山の子 第二章(1-8)

 二



 ――日出国ひじのくに 京都

 都の東を限る鴫河しぎがわの両岸は文字通りの河原なのだが、誰が付けたものか<香春かわら>という美称が昔から行われている。東洲岩動いするぎに本拠を置く将軍府は、鴫河の東の岸に広がった町場に西洲での出先機関を置いている。京都では<武家>という一般的な名詞がその機関を指して用いられているが、全国的には<香春探題>と呼ばれている。


 単なる美称でしかなかったものが、武家地の成長に伴い語義を変化させ、百年近い年月を経た今日では、その武家地を<香春>という名で呼ぶようになっていた。

 香春には、南北に向かい合う二つの広壮な館が建てられている。土塁・堀・櫓を備えたその二つの城館こそが、香春の支配者である南北香春探題の居館だ。


「合戦以後の、上山本みょうでの怪異についてお尋ねでしたので、ここにその抜き書きを持参致しました。えぇ、まず始めに起きたるは……」

 深間羽向守はむきのかみ維之これゆきは、懐から取り出した書きつけを睨みながら言った。使われた筆が粗悪なのか、それとも書き手が未練なのか。とにかく読みにくい文字で書かれている。この悪筆の書き手は、元服したばかりの子息宗貞だ。弓馬の腕は悪くないが、この方面は苦手らしい。


「…あぁ、病でござる。うむ。病が広まったようですな」

「病でござるか。五月病みと言うには、まだちと早い。如何なる症状の…?」

 維之に尋ねたのは、彼とは同役で、共に香春探題の職にある綾瀬波坂守はさかのかみ利之である。灰色の下地に黒糸と銀糸で波紋が縫い付けられた直垂ひたたれの維之とは対照的に、利之は青地に白で波を象り、銀糸がその上を漂う花弁のようにあしらわれた物を着ている。


 利之の家には父祖の遺した家訓が伝わっており、〝過美は厳に慎め。だが若い内から老成した風を装うな〟との教えを受けている。その家訓は全体として、自制と、それと一体となった緊張を求める内容を持っている。そうでなければ、何処に敵を作り立場を危うくするか、知れたものではない。

 京都や岩動のような都市で数多の御家人達と共に暮らすのは、思うよりも猶辛いものなのである。利は多いが、大きな損失も覚悟しなければならない。彼等がそれぞれ、梁瀬せんらい氏という最も有力な御家人の、有力な庶家の当主であるとしても。


「いやそれが、これと決まった病ではない由。熱病のような者もいれば、気力を失ったものもおると申しましてな。わしなどには、何やら村人が思い思いに病を言い立てておるやにも…」

「では、仮病であるとお考えですか?」

「全てがそうとは申しませぬ。なれど、そうした者も中にはおりましょう。百姓は逞しい。怪異ですら、己の武器に代えてしまうこともあるのです。何か思う所があって、実態よりも大きく申しておるのやもしれませぬ」

「ふうむ」


 維之が噛み締めるように語るのを、利之は頷きながら聞いている。二人には十歳以上の齢の差がある。利之がようやく三十路に差し掛かろうというまだ若手であるのに対し、維之は経験豊かな四十代の重鎮だ。

 代々探題を輩出してきた綾瀬家の若き当主利之は、朝廷との交渉場面では、探題府の代表者となることが命じられている。綾瀬と深間の家格の違いもあるが、何よりそれが佳例だとされているからだ。


 とは言え政務運営の手腕はまだまだ未熟だと自認する利之は、同役である維之の指南を仰ぎつつ、西洲における将軍府の重要機関を運営している。利之は遠祖の家訓を守り、維之の顔を立てることを心掛けた。今日にしてもそうだ。この館は北方探題である利之の館であるが、利之は座次に差が表れないよう、畳を左右に並べて利之を出迎えた。その姿勢のお蔭もあってか、二人の探題は協調的に役務を遂行し得ている。


「して、それからは一体何が起きたのです?」

 尋ねられた維之は、息子の悪筆に目を落し、誤読のないように一字一字確かめながら読み上げた。

「次は、山から、大勢の声やら、大きな物音が聞こえてくるようになったとか」

「ほう。それは確かに、怪異と申せばそうでしょうが――」

 ――そうだ。天狗がよくこういう騒ぎを起こすのだ。

 利之は風の噂に聞いた<天狗囃子ばやし>とやらのことを思い出した。何処からともなく笑い声や音曲が聞こえてくるのだが、音のする方をどれだけ探しても何も見つかることはない。最後には、間抜けな人間を嘲笑う天狗の哄笑が響き渡るという。


