第7話 悲劇はそして始まらずに終わった。

惟光はこれでも、しっかりと光君の動向をうかがい、もしもの事がないように、心を尽くしてきたと行っても過言ではなかった。

そのためになれない女物の衣類に袖を通し、女性としての視点で見るあれこれを光君につたえ、そして男の視点で葵の上との仲が改善するように腐心してきた、忠実な乳兄弟である。

だがしかし。

ある時、光君は惟光が、運悪くそばにいる事が出来ない日に、どこかに出かけた様子だった。

それはおかしな話でも何でもなく、惟光がいないから外出をしない、というのもありえない。お仕えする若君は光君なので、したいようにするものなのである。

惟光はその日、幾つになってもなれない痛み……つまりは女性の日というものであった。俗に言う月のものの日である。

こればかりは克服する事も出来ない代物であるが故に、惟光はいたいいたいと腹のなかで悲鳴を上げつつ、実家に下がっていた。

この実家とは、以前光君が乳母の見舞いに行ったあのあたりである。惟光はさすがに、月のものという出血多量な、ケガレのなかでまで、光君にお仕え出来ないのだ。なにしろ股から出てくる血液は、時間がたてば臭うのだ。通常の出血とは異なる、臭いものになるため、そうやすやすと血染めの布を取り替えられない現状で、そばにいられるわけがない。

幸いと言うべきか、惟光はこれでもこの出血の時間が短い方であるため、未だ光君に気づかれていないのである。そもそも……光君が女性の体に精通していて、月のものの周期を把握する、なんて事はないので、適当に占いの結果が悪いから、方違えになってしまったから、などといってごまかすのは可能なのだ。

そんな事情から、惟光は腹が痛い、ぬるぬるする血液が憂鬱だ、とごろごろしていたわけである。

それも女性の姿で、である。月のものの臭いをまとってしまう以上、どうしたって言い訳をするには女性の身なりでなければならない。

男の惟光の状態で、月のものの臭いがするというのは、首が飛ぶ世界になるかもしれないのである。

そういったわけで、惟光は母親が二条院という、光君のご実家に今日もせっせと働いているなか、ほとんど人気のないそこで、一人唐菓子を摘みながら、体を休めていたのである。


「光君はどうしていらっしゃるだろう」


本日は月のものの三日目である。言い訳をして休んで三日目ともいえる。

そんな状態なので、惟光は光君がどうしているかはとても気になっていた。

惟光がいないので、光君の女性恐怖症を知る家臣が一人もいないという状態なのだ。

そこで何か、大きな過ちがなければいいのだが。

惟光は心底そう願っていた。外はぶあつい雲が立ちこめており、今にも雨が降り出しそうな天気である。

こんな日に外出したりしないでほしいものだ、と惟光は内心で考えながら、しける空気の匂いをかいでいたのだった。




夕刻が近付く中で、雨は降り出したと思うと、とたんに嵐のようにすごい勢いになってしまった。遠くどころか、近くでも雷が鳴り響き、ぱっと外が明るくなったりすさまじい音が轟いたりしている。

惟光はさすがにそんな状況で、庇に座り込んでぼうっとする事などしない。平安時代の建物では、庇にいたら濡れ鼠になるのだ。

雨が降る前に、家具のいっさいを母屋に入れていたので、台無しになる調度品はない。彼女は腹が痛くてもそこら辺はしっかりしているのである。

今日が過ぎれば血は止まり、明日は様子見で休むけれども、明後日からは光君の元に戻れそうだ、と惟光は指を折って数えており、そして、雷の轟く中だったからというのもあって、近くまで牛車が来た事に気づかなかった。

それに気が付いたのは、人々の声がして、誰かが建物の中に入ってくる気配がしてからだ。

なんだなんだ、まさか物取りのたぐいか。

惟光はそういう事もあり得ると知っていた。家人の留守や人の少ない時に数をそろえて盗みに入る盗賊団がいる事くらいは知っていた。

そのため、身構えて、いざという時に振り回せるものがないか、と目を走らせた。几帳くらいしか該当しそうなものはないが、これでも振り回せば、間違いなく鬼女として相手をひるませて、もしかしたら追い払える。盗賊といえども、鬼の方が怖いものなのだ。一般的には。

