後編
――がちゃり、と乾いた音が響く。
「お、おい三ヶ嶋……。今日、ナナミさんは家にいないのか?」
さすがにおかしいと思った俺は、彼の背中に問いかけた。
てっきり俺は、ナナミさんも家にいるもんだと勝手に思い込んでいた。でも確かに三ケ島は、俺を家に招待する時、家にナナミさんがいるとは一言も言わなかった。
しかし三ヶ嶋は、そんな俺の質問を無視してそそくさと家の中に入ってしまう。
「お、おい! 待てって!」
声を張り上げながら、俺は彼の後を追いかけるようにして玄関に入った。
三ヶ嶋は靴を脱ぎ玄関の明かりを点けると、どんどん家の中に進んでいく。そして歩きながら今度は廊下の明かりを点け、さらに家の奥へと進んで行った。
俺は乱暴に靴を脱ぐと、順番に点灯していく明かりを頼りに早足で三ヶ嶋を追いかけた。部屋数が多いだけあって、異様に廊下が長く感じられた。
長く続く廊下を進むと、三ヶ嶋は廊下に面した一つの部屋に入った。そして、その部屋の明かりを点けた。
「み、三ヶ嶋! どうしたんだよお前! なんか変だぞ!」
湧き上がる恐怖心と、彼の態度にだんだん腹が立ってきた俺は声を荒げつつ、最後に明かりが点いた部屋に入った。
その部屋は和室だった。床は畳で、襖と障子と掛け軸のない
机の上には何かが置かれているようだが、三ヶ嶋がその机の前に立っていて、彼の身体が被っているせいで、俺の角度からは机の上に何があるのか見えない。
「はぁ……はぁ……おいっ三ヶ嶋……急にっ……はぁ……どうしたんだよっ……」
全力で走ったわけでもないのに息が切れる。俺は膝に手をつき呼吸を整えつつ、途切れ途切れに
三ヶ嶋は俺の言葉に反応を示したのか、ゆっくりとこちらに振り向いた。
彼の表情は、さっき会社を出て俺を呼び止めた時と同じように、眉間に皺が寄り、唇を力強く噛み、何かとてつもない苦痛に耐えているような、そういう表情だった。
三ヶ嶋はその表情のまま一歩左に動く。すると机の上に何が置いてあるのかが、ようやく見えるようになった。
「なあ林。俺はこれからどうすればいいのかな……どう生きていけばいいのかな……」
そう言って三ヶ嶋は、机の上に置いてある大きな写真立ての角を優しく撫でた。
写真にはとびきりの美人が写っていた。前に別の写真で見せてもらった彼の嫁さん、笑顔のナナミさんが写っていた。そしてその写真立ての隣には、埃一つ被っていない大きな箱が一つ。
「み、三ヶ嶋!? ナ、ナナミさんって、もしかして――」
亡くなっているのか。そう訊こうとした時、三ヶ嶋はがくっと膝から崩れ落ち、その場にへたり込んでしまった。
その衝撃で彼の左耳に着いていたイヤホンが外れ、俺の足元へと転がってくる。俺はそのイヤホンを拾い上げ自分の掌の上にのせた。
白色の充電式ワイヤレスタイプのイヤホン。どこにでも売っているような何の変哲もないそれを、俺はじいっと見つめる。
イヤホンからは、女性の声が流れていた。俺はイヤホンに耳を近づける。
『うわぁー凄い! ここがエーケベルグの丘なのね。あ、見てマサキさん。オスロの夜景がとっても綺麗だよ」
音声の向こう側で広がる景色に感嘆の声を上げ、三ヶ嶋のことをマサキさんと呼ぶ女性。直接聞いたことはないけれど、その声の主は間違いなくナナミさんだろう。
それに、エーケベルグの丘にオスロの夜景。
オスロは北欧の国ノルウェーの首都で、エーケベルグの丘はオスロで人気の夜景スポットだ。
ちょうど一年ほど前、三ヶ嶋がノルウェー旅行から帰ってきてすぐに、俺に話してくれた土産話そのままだった。
『こんな素敵な場所に連れてきてくれてありがとうね。私、今すごく幸せ!』
ああ……。たぶんこの言葉を発している時のナナミさんは、いま目の前にあるこの遺影に映っているような、満面の笑みをしているのだろう。
『また、いつでも連れてきてあげるよ』
そう答える三ヶ嶋の声も、普段俺たちが聞くことのない、とても幸せそうな声色だった。
