山の子 第二章(1-9)

「案に相違して、かなり静かな山だな」


 政綱の後ろを歩く中原師春は、暢気のんきに言った。

 実際、師春の言う通り静かな山だった。鳥の鳴く声を聴くのも稀で、獣の姿は全く目に入らなかった。あやかしなどは言わずもがなである。


「山から何か聞こえてくると実量さねかず殿は申したが、怖がって風の音がそう聞こえただけなのでは?私はそう思うな」

「だったら、それを結論として村に持ち帰るといい。その方が身のためだ」

 政綱は前を向いたまま答えた。


 六台山はその名の通り、六つの小峰を持つ山だ。四つの峰が土台を成し、その上に二つの峰が乗っているように見えた。尾根は他の山には通じておらず、独立した山塊になっている。決して高くはないが、山域は広いようだ。

 今は、村の側からは正面に見える峰に、二人で登っているところだ。陰暦四月の六台山は、草木の緑が溢れていた。


「そう案じてくれるのは嬉しいが――」

「誰も心配などしていない」

「あぁそうかい。まぁ、何にしても、お主の出す答えを見るまでは、私はついて行くぞ」

 名主みょうしゅの実量と話をした後、迷惑だと言う政綱と、心配する小槻峯匡おづきみねまさを独自の論理――殆ど勢いだったが――で宥めすかした師春なのである。この事件の実録を独占して著すまでは、何があろうと諦めないつもりでいるらしい。


「口を開くより、足元をよく見ろよ」

「何だって?…おわっ!」

 獣道を密かに横断していたブナの根に躓いた師春は、肩に引っかけた麻袋を放り投げながら、勢いよくうつ伏せに倒れた。こんな転び方をしたのは、子どもの時以来だ。

 足を止めた政綱は、ゆっくり起き上がる師春を見下ろしながら言った。


「ほら見たことか。今度は谷底に落ちる気か?」

「いやそんなことは…あぁ、水干が泥だらけだ」

 烏帽子を直し、青い裾濃すそごの水干を叩きながらそこまで言った師春は、荷を詰めた麻袋がないことに気が付いた。

「政綱殿、袋が何処に行ったか見てないか?」

「ああ。こんな所には居られないと言って、山を下りて行った」

「その不機嫌そうな顔で冗談を言われると中々面白いな。それで?」


 政綱は無言で、師春の左手にある窪地を指差した。転がった麻袋は、窪地の真ん中に生えたコナラの根元にあった。開いた口から中身をぶちまけている。

「うわ、中身が」

 窪地に飛び込んだ師春は、筆や紙、旅用の矢立、お気に入りの地誌や物語や和歌集の抄写本、替えの草鞋等々。散乱した物を一々確認しながら、袋の中に収めていった。


「紐のつけ方が良くない。それだと背負えないだろう」

 そう言いながら、師春が見落としていた墨入りの小袋を手渡した。

「ありがとう。紐のつけ方?」

「それでは背負えん。手が塞がったまま山歩きをするのは危ない。今のでも分かっただろう?」

「どうやればいいんだ?」

「その状態ではどうしようもない。紐をつけ直さなければ。ここでは直しようもないが」

「では慎重に歩くしかないな」

「それは結構だが、そうするといざという時に困る。おれではなくて、お前がな」

「確かに困るだろうな。だが、山を下りるわけにもいかん。答えを見るまでは諦められない」


 山について行くと言った時もそうだったが、師春の目には真剣さが滲むことがある。目が輝いていると言うのは、こんな目のことを言うのだろうか。何かに希望を見出した者の目。それが政綱には不思議だった。

 政綱は、自分でも驚くような親切心で、腰に下げた革袋から、折り畳まれた物を取り出した。


「これを。お前には少し大き過ぎるかもしれんが」

「何だ?」

 受け取って広げてみると、瓜のような楕円形をした革袋だった。信じられない程柔らかく、薄いが、丈夫そうでもある。その革袋には、師春の見慣れない方法で紐がつけられていた。


