第22話

 球状にまとまったマヴロカミキリの群れが、暗い岩の狭間へと落ちていく。それに吸い寄せられるように、他の虫たちも後を追う。あの中心にアドニスがいるのだ。

 リゼの心に死への恐怖はなかった。むしろ、彼と離れ離れになる恐怖が背中を押した。

 彼女はそのままずり落ちるようにして、ラードーンを離れる。しかし、不意に腹に圧迫を感じると、体が上へと引き戻されていく。


「おっと、そうはさせないよ」


 見上げると、オレスの顔が間近にあった。彼に抱えられてしまったらしい。


「離して」

「それはできないな」

「いや、リゼも行く。もう一人になりたくない」


 オレスは耳を貸そうともしない。

 どんなに足掻いても埒が明かないので、リゼは彼の細い腕に思い切り噛み付いてやった。しかし、彼は痛がる素振りすら見せず、柔和な声でこう言う。


「君が死ぬことを、ママは望んでいないよ」


 今の自分の力では、ここから脱するのは不可能だ。リゼはとうとう抵抗を止めた。気づけば、大粒の涙が流れ出していた。


「全ての虫が、アドニスさんを追って……」


 サラが放心し切った顔で言う。腰が抜けてしまっているのか、彼女は地面に座ったまま動かない。


「その子の容態は?」

「わ、わからない…… あの虫に何ヶ所も噛み切られているが、傷だけなら応急処置をすればなんとか……」

「でも、何か様子がおかしいね」


 確かに、ペイルの体には、あちらこちらに目を背けたくなるような傷口が広がっている。まるでねじ切られたような跡だ。出血の量も多い。だが、これだけなら、即命に関わる怪我ではなさそうに思える。

 しかし、彼は時折体を痙攣させ、目もどこか虚ろである。


「もしかして、ラードーンの毒が回っちゃったんじゃないかな?」

「まさか、あの虫に毒が塗られた状態になっていて……」


 サラの顔色がどんどん悪くなっていく。


「私のせいだ…… また、私のせいで……」

「あ……」


 不意に、ペイルがか細い声を発する。


「ペイル! 大丈夫ですか!?」

「あ、アドニスは…… ?」

「あの虫たちと一緒に下に……」

「そんな…… あいつと一緒に……」


 呂律が回っていない声で、途切れ途切れに言う。


「先に進んで…… 隊長たちを、助けて……」

「で、ですが……」

「お願い…… あいつと、約束したんだよ…… 絶対助ける……」


 それだけ言い切ると、ペイルは再び意識混濁になる。

 しばらく呆然と彼を見つめていたサラだったが、ふと慌てたように導灯盤の蓋を開けた。


「導灯盤が……」


 ガラスの中にいる、光虫がほのかな光を発して、ゆっくりと二本の針の間を進んでいく。それによって、針はある一方向を指し示した。

 このまま真っ直ぐだ。


「いや、今から引き返して、エルピスに戻れば……」

「そこまで間に合わないことくらい、君にもわかるよね? そもそも、エルピスが彼を受け入れてくれるわけないよ」

「でも、アドニスさんがいなければ、このまま進む意味もないし…… ペイルを放って置いたら……」


 サラはすっかり混乱してしまっている。体が震え、呼吸の回数も多い。


「わかったよ。ここでみんな仲良く一緒に死のう」

「え…… ?」

「だって、君もわかったでしょ? この冥霧で生きていくことなんてできない。知識のある二人がいなくなったら尚更だ。停滞でも、後戻りでも、そんなの苦痛を引き延ばすだけ。何も成し得ない。それなら、ここで潔く終わらせちゃおうよ」


 そう言うと、彼は口を開け、舌を出した。舌の中央には、深緑色の結晶が埋め込まれている。そこから同じ色の刃物が生成され、オレスはそれを掴み、切先をサラへと向けた。


「大丈夫。楽に終わらせてあげるから」


 オレスが刃物を振り上げる。

 リゼには何となくわかった。彼は本当に殺す気だ。


「先に…… 進む……」

「そう。じゃあ、これは温めておくよ。止まりたくなったら、いつでも言ってね」


 刃物はオレスの手を離れる寸前であった。

 ラードーンは頭部のほとんどを食われていたが、すぐに再生した。同じてつを踏まぬよう、今度は空高くから、探索をすることになった。

 遠ざかる、アドニスの落下した場所。リゼはそこから目を離すことができなかった。


「ママ……」

「彼を助けられなくてごめんね」


 オレスが不意に呟く。チラリと見ると、彼の目には涙が浮かんでいた。


◆◇◆◇


 それからは、皆何も喋らなくなった。

 サラはペイルに付きっ切りだし、オレスは真っ直ぐ前を見据えているばかり。彼の腕に抱えられているから、身動きもとれない。

 リゼの視線に気づいたのか、彼はこちらを見る。


「花、いるかい?」

「いらない。ママがいい」

「おっと、これは難しい注文だね…… 今は良い返しが思いつかないから、答えはお預けにしておいて」


 オレスの言うことはよくわからない。


「ん? あれは……」


 オレスはじっと目を凝らす。


「何か見えて来たよ」


 オレスの声に気づき、サラが近づいてくる。酷くやつれた顔だ。


「町…… ?」

「らしいね」

 

