陸.見てはいけない光景

 一階に辿り着く直前の踊り場で私は足を止めた。

「……みのみ」

「しっ!!」

 モリモリの声を遮り、私は踊り場から少しずつ顔を出した。

 そして、ポストのある場所を見つめると……いるのだ。

 女が。

 長い髪を結ばずに下ろしていて、顔がよく見えない。

 よれたスーツを着ていてポストに頭を打ちながら、ずっとブツブツ何かを呟いている。

 まさにあの時見た光景と同じだ。


 小学生の私は、一階目前の踊り場まで辿り着いた。

 人気者の誕生会の事など忘れており、早く帰りたくてしょうがなかった。

 階段を下りようと、踊り場を歩いて階段を下りようとした時そこにいた。


「あああああああああああああああっっっっっ!!!!!!!!!!」


 すごい声で発狂している女が、ポストに頭をガンガンと打ちつけながら立っている。

 よれよれのスーツに長い髪を束ねないで頭を振るせいでボサボサになった頭が、一層狂気的な光景に見えるのだ。

「……発狂婆」

 ボソッと言った小さな声が聞こえてしまったのか、ガンガン打ちつけるのがピタリと止み、ゆっくりこっちに視線を向けてきた。

 血走った目が印象的でとにかくヤバいと第六感が危険信号を出し、私は階段を全速力で上り始めた。

「まてやくそがきゃぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!」

 発狂しながら女は追っかけてきた。

 私は逃げなければ殺されると思い、必死に階段を上った。

 とにかく上ったのだ。

 下から見た時はそこまで高くないと思っていた建物だが、どんなに階段を上っても一番上に辿り着かない。

 後ろからは女の発狂した声が聞こえてきて、怖くて振り向く事すらできなかった。


 やっと屋上の扉が見えてきて、私は安堵あんどしてさらに加速し、扉に手をかける。

 だが、ドアノブが回っても開かないのだ。

「なんで⁉開いて!!開いて!!」

 私は必死にドアノブを回すが扉は開かない。

 ガチャガチャと音を立てているのに、音だけで扉は無情にも開かないのだ。


 ポンっと肩が叩かれた。

 私はドアノブを回す手の力が抜けた。

 追いつかれたのだ。

「あ……ああ……」

 ゆっくり振り返ると、目が充血したあの女がこっちを睨んでいる。

「あぁぁぁぁっっ!!!!南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏!!!!」

 女から逃れようと必死に手足をばたばた動かすが、首元の服をつままれており逃げられない。

後生ごしょうなりー!!後生なりー!!」

 私は涙ながらに女に拝み倒す。

 時代劇で見たお願いの言葉……なんて意味か分からないけど、とりあえず歴史的な言葉なら通じる気がする。

 なぜだかこの時の私はそう思っていた。

 そんな言葉は通じていないようだが、女は私の顔をじっと見つめていた。

 もう終わりだと思っていた。


「……海藤さん⁇」

「ほぇ……⁇」

 鼻水を垂らしながら、女の顔を見る。

 だが、誰だかわからない。

 突然、つままれていた服を手放され地面に落ちた。

「ふぎゃっ⁉」

 女は私に構わず、髪型を整え始めた。

 後ろに一本結びをして再度こちらに顔を向ける。

「あっ……担任の……先生⁇」

「こらっ。担任の先生じゃなくて、担任の坂内さかうち先生、でしょ」

 目の前にいるのは発狂婆ではなく、担任の先生だったのだ。

 私は全身から力が抜けてしまった。

「なんだ……先生だったのか」

「もう、海藤さんはここで何しているの⁇」

 先生は怖い顔のまま私に質問をしてくる。

「えっ……クラスの子の誕生日会に誘われて、ここに来たんです」

「……ここにうちのクラスの子の家はないけど⁇」

 私はえっと驚いてしまった。

 人気者の子に騙されたのだ。

 私がクラスに友達がいないのをいい事に、適当な嘘をついてきたと言う事だ。

 ショックを受けて私はその場で泣き始める。

 すると先生は、私の頭をポンポンと優しく撫でてくれた。


「……先生」

 先生の優しさにさらに涙が出そうになった時だった。

 私の頭を撫でていた手が力み始めたのだ。

「ちょっ……先生⁇……頭、痛いいぃぃぃぃっ!!!!」

「おっ⁇誰が発狂婆だって⁇」

 先生は笑いながらキレ始めた。

「ちょっ!!ごめん!!ごめんなさい!!悪気はなかったんですぅぅぅっ!!!!」

 私は手をワタワタさせながら先生に必死に謝った。

 そこからは長々とお説教された。

 私は土下座する勢いで謝り倒した。

「もう!!今度からは他人に対して、あんな事言うのはだめだからね⁇」

「はい!!!!もうしませんっっっ!!!!」

 軍隊の発声練習のように、力強い声を私は出した。

 すると、先生は笑い始めた。

「えっ……先生⁇」

「ふふっ。海藤さんは、いつもつまんなそうに外ばかり見ているけど、今みたいにみんなの前でハキハキお話すればいいのに」

 先生は笑いながら頭をポンポンと叩く。

 ……ポンポンというよりはゴンゴンに近い気はするが。

「なんて話せばいいか……わからなくて」

「大丈夫。明日、クラスの子達に挨拶から始めればいいのよ」

 そう言うと先生は立ち上がり、私を引っ張って立ち上がらせてくれた。


「さぁ、もう遅いから今日は帰りなさい⁇」

「……先生はここで何してたの⁇」

 少し気になったので、聞いてみた。

 先生は一瞬ピクッと反応してにこりと答えた。

「今日はね、別のクラスの子の個人面談に来ていたの。だから今日、先生と会った事は誰にも言わないようにね⁇」

 笑顔の圧力を感じて、私はとにかく頷きまくった。

「じゃあ、先生。秘密にする代わりに、そこの屋上の扉はどうやって開けるか教えて!!」

 子どもらしい等価交換の言葉に、先生は大笑いし始めた。

「これはね、子ども達が勝手に入れないように鍵の部分をカバーしているの。こうすると……ほら。開いた」

 そう言って先生は屋上の扉を開けた。

 屋上の先は夕日が見えて、とても綺麗な世界が広がっていた。

「わあぁぁぁっ!!」

 私は感動して屋上に出て、辺りを見渡す。

 空がこんなに綺麗だなんて初めて知った。

 まだ見ていたかったが、はよ帰れと先生に促されて私は家に帰った。


 そして次の日、クラスの人気者の子が私を問い詰めに来た。


 どうして来なかったのかと。


 私は正直に言った。


 お前が騙したんだろうと。


 そして、市松人形を見せた。

 誕生日プレゼントも準備した事を言いながらクラスの人気者の手に押し付けた。

 すると、その子は悲鳴を上げてベランダから市松人形を投げ捨ててしまった。

 私はショックを受けたが、私は負けじと言ってやった。

「この事、担任の先生も知ってるから!!昨日会ったんだから!!」

 私は先生との秘密をサクッとバラした。

 その後、教室に教頭先生が現れて、担任の先生が行方不明となったと説明をしてきた。

 そして、私が行った建物ではなく、その先にある高層マンションの四階フロア一面が人気者の家だと知る事になった。

 手前の建物はもうじき撤去予定で、廃墟に近いのだと教えられた時は震えるしかなかった。


 そう、あの時行方不明になった先生……今、ポストに頭をぶつけているあの女こそ私の小学校の担任だ。

 私は深呼吸をし、気合を入れて大声を出した。

「担任の先生!!!!」

 ……結局私は、担任の先生の名前を覚えられなかったのだ。

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