第23話
「やはり、ここはコリントの王都近くの町で間違いない。元々こんな高所にはなかったようだが」
ぼんやりとした視線を地図に這わせながら、サラが言う。
彼女と合流した後、ペイルを二階のベッドに寝かせて、今は家屋の軒下で今後の方針を練っているところだ。
「じゃあ、ラードーンで後一時間もかからないってことだね?」
「ええ」
相変わらずサラに元気はない。
オレスによると、ペイルの衰弱具合から推して、明日まで生きていられるか怪しいとのこと。悲嘆に暮れているのは、リゼだけではないのだ。
「何があるかわからないし、今日はここで休もうか。君は王子様を看てて。僕たちは何か使える物がないか探してくるから」
サラはこくりと頷くと、のそのそと家屋の中へ入っていった。それを見届けてから、再び町の探索が始まった。
だが、結果的に有用な物は見つからなかった。やはり、百年以上も同じ形を保っていられる物などない。ほとんどの物が朽ちていた。
「次で最後にしよう」と、オレスが入ったのは何かの店だった。中には一本の木が、天井を突き破り上へと伸びている。地面にはいくつもの長方形が散らばっていた。
「書店だ」
「何それ」
「印刷した本を売るお店だよ」
言いながら、オレスは一冊を拾い上げると、簡単に埃を払った。横から覗いてみたが、表紙は所々禿げ、中の紙はボロボロだ。
「ああ、これは知ってる。無名の三流冒険家が書いた、誇張ありまくりの自叙伝だ。エルピスにもあったよ」
「ふーん」
「無駄に物語風でね、護身用のナイフで、竜を真っ二つにしたなんて所は、読んでいてすごい滑稽だった」
聞いてもないことを、つらつらと。
無視していると、突然目の前にオレスの顔が、上下逆さまで現れた。思わず飛び跳ねそうになる。どうやら、お辞儀のような姿勢で、こちらを見ているようだ。
「でもさ、意外と面白い所もあって。彼には仲間がいるんだけど、仲間のピンチの時に必ず駆け付けてくれるんだ」
「ふーん」
「一度、彼は胸を刺されてみんなに死んだと思われるんだ。だけど、奇跡的に生きていて、また仲間のピンチの時に現れる。周りの仲間は、彼を英雄と呼んだ」
だから、何だと言うんだ。
「希望的観測で、無責任な発言だけどさ。僕はまだ君のママは生きてると思ってる。それで僕たちのピンチに駆け付けてくれる。だって、彼は普通とは違うからね。彼は英雄になる。英雄はあんな所で死なない」
「……」
「僕は最後まで信じ続けてるよ」
オレスはニヤリと笑うと、そのまま顔を上げた。
「もう戻ろうか」
書店を出る。
誰もいない大通りに、二つの靴音が寂しく響く。
アドニスと一緒にいる時も、お互い無言でいる時間の方が長かった。が、彼がいないだけで、沈黙がこんなにも重々しいものに変わるなんて。
「お嬢さん、止まって」
オレスに言われて、リゼは顔を上げた。そして、目を疑う。
奥の方から、通りの横幅一杯に広がる黒い何か。それがこちらに近づいて来ているのだ。
「冥獣? おかしいな、あんなのが居たらすぐに気づくはずなんだけど。それに、あっちの方向は……」
オレスは手早く刃物を取り出すと、じっと向こうの出方を窺う。対する相手は速度を緩めることなく、着実に距離を縮めてくる。
彼が刃物を投げる、そのすんでの所でリゼは彼の腕を掴んだ。
「待って」
これにはさすがに、オレスもびっくりした様子。
「お嬢さん?」
「あれ、危なくない」
「え?」
黒い何かとの距離は、もう数メートル。そこまで来て、ようやくその全貌が明らかになった。
それはリゼよりも一回り小さい、奇妙な冥獣の群れであった。丸っぽい輪郭で、短い四本の脚でちょこちょこと歩いている。全身真っ黒で、目のようなものは確認できない。
それらはリゼたちの存在に気づくと、彼女たちを避けるようにして横を通り過ぎていく。まるで意に介していない。
「すごい量だね」
何百体いるのか、冥獣の列はまだまだ続いてる。
