第32話 大坂城、落城



 撤収した豊臣方を追って、徳川方が大坂城に殺到。堀もない本丸だけの裸城では、押し寄せる攻め手を防ぎようもなく、各地で火の手も上がり始めていた。

 そんな中、台所頭を勤めていた大角与左衛門おおすみよざえもんが徳川方に寝返り、手土産代わりに――と御殿の大台所に火を点けた。たちまち燃え広がった火に、秀頼たちは千畳敷御殿を出て、天守閣で守りを固めようとした。しかし、本丸にも火は燃え移ったので天守閣にも長くはいられず、本丸の北東に位置する山里曲輪に逃げ込んだ。山里曲輪にある糒櫓ほしいぐらにである。ここまで付き従う者は30名に満たなかった。


「秀頼殿」


 疲労困憊した顔で、淀殿は秀頼に声を掛けた。名を呼ばれた秀頼は黙って淀殿を見た。暫し淀殿の顔を見詰めた後、


「母上。お疲れではございませぬか?」


と、母を労った。いつもと変わらず優しい気遣いを見せる我が子に、淀殿は顔を伏せ、ようよう声を振り絞るように言った。


「秀頼殿……。この母を許してたもれ」

「如何なさいました? 母上」

「この母を許して給れ……」

「母上?」

「この母がいなければ、豊臣家が滅びることはなかったであろう……」

「母上、何を申されます」

「この母が、亡き太閤殿下の威光を笠に着て、『ああだ、こうだ』と言わなんだら、諸大名も豊臣恩顧の者たちも豊臣家を見限らず、徳川殿も秀頼殿だけならば助けて下さったであろうに……」

「そのようなことはございませぬ。母上はただ、この秀頼と豊臣家を護ろうとなされたまでのこと」

「秀頼殿……」


 秀頼の言葉に、淀殿は項垂れていた顔を上げた。その淀殿の手を取り、秀頼はいつもと変わらぬ声音で言った。


「秀頼は、母上あっての秀頼にございまする」

「そのように言ってくれるか。されど……」

まことに不甲斐なきは、この秀頼にございまする」

「そのようなことはない。母が……」


 秀頼は頭を振り、淀殿の言葉を遮って、


「秀頼の代で豊臣家が滅びるならば、それもまた天命でございましょう」


と、そう言った。もはやこれまで――と秀頼はすでに覚悟を決めていたのである。


「秀頼殿……」


 淀殿が声を詰まらせながら秀頼の名を呼んだ時、この糒櫓に向けて一斉に鉄砲が放たれた。ここに潜んでいることが徳川方に知れ、秀忠の命を受けた井伊直孝隊が鉄砲を射掛けたのである。午の刻(午後12時)頃であった。

 秀頼は最後まで付き従ってくれた者たちの顔を見回し、声を掛けた。


「皆の者。これまで、この秀頼に仕えてくれて感謝している。しかしながら、秀頼の力拙く、天命も尽きた。儂はここで腹を切るが、出来得るならば、皆には生き延びて欲しい」

「秀頼様……」

「もはやこれまで。櫓に火を放て」

「ははっ」

「介錯を頼む」

「畏まりました」

「では」


 火を点けた糒櫓は燃え上がり、中では秀頼と淀殿を始め、付き従った者たちは皆、自刃した。

 父、秀忠の許に帰された千姫は秀忠、家康に、秀頼と淀殿の助命を求めていたが、ついに叶わなかった。



 「彦右衛門(鳥居元忠)。そちとの約束、果たすのに15年も掛かってしもうたわ」


 燃え上がる大坂城を見詰め、家康は1人、関ヶ原合戦の前に〝天下を取る〟――と約束した友に、他の誰にも聞こえないような小さな声で語り掛けた。



 こうして――。太閤秀吉が心血を注いで造り上げ、難攻不落と謳われた大坂城も灰燼に帰したのである。



 

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