第9話 愚者の試練Ⅵ

 2016年9月17日


「それじゃあ、祐樹の就職を祝して! 乾杯!」


 翔太が乾杯かんぱい音頭おんどを取り、小気味こきみよくジョッキグラスが鳴る。


 土曜日の夜。

 翔太と明日香の三人で俺のバイト先居酒屋で祝杯をあげていた。


 そう、運が良いことにすぐ採用が決まったのである。


「かーっ! 美味い!」

「翔太くん、なんかおじさんみたい!」

「ほっとけ! なあ祐樹、お前も飲めよ!」


 ……なんだか、俺よりもはしゃいでないか?

 翔太も明日香も、いつもよりテンションが高かった。


 けれど、それは俺も例外ではなく。


「ぷはーっ!」

「おお! 祐樹、いいねぇ~!」


 大学生みたいなノリの飲み会なんて久しぶりで、俺もはしゃいでいた。


 いつもはバイト先で飲み会を見守る側で、よくもまぁお酒でそこまで楽しめるよなと思ってはいたけれど、案外とても楽しいかもしれない。


「いやー、でも祐樹はすげえよ! こんなにあっさりと就職先を決められるなんてな!」

「ねーっ! 私もこんなに早く決まるなんてビックリだよ~」

「本当にな。俺もまだ実感が持てないっていうか」

「俺たちなんかよぉ、ガンガン落とされまくりよ」

「あれ? 私は一発で内定取れましたけど」

「なにぃ! この裏切り者~!」


 あはは、と楽しい笑い声をあげながら宴会が続く。


 しばらくして、俺はトイレに行くために座敷から立ち上がる。

 パントリーを通り抜けてトイレにたどり着くまでの道に、見慣れた白髪頭にバンダナを巻いた店長が老眼鏡をかけて伝票を眺めているのが見えた。


「店長、お疲れ様です」

「お、お疲れさん。どう? 楽しんでる?」

「ええ、なんかすみません」

「いいってことよ! 今日くらい楽しみな!」

「はい、それと……」

「うん?」


 俺は店長と向き合い、深々ふかぶかと頭を下げた。

 この時点ではまだ大学に入学してから卒業までの期間しかバイトをしていない。


 でも、そんなことは関係なかった。


「今までお世話になりました。ここで働けて良かったです」


 活発なおじいちゃんのような風貌ふうぼうの店長は、未来でも様子がまったく変わらない。

 俺はこの人からたくさんの事を教わった。

 感謝してもしきれない恩人だ。


「あいよ。次の職場でも飲み会はうちを使ってくれりゃあいいよ!」


 店長はいつものように豪快に笑った。

 まぁ、たかだか4年程度だとそうなるか。


 これは言葉じゃない。

 俺の、気持ちの問題なのだから。


 少しだけ名残なごりしく感じてしまったが、俺は恩人に別れの挨拶あいさつが言えた。

 どうかこの人にはいつまでも元気で過ごしていてほしいと心から思った。


 ☆☆☆


 俺たちが飲み会を終える頃、珍しくも翔太は酔っぱらっていた。

 せっかくのイケメンもこうなっては台無しである。


 千鳥足ちどりあしで歩く翔太を支えながら駅まで向かう道中、偶然にもタクシーを捕まえることができたので、翔太を自宅まで運搬うんぱんするように運転手へ依頼したところだった。


「おい、翔太。大丈夫か?」

「大丈夫だいじょぶ」

「酔ってる人はみんなそう言うんだよなぁ。ちゃんと帰れるか?」

「大丈夫だーって! それよりもぉ、祐樹は山崎をちゃーんと送るんだぞ?」

「分かったよ、じゃあ気を付けて帰れよ」

「翔太くん、気を付けてね」

「あーい。んじゃ、また飲もうぜぇ」

「分かったから。それじゃあ運転手さん、お願いします」


 運転手さんは顔色ひとつ変えず、だまって首肯しゅこうしてドアを閉める。

 俺たちはまるで売られていく仔牛こうしながめるように翔太を見送った。


 それから俺たち二人は手をつなぎながら駅まで歩いていた。

 騒がしくも楽しい時間は一瞬で過ぎ去り、疲れているのかお互いに話すこともなく沈黙の時間が続いていた。


 けれど、その沈黙すら愛おしく思うように俺は小さく息を漏らす。

 思ったより飲み過ぎてしまったかもしれない。


 くらくらとする頭で、ふと試練のことを考えてしまった。


 これで、未来は変わるはずだ。

 この試練がいつまで続くのかは分からない。

 俺は駅の改札口を抜ける前に立ち止まった。


「明日香」

「ん?」


 どうして立ち止まったのか不思議そうな顔をしている明日香の方へ向く。


 俺は、この試練で失敗して命を落としている可能性もある。

 もちろん成功していて欲しい。

 けれど、どれも推測すいそくの域を出ない。


 なにせノーヒントでここまで生きながらえていたんだ。

 過去のタイムスリップという経験も悪いものではなかったけれど、俺がこのままいつまでもこの時間に滞在できるとも限らない。


 もしかすると、すべてが夢でした。という最悪の結果かもしれない。


 だから――


「俺、頑張るから。今までよりも……いや、今まで以上に頑張るから」

「……うん」


 明日香は俺の顔を見て、ゆっくりとうなずいた。


「俺が頑張って働いてさ。それで……それで……」


 それで将来、結婚しよう。

 俺の願いを口に出そうとするも、胸の中で言葉につかえてしまう。


 けれど、その言葉が出るよりも先に明日香が俺を優しく抱きしめた。


「うん……分かった。私は祐樹くんのこと信じてるから」

「明日香……」


 俺はゆっくりと明日香の背中に腕を回す。


 胸の鼓動が痛むほど高く鳴り続けていたが、だんだんと明日香の温もりで癒されていくように大人しくなっていく。


 ふわふわと足元からちゅうに浮くような感覚。

 もしかすると、これが幸せなのかもしれないと思っていた矢先のことである。


 気付けば、周囲から音が消えていた。


 そしてゆっくりと視界があわく白くにごっていく。

 俺は不気味に思うよりも早く、それがタイムリミットであることを悟った。


 ああ、神様。

 どうか、彼女の未来が幸せなものでありますように。

 そう、心の中で祈りながら。


 ゆっくりと、世界が白く輝きながら。


 試練は何の前触れもなく、唐突に終わりを迎えた――


 ☆☆☆


 2025年12月5日


「う……うう、ん」


 俺が目を覚ますと、そこには見知らぬ天井があった。


「う……っ」


 ……頭が痛い。

 この頭痛はどうやら酒の飲み過ぎが原因であるとすぐに分かった。


 うっすらとしか記憶が残っていないが、覚えている限りの記憶を引っ張り出そうとすると、耳元から小さな寝息のような音が聞こえていた。


 俺は音の方向へ寝返りを打って、目に映った人物を見て愕然がくぜんとしてしまう。


「あ……ああ……なんてこった」


 最悪の目覚めだ。

 その寝息の正体がまさか――


 久城涼子くしろりょうこのものだったなんて。


 俺は明日香という恋人がいながら……

 

 言い訳の余地もなく。


 正真正銘のをしてしまうのだった。

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