 ラードーンの進む先。

 巨大な岩の柱が複雑に絡み合いながら、樹木の如く上へと伸びている。今飛んでいる位置よりも、さらに高い。それらは頂点に達すると、再び一つの大地へと変わっていて、その縁からは何やら建造物が目に入る。

 ここからは見えるのは、木製のアーチや、いくつかの家屋。


「導灯盤の反応は?」

「同じ方向を指しているが、まだ反応は弱い」

「あれだけ建物が残ってるなら、現在地がわかる物があるかもしれない。あんな場所に町があるのは不思議だけど」

「もしかしたら、解毒剤があるかも……」

「あんまり期待しない方がいいと思うよ」


 ラードーンが上昇を始める。そして、上から危険がないかどうか確認すると、アーチを潜り抜けた先で着陸した。

 

「すごいね。ここまで綺麗に建物が残ってるなんて」


 オレスが驚くのも無理はない。

 そこはちょっと古めかしい町という印象。つまり、今も町として機能していてもおかしくない状態なのだ。

 リゼたちがいる所は、町の広場だろうか。視界の両端に占めているのは、所々が損傷しているが、まだまだ住めそうな石造りの家屋。中央には、頭部の取れた人間の石像。さすがに植え込みは枯れ果て、水路と思しき溝は乾き切っているが。


「まるで定期的に補修がなされているかのような……」

「上から見た感じ、何もいなさそうだったけど」


 オレスは辺りを見回す。


「中を見てみようか。ベッドでもあれば、彼を寝かせてあげられる。君はここでラードーンの見張りを」

「はい……」


 サラは依然ぼーっとした様子。


「お嬢さんはどうする?」

「知らない」

「じゃあ、僕と一緒に行こう」


 そういうわけで、半ば強引にリゼも同行することが決まった。

 大きなガラス窓で中身が丸見えの一軒目は、どうやら店のようだ。中はホコリの匂いで一杯で、少し肌寒い。いくつかの陳列棚は壁から離れ、思い思いの方向に散らかっていた。

 オレスは部屋の真ん中でリゼを下ろす。


「よし、こうしよう。お嬢さんは一階を調べてみてよ。僕は二階を調べるから。何かあったら呼んで」

「何かって?」

「何でもいいよ」


 適当なことを言い残して、オレスは正面左奥の階段を上っていく。ミシミシと朽ちた木材を踏みしめる音。

 リゼはしばらく所在なげに立ち尽くしていたが、ふと振り向くと、玄関の方に向かった。そして、ノブに手を伸ばす。


「ママ……」


 探しに行かなければ。

 しかし、ここを出て、どうやってアドニスを探そう。自分では、あの岩場に戻ることすらできない。

 だが、体の奥底は燃えるように熱く、全身に空回り的に血液を巡らせ続ける。行き場を無くした熱が、今度は心臓を乱暴に動かす。苦しい、辛い、怖い。

 リゼは手を下ろした。誰でもいいから、声を聞きたい気がした。助言が欲しかった。


「花のおっさん」


 呼びかけてみるが、あの剽軽ひょうきんな声はしない。

 仕方なく、リゼは部屋の奥へと進む。足元には、商品だったのか、金属の断片などが落ちていて歩きにくい。

 それで、下に注意しながら進んでいると、一枚の紙が目に入った。何気なく拾い上げてみると、すぐにピンと来た。


「地図」


 アドニスが似たような物を持っていた。これなら、自分たちの位置を把握できるに違いない。

 だが、これはかなり目立つように置かれていた。オレスは見逃したのだろうか。


「花のおっさん、地図あった」


 階段を上り切った時、大きな音がした。

 ギョッとして、横の壁から恐る恐る顔を覗かせる。扉のない広めの一間ひとまの奥、ボロボロのベッドの上で、頭を抱えてうずくまるオレスの姿があった。ぶつぶつと何か言っている。


「花のおっさん」


 名前を呼ぶと、オレスはガバと頭を上げた。


「ん? ああ、お嬢さん。何かあったのかな?」

「地図あった」

「おお、それはすごい。君は賢い子だね」

「うん」

「花はいるかい?」

「いらない」


「そうか」とオレスは立ち上がる。


「それじゃあ、あの世話が焼ける姫君を呼びに行こうか」

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