現実と重ねて

「そんな子だとは思わなかった」

「さすがに俺も庇えないな」

「いつか何かやると思ってた」

「先生なんて言ったらいいかわかんない」

「犯罪者」

「人殺し」

「近寄るなアバズレ」



「だめっ、やめてってば」

「ホテルまでついてきたってことはそういうことでしょ」

「違う、だってそんなっ、……もう!」

 うだる暑さに晒されてきた首筋を、躊躇なく舐め上げる。動作一つで血の気も戦意も持っていかれた。

「陽菜ちゃんも、中学生でこんなことやってるって知られちゃまずいでしょ、ね」

 五感で食らう。実の名も知らぬこの大食漢は、脳の切れるような窮地に成す術を見失った私を、この空気を、愉しんでいた。

「あぇっ、う、」

 何の意味があろうか計りかねる。生臭い、クリームパンのようにむくんだ手が口内をかき回し、そこへ本命だろう舌が侵入する。

 今のところ、全容の見えぬ巨岩ともいえる恐怖に押しつぶされることには、泣くことしかできなかった。

 ぬめる手を首から下へ、不躾に持っていく。それは人間を扱う手つきではない。モノだった。ここに私という人間はいないも同然で、これはきっと彼の人形遊びなのだ。人格的な感情移入のない、幼児のそれよりも幼稚な、人形遊び。

「来ちゃったんだしさ、愛し合おうよ」


 愛は、なかった。


「……、」

 四時間。

 正座させられてないだけまだマシ。

 こっちの言うことなんか少しも聞かないで、母は一方的に私を叱り続ける。怒りも躾も区別できないようなバカの言うことなんか聞く価値がない。

・どんな状況でも人に迷惑をかけてはいけない

・知らない人にわざわざ会って金をせびるお前が悪い

・人殺しの烙印は一生ついてまわる

 たったこれだけの小言を、四時間。娘のためを想って。ばかばかしい。想う自分に酔っているだけだろうに。

「何でよりによってあんなとこで!もうあんたのこと育てられる気がしない」

「はい」


『〇〇市で保護されまもなく死亡した〇〇ちゃん。知られざるその母親の素顔とは――』

 母がテレビの電源を切る。

「暗いニュースばっかり。どうして子供に手なんかあげるんかねえ」

「……」

 虐待なんてもってのほか。本気でそう信じていた。自分に酔うのが目的、教育を考えちゃいないんだから、内省なんか進まないのは当然といえば当然だった。

 勉学の環境は揃っているし、親の収入も十分。端から見れば幸せな家庭だろう。ただそこに、子の権利の入る余地はない。子供目線で周りの家庭を観察してみても、いわゆる教育ママというのは似通っていて、皆こんなものだ。子は見栄のパラメータ。

 一発私を殴りさえすれば、私が轟々に非難し石を投げられるのに。結局心を殺すか体を殺すかの違いで、ニュースの母子と同じ穴の狢。これだけの違いで世間の目も一八〇度変わる。


