第20話

 アドニスの下半身は、存外早くに見つかった。枝の隙間に引っかかたりせずに、地面に落ちていたのは運が良かった。

 その後、彼は近場にあった湖で体の汚れを落とした。冥霧内の水は、飲み水としての安全性は不明だが、少なくとも肌に触れても特段の異変は起こらない。これはウルカヌが自らの体で実証済みだ。

 

 アドニスの姿が元に戻ると、早速ラードーンの背中に乗り込むこととなった。

 その巨体故に、登るだけでも一苦労。背中は一面結晶だらけで、まともにくつろぐことすら叶わない。

 しかし、ただ一点、安定性に関しては申し分ないレベルであった。飛び立つ瞬間から、方向転換の時まで、ほとんど揺れはない。まるで、背に乗る主人を慮っているのかと思われる程だ。


「すごい…… ! 本当に冥獣を操れてる…… !」


 ペイルは身を乗り出して、周囲を見渡す。

 既に巨大樹が下に見える高度。と言っても、視界はあまり利かないため、景色は良いと言えない。


「あまり端に寄り過ぎると、揺れた時に落ちてしまいますよ」

「こ、子どもじゃないんだから、そのくらいわかってるよ!」


 顔を顰めてサラに抗議した側から、ペイルは「なんだあの冥獣!?」とさらに端の方へと寄っていく。


「あいつは何をあんなに騒いでいるんだ?」

「彼は根っからの研究大好き人間なんです。とりわけ、冥霧のことについて強い興味を持っていまして。それで、少し興奮しているのだと思います」


 サラが軽く説明をする。


「好きなことを前にすると、人間はああいう反応を示すのか?」

「は、はい。多少温度差はあれど、大体の人が興奮してしまうものかと」


「なるほど」と、アドニスは手帳を取り出して、サラの発言をまとめ始めた。


「君はまめだね。そうまでして感情が欲しいの?」


 オレスが揶揄うように目を細めて尋ねる。


「欲しいかどうかよくわからない。ただ、アネモネは感情があった方が、良い事がたくさんあると言っていた。それに、リゼを育てるためにも、人間に近づかなくては」

「感情はそんなに良い物じゃないと思うよ」

「なぜだ?」

「心の傷は、君の体と違って癒えない。どんどん形が歪になっていく。それだけ」


 オレスは器用に結晶の間に寝転ぶと、本当にそれきり何も教えてくれなくなった。そんな彼を、サラは胡乱うろんな目つきで一瞥いちべつしてから、こちらを向いた。


「今はコリントにたどり着くことが先決です」

「そうだな。この速さなら、どれくらいで着く?」

「冥獣がどれだけ飛べるか不明ですが、おそらく二、三日もあれば」


 だいぶ時間を短縮できたようだ。


「だが、空からでは国があっても見えないな」

「それなら、心配には及びません」


 そう言って、サラは自分の首にかかった紐を外し、こちらに見せてきた。それは白い下地に、金色の複雑な彫り込みのある、円盤型の何かであった。

 普段はこんな首飾りを下げてはいなかったが。これがどうしたのだろう。


「これは?」

導灯盤どうとうばん。かつて、プロメテウス隊が灯晶塊を発見するために使っていた道具です」


 サラが円盤の縁に触れる。すると、その上半分がぱかりと開いた。

 中はガラスが張られ、中心から二又に分かれた鉄の針が、上下に伸びている。一見すると、風変わりな意匠のコンパス。だが、特筆すべきは、その中心部だ。


「虫」


 後ろから、リゼの物欲しそうな手が伸びる。

 確かに、円の真ん中に、金色の小さな甲虫が嵌められている。動く気配はないが、針などで固定されているようにも見えない。


「はい。この光虫ひかりむしの特性を利用して、灯晶塊を見つけ出します」

「光虫とは何だ? 初めて見た」


 アドニスが尋ねると、なぜかサラは目を丸くする。


「ええと…… この虫は今は仮死状態ですが、近くに灯晶塊があると、そこに飛んでいく性質があって。光虫が反応すると、この二本の針の間を通り、針を灯晶塊のある方角へと向ける。いわば、灯晶塊用のコンパスです」

