強い日差しが全てを焼きつくすような日だった。まだ夏の始まる前だというのに、酷いひでりが突如として山を襲ってきた。大地はひび割れ草は枯れ、獣は水を求めてさ迷う。しかし数多くあった水場は多くが干上がり、目玉の無い魚の骸が転がるだけになっていた。


 それは雨龍の池も例外ではない。幸い池の水は少しは残っており、雨龍自身も龍の端くれなので死ぬことはなかった。しかし魚たちは水の外で生きる術を持たない。あるものは岸に打ち上げられ、あるものは水温の変化に耐えきれず、皆死に絶えていた。雨龍の友も多くが亡くなり、そうでなくともすっかり弱り果てていた。

 温くなった水溜まりに身を潜め、雨龍は最後の水を身体に蓄える。それで小さな水溜まり──かつては池だったもの──は、干からびた魚に囲われただけの窪みになった。そうして無慈悲な太陽が隠れる夜に、雨龍は出掛けて行った。


 向かうのは椿の許。あんなに生い茂っていた道中の草は、刈られ干された藁のような有り様だった。

 辺りの木はことごとく死の縁に追いやられ、やせ衰え節くれ立った枝を晒している。その枝の先には、枯れ葉が罪人の骸のようにぶら下がっていた。この暑さの中でいっそ寒々しく見えるほどに。

 その中に一本だけ、赤裸ながらも命の存在を匂わせる木があった。椿の木だった。


「紅さん」

「雨、さん」

「大丈夫ですか。今水をあげますから」


 雨龍は身体に蓄えた水を椿に分け与える。池の魚が死に絶えてから雨龍はそれを始めていた。初めは自分にだけ水が与えられることを良しとしなかった椿だが、木は自ら動けない。後にも先にも、雨龍が椿の言うことをはね除けたのはこれだけだった。

 あれほど贔屓を拒んだ椿が今は何も言わないのが、雨龍の焦燥を強く煽る。


「……ごめんなさい。少し、眠ります」


 椿はそれきり黙った。枯れかけた椿は一日のほとんどを眠って過ごすようになっていた。今や目を覚ますのは、少しは涼しくなる日暮れの時だけ。

 冬でも緑に茂っていた葉は、ほとんどが艶を失い枯れ落ちていた。地面に散った花は乾き、いくつかは千々に砕けて土と混ざっている。雨龍が水を分け与えなければ、とうに周りの木と同じく枯れ木になっていただろう。


 しかし池の水はもう、無い。試験の時期さえ来れば、そしてそれに合格さえすれば、雨雲をこの山に連れて来れたものを。それで上に従わなかったとして断罪されても悔いはなかっただろう。けれど試験の時期は二月も先。その前に椿が枯れるのは明らかだった。


「大鯰も、金鯉も、魚たちも、皆死んでしまいました。この上あなたまで失うわけにはいかないのです。わたくしはこれからどうしたら良いのでしょう」


 雨龍は泣き出した。獣が煩くて眠れないとこぼしていたものは、花を手折った獣が傍で嘆いても目覚めない。

 山神への陳情はとうの昔に考えた。しかしそれは既に試みたものがいるらしい。山神は水の神でも日の神でもない為、この旱に干渉することはできないのだという。

 他にできることが何も思い浮かばない。雨龍は打ちひしがれたまま、椿の幹を囲うようにとぐろを巻いて眠りについた。





 翌日の朝。眠りから覚めた雨龍は山のあちらこちらを這い回った。

 残っている水場を探して水の匂いを嗅ぎ回り、時折土を掘り返して湧き水など出やしないかと試してみる。しかしそれは全て徒労に終わった。強烈な日光が、乾いたことのない雨龍の鱗をからからにさせただけだった。

 獣の気配すら無い死の山を、それでも雨龍は歩き回る。収穫は無い。草木が枯れて見通しが良くなっているにも拘らずだ。

 やがて、空から響く烏の鳴き声に、雨龍は我に返る。気が付いたら日が傾いてきていた。無我夢中で探し回ったからだろう、大分遠くへ来てしまったようだ。

 日が暮れる前に急いで戻らなくては。雨龍は水を泳ぐ為の身体で、不格好に地を駆けた。


 悪い予感が雨龍の心にとめどなく浮かぶ。かつて山歩きの目印にしていた大木が枯れている。いつも道を教えてくれた水鳥のおうな(老婆)が棲む泉も枯れている。全てが黄昏の中で沈黙している。

