだけどさ。


「最初は凄くいい声が出ていた。それが次第に、顔が台本に寄って行って、声がどんどん小さくなっていった」

「……無意識でした」


 まったく身に覚えがない。勉強なんかに集中すると、気づいたら猫背になっていて、不意に気づく瞬間がある。それと同じことだろうか。


「最後まで力を抜かずにいたことは評価する」


 と、川嶋先輩。


「が、最後の方の声は、客が入っていたら吸収されて後ろまで届かないかもしれんな。これについては頑張って意識するしかない」


 俺は大きく深呼吸をして、息を吐き出してから峰岸先輩に向き直った。


「あの、感覚を掴みたいので、もう一回いいですか」

「いいね。その向上心は、成長の助けになる。私の成長の助けにも、ね。お相手しよう。ただし、まずはもう一回だけ。次は茉莉也の番だからね」


 客席のど真ん中。神崎の方を向くと、目を回しているように見えた。大丈夫だろうか。なんか気絶しそうなんだけど。


「……まずは緊張をほぐしてあげないとね」


 と、峰岸先輩が苦笑いで小さく呟いた。

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