「それなら、口を縛ったまま、布包みのように斜め掛けできる。水干姿に似合うとは言えんが、手が塞がるよりはいいだろう」

「これは何の革だ?」

ぬえは知っているだろう?」

「勿論。姿は様々だが、どれも皆獣の体を集めたような、妙な姿をしているそうだな」

「四つ足であることは皆共通だ。それから凶暴なのもな。色々なのが居るというのは正解だ」

「それでは、この革は鵼の…?」

「そうだが、ただの鵼ではない。ある意味滅多にお目にはかかれん、翼のある鵼の翼膜だ」

「何だって、本当なのか?鵼に翼が?」

「聞いたことがないか。そうだろうな。人の多い宿や町には、あまり姿を見せないからな。あの種類の鵼は、黒雲に姿を変えて飛んで来ると噂が広まって以来、翼のことは忘れられてしまったらしい。確かにその方が、怪異の表現としては分かり易いし、強く印象に残る。今では飛んでいるのが見つかっても、怪鳥だと言われてしまって、誰も鵼だとは思わない。高い所を飛ぶ所為で、人間の目には変な鳥のようにしか見えんのだろうな。だから、ある意味と言ったんだ」

「そんな話は初めて聞いた。いや、信じないと言う意味ではないぞ。人狗が言うんだ。本当だろう」


 政綱は頷いた。

「仮に鵼だと分かっても、それを語り継ぐ者がいない。怪鳥だと言われて出て行った妖討使ようとうしや猟師が、森でこいつに出会って散々な目に遭うことがある。鵼と森で戦うのは大変な仕事だ。誇るわけではないが、森で鵼と互角にやり合えるとしたら、おれ達人狗だけだろう」

 師春は相槌を打つのも忘れて聞き入っていたらしい。

 人間を相手に、あれこれと話す自分に違和感を禁じ得なくなった政綱は、咳払いして革袋を指差した。


「さぁ、それに荷を詰めろ。心配要らん、丈夫な品だ。枝に引っかけても破れたりはしない」

 革の色合いは黒のように見えるが、光が当たるとほんのり赤みを帯びているのが分かる。その色合いに師春は見入った。

「珍品だぞ。人狗にとっても、割合珍しい物だ」

「そんな物を貰ってもいいのか?」

「ああ。さぁ、早くしてくれ。ここは外れのようだ。他の峰に行かねばならん」




〝……その後初めの峰の中腹から、北方にある峰に移った。そこで早速大岩を見つけた政綱は、下を覗き込み、神妙な顔で――或いはそう見えただけかもしれない――岩の周囲を三度廻った。念のため記せば、右、左、右と歩んだ所で立ち止まり、右脚を少し引いてから、再び右脚から踏み出した。陰陽師の行う反閇へんばいのような、一種のまじないだろうか。尋ねてみたところ、「そうしたものではない」と例の不機嫌そうな顔で返事があった。しかし本当だろうか。人狗の作法については、誰一人として記す者がない。彼は秘術を明かすまいとしているのかもしれない。そのため、念を入れてここに記しておく。〟




 石に腰掛けた師春は、備忘のために間に合わせの調査記録を作成していた。矢立から墨を付け足し付け足し、筆を走らせている。

 二刻程(約四時間)かけて土台の四つの峰の内、三つをざっと巡った二人は、そこで小休止を取っている。この三つ目の峰は、登山口に使った最初の峰の正反対に位置していた。二人が居るのはその頂上付近の狭小な台地である。遠くには、集落らしき建物がちらほらと見えている。密集しておらず、どうも町のようには見えない。おそらく上山本のようなみょうがあるのだろう。


 なるべく乾いた地面を探し、座り込んだ政綱は、遠景を眺めながら握り飯を頬張っていた。政綱も旅人の心得を守って干飯なり干し肉は用意していたが、師春はさらに用意が良かった。村を出発する前に、誰から請い取ってきたものかは知らないが、握り飯を手に入れていた。「貰った」という言い方から推すに、名主の実量との間を取り持つ伝手つてとなった人物の好意だろう。冷えてはいても、まだ柔らかい米を味わえるのはありがたい。伝手とやらが誰なのかは知らないが、政綱は心中で謝辞を述べた。




〝この大岩も、人狗政綱の探す物ではなかったらしい。「次を探そう」と言って歩く政綱に、何を探しているのかを尋ねた。すると「庭を探している」と答えた。この山の中で庭とは、異なことを聞くものだ。政綱自身も、この辺りに村があるのは初めて見たと言っていたはずだが、そんな人の住みつかぬ山に庭などあろうはずもない。その疑問をぶつけてみれば、「普通はそれを庭とは呼ばないだろう。おれ達がそう呼ぶだけだ」と言う。猶詳しく尋ねてみれば……〟

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