第2章 死神の試練
第10話 絶望の幕開け
やってしまった。
俺は混乱しながらも、とりあえず身支度を済ませる間に今までの出来事を思い出そうとしていた。
彼女、
新卒で入社して、事務として働く未来有望な社員だ。
そして、何がきっかけだったのか今でも分からないが。
俺は彼女から好意を寄せられていたらしい。
もちろん俺は明日香という高校の時から交際している恋人がいることは職場でも言っていた。
だというのに、だ。
今どき珍しいくらいに大人しくて清楚な女の子だと思っていたら、今どき珍しいくらいに積極的な肉食系女子だったらしい。
眼鏡がよく似合い、知的な雰囲気も感じられて職場でも俺より若手の男性社員からは注目されている子なので、冴えない上に恋人がいる俺なんかが恋愛対象に見られているなんて1ミリたりとも予想できなかった。
だから、完全に油断していた。
昨日、彼女から食事に行かないかと誘われたのだ。
勤めている会社は有休の取得率向上にご執心のようで、今年度から有休の計画的付与で月に一度は必ず有休を使うようにとお達しがあった。
そして、彼女と有休のタイミングが同じだったため食事に誘われたのだ。
彼女から好意を寄せられているなんて思ってもいない俺は、食事に行くくらいなら平気だろう、とたかをくくっていた。
けれど、今は笑いごとじゃない状態に発展している。
「いや……これは、まずいでしょ」
今いる場所はどう見てもラブホテルだ。
ビジネスホテルにしてはベッドが大きすぎる。
いや、問題はそこじゃなくて。
「あ……祐樹さん、おはようございます」
身支度をしている音で久城さんが目を覚ましたようだ。
この時の俺は、とても酷い顔だったに違いない。
俺の顔を見た久城さんはばつが悪そうに謝った。
「ごめんなさい……私、その……」
「あー、いやこれはなんというか……」
これは事故であると言いたいくらいだが、どう転んでも俺にとっては最低な結末しか迎えそうにない。
それと、何の言い訳にもならないが昨晩の記憶はほとんど無い。
ただ楽しく飲んでいた。
あまりに楽しくてお酒を飲み過ぎてしまった。
酔った勢いで、というのはよく聞く話ではあるが。
まさか自分が浮気の当事者になるなんて思うわけがない。
二日酔いでひどい頭痛に苦しみながら、色々な意味で吐きそうな朝を迎えてしまい本当にどうにかなりそうだった。
「ごめん、久城さん。俺あんまり昨日のこと覚えてなくてさ」
「その……何もありませんでしたから!」
「え?」
「祐樹さんがシャワーに入った後、私がシャワーを浴びている間に祐樹さんは寝ちゃってて。祐樹さん、すごくお酒飲んでましたし……」
彼女なりのフォローだろうか。
正直、今の俺にとっては大した差にはならない。
例え彼女の言葉が真実であったとしても、男女がラブホテルで一夜を過ごしたという事実は、未遂であったとしても言い逃れすることはできない。
久城さんは、俺を見てこう言った。
「その、私が言うのもおかしいと思うんですけど……。私、応援してますから」
「……え? 応援って?」
「祐樹さんは昨日、ずっと小説家になりたいって話してました」
マジか。
そんな事を俺が?
だが、彼女の言葉は嘘ではない。
俺は大学を卒業するまでラノベ作家になりたいと思っていた。
けれど、俺は明日香と一緒に生きると決めて就職した。
夢を追う生き方なんて、とっくに捨てたはずなのに。
そんな事を彼女が知るはずもないので、きっと俺は酔った時にそんな事を言ってしまったのだろう。
「……昔の話だよ。俺にそんな才能なんて無い」
「でも祐樹さん、すごく苦しそうでした」
「苦しい?」
「はい。後悔していたというか」
彼女の言葉を聞いて、俺は胸の奥が痛む。
そう、それも嘘じゃない。
俺は、明日香と一緒に生きると決めた。
そして俺たちは同棲することになった。
あれから一体、何年くらい経っただろうか。
俺は大学を卒業した後に遅れて就活をして、既卒で運よく今の会社に入社できた。
けれど、新卒で入社した明日香と既卒で入社した俺では、年数が経過すればするほど年収に大きな差が開いていった。
明日香と同じく新卒で入社した翔太でさえ、とっくに昇進している。
悲しいことに俺は入社した当時のまま、平社員だった。
昨今では共働き夫婦なんて珍しくもない。
けれど、明日香は結婚式がしたいと言っていた。
明日香が抱いている理想の家庭を聞けば聞くほど、今の俺がすべて叶えてあげられるほどの甲斐性は無い。
それは、同棲している明日香もよく分かっていることだ。
明日香は次第に将来について何も言わなくなった。
表面上は明るく振舞ってはいるけれど、何かを言おうとしていることは俺も長い付き合いだからよく分かる。
けれど、俺は何も答えられないような日々が続いている。
お互いに言いたい事も言えないまま、いつしか気持ちがすれ違うようになっていた。
俺は今、何のために頑張っているのか分からない気持ちになる。
だから今でも正式にプロポーズができないまま、はっきりとしない時間を過ごしているのだ。
これは、もしもの話だ。
もし、明日香が俺と付き合っていなければ。
もしかすると俺なんかよりも、ずっと幸せな人生が送れたのではないだろうか。
時々、そんな考えが浮かぶようになった。
本来なら俺が明日香の気持ちに応えるべきなのに。
こんな甲斐性の無い俺のせいで、明日香は不幸になっているのではないか。
そんな事を思わずにはいられない俺は、どこまでも情けない男のままだった。
「……ごめん、俺には」
「分かってます。祐樹さんに恋人がいるってこと」
「なら、どうして」
どうして俺とこんな事を、と言おうとした時。
「私、祐樹さんがあんなにも楽しそうな顔で話す人だなんて初めて知りました。もしかしたら自分はその道に進んでいた方が幸せだったのかもしれない、とも言ってました」
彼女は俺の記憶にない昨晩の話をした後に、こう言った。
「私、昨日も言いましたけど祐樹さんのことを尊敬しています。だから……その夢を応援したいっていうか」
俺は、途中から彼女が何を言っているのか正直分からなかった。
尊敬? 俺を?
どうしてそうなるんだ?
一体、俺はどれだけ
叶えられなかった夢への未練とか。
明日香との未来に目を背けている自分とか。
だけど、久城さんが真正面から自分の夢を受け入れてくれたことに、少しだけ心が動いてしまったこととか。
俺は、今の自分が本当に嫌いになりそうだった。
「ごめん……それでも俺には、大事な人がいるから」
まるで自分を鎖で締めつけているのではないかと錯覚するような言葉を口にする。
俺は、責任を取らなければならない。
けれど、今の状態はあまりにも無責任であり、それは火を見るよりも明らかであることは言うまでもないことである。
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