惟光がそう考えて、息を殺して周囲を探っていた時の事である。


「……」


惟光は現れた人影をよくよく見つめて、驚いた。

雨に濡れて、衣の色さえ変色するほど濡れて、立っていたのは惟光の大事な若君だったのだ。

若君に何があったのだ。惟光は手に持っていたものを置いて、みづことしての顔を作り、光君に近付いた。


「どうなさったのです。今日は私も方違えのために、こちらにお邪魔しているのですけれど」


「……」


様子がおかしい。光君は蒼白な顔で、血の気が全部なくなったような顔をして、息も荒く立っていたのだ。

明らかに何かに対して動揺している。

いったい何があって。

惟光はそう思いながら、光君ににじりよった、その途端だ。

ぐいと、惟光は光君に引き寄せられて、衣が濡れるのも何のその、裸を見られるよりも恥ずかしいはずの烏帽子が脱げるのも何のそのの勢いで、かたくきつく抱きしめられたのだ。


「ど、どうなさったのです」


惟光はこう言ったものには疎かった。男の身なりでも肉体は女であるので、女性とどうこうはならなかったのだ。なる人もいると言うが、惟光はならなかっただけである。

そして、みづことして振る舞う間に、これという相手は出来ていない。元々光君のためにみづこになっているので、ほかの野郎に目を向ける時間はない。

そんな状態で、強く抱きしめられた惟光は平静ではいられなかった。

かあっと顔が熱くなり、きっと耳まで真っ赤だろうと思いつつ、惟光は声だけは冷静になろう、と取り繕って、こう言った。


「光君、いったいどうなさったのです」


「だめ、だったんだ」


「だめだったとは? 葵の上様と何かございましたか? 惟光からも聞いていますよ、光君が大変に心を砕いているとは……」


「ちがうんだ、ちがうんだ、わたしは、私はとても罪深い……」


「では、どうなさいましたか。みづこにもわかるようにお話ししてくださいな」


「……私は、女性というものに、ふれられないんだ」


「まあ、こうしてみづこを腕の中に入れていらっしゃるのに」


腕の中にいる惟光は、てっきり女性恐怖症が改善されて、なれない衝動で行く宛を見つけられずに、こちらまできて、みづこがいるから手を伸ばしたのだろうと予想していたのだ。

だがそうではないらしい。


「みづこは、大丈夫だというのに、わたしは、あんなにあこがれて恋い慕っていた方すら、触れようとすると血の気が引き。吐き気がするんだ……」


まってくれ。


ちょっとまってくれ。


この方今、いったい何を言ったのだ。


惟光が、鬼に助言をしてもらってまで、そうならないように必死だった、破滅の道をたどろうとしているか。


そんな事が頭の中を駆けめぐった惟光であるが、光君は続ける。

腕の中にいる相手の顔が、状況として見えないからだろう。


「私は、ずっと、心に、この方だけと決めていた人がいた。藤壷の方なんだ」


知っていました。お父上のお后様だから、よからぬ事をしたら問題だと、そうならないように軌道を修正しようとしていました。


「今日、あの方は占いの結果のために、生家にお戻りで……私の思いをどうしても伝えたくて、女房に手引きをしてもらって、手が触れるほどのそばまで近くにいけたというのに」


