脚で立つ
ペールギュント第一組曲「朝」のオーボエ。レースカーテン越しに差し込む陽光をそのまま受け取る、白い部屋。自分が眠っていたとは思えないほど行儀のいい綿布団から出る、部屋に負けぬ色の腕は恐ろしく細い。
ベッドの横に車椅子とパイプ机。机に置かれたものを取ろうとして、気づく。
「っ、足が」
膝から下の感覚が、ない。あるはずの両足が、蒸れた布団の不快感も触感も、伝えてこない。ぴくりとも動かない。
棒切れのような腕を頼りに体を動かして机の物を取る。一輪の造花。ガーベラだ。
『誕生日おめでとう』
花にグリーティングカードでそう添えられている。知る人の字ではない。
外から小さな喧騒が近づいてくる。
「回診でぇす」
白衣の男が二人、目が合った途端顔色を変える。
「……まさか。観音様か阿修羅か、答えが出たんだね」
「え、と……自分自身です。発端は、卑しい衆生でした」
「……わかった。ありがとう。それと、憶えている限り最後の記憶を教えてほしい」
「汚い路地のコンクリートに突っ伏していて、……その後に憶えているのが……建物から落ちるところです」
「それは、自信をもって現実と断言できる記憶についてだね。他を入れれば、もっとある」
隣、いいかな。今話している初老の男がベッドに腰かけた。
「まさかこうもいきなり面と向かってお話ができるようになるとは思っていなかったよ。どんな顔して挨拶したらいいか……答えを出す前にその時が来てしまったね。現実とはいつもこうさ」
返す言葉が見つからない。この人のことは自分の記憶にないのに、変な親しみを込めて話してくる。部屋の雰囲気から考えるにここはたぶん病院の一室で、「カイシン」と言っていたから、この人は医師?でもなんで。ビルから落ちた時に動かなくなったであろう膝下は、それ以外に異常などなさそうだし、その他にも悪いところはない、と思う。
「えっと……ここ、病院、ですよね」
「そう。順を追って、説明しようか。まず君が心配しているであろうことから。
人を殺してしまったことは、憶えているね。それについては、実は責任能力なしと判断されて、損害賠償の必要がなくなった。つまり法的には、彼に何か償いをしなくてもいいんだ。当時……君の最後の記憶から、今の今まで、心神喪失状態にあると判断されていた。君と今話した限りでは、喪失ではなく、自分自身の中に一度閉じこもって、状況を飲み込もうとしていたというのが正しいようだがね。まあ、他人からは見えない部分だ、しかたない。
つら、つら、つら。さて君には十分だろう。把握に足る。いいね。
「とんだご迷惑をおかけしました。ほらあんたも」
「頭なんか下げるもんじゃありませんよ。陽菜さんは、自分の脚で、立てるんですから」
辛うじて三つで立つ、この棒切れを指していないことは、なんとなくわかる。
私と私で、歩き出す。
自分の脚で、歩き出す。
足跡に誰かの血が混じろうと、その足跡は、私の物なのだ。
救済の手は菩薩か修羅か 雷之電 @rainoden
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