 水探しに執着するあまり、雨龍は椿の許に戻るすべを失っていた。土に残った自身の足跡を追いかけようとしても、乾いた土の足跡は、脆く崩れ去っていくだけだった。これ以上進めない――引きれた足がもつれた拍子に、雨龍は地面に倒れ伏した。


 頭上を飛び交う烏たちは、自分が倒れるのを待っているのではないか。雨龍は疑いながらも首を伸ばし、いつかのように辺りを見回す。

 震える足を精一杯踏ん張った時、視界の端に焼き付く、色。夕暮れよりも赤い。

 雨龍はもんどりうって、転げるように走り寄る。見上げた椿の、枯れた枝葉の頂。真っ赤な花が一輪だけ咲いていた。


「紅さん、紅さん! 帰ってきました!」


 乾いた舌を突き出して、息をして、かすれた声で叫んだ。椿は答えない。


「紅さん、夕方です。起きてください」


 椿は答えない。


「紅さん」


 繰り返す雨龍の目前で、椿の首が音も立てずに落ちた。金の花粉が雨龍の身体に掛かったが、乾いた肌の上のそれは、すぐ風に散っていった。

 雨龍は言葉にならない嗚咽おえつを漏らす。身体の水はもう無いはずなのに、自分がどうして泣けるのか不思議だった。けれどこれっぽっちの水では椿を助けることはできない。

 雨龍は自分の無力さに首のたてがみを掻きむしる。そして爪に引っ掛かった硬い感触で、たてがみの中に隠していた玉のことを思い出した。

 首の玉は未だ輝きを保っている。中の水の気も損なわれていなかった。ここから水の気を取り出せば、椿を救える。しかし玉を壊す以外にその方法はない。

 玉を失うのは、龍の世界において試験を受ける資格を失うことを意味していた。つまりは一生天に昇れなくなるということである。


 それでも雨龍は迷わなかった。いずれ如意宝珠を掴むはずだった三本爪で、首の玉を鷲掴みにして一思いに引き千切った。根を張るものを愛した龍は、こうして地に縛られたのである。

 椿の根元に岩を据え、青く澄んだ玉を宛がう。雨龍はその玉を岩へと強かに打ち付けた。玉が傷つき割れるまで、何度も何度も打ち続けた。


 その日の夜、久方ぶりの雨が降った。乾いた死者に代わって涙を流す、優しい雨だった。





「雨さん、試験はどうでしたか?」


 生えたばかりの柔らかな下草を夕立が濡らしていた。椿の艶やかな葉の上に雨露が滑る。


「落ちました」


 鼻先にその雨垂れを感じながら、雨龍はそっけなく答えた。そして続けた。


「試験で失態を晒してしまいましてね、もう当分再受験はできそうにありません」

「それは……残念でしたね。待ち望んでいたんでしょう」

「ひとえにわたくしの力不足のためです。紅さんが気に病むことではありませんよ。それに地上にいる方が、あなたと長く共に居られるでしょう」


 少し離れた茂みから、早起きのてんが飛び出してきた。いずこかへ消えていたあやかしも獣も、ここのところ姿を現し始めていた。

 雨龍の池にも澄んだ水が溜まってきている。死んだ魚たちはあの時の霊雨を以てしても蘇らなかったが、野晒しにしてしまった彼らの亡骸は雨龍がねんごろに葬った。その亡骸の上も、いずれは草花で満ちるだろう。山は早々に命を吹き返したのである。


「賑やかなせいか中々眠れませんね。狸と狐の合戦とかで」

「そこまで賑やかでしょうか。わたくしは眠れないほどではありませんが」

「雨さんがいるとあまり寄ってこないんですよ。今日はおれの傍で獣よけになってくれませんか」

「ふふ、いいですよ。お供します」


 雨龍は椿の幹に手を掛けた。差し伸べるように生じた枝を這い上り、その中の太いものに蛇さながらに長い胴を巻き付ける。

 雨龍に獣よけの能など無い。獣の足音が気にならぬほど寝付きが良いだけだということを、椿はとうに知っていた。その通りに眠りに就いた雨龍の瞼を、常磐の天蓋から落ちた葉が優しく覆い隠した。


 今でも春になると、池には紅い花が浮かんでいる。

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紅雨 小金瓜 @tomatojunkie

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