どこに向かうのか眺めていると、列の中から数体が離れ、家の扉の前で止まる。そして、それらは上に重なり合うと、一番上の一体が器用にノブを回し、中へと入る。そんな光景が、他の家でも起こっている。やがで、ガラス窓から灯りが漏れて来た。
にわかに誕生する、活気のある夜の町。
「僕たち、夢でも見てるのかな?」
さっきみたいに、逆さまの顔が近づいてきたので、リゼは軽く頬を摘んでやった。「うん、夢じゃない」と、頬を摘み返される。
「そうだ。姫君たちの様子を見に行かないと」
二人は冥獣の列を避けて、サラたちのいる家屋に急いだ。
扉を開けると、まず聞こえて来たのは彼女の悲鳴。
「ひぃ! き、キモい! 近づくな!」
サラは壁の角に体を密着させ、寄ってくる一体の冥獣を足で遠ざけていた。部屋には、他に合わせて五体の冥獣。
「よかった。元気そうだね」
「ど、どこが! 早くこれをどうにかしてくれ!」
「はいはい」
オレスが冥獣を引き離そうとする。その時、冥獣の一体がベッドに上り、ペイルに触れようとした。
「貴様! ペイルに何を!」
サラは弓矢を発現させると、素早くそれを構えた。しかし、横からオレスが彼女の手を押さえる。
「は、離せ!」
「まあ、聞いてよ。どうやら、これに危険はないみたいなんだ」
「は?」
冥獣の動きを観察すると、それはペイルの体に一頻り触れた後、すぐにベッドから降りていった。
と、部屋が急に明るくなる。冥獣がロウソクに火を灯したのだ。
「一体、何がどうなって……」
混乱しているサラの下へ、先ほどの冥獣が何かを落とした。干からびた果物だ。
「歓迎してくれてるってことかな?」
「いやでも、こんなの食べれない……」
サラは渋い顔でそれを見つめる。それでも冥獣が執拗に果物の存在を主張してくるので、彼女は渋々それを手に取った。
ヘンテコな見た目だが、意外と愛嬌のある冥獣だ。
「気になってるみたいだね」
オレスが聞いてくる。
「別に」
「調べてみようか」
「……」
その冥獣の生態は実に不思議なものだった。
冥獣の一体は、汚れた水の張られた桶で、布の切れ端を何度も踏みつけていた。洗っているつもりらしい。が、水の量が多く、途中で溺れそうになっていたため、リゼがそれを助けてやった。それは干からびた果物をくれた。
またある一体は、一階のカウンターに上ると、外からやってきた別の一体と物々交換を行っていた。渡した物は、室内に落ちていた鉄クズ。貰った物は、干からびた果物だ。その後、冥獣はリゼの赤い髪紐を欲しがったが、全力で断った。
窓の外を見ると、さっきまで整然と列を組んでいた冥獣たちは、今は至る所に散らばっている。
さながら人間の営みを眺めているかのようだった。
「つまり、あれは全部、人間が冥獣になった姿だと…… ?」
二階に戻り、今までの出来事を伝えると、サラは目を見開いてそう尋ねた。
「何とも言えない。でも、人間だとしたら、随分萎んじゃうんだね」
「では、ペイルもいずれ……」
同じようになってしまうかもしれない。
と、そこへ二体の冥獣がやって来た。たぶん前述した二体の冥獣だろう。それらは、何やら大きなカゴを頭に乗せていた。
カゴの中には枯れた葉や花が入っていて、独特な匂いが鼻を掠める。
「この匂い…… 薬草…… ?」
サラが恐る恐る尋ねる。すると、一体が短い前脚で、ペイルの方を指し示す。
「まさか、ペイルのために…… ?」
話が通じないのか、冥獣は同じ動作を繰り返すのみ。
「そうかもね。わざわざ毒になるような物を渡しても、向こうに利点なんてないし。受け取っておきなよ」
「それなら……」
サラは中腰になると、カゴに手を伸ばした。
しかし、なぜか冥獣は後退する。
「あれ?」
もう一度手を伸ばすが、冥獣は再びカゴを遠ざけた。
「ど、どういうことなんだ?」
すると、冥獣の一体が、リゼの体によじ登り始めた。そして、肩に到達すると、前脚で彼女の頭辺りを指し示す。