「そんな所に入れて死なないのか?」

「この虫が死ぬことはありません。潰しても、栄養を与えてなくとも」


 死ぬこともできず、人間に利用され続けるとは。まるで、村にいた時の自分のようだ。だからといって、その小さな命に同情を覚えることなどないが。


「それなら、飛びながらでも探し出せるな」

「はい。ですが、たどり着く前に、いくつか問題が」


 サラは深刻な顔をする。


「なんだ?」

「まず、冥霧内だと、私たちの灯晶術の力がかなり制限されることです。それに、感情の消耗も激しい。これは体内の灯晶が私たちの意識外で、冥霧の害を中和することに力を割いているからだと思われます」


 確かに、サラの顔には多少の疲れが見える。オレスが横になったのも、精神の疲労が原因だろうか。


「それともう一つ。食料と水の確保です。せめて水がなければ、人間は一週間と持たずに死んでしまいます。一応、騎士団用の水筒と携帯食は持って来たのですが……」


 今度は、サラは腰から吊るしていた布袋を開く。そこには五、六個の四角い土の塊のような物が入っていた。彼女曰く、これは種々の穀物をすり潰したものを、蜂蜜等で練り固めた食料らしい。


「四人で分けるとして、後何日持つか……」

「僕にもくれるんだ。やっぱり君は優しいね」

「貴様は黙っていろ」


 オレスに茶々を入れられ、サラは少し声を荒らげた。二人の仲はかなり悪いようだ。


「何を言ってる。食料なら、そこらにたくさんあるだろ」

「え…… ?」


 サラは困惑した様子でこちらを見た。


◆◇◆◇


 数時間後、アドニスたちはおあつらえ向きの洞窟を見つけて、そこで夕食を取ることにした。周囲の明るさが変わることはないから、今が夕暮れ時なのか判断つかないが。

 洞窟内の安全を確認すると、真っ先に火を起こした。その後、アドニスはリゼを連れて、早速食材を探しに行った。ラードーンの見張りは他の者に任せて。

 それから小一時間。再び洞窟に戻ってきた彼の腕には、溢れんばかりの食材が抱えられていた。


「これが冥霧産の食べ物…… ! それも、この短時間でこんなに…… !」


 サラが驚きながら、食材を下ろすのを手伝う。


「冥霧内の植生さえ理解していれば、このくらい他愛もない」

「すごいね。これは何ていう植物なの?」


 オレスが指差したのは、太いロープを束ねたようなぐるぐる巻きの植物。表面からは縮れた毛がたくさん伸びている。


「正式名称は知らんが、親父は毛深腸けぶかちょうと呼んでいた」

「わお、いいネーミングセンスだね。絶妙に食欲が削がれる」


 オレスはニコニコしながら頷く。


「じゃあ、こっちは? かさの形が気持ち悪いキノコ」

「キモいキノコ」

「急に適当」


 心なしか、オレスの声に張りがなくなった気がした。

 

「これって本当に食べられるの?」


 素っ気ない感じで、そう聞いてきたのはペイルだ。


「親父もリゼも食べたが、死ななかった」

「いやでも、その子あの時食中毒になってたんだけど……」

「ママ、お腹減った。リゼ、スープがいい」


 リゼは先ほどから空腹を訴えている。


「わかった」

「スープって…… 鍋はどうするのさ?」

「それなら」


 アドニスはおもむろに自分の片足を外し、縦から真っ二つにする。皆不思議そうな目をしてそれを見ている。


「これを使う」

「えぇ……」


 持ってきた食材を、皆の灯晶術を用いてぶつ切りにすると、それをアドニスの太腿の中に詰めた。最後に湖で汲んだ水を入れて、火にかける。味付けは、彼の腕に仕込まれた調味料が役立った。

 彼の体は木製ではあるが、意外と耐火性にも優れている。ちょっとやそっとじゃ炭にはならない。これらは全て、ウルカヌがサバイバルをできるように改良した結果だ。

 彼の太腿がグツグツと煮立ち、白い湯気が洞窟内に広がっていく。


「できたぞ」


 アドニスの声で、皆が顔をのぞかせる。

 だが、誰一人として手をつけようとはしない。お互いの様子を窺っているようだ。

 そんな中、リゼは木の皮を持ち、我先にとスープを掬おうとする。が、どうやら上手く掬えない様子。


「待ってろ。俺が掬ってやる」


 代わりにアドニスがスープを掬うと、軽く息を吹きかけてから、彼女の口へと持っていた。彼女は大きく口を開け、それを一息に飲み込む。


「おいしい」


 リゼはこちらを向いて、感想を漏らす。

 

