第33話 元和偃武



 秀頼、淀殿は自刃したが、秀頼には側室の産んだ男児がいた。国松と名付けられたその子は、まだ8歳であった。伏見に匿われていた国松は捕縛され、洛中引き回しの後、六条河原で斬首にされた。豊臣家の血筋は根絶やしにする――という徳川の執念が感じられる。

 同じく、捕らわれていた長宗我部盛親も斬首にされている。


 秀頼には娘もいた。国松の妹にあたるこの子は千姫の養女となり、鎌倉の東慶寺で尼僧となることで助命された。これは、血筋は男にのみ伝わり、女には伝わらない――と当時では考えられていたからである。


 また、家康は京都の豊国神社を破却させた。秀吉が、豊国大明神として祀られていたからである。滅ぼした相手の血筋の者が〝神〟であるのは、何かと都合が悪かったのだろう。


 朝廷は7月に、元号を〝慶長〟から〝元和〟へと改めた。


 様々な戦後処理を済ませた家康が京都を発ったのが、8月4日。23日には駿府城に戻った。

 年が明け、元和2年1月。家康は死因としてよく言われる、〝鯛の天ぷら〟を食べてあたった。もっとも、亡くなるまでの期間が長過ぎるため、ただの食べ過ぎとの説もある。

 4月17日、家康は駿府城で死去。享年75歳。当時の平均寿命を考えれば十分に長寿であり、大往生であった。


 死去後、家康は神として祀られることとなった。その神号を何にするか――を秀忠に問われた知恵者の1人、金地院崇伝は慣例的な尊称の、


「〝大明神〟がよろしいかと存じます」


と述べた。もう1人の知恵者である天海僧正は、


「〝大権現〟がよろしかろうと存じます」


と言った。秀忠が、


「何故じゃ?」


と問うと、天海僧正はさも当然のこととして言った。


「〝大明神〟は、げんが悪うございまする」


 天海僧正の言葉に秀忠が眉を顰め、


「何故じゃ?」


と繰り返して問うと、天海は姿勢を正して続けた。


「〝豊臣大明神〟は破却されてございまする」

「おお! そうであった。確かに〝大明神〟では験が悪い」


 そうして、家康に〝東照大権現〟の神号が後水尾天皇から贈られ、神として祀られることとなったのである。



 〝元和偃武えんぶ〟という言葉は、〝偃武〟が武器を納めて用いないという意味で、応仁の乱から続いていた戦国時代が、大阪夏の陣を最後に、大名同士が争うことがなくなった――と宣言したものである。



                             ―完―


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

元和偃武 ~関ヶ原合戦から、大坂夏の陣まで~ 赤鷽 @ditd

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画