第12話 冷たい床の上で君を想う。

 夕方、明日香は上着だけを持って家を飛び出していった。


 俺はといえば、しばらく掃除機を持ったまま立ち尽くしていた。

 明日香を追うべきなのだろうか。

 しかし俺はそんな気力すらも消え失せて、思考はほぼ停止してしまっていた。


 俺はゆっくりと床に落ちていたライターを拾いあげる。

 床にはしっかりと凹み痕が痛々しく残っていた。


 俺は、たばこは吸わない。

 明日香も吸わないし、何なら久城さんだって吸っていない。


 そう、誰も必要としないはずのライターがなぜか俺のスラックスのポケットに入っていたのだ。


 俺はとっさに何か言い訳をすればよかったのだろうか。

 けれど、本当に不意打ちで起こった出来事に驚いてしまって。


 つい、反射的に謝ってしまった。

 つまり、それは色々な事を認めた事と同じであって。

 弁解の余地もなく、明日香はライターを床に叩きつけた。


「…………ぁ」


 気付けば、俺は涙を流していた。

 明日香も泣きながらコートだけを持って飛び出していった。

 ただただ静かなリビングに独り、俺は立ち尽くしていた。


 明日香を悲しませてしまった。

 この事実が、俺の胸をギシギシと強く締め付ける。

 苦しい、まるで息ができないほどに。


 視界がじわりと滲み、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちて止まらない。


 俺にはやましい気持ちなど一切ない。

 明日香が大切な人であることは変わらない。

 けれど、その自己弁護に意味も持たない。


 こんな事故に巻き込まれて、俺は……俺たちはどうしろと言うのか。


 時間の流れは、俺たちの関係をまるで石か何かに変えてしまったのではないだろうか。


 この長い時間の中で、明日香との愛を育みたいと思ったはずだ。

 大切な人であることは、決して嘘ではない。

 けれど、どうして素直になれないのか。


 ずっと続いていくはずだと信じて二人で積み上げたものが、無残にも砕け散っていく。


 呼吸が浅くなる。

 俺は立っていることもままならず、その場に座り込んでしまう。


 俺の涙が枯れる頃には、日差しも完全に落ち切って部屋が暗闇に包まれていた。


 ☆☆☆


「……明日香」


 俺は、ひとり残された部屋で彼女の名前を呼ぶ。

 けれど返事はない。


「俺は……俺はっ!」


 明日香の事が好きだ。

 だから俺は精一杯、努力をしたつもりだ。


 だけど、俺は間違えてしまった。


 この傷は時間と共に癒えるだろうか。

 きっと、傷痕になって残り続けるのではないだろうか。


 そんな事を考えていると、ポケットに入れていたスマホが震える。

 見ると、明日香からメッセージが届いていた。

 俺は、すぐにメッセージを開く。


『もう、無理かな』


 俺は返信をしようとするが、明日香からメッセージが届く。


『ずっと言えなかったけど、やっぱり間違ってたんだよ』


 ……違う。


『ごめんね、私は祐樹くんのことを苦しめてたよね』


 そんなことはない。


『祐樹くんは私といても幸せになれないよ』


 頼む……それ以上、言うのはやめてくれ。

 俺は明日香から容赦なく送られてくるメッセージを読みながら、震える指で何度も書き直しながら『一度、落ち着いて電話しよう』と返信しようとした瞬間だった。


『私のせいで、祐樹くんの夢を奪ってしまってごめんなさい』


 そこで、俺の指がぴたりと止まる。


「ゆ、め……?」


 夢? 俺の夢だって?

 なんだって今、そんな話になるんだ?


 俺は、明日香と一緒に生きていきたい。

 ただそれだけのことなんだ。

 たったそれだけのことなんだよ。


 なのに、なんで……


 俺は確かにずっと前、小説家を目指していた。

 大学時代に明日香と一緒に小説の事を考えた日々もあった。

 けれどそんな子供じみた夢なんかよりも、もっと大事なものがあるはずなんだ。


 そうじゃなければ、俺は一体なんのために就職をしたのか。


 翔太に応援してもらい。

 明日香に喜んでもらい。


 厳しい現実の中で、少しずつ開いていく差を埋めようと必死になった。


 それなのに、たった一度。

 職場の後輩と食事に行っただけで、まさかこんな簡単に壊れてしまうなんて。


 これは、俺の弱さだ。

 俺の意志が弱いから、こんな事になったんだ。


 すべて、俺が招いたことだ。


 もし、時間が巻き戻せるなら。

 俺は久城さんと食事に行くべきではなかった。


 もし、やり直せるのなら。

 俺は――


「…………っ!」


 ぐらり、と視界が揺れる。

 ただのめまいではない。


 脳が揺さぶられるような強い揺れ。

 俺は座り込んだ姿勢から仰向けに寝転がってしまう。


 ……床が、冷たい。

 足先から、少しずつ温度の感覚が失われていく。


 これは、俺への罰だろうか。


 身体が動かなくなり、上も下も、右も左も分からなくなる。


 ゆっくりと思考が遅くなっていく。


 けれど、どうしてだろうか。

 この感覚もどこか懐かしいような気がする。


 こんな体験は、一度もないはずなのに。

 なぜか、懐かしいと思った。


 消えそうな意識の中で、俺はまだ明日香の事を考えていた。


 ああ、神様。

 こんなのって、あんまりだ……


 そして、バツンと音を立てるように俺の意識が途切れた。

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独身フリーターの落ちこぼれが過去改変で幸せを掴むまで 生活保護のハジメ @Ordinary-person

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