「お前が一つの命を奪った」

 ベッドの上で、冷えた死体と名も知らぬピアノ・ソナタを隔て向かい合う。

「……奪わなきゃ奪われるのなら、」

 何年ぶりだろうか、独壇場を、ささやかながらに欠いたのは。数年前に一度欠いたときは、人格否定と中身のない説教が二時間延びた。

「黙って奪われろなんて親の口から言えないけど」

「じゃあ代案の一つくらい出してよ!いつも否定するばっかりでなんにも教えてくれないでしょうが!あんた、家で抜いてきたまんまの手で口ン中まさぐられたことある!?」

 結局強気なのは口だけで、アリに噛まれて動揺するような人だった。たやすくこちらの馬乗りを許し、私は怒りのままにあのペーパーナイフを口の中から喉へ突き立てていた。


「どうして殺したの」

 シミひとつない、まっさらなベッドに二人。制服のまま横たわるのが私で、一糸として纏わず、後ろから白い腕で私の頭を抱えるのも、私。

「あの人は他人と違うこと言ってくれると思った。親らしく何かしてくれると思った。結局、みんなと同じだった」

「他人は殺人鬼に向き合うことすらしてくれないと思うけど」

 毛並みに沿って頭を撫でられる。

「おんなじよ。遠くから石を投げるか、正面切って殴りかかるか。目を合わせに来るだけ清々しいとは思うけど」

 心を許したものの体温はこんなにも心地よいのか。どんな天才が作り弾いた曲よりも多くの、かつ無条件の安らぎをもたらす。

「勝手に期待して、勝手に失望しただけじゃないの」

 自分よりも盤石で遅い拍動を、後ろの私は刻んでいる。

「あいつだってそうでしょ。勝手に産んで、我が子は人なんか殺さないって勝手に思い込んで、勝手に失望した」

 肩に額を当て、こそばゆい息を背に這わせつつ、彼女はなお責める。

「ばかね。あのろくでなしを殺したとき、そんなこと考えてなかったでしょ。後づけよ」

「っ、さっきからなんなの!?私のくせに、私に楯突いて!あんたほんとは誰なのさ!」

 三度目。もはや慣れてすらきた柄の掴み具合に多少の驚嘆を覚えつつ、背につく自身にナイフを突き立てる。

「だからばかだってんのよ。死にたいなら勝手になさい」

 風がすべての音を遮った。青い空が見える。手にナイフなどなく、掴むのは虚ばかりで、凄まじい勢いで横を灰色のパターンが過ぎていく。

「う、そ」

 どこのかも知らないビルの屋上から、腹を上に向け落ちている。点を引き伸ばしたような、永遠とも刹那とも取れる時間軸も、直後か無限の後か、自ら終わりを告げた。


「……、」

 四時間に及ぶ正座から、足首以下の感覚がない。

 こっちの言うことなんか少しも聞かないで、母は一方的に私を叱り続ける。怒りも躾も区別できないようなバカの戯言にも、話の筋は存在した。

・どんな状況でも人に迷惑をかけてはいけない

・知らない人にわざわざ会って金をせびるお前が悪い

・人殺しの烙印は一生ついてまわる

 突拍子もない報せに混乱しているのかもしれなかった。ひたすら自分を責め立てるだけのくだらない戯言に耳を貸す必要はないが、もし自分が母の立場なら、同じように混乱するだろうなと、なんとなく考えた。

「何でよりによってあんなとこで!もうあんたのこと育てられる気がしない」

「……」


「お前が一つの命を奪った」

 ベッドの上で、冷えた死体と名も知らぬピアノ・ソナタを隔て、向かい合う。

「だから何。あんたはあの状況で黙ってやられるわけ?」

 説教が延びることはない。年を追うにつれ、母も自分こそが正しいと常に信じるようにはならなくなった。核ではそうなのかもしれない。しかしこちらの生意気とも取れる反発を一度は受け止め、咀嚼してくれる。

「……だからって、殺すことはないでしょう。受話器さえ開けておけばスタッフが来てくれただろうに」

「ばか。黙らされてからじゃ何もかも遅いでしょ」

 しばらくの沈黙、

「そもそもあんな人と会ったのがいけないんじゃないの」

「どこまで食い下がる気?時間は戻らないのに。言い負かすのが目的になってんでしょ」

 そう。もはや互いの間にある死体など、見てはいなかった。


「殺さなかったのね」

 私と私、向かい合っている。同じ下半身から2人の自分が生えている。私と私は、同化しつつあった。

「支離滅裂で理不尽な奴だと思ってた。でもなんだかいろいろ見えてきて、自分が今何を目的に動いているのかわからなくなってるだけなんだって、気づいてね」

「達観したような感じだけど、自分自身について何か気づいたことはあったの」

「他人は罪にばっかり目が行って非難ばかりしてくるし、自分はそれに反発して言動をむりやり正当化しようとする。これじゃやった後の言い合いになんて意味がない。善悪の認識はその時の相対的な価値観でしかないんだから、過去のことに惑わされるだけ無駄。その時に正しいと思ったことをすればいいのよ」

「その言葉だって殺人の正当化なんじゃないの」

 にやついている。わざと意地の悪い質問をよこしてみせた。

「もう振り返らない。肉の切れ目なんか見たっていいことないもん」

 私が私に沈んでいく。あるいは、私が私に沈んでいるのかもしれない。どっちだっていい。私は私で、私は私なのだ。


「……」

 感覚がないのは足首だけではなかった。立ち方すら思い出せない。しかし正座などしていない。胡坐をかいている。

 もはや母の叱責は意味を成しておらず、ただ口の動きに合わせて音が出るだけ。きっともう自分にとって必要のないものなんだろう。

 取るに足らない。

 身近な無意味とは、往々にしてある。


「お前が一つの命を奪った」

 ソナタは次のトラックへ進み、乱暴に、冷えた骸と二人の耳を打つ。

「……」

 わかり合えない。こんなとき有効なのは、互いに理解する気のない無駄な話を延々繰り返すことではなく、肉塊の切れ目を黙って見せつけることだった。

「自分のためだもの。他人のことなんか考えてるから、何もできないまま他人に食われるのよ」

 その切れ目越しにこちらの目を見据え、

「それが、内省の結果ね」

 答えたのは、またも私だった。

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