三ヶ嶋のイヤホン
高梨結有
前編
同僚の
もちろん仕事中や大事な打ち合わせの時は外している。でも休憩時間や昼食時、会社の行き帰りの時なんかは必ず両耳をイヤホンで塞いでいるのだ。
俺が覚えている限り、そうやって三ヶ嶋がイヤホンをするようになったのは、今からちょうど一年ほど前。たしか嫁さんと行ったノルウェー旅行から帰ってきて、それから三週間ぐらい経った後のことだ。
イヤホンをしている時の彼は、とても楽しそうな表情をしている。普段俺たちに見せるのとは違う、もっとこう秘密めいた楽しさとでもいうような、そんな表情だ。
最初は音楽でも聴いているのか、それともスマートフォンで動画でも見ているのかと思った。
同僚の一人が気まぐれにイヤホンのことを尋ねようと近づくと、彼は慌ててイヤホンを外し、すぐにポケットに仕舞い込んでしまった。
「三ヶ嶋、何聴いてんだ? ずいぶん楽しそうな
同僚がそう
「いや、別に……。何も聴いていないよ。ははっ」
と三ヶ嶋は爽やかに笑い飛ばすだけで、イヤホンの詳細については教えてくれなかった。
三ヶ嶋は仕事がよくできる奴だ。業績は常にトップ。大口の顧客に気に入られていて、会社からの信頼も厚い。
頭も切れるし、学歴も俺なんかと比べたら凄いとこを出ている。そして何といっても、彼にはとても綺麗な嫁さんがいる。
たしか名前をナナミさんという。前に写真で見せてもらったことがあるが、美人という言葉はこの人のためにあるのだと言われたら、思わず首を縦に振ってしまいそうになるぐらい美しい人だった。
そんな三ヶ嶋という人間を一言で表すなら、「幸せそうな奴」だ。それも嫌味がたっぷりと詰まった見せつけるような幸せではなく、本人の誠実さが引き寄せる、誰しもが納得のいく幸せっぷり。
彼の近くにいるだけで、自分もその幸せにあやかれるのではないかと錯覚してしまうぐらい、三ヶ嶋は幸せそうな奴なのだ。
そんな三ヶ嶋のことを、たかがイヤホンで何かを聴いているからといって、嫌いになる奴なんてウチの会社にはいなかった。
次第に会社の皆は、三ヶ嶋のイヤホンのことを気にしなくなった。誰にだって、他人に知られたくない秘密の一つや二つあるよな、といった感じでイヤホンの件に触れることは無くなった。
でも、俺だけは違った。
三ヶ嶋が今みたいにイヤホンを着ける前。同い年で仲の良い俺は、暇さえあれば三ヶ嶋としょっちゅう会話をしていた。その会話の中で、俺は三ヶ嶋とナナミさんの仲睦まじい惚気エピソードの数々を、よく聞かされたものだ。
その時の彼と、イヤホンを着けている今の彼は、俺から見たら全くの別人に見える。惚気話やしょうもない世間話でただ笑い合っていた日々は、もう昔のこと。彼は明らかに変わってしまったのだ。
どうして彼が、突然イヤホンを着けるようになったのか。その両耳を塞ぐイヤホンからは、一体何が流れているのか。
いくら聞いても頑なに本人が教えてくれないため、俺の心の中にはモヤモヤとした違和感だけが燻り続けていた。
三ヶ嶋の耳にイヤホンが着いているのが、もうすかっり馴染みの光景となったある日のこと。
俺は仕事を終えて会社を出たところで、後ろから三ヶ嶋に呼び止められた。
彼の両耳は、今日も今日とて相変わらず白いイヤホンで塞がれている。
もし今もそのイヤホンから何かしらの音が流れているのなら、俺が何を言っても三ヶ嶋の耳には届かないのではと思いつつ、
「おう。どうしたんだ、三ヶ嶋?」
と少し大きめの声で訊き返した。
すると一瞬、三ヶ嶋の顔がぐっと険しくなった。眉間に皺が寄り、唇を力強く噛み、何かとてつもない苦痛に耐えているような、そういう表情だ。
でもそれは本当に一瞬のことで、俺が瞬きをニ、三回している間に、彼の表情はいつもの爽やかな笑みに戻っていた。
そしてよく通る声でこう言った。
「なあ、林。よければこの後、ウチに来て酒でも飲まないか?」
突然の三ヶ嶋の誘いに俺は困惑した。
でも、もしかしたら酒に酔った勢いで、こっそり俺にだけそのイヤホンの秘密を教えてくれるかもしれない。すぐにそんな打算的な考えが思いつき、俺は三ヶ嶋の誘いに乗ることにした。
三ヶ嶋の嫁さん、ナナミさんにも一度会ってみたいと思っていたし。
「お前とナナミさんの都合が良いんだったら、俺は構わないぞ」
俺の返答に三ヶ嶋はこくりと頷き、歩き出した。俺はその背中に黙ってついて行った。
電車を乗り継ぎ、コンビニで酒とつまみを買い、三ヶ嶋の家へと向かう。
辺りは暗くなり始めており、所々街灯が点き始めている。
昼と夜の境目の世界を、俺たちは歩く。その間、俺たちは他愛もない会話を少しだけした。上司の佐々木さんが高級車を買ったらしい。いま学生の間ではこんなものが流行っているらしい、とか……。
でも以前のような、三ヶ嶋がイヤホンを着ける前のような盛り上がりはなかった。だから俺たちの会話はしりすぼみになっていき、やがてただ無言で歩くだけになった。
しばらく歩くと、彼の家が見えてきた。新築の一戸建てで、建ててからまだ三年ぐらいしか経っていないはずの白を基調とした家。将来的にはにぎやかな家庭を築くつもりなのか、他所の家に比べて部屋数がやたら多い気がした。
そんなところもなんだか三ヶ嶋らしいな、なんて考えていると家に着いた。
三ヶ嶋と書かれた表札のある門を抜け、ここら辺では珍しい広い庭を玄関に向かって歩いていると、俺はおかしなことに気がついた。
家にはナナミさんがいるはずなのに、外から見た三ヶ嶋の家は真っ暗なのだ。ふと雨戸が閉まっているのかと思ったが、よく見ると雨戸どころかカーテンすら閉まっておらず、家の中が丸見えだった。
三ヶ嶋はそんなこと気にする素振りも見せずに、ポケットから鍵を取り出すと、無言で玄関の鍵を開けた。
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