「あまり急いで食べるな。人間は火傷をする」

「うん」

「それじゃあ、僕もいただこうかな」

「わ、私も……」


 オレスに続いて、サラも恐る恐るスープを口に含んだ。二人はしばらく、無言で口を動かしていたが。


「うん、悪くないね! キモいキノコの出汁が効いてるよ!」

「味が薄くて、獣臭くて…… 意外と病みつきになる味…… これは悪くないですね」


 二人の食べるペースが一気に上がる。

 

「ちょっ、そんなに食べて、毒でもあったらどうするの? 冥獣みたいになっちゃうかもよ?」

「食料がなければ、どっちみち餓死してしまいます。いらないなら、ペイルの分も貰っていいですか?」


 言いながら、サラは次々に具材を口へと運んでいく。

 ペイルは信じられないという目で見ていたが、正直者のお腹が情けなく鳴いた。


「ぼ、僕もっ!」


 少々捨て鉢の勢いで、ペイルもスープを口に入れる。そして、祈るように目を閉じていた。が、やがて目を開けると、ぽつりと呟く。


「悪くない……」


 結局、あれだけあったスープは四人が平らげてしまった。

 食事が済むと、明日の段取りを話し合い、仮眠を取ることになった。幸い、アドニスは眠る必要がないため、交代なしで見張りを務めることに決まった。


『今日一日で色々なことが起こった。そして、その中で、人間たちの感情の激しい変化を多く目にした。だが、その内のほとんどが俺には理解できないものだった。

 最後に見たローザの笑顔。アルネブが俺を逃すために、危険を冒したこと。二人は俺を逃すために奮闘し、捕まった。命を賭けて。


 あれだけのことがあっても、俺の胸はうんともすんとも言わない。ここ数日で、人間に近づいた気がしていた。だが、何も変わっていない。

 なぜ、俺の表情は変わらない。なぜ、涙が出ない。


 答えはどこにある』


 今や日課の一つとなった、手帳への記入を進めていく。

 アドニスはふと手元に置いてあった、水筒を手に取った。「喉が渇いたら、これを」と、サラに渡されたのだ。いらないと言ったのに。

 彼は蓋を開けると、おもむろに口の部分を目に向けた。ちょろちょろと流れ出る水は、彼の目を濡らした。視界がぼやける。ただそれだけだ。


「これが涙…… だが、胸の痛みはどうすればーー」

「ママ?」


 振り向くと、洞窟の岩影からリゼが覗いていた。


「泣いてるの? なんで?」

「これは水を垂らしただけだ。明日は早い。お前も今のうちに寝ておけ」

「ここで寝る。ママと一緒がいい」

「…… 好きにしろ」


 リゼは駆け足でこちらまで寄ってくると、あぐらをかいているアドニスの脚の上に寝転がった。非常に窮屈そうだったが、彼女はすぐに眠りに落ちていった。

 

「これでは続きが書けない」


 地面に置かれた手帳を眺め、アドニスは呟いた。

 その時、ふと右手に持った歪な球が視界に入る。そこからは細い紐のようなものが伸びており、それを辿るとラードーンに行き着く。

 核を取り出してからというもの、ラードーンは嘘のように大人しい。ペイルも、ここまで性格が豹変するのは珍しいのではないかと、舌を巻いていた。


「アン…… ジア」


 また、あの不可解な唸り。人間の言葉のようにも聞こえるが、当てはまりそうな単語もない。だが、何か意味があるように思えてならない。

 その金色の瞳は、先程からずっとアドニスを見ている。

 

「何か言いたいことでもあるのか?」


 試しに聞いてみたが、案の定返事はない。思い過ごしだろうか。

 ラードーンから視線を外しかけたその時、その背中にある結晶の一つに、何かが埋まっているような気がした。だが、大量に乱立する結晶。すぐに見失ってしまった。


「今何かがあったような気がしたがーー」

「何してるの?」


 洞窟の方を見ると、ペイルが不審そうな顔をして出てくるとろこだった。


「いや、何でもない。お前はどうした?」

「え、いや…… ちょっとトイレに」


 ペイルはそう言って、そそくさとアドニスの横を通り抜ける。が、なぜか目の前で右往左往している。


「何をしてる? あまりそこでうろうろしていると、冥獣に食われるぞ」


 アドニスに指摘されると、ペイルはぎくりと飛び跳ねた。そして、回れ右をしてこちらに戻ってくる。


「ちょっと、隣失礼するよ」


 ペイルは地面にどかりと腰を下ろした。しかし、それからまた喋らなくなる。


「なんだ?」

「いや、その…… だからさ…… 」


 ペイルはこちらに向き直ると、ゆっくりと頭を下げた。


「ごめん」


 一向に上がらないペイルの頭を見て、アドニスは首を傾げる。


「何がだ?」

「何がって…… 今日僕が君に取った態度のこと」


 今朝のやり取りのことかと、ようやく思い出す。

 アドニスは気分を害することなどないから、明らかな悪以外、善悪の線引きがわからないのだ。ことに道徳的なことについては門外漢なのである。だから、なぜペイルが謝罪するのかもわかっていない。