「物々交換ってことだね。その冥獣、さっきお嬢さんの髪紐を欲しがってた」
「髪紐を?」
いや、そうだろうか。この冥獣は、先ほど溺れかけていた個体のように見える。たぶん。
一見、そこまで価値のなさそうな普通の髪紐。
「あ、あげない……」
リゼを首を横に振る。彼女の耳底には、慈悲深そうな女の声が響いていた。
と、彼女の前に、サラが膝をついた。
「お願いします…… ! どうか、それを渡してくれませんか…… !」
小さな、しかし強い感情のこもった声。
「それがどんなに大事な物かは、あなたの反応を見ればよくわかります…… ですが、どうかお願いします…… ! 私にできることなら、何でもします…… ! 腕の骨を折れと言われれば、喜んでそうします。全身の皮を剥げと言われればーー」
「子どもになんてエグい選択肢を与えてるの」
オレスは少し呆れたように言う。
「どうか…… !」
深々と頭を下げるサラ。それほどペイルが大事なのか。
「ママは?」
「えっ?」と、サラは顔を上げる。
「あげたら、ママも帰ってくる?」
「い、いいえ…… それはできません…… 私は無力で、何の役にも立ちませんので……」
サラは再び頭を下げた。
「別にそんなに頼み込まなくても、冥獣から奪い取ればいいよ。相手は、今まで散々殺してきた冥獣だし。仮に元は人間だったとしても、今は違う」
「し、しかし、それは……」
「何でもするんだよね? 君にできる一番簡単な解決法だと思うけど」
オレスは目を細めて、そんなことを言う。楽しんでいるのか、はたまた、何か見極めようとしている風にも見えるが。真意はわからない。
一方の冥獣は、こちらでどんな恐ろしい談議が交わされているのか知らず、催促するようにぴょこぴょこ跳ねていた。
サラがゆっくりと冥獣を見やる。しかし、まだ迷っている様子。オレスの指摘もそうだが、根本には、恩を仇で返すという非人道的行いを是としない、彼女の良心が働きかけているのだろう。
リゼは横目でペイルを見た。当初はアドニスのことを敵視していて、嫌いな人間だった。が、ある日の
彼女は髪紐を解くと、それを冥獣の上に置いた。
「あげる」
「リゼさん……」
しばらく呆気に取られていたサラは、「感謝します」と、
だが、予想外のことが起こった。冥獣は髪紐を振り払ったのだ。そして、またリゼの頭に脚を向ける。
「欲しいのは髪紐じゃないの?」
「え、では一体何を……」
「ああ、そうか。この冥獣、お嬢さんが欲しいんだ。よく見たらこれ、さっき溺れかけてた所をお嬢さんに助けられた個体だ。惚れられちゃったかな?」
急に辺りが静かになった。
「そ、それはできません! アドニスさんの大事な人を差し出すなんてーー」
「いいよ。リゼ、ここに残る」
「え、リゼさん、何を……」
「ママがいないなら、どこでもいい」
サラは口を半開きにしたまま固まっていたが、程なく、脱力したように
契約が成立したと悟ったのか、冥獣は薬草を
その途中、外の方から微かな音が耳に届いた。
「鐘の音?」
サラが言う。
耳を澄ますと確かに聞こえる、鐘の重い響き。
それが鳴り止むと、冥獣たちがにわかに慌ただしく動き始めた。と、それはオレスとサラの足元に近づいてきて、ズボンの裾を引っ張る。
「ついて来いってことかな? 僕たちだけ?」
「一体どこへ…… ?」
あたふたしている間も、冥獣は二人を急かすように引っ張っている。
「行ってみようか」
「え、でも、まだ色々と話が……」
「何か危険なことだったとしたら、この家にそれを近づけるわけにはいかないし」
オレスの一言で、サラは同行することを決めたようだ。
「じゃあ、お嬢さんはここで、彼の看病を頼むよ」
リゼが頷くのを見て、二人は階段を降りて行った。窓から外を覗くと、再び冥獣の群れが通りを占拠しようとしていた。
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