なにしてんですか。

惟光の思考は上手く巡らなかった。破滅の文字が頭をぐるぐると巡る。


「あの方はいつ見ても美しいお方で、どこをどう切り取っても完璧で、すばらしい方で、私の思いがはちきれそうだったはずなのに」


思っても行動に移してはいけない事という理性はなかったんですか。なかったんですね。


「幼い時のように、お顔を見て、手に触れようとした時に」


光君の声は涙が混じっていた。ただの悔しさやむなしさで泣く声ではなかった。


「あの方はすばらしい方で、ほかに比べようのない方だった、だったはずなのに! 爪の先が触れたその瞬間に、私は言いようのない恐ろしさと、おぞましさにおそわれてしまったんだ……!! 体から脂汗が出てきて、呼吸がおかしくなり、目の前がゆがみ……気づけばあの方にひれ伏して謝罪をし、そのまま……みづこに会いたいとそれだけを思って、二条院に行き……そこで乳母が、みづこは方違えでこちらにいると聞いて、そうしたら、我慢のしようがなくて」


女性恐怖症は、いっとう一番の特別な女性でも発祥してしまった様子だった。

それほど、幼い頃に受けたものの傷が深いと言う事なのだろう。

惟光は光君のかぐわしい香りの胸の中で、間違いが決定的にならなくて良かったと、心底ほっとした。

帝の后との不倫なんて、地の底待ったなしの未来しか呼び寄せないからである。


「みづこ」


呼びかけられて、惟光は顔を上げた。色々な事で泣いている光君は、ぐちゃぐちゃな泣き顔でも、惟光より美しかった。

惟光が、守り続けようと決めた人だった。

間違いを正そうと決めた相手だった。

男の振りをしてでも、女のなりをしてでも、大事に思おうと決めた方だ。


「触れられない事で気付いたんだ。天は私の道ならぬ思いに、罰を下すために、私が女性と触れられないようにしたんだ。私が抱いていた思いはあまりにも恐ろしいものだったんだ。そう思ったその時に、藤壷の方への思いが消え失せて、残ったのはみづこに、会いたいという考えだけだったんだ。おかしいだろう? みづこは藤壷の方のように、最上のすばらしい女性とは、とても言えないはずなのに」


事実なので惟光は怒る考えも浮かばない。


「……人を思う心は、人が考えているよりも深いのです。光君。みづこに会いたいというのは、みづこがやましい心など何一つない気持ちで、光君を案じている女だからです。触れて恐ろしくもおぞましくもないのは、みづこはそういう触れ方をしない、とあなたの心のどこかが、確信しているからでしょう」


「……みづこ」


「はい」


「どうして、君は葵ではないのだろう。君が葵ならよかった。すべてなくなった後に、会いたい、いとしい、と思うのが、どうして君なのだろう」


藤壷の后への思いは、それだけ根深く執念深く、光君の人格の中にあったのだろう。

それがいきなりなくなり、空虚になった心に思ったのが、みづこという召使いだというのは、何とも言えないものがあった。

だが惟光は、なんとなく、わかったのだ。


「いつでも、相手を幸せにしたいと願って行動する人を、どうしていとしく思わないでいられるでしょう。みづこは、若君に幸せになっていただきたくて、何年も過ごしました。それが、若君にとって、そう思うに至る行動だったのでしょう」


「……私が、葵を心から思えないのは、彼女が、私を幸せにしようと行動してくれないからなのだろうか」


「それどころか、若君を追い払うような事ばかりしていらっしゃるから、若君の思いやりや気遣いが、ついにすり切れてしまったのでしょう。人への愛は、無尽蔵にわいて出てくるものではないのです。すげなくされ続ければ、泉が枯れるように、枯れてしまうものなのです」


そうならないように、惟光は今まで光君と努力してきた。

だが、藤壷への思慕と愛すら、自分の抱えているもののために燃え尽きてしまった光君が、すげなくされ続ける正妻を思えないのは、もはや仕方のないように感じてしまったのだ。

もしかしたら、光君は、藤壷の方にむけられない愛情を、代わりに葵の上に行動だけでも示す事で、精神の均衡を保とうとしていたのかもしれない。代替行動かもししれないが、葵の上が歩み寄っていれば、二人の間に本当に、お互いを大切に思う慈しみの芽が芽吹き、それはいつか二人の幸せな愛情になっていたかもしれない。