「その件に関しては、それとばかりは申せませぬな」

「何か耳にされましたかな?」

「耳にと申しますか、まぁ目にしたと申しましょうかな」

「これはご冗談を」

 維之は笑いながら言った。

「ここは都でござる、波坂守殿。都から真原まはらの六台山までは早馬で半日も要さぬ道のりとは申せ、それでもここからは見えませぬぞ」

「いやいや、山を見たと申すのではござらぬ。眼前にあるかのように想像できると申した方が良かったな。まぁ、そういうことなのです」

「一体何をご覧になられましたか?」

「つい今しがたのこと、引付の奉行人が一通の訴状を持って参りましてな」

「わざわざ利之殿の所へ?」

「はい。ちと頭の痛いことになるやもしれぬと、二番引付頭ひきつけとう淡後前司たんごのぜんじ殿が言って寄越したのです」


 引付は主に御家人の所務沙汰しょむざた相論――不動産訴訟――を審理する部局だ。現在は五つの番に編制されている。それぞれの番の長は評定衆の上首から選ばれ、その組下として二、三名の評定衆、それとほぼ同数の引付衆、実務に当たる五名程度の奉行人が所属する。二番引付の頭人とうにん稲光前淡後守致季むねすえは、在京奉公を長年続けてきた還暦過ぎの古強者で、公家にも顔が利く。


「ほう、稲光いなみつ殿から。さては、本所の左大臣殿が泣きついて来られた、とか?」

「当たらずとも遠からず。まぁ、厳密に申せば、左府の愁訴ではないのですが…」

「では何が?」

「困ったことに、彼の庄の地頭が、嫡子と庶子で揉め始めましてな。それがどうも、六台山内に御恩の地があるということのようで」

「ほう。あのような近頃まで傍に集落もなかった山に?」

「近くに上山本という百姓みょうが出来たことで、山林が益になると踏んだのでしょうな。困ったことに、嫡子は大寧寺左府を本所と言い、庶子は山門を本所と称しておる由。おそらくは、今般の訴訟に事寄せて、庶子が嫡子からの独立を図っておるものかと」


 現在問題となっている六台山と上山本名は、朝曳庄あさびきのしょうという大寧寺氏所領の庄園に含まれている。この庄園には、他の庄園と同じように、将軍府の御家人達が地頭に補任ぶにんされている。武士の恩賞地は、必ずしも面として集積されているわけではない。むしろ、点々と全国に散在する場合が一般的なのだ。その所為で、一つの問題が思わぬ場所に飛び火することも多いのである。


 今回は同じ庄園内で二つの訴訟が連関した形だが、土地が近ければ問題が小さいかと言うと、それもそうとばかりは言えない。一方の大寧寺氏と<山門>の訴訟は院――上皇――の法廷が、他方の地頭が起こした訴訟は探題の法廷が管轄する。つまりこの案件では、二つの法廷が連携を取りながら訴陳を番え、最終的な裁許を下す必要が出てきたことになる。

 これがまた、公武双方にとっては骨の折れる仕事なのだった。


「こうなると、維之殿ご懸念の如く、本所の訴訟までも丸投げされて、こちらで裁許せねばならぬやも…」

「できればご遠慮願いたいですな」

「それを避けるためにも、地頭には軽挙妄動は厳に慎むよう、申し送る必要がありましょうな。本所の争いに加わって一緒に合戦でもされようものなら」

「面倒なことになりますな。…あぁ、なるほど。先程、山中の騒音が怪異ばかりとは思わぬと申されたのは、そういうわけでござったか。地頭が山に手を出したと申されるわけですな?」

「まぁ、ほんの冗談ではござるが」

「是非とも冗談で済んでもらいたいですな。利之殿も、あまりそれをあちこちで言われぬようになさらねば」

「左様でござるな。ここは日出国。天狗三山のある国。どこで天狗が――」

「そこまで!あまり申されると、本当に来てしまいますぞ」


 地誌に曰く、〝日出国に天狗三山あり。鳳至ふげし赤雄あかお黒鷹くろたかの三山を申すなり〟と。

 なにも三山だけが天狗の山ではないが、都が近いことが手伝って、特に有名なのである。駄々をこねる子どもに〝天狗がさらいに来るよ!〟と言って黙らせるのは、貴賤きせんを問わずこの都での言い習わしになっていた。


「いや、それはいかん。慎まねば」

 そう言った途端、館の庭を風が吹き抜け、既に花の散った桜を揺らした。

 二人は、明り取りのために開け放った障子から、庭に目を遣った。維之の目には真面目な警戒の色が浮かんでいたが、利之はちょっとした期待を込めた目で、風に揺れる細い桜の枝を見つめていた。

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