「言い過ぎだった。君は謝ってくれたのに、責任がどうとか、意地の悪い返事しちゃって」

「だが、事実だ。俺には感情がないから、責任とかも感じない。所詮は全部人間の真似事だ。だから、人間であるお前の反応は、正しいものだと思う」

「そ、それだけじゃないよ。君を悪者にして、自分の責任から逃げようとした。あのオレス・ティアーズの言う通りだ」

「だが、俺がエルピスに来たことで、結果的にこうなった。やはり、俺にも非はある」


 ペイルは目を丸くして固まってしまう。だが、今度は急にその顔のまま彼が接近してきて一言。


「なんで全肯定!?」

「あまり騒ぐな。冥獣が寄ってくる」

「え、何? もしかして、僕試されてる? そういうのだめ。期待されると僕は…… あっ、お腹……」


 腹に獣でも飼っているのかと思うほど凄い音。ペイルは地面にうずくまる。


「大丈夫か?」

「気にしないで。そういう体質なんだ……」


 数分かけて、ようやくペイルは起き上がった。なぜだか吹っ切れたような顔になっている。


「僕がプロメテウス隊に入ったのは、つい最近のことなんだけどさ。その頃は隊全体が殺伐としてたんだ。先輩なんて、ほとんど笑うことはなかった」

「ローザがか」

「うん。冗談とかは良く言うんだけど…… なんていうか、思い詰めたような、ちょっと怖い目をしてた」


 あまり想像できない。


「でも、君が来てから、二人は元気になった。君の研究に夢中になって、僕と話す時もその話題で持ち切りで。先輩もよく笑うようになって。本当に楽しそうだった。…… たぶん、僕は君に嫉妬してたんだ」

「嫉妬とはなんだ?」

「え、その、なんていうか…… 要は、君みたいになりたかったっていうか……」

「なぜ俺に? 死ににくいこと以外、何の利点もないだろう」


 ペイルは口をつぐんでしまう。


「おい、なぜ俺になりたいんだ?」

「あ、あんまり人のことを詮索するのは良くないんだよ!」

「そういうのに疎くて。ごめんなさい」

「いや、謝るようなことでもないけど……」


 よく意味がわかっていないアドニス。そんな彼を持て余してしまっているペイル。

 一度息を吐いてから、ペイルは話を戻した。


「それで、僕は君のことをよく知ろうともせず、拒絶してた。君は今本気で二人を助けようとしてるし、僕の命を救ってくれたのに。あの時はありがとう。君は良いオートマタだ」

「お前もリゼの命を救ってくれた。お前のおかげだ。ありがとう」


「そのくらい、当然だけどね」と急に小声になるペイル。

 そんな彼を見ていて、アドニスはふと思い立った。彼の方に体を傾けると、手を伸ばす。彼はキョトンとした顔でそれを見る。


「なに?」

「友好関係。お前とはまだ結んでいなかった」

「ああ、そういえば、そうだったね」


 ペイルは照れ臭そうにしながら、アドニスの手を軽く握る。


「これで僕も、本格的に君の研究メンバーの一人か。もう完全に言い逃れできなくなるな」

「そうだな」

「絶対、二人を助けだそうね」


「ああ」と頷いてから、ふとアドニスの頭に疑問が浮かんだ。

 

「なあ、お前はどうしてあの二人を助けたいんだ?」

「二人が好きだから」


 もっと長々とした説明が来ると予期していたため、アドニスは反応に遅れた。


「それだけなのか?」

「うん。それ以外に理由なんていらないよ。好きっていう感情はそれだけ大きいんだ。僕の弱気を吹き飛ばしちゃうくらい」

「そうか」

「君だってそうだ。二人を助けたいと思ってるし、現にその子の世話だってしてる。だったら、君も僕と同じ風な気持ちなんだと思うよ。たぶん君がそれを認識してないだけ」


 なんだか違う気がして、アドニスは曖昧な返事しかできなかった。

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