だが、それを育てぬ、いらぬ、よこすな、と行動と態度と言動で示してきたのは、葵の上その人なのだ。


「みづこ」


「はい」


「……たとえ私が、ひどい瑕を持った男になっても、私のそばにいてくれるだろうか」


「瑕のあるなしに関わらず、みづこは光君を思っておりますよ」


「……ありがとう」


光君は、何かを強く決意した声でそういい、腹をくくった態度だった。


「ちゃんと色々な事に決着をつける。……終わった後もそばにいてくれ、惟光」


「……え」


まってください、今なんと言いましたか。

惟光の頭が真っ白になっている間に、光君はもう一度みづこを抱きしめた後に、そこを立ち去っていったのだった。






それから、正体が知られたので、どんな顔で男惟光として戻るか考えている間に、光君は、信じられない事に、葵の上と本当に離縁してしまったのだ。

この離縁の理由が


「葵の上は帝にお仕えしていない。なぜなら光君に対して普通の夫婦としてのやりとりすらしていないからである」


という、離婚の条件としてあげられがちな、舅、姑に仕えていないという法的な条件を満たしてしまったという事だったのだ。

まさかそこの舅という所に、帝を出したのはとんでもない比較だが、人々は元々、葵の上が光君に恐ろしく冷たいどころか、夫としての扱いを全くしていないし、寝所もともにしないし、光君があの手この手で妻との仲を暖めようとしても、それらの何もかもが水の泡という事まで、おしゃべりな葵の上の女房達や、その女房達に仕えている人々から聞いていたので、婿入りした左大臣家への同情よりも、光君への同情の方が大きかった。

これらの情報が、女房達や使用人達の口から漏れていなければ、左大臣家はあんなに大事にしているのに、という流れに持っていけたのだが、そうはならなかったのである。

いかに使用人や女房の教育が大事なものかが、ここでもはっきりと露わにされたわけである。

左大臣家は顔面蒼白である。あれだけ帝に、大事にすると言っていたのに、ふたを開ければそうでなかった事が、この光君の申し出で帝にはっきりと知られてしまったからである。

離縁の際には夫が両家の男親と話し合いをする事になっており、どちらの顔のこともあるのだが、光君は申し訳ないという調子を崩さず、彼等にひたすらに謝罪しながらも、離婚の意志を翻さなかったのである。

元々、結婚生活が上手く言っていない様子だ、光君がどんなに尽力してもどうにも好転していない、と噂で聞いていた帝は、そんな事情なら、しかたない、と離縁を認め、帝が認めたのならば、と左大臣の家も認めるほかなかったのである。

だが財産などは完全に左大臣の家に戻るため、光君はこれから貧乏な生活になるかと思われたが……そうはならなかったのである。


「こう言う時のために、俺が財産作ってたんだぜ!」


にやりと笑うのは惟光の兄たる、惟忠である。いざという時に妹も弟分も養えるだけの、巨額の富を一人で築き上げたとんでもない男は、二条院で二人を見ている。


「若君の母君たちには、俺達はこれ以上ない恩がある! それに光君は、位が下がったわけでもなし! 不自由すぎる思いはさせないぜ!」


左大臣家との縁がなくなり、左大臣家の方は自分たちの過失の方が大きいので、あまり強く光君に圧力をかけられない。右大臣家は光君がかってに自分から没落していくので面白がって手を出さない。

そんな状態になった光君は、今以上の出世の見込みはほとんどなくなったものの、ゆえにある種の気楽な状態になったのだ。


「それなんだが、今度太宰府の方に向かわされるかもしれないんだ」


「儲け話のにおいしかしねえな!」


「なあ、みづこは私の妻として、ついてきてくれるだろう?」


光君が、見た事もないほど、憑き物の落ちたような晴れやかな笑顔で言う。

惟光は……みづこは、それにくすりと笑って答えるのだ。


「はい、旦那様」

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惟光は悲劇の女性を減らしたい! 家具付 @kagutuki

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