『本当に? じゃあ今度は私とマサキさんの子供と、あと私たちの両親も一緒に連れて、また来ようね』
『ああ、絶対に。また来よう――』
そこで音声は途切れ、イヤホンからは、またオスロの夜景に感嘆の声を上げるナナミさんの声が聞こえ始めた。二人の会話がリピート機能で最初から再生され始めたのだ。
数分にも満たない会話が、何度も、何度も、何度も繰り返される。たぶんこの会話は、オスロの夜景を記録するために、スマートフォンか何かで動画を撮った際の音声なのだろう。
三ヶ嶋にとって、まだ生きていたナナミさんとの幸せな時間を収めたデータ。
ナナミさんがどうして亡くなったのか。いつ頃亡くなったのか。詳しいことは分からない。
でも亡くなった時期については、ある程度察しが付く。
三ヶ嶋がイヤホンをするようになったのはちょうど一年ほど前のこと。この音声を収めたオスロの町から帰ってきて、俺に土産話をしてくれた、たぶんそのすぐ後だろう。
俺は自分の耳に近づけていた片方だけのイヤホンをそっと離す。そして三ヶ嶋の方を見た。
三ヶ嶋は相変わらず畳の上にへたり込んでいて、右耳に残ったイヤホンを両手で押さえながら、溢れ出る涙に溺れていた。
「ナナミ……ナナミ……俺は、どうすれば……ナナミ……」
イヤホンから聞こえる音声と同じように、三ヶ嶋は嗚咽交じりの震え声で、愛する人の名前を繰り返し呟いていた。
俺は、こいつになんて言葉をかけたらいいのだろうか。
幸せだと思っていた奴が、今は絶望の底に叩き落されている。過去の幸せにとり憑かれ、今の自分を見失ってしまったこの男に届く言葉なんて、果たしてあるのだろうか。一年もの間、愛する人の死をひとりで内側に抱え続け、外側の音を遮断し続けてきた彼にかける言葉なんて、俺には分からない。
それなら――。
俺は掌の上のイヤホンをズボンのポケットに仕舞った。そして壊れたおもちゃのように、ナナミさんの名前を繰り返し呟き続ける三ヶ嶋に近づくと、手を伸ばした。
「もっと早く誰かが気づいて、こうしてやれば良かったんだな」
俺は、右耳に残ったイヤホンを抑えている三ヶ嶋の両手を優しく退けた。そして、彼の右耳からイヤホンを外し、自分のズボンのポケットに仕舞った。
俺は三ヶ嶋からイヤホンを取り上げた。でも彼は、変わらず
たぶん、こうするしかないんだ。まだ彼にはナナミさんの声が聞こえていて、俺や他人の言葉は届かない。
俺が与えられるきっかけなんて、所詮こんなものだろう。あとは時間が解決してくれるか、それとも本人が立ち直ってくれるか。できれば、本人が自力で立ち直ってくれるのが望ましいんだがな……。
ふぅーっと息を吐き、俺は畳の上に腰を下ろした。
畳に座るのなんていつぶりだっけな。実家に和室はなかったから、社会人になる前、爺ちゃん家に行った時以来だっけな。爺ちゃんどころか、しばらく両親にも会ってない。
そんなことを考えつつ、俺は横目でナナミさんの遺影を見た。
彼女の笑みは、さっき見た時と印象が変わっており、自分の前で泣き続ける夫をどう慰めたらいいものかと困惑しているような、そんな表情に見えた。
三ヶ嶋は、そんなナナミさんの表情に気がつかないのか、まだ涙を流し続けていた。
三ヶ嶋は、いつ頃立ち直れるだろうか。十分後か、明日か、一ヶ月後か、それとも一年後か……。
まあいいさ、いつでも。
時間が許す限りこうやって近くにいて、求められれば手でも引っ張ってやろう。
でも、もし彼が十分後に立ち直ったら、せっかく酒とつまみを買ってきたんだ。本来の目的通り、酒に付き合ってやるかな。
ポケットに仕舞った三ヶ嶋のイヤホンは、充電が切れたのか、いつの間にか二人の会話は聞こえなくなっていた――。
三ヶ嶋のイヤホン 高梨結有 @takanashiyu
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