第11話 歪む運命
俺は、早朝の電車に揺られながらドアにもたれかかり、窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。
窓の外はまだまだ暗く。
平日の朝、いつも混み合う満員電車と比べれば、少し時間帯が早くなるだけでまるで嘘なんじゃないかと思うくらいに乗車している人の数はまばらだった。
久城さんとホテルで別れてから、彼女はこう言った。
「あの……私、諦めませんから」
堂々と会社の立場的にも危うい発言をする彼女を、俺はたしなめる事もできずに、わずかな沈黙の後で
「帰り、気を付けて」
という気の利いた言葉の一つも返すことができず、俺はひとり帰路につく。
この冷え切った空気は二日酔いの頭にはよく沁みる。
「明日香は……まだ、寝てるかな」
ポケットからスマホを取り出すと、時刻は5時を過ぎようとしていた。
それと同時に、3通ほどメッセージを受信していることが通知履歴に残っていた。
送り元は、明日香だった。
『今日は飲み会だったよね! 明日はお休みだからお家でゆっくりできるかな? 帰る時間とか分かったらお風呂沸かしておくね!』
『お~い、まだ飲んでるのかな? 終電、大丈夫?』
『もしかして充電切れちゃったのかな? 気を付けて帰ってきてね!』
今まで飲み会は何度もあった。
けれど、俺はいつも終電までには帰るようにしていた。
「あぁ……、最悪だ」
メッセージを見た後、俺は色々な感情が激しくぶつかり合って今にも吐きそうだ。
胸の奥が焼けるように熱くて、指先は凍るように冷たい。
痛む頭の中で、俺は明日香になんと言うべきか悩んでいた。
俺はマンションに着くまでの間もずっと、明日香に弁解する内容を考えていた。
――そう、これは事故のようなものだ。
大丈夫。
俺は久城さんに対し、特別な感情は抱いていない。
ただ、酔った俺を介抱してもらっただけ。
さらに言えば、明日香には会社の人と飲み会だとしか言っていない。
つまり、ちょっと飲み過ぎて終電を逃したと言えば良いだけのこと。
何も問題にはならない。
次からは気を付けると言えば良いだけのことだ。
自宅のドアの前に着き、俺は家の中に入る前に大きく深呼吸する。
「大丈夫。ちょっと反省しながら、いつも通りに」
俺は小さくつぶやいて、玄関のドアを開けた。
☆☆☆
我が家は賃貸マンションで、2DKの間取りだ。
明日香と同棲しようと話した際に家賃は俺が負担して、明日香は水道光熱費や家での食費を負担することになっている。
情けない話だが、明日香の方が収入は多い。
このマンションだって駅からも近いうえに手ごろな家賃という、超人気物件に住めたのも不動産会社に勤めている明日香がいてくれたからだ。
ちょっとくらい恋人として面子を立てたかった俺は、家賃の負担を引き受けただけでもかなり収入ギリギリになってしまうが、外食するより明日香とご飯を食べたいとか言ったり、将来のために貯金は明日香にお願いするよとか言ったりしていた。
別にそれは良い。
今までもそれで何かが悪くなるようなことはなかった。
明日香だって、当時は照れながらも了承してくれたわけだし。
ただ、なぜだろうな。
よりにもよって浮気をした日に、そんな事を思い出すなんて。
俺がゆっくりと音を立てずに玄関を開けると、ガラス戸越しにリビングの灯りが点いていることがうかがえた。
……もしかすると、明日香は起きているのかも。
俺は開けた扉をゆっくりと閉めて、リビングへといつも通りに向かう。
ガラス戸を開けるとリビングのダイニングテーブルを見つめるように寝間着姿の明日香が黙って座っていた。
その時の明日香の様子は、明らかにいつもとは違う。
そう、明日香はこちらを見ることもせず。
明日香が俺に対して何を言うわけでもなく。
ただ黙って、何もないテーブルを見つめながら座っていた。
いつも明日香が怒る時は、もっと感情的だ。
連絡が遅い時は連絡してよねと怒り、配慮が足りない時は優しくないと怒った。
だが、今の明日香の様子はどうだろうか。
まるで魂そのものがそこに存在していないかのようで。
いつもの元気な明日香がどこかに消えてしまったかのように。
こんなにも冷たい空気を放つ彼女を、俺は人生で初めて知ってしまった。
「明日香……、ごめん」
俺は、たまらず謝った。
けれど明日香はこちらを見ない。
「会社の先輩と飲んでて、つい終電を逃しちゃって……悪かった」
「……どうして」
「え?」
「どうして、連絡くれなかったの? メッセージも既読になってたけど」
「あ……」
さっき電車でメッセージを読んだ際に、俺は返信をしていなかった。
「かなり飲み過ぎてて、連絡もさっき気付いたんだ」
俺は嘘を言わず、正直に答える。
「そう……次からは気を付けてね」
「本当にごめん。ずっと起きてたのか?」
「うん、祐樹くんに何かあったのかと思って。今日、私も休みで良かったよ」
「……ごめん」
明日香はそう言った後も俺を見ようともせず大きくため息を吐いて、そのまま寝室へ向かっていった。
おやすみ、という言葉も出ないままリビングは不気味なまでに冷たく、静けさだけが取り残されていた。
俺は一体、何をやっているんだろうか。
☆☆☆
寝室はダブルベッドがあり、いつもなら明日香と一緒に寝るのだが、今日はさすがに明日香が寝ている横に行く気にもなれず、スウェットに着替えた俺はリビングのソファでひとり横になっていた。
身も心も疲れ切っているはずなのに、なかなか眠れずに退屈な時間を過ごしていた。
そうこうしているうちに昼過ぎになっても、まだ不機嫌そうな顔をしている明日香に、俺は黙って明日香が気に入っているブレンドコーヒーを入れてあげる。
そうして夕方ごろには仲直りするのが、いつもケンカをした時のパターンだ。
明日香も一度くらいは大目に見てくれるだろうと、勝手に俺はそんな事を考えていた。
けれど、実際に夕方になって。
俺たちのいつもの日常は思わぬところで崩れ去ってしまった。
明日香が洗濯物をしている間に、俺は明日香の機嫌を取ろうとリビングで掃除機を念入りにかけていた時の事である。
「……ねぇ」
「んー?」
明日香が俺に声をかける。
俺は掃除機を止めて、明日香の方に振り向く。
「これ……何?」
明日香は俺のスラックスを洗濯しようと腕に抱えていたのだが、明日香が突き出した手のひらの上に乗っていた『それ』は、俺にとっても予想外の物だった。
「え…………」
――それは、ラブホテルの刻印がしっかりと施されたライターだった。
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