山の子 第二章(1-10)

「政綱殿、さっきの話だが、あのー…<庭>のことだが」

「なんだ?」

「<庭>というのは、私達の言う<他界>とか<異界>と同じものだと思っていいのだな?」

「それぞれ<異界>をどうみるのかには違いがある。だから全く同じかどうかは何とも言えんが、まぁそう思っても大丈夫だろう」

「ふむ……」


 師春は聞き取りながら筆を動かした。字で埋まった紙を傍らに置いて、新しい紙を取り出して書き続けた。新しいとは言っても、それは反故ほご紙――用を果たした書状等――だ。紙は漸次増産が図られているが、それでもやはり何処にでもある物ではない。日記や書物の書写には、反故紙を裏返し、紙の天地を切って大きさを揃え、料紙として用いることが広く行われている。これは位の高い貴族であっても同じだ。


「それで、<庭>と呼ぶ由来は、神の斎場を意味する<大庭>という言葉。これに間違いないか?」

「おれは師匠からそう聞いた。他山の連中や、神やその眷属がどう理解しているのかは分からん。まぁ、たぶん同じだろう。神官や僧侶なんかも、そう言ってるんじゃないか?」

「確かそうだったと思う。で、お主はこの山に居るのは単なる妖ではなくて、神だと考えていると?」

「そう聞いたからな。それに、ごく細やかな物ではあったが、それらしい跡はあった。間違いなく居るだろう」

「本当に神だったとして――」

 師春は手を止めて顔を上げた。

「どうするつもりなんだ?討つのか…?」


「…会ってみなければ分からん。話が出来れば、それで手を打てないかやってみるつもりだ。だが、それが無理だと言うのなら、戦うしかあるまい。荒ぶる神を放って置くのは危険過ぎる」

「勝てるのか?」

「それも相手次第だ」

「賭けというわけか…」

「そうだ。分かっているとは思うが、もしも戦うとなった場合は離れて身を隠せ。お前を守りながらでは、神殺しなど到底不可能だ」

「ああ…。なぁ、ところで、一体誰から神が居ると聞いたんだ?」


 政綱は意味ありげな笑みを浮かべた。

「ある場所で出会った女だ」

「女?巫女か?」

「いや、巫女ではない。鳴海なるみ山で出会った女だ」

「あぁ、なるほど。その女と特別親しくなって、頼まれたわけか」

 師春は知ったような顔をして、一人で頷いている。

「まるで違うな。お前のような奴なら、喜んで言うことを聞きそうな美女ではあったが」

「それは会えなくて残念だ」


 政綱に詳しく話す気がないことを察して、それ以上は何も聞かなかった。

 それから暫く、師春は無言で筆記に勤しんでいたが、思い出したように、はっと顔を上げた。


「時間を取ってすまない。そろそろ発つか?」

「いい頃合いかもな。だが、そう慌てることはない。思っていたよりも手こずりそうだ。数日かけて、じっくり見て廻った方がいいかもしれん」

「そうか。とりあえず、今日は日暮れまでか?」

「そのつもりだ。夜は大人しく退いた方がいいだろう。何が居るのか分からんからな」


 この六台山に住まう神はどのような存在なのか。政綱は敢てそれを聞かぬまま、鳴海山を離れた。聞けば、神を助けるよう頼まれたかもしれない。これは難事業だ。既に人間と争っている以上、救うのは容易なことではない。だから、敢て何も聞かないまま、自分の意思でやって来たのだ。




〝大きな木を見る度に、または小川を見つける度に、政綱は立ち止まってそれを調べた。庭との境界には、そうした標があることが多いのだと言う。確かに京都でも、今は廃絶してしまった大内裏だいだいりの址に立つ老木から、光り物やら鬼やらが出て来たと伝えている。

 だがどれも人狗の期待したものではなかった。時々政綱は、最近できたらしい足跡――人間と同じくらいの大きさだ――を見つけたり、誰かが落した小さな勾玉を拾うことがあった。中々庭は見つからないが、そうした小さな痕跡から、この山に神が居ることは間違いないとの確信を深めているようだ。


 ………下方四つの峰の内、最後の峰に辿り着いた時には、木漏れ日も弱り、日没が近づいていることが肌で感じられた。心なしか政綱の歩みも早くなり、下山を急いでいるように感じられた。私としても、できればこんな山で夜を迎えるのは遠慮したい。妖が――政綱は神だと言うし、それに違いないのだろうが、人に敵意を持つ場合は妖に等しい――跳梁する山なのだ。獣のように夜目が利くという人狗でも、相手の縄張りで戦いになれば分が悪いだろう。


 ……結局、今日は諦めて下山することになった。かなり歩いたことだろう。土の上を歩いていたが、草鞋がかなり擦り減っている。いざ下山と決まればどことなく開放された気分にもなるのだが、山から押し出そうとする見えない何かに追われているような、空恐ろしさも同時に感じられる。人狗はこんな場所でも野宿してきたというのだから、人里で育った私には驚きである。〟




 下山が決まった途端、師春は政綱の先を歩くようになった。陽の落ち始めた山に居れば、この時の師春の気持ちが理解できるだろう。それまで、優しく人を受け容れてくれるかに見えた山は、暗くなるのに合わせてどんどんと表情を変える。赤みがかった陽の光は、木の天井に遮られて殆ど地表には届かず、外界よりも一足先に闇に包まれる。木の間から遠くに望まれる世界はまだ明るいが、それも一歩進む毎に暗くなってゆく。このまま永遠に闇に吞まれるのではないかという恐れは、打ち払えぬ焦りとなって師春を苦しめるのだった。


 数歩分後ろを歩く政綱にも、その焦りは理解できた。山の持つそうした恐ろしさは、子どもの頃に嫌と言うほど味わった。目に見えぬものへの恐れは、この先も完全になくなることはないだろう。だが、目に見える形で現れた恐怖であれば、殺すことができると教わった。そして実践してきた。鳴海山で襲い掛かってきたホウドラも、師春に贈った革袋のぬえも、二十日程前に日出国ひじのくにの貧乏御家人の頼みで殺した餓鬼も、皆そうだ。その積み重ねが、あらゆる恐怖に耐える力の源になっていた。


 見たところ、師春には恐怖が重くのしかかっているようだが、それでも耐えようとする力の源は何なのだろうか。間違いなく、政綱のような実践と経験ではないだろう。

 数歩分先を歩く師春の、ふらふらと頼りなげに揺れる背中を見ていた政綱は、不意に足を止めた。


 ――これは何の音だ?

 かなりの時間をこの山で過ごしたが、妙に静かな場所だ。鳥の囀りすら殆ど聞こえてこない。おまけに、風も何かに遠慮するようにして吹き、大きく枝葉を揺らすこともなかった。そのためか、特に耳を澄ませていたわけでもないのに、麓からの物音が政綱の耳に届いた。


「止まれ」

 引き止められた師春は、身を強張らせた。

「どうした…?」

 黙れ、と手で制した政綱は、深い木立の向こう、まだ四半刻はかかるであろう麓の様子を透視でもするかのように睨んでいる。

 ややあって、人狗は短く言った。

「用心しろ」

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