第6話 勘違いと涙の再会
そんな事があってから数日後の事だ。がたごとと牛車が動き、光君は窓から外を眺めていた。
本日外出は、惟光の母が軽い病気になり、二条にいるわけにはいかないと五条の自宅で療養しているのを、見舞いに行ったためである。
今はその帰り道なのだ。
惟光はそれの脇を歩く側である。一緒の牛車に乗るわけがない。乳兄弟だからこそ、守らなければならない境があるのだ。
そんな惟光は、歩きながら、とある建物の生垣に、それはそれは趣深く開く夕顔の花が咲いていたのである。
これは綺麗で趣深い。惟光でも少し立ち止まって見たいと思うほどの物だったので、感性の豊かな光君は心を奪われた様子だった。
「止まれ。惟光、あれをもらってきてくれないか」
牛車を止めた光君の言葉を聞き、惟光は小さな建物の中に声をかけた。無断で花を摘み取るのはよろしくない。丹精込めて育てていたらなおさらそうだろう。、という事からだった。
惟光は室内に声をかけた。
「もうしもうし、どなたかいらっしゃいますか。こちらに咲きます、夕顔の花を摘み取らせていただきたいのですが」
建物の奥の方から、わずかにどよめく声がした後に、幼い少女が一人、扇を持って現れた。
「こちらの上に乗せるとよろしいでしょう、と私の主が」
惟光はなかなか趣深い事をする女性である、と感心しながら、扇の上に夕顔の花を摘み取り乗せて、そこに和歌が書き連ねてあることに気が付いた。
それは直訳すると
「あなたをお待ちしておりました、いとしいかた」
という中身であり、言葉の意味が分からない。明らかに誰かと間違えているようにも、女性からこう言った誘いの歌を投げかけるという事は、自分をどう扱ってもいいという懸想文とも取れる中身である。
これを光君に差し上げるのはどうかと思ったものの、これを差し上げないと少女の主の面目もつぶれるので、惟光はその扇ごと、光君に差し出した。
「……こちらは……なかなか積極的な女性だね」
「どういたしましょう」
「……ここで歌をいただいたのも何かのご縁。もしかしたら私が、女性の手を握れない事を克服するための、きっかけになるかもしれない。中に入ろう」
「葵様はどうします」
「趣深い歌をいただいた方と、語り合っただけといえばいいだろう。……私は葵に心を尽くしてきたけれども、何も進まないから、この女性と話し合ったりする事で、葵ともなにかいい会話の糸口になるかもしれない」
そう言う考え方か。なるほど、女性との会話に慣れて、葵上とも会話ができるようになるかもしれない、という前向きな考え方の結果か。
それならまあ大丈夫か。
惟光はそう判断し、牛車を動かす使用人たちに指示をし、建物の方に牛車を止めたのであった。
「おまちしておりました」
光君の暮らしている世界とは、まるで違う世界がそこには広がっていた。いわゆる庶民の暮らしである。物音ががたがたとうるさかったり、人の話し声が壁一枚越しに聞えてきたりと、騒々しいし尻の座りが悪くなるかもしれない、異世界と言っても過言でなくなるかもしれない世界だ。
光君はそれに目を丸くしていたものの、現れ女性が、はにかんだ調子でそう言ったので、微笑んだ。
まだ距離はある。だが絶世の美男子である光君の微笑みは、近くにいた童にも効果覿面であるらしかった。
幼子はぱっと顔を赤くして、
「お母様、私は奥に行きます」
と恥ずかしがった調子で奥に引っ込んでいった。
そして、光君と女性が、惟光といういざという時のための使用人のほか、誰もいない場所で、のんびりと話し始めた時である。
「こうして出会えたのも何かの運命ですね」
そう言って微笑む女性は愛らしい。きつい美女達とは趣が随分と違っていて、その微笑みは癒されそうな柔らかさを持っている。
これは……なかなか男性に好意を持たれそうな女性であろう、と惟光は内心で判断した。
もしかしたら、どこかの有力貴族の男性と、何かの縁が欲しくて、いかにも豪華な牛車である、光君の牛車が立ち止まった事を利用しているのかもしれない。どんな女も強かな側面を持っている物である。無論惟光もだ。
「そうですね。こういう形になったのは運命でしょう」
宮中貴族の男性というものは、運命だとすぐに言う。運命がそんなに転がっていてたまるものか、と惟光は突っ込みたくなるものの、それが通常運転なので仕方がないし、話題になるのも運命のあれこれの場合がある。
そのため、光君の返答は普通の物だ。
「うれしい……やっと出会えて」
女性が嬉しそうな声を出す。ここで事にお呼ばないのは宮中男性ではない。女性からの誘いに応じないのは無作法とさえ言われるのだ。拒まれた女性は恥をかき、屈辱を受けると言われがちでもある。
そのため、女性に恥をかかせまい、と光君が意を決して彼女の手を握ろうと、そっと手を伸ばし、彼女の手の甲に触れた時だ。
そうして二人の顔が、薄暗がりの中向き合い、女性が戸惑った顔をした。
光君の方も、女性恐怖症だというのに、女性の事を思って触れて、顔から瞬く間に血の気が引く。あれはまずい、と惟光が何か割って入ろうかと思った時だ。
「あの方ではないの……?」
女性が明らかに動揺した声で言う。光君の方も、手の甲に触れて顔を見ているだけで精一杯である。
「お待ちください、お願いいたします、あなたは……!!?」
女性が、一般的な感覚ならば、この期に及んで、と言われそうな、待ってほしいという声を上げた時だ。
惟光はこれをいい事に、すかさず割って入り、青ざめた顔で息も震えている光君を、女性からはがした。
「光君、すこしこの方のお話を聞いてみましょう」
「ああ……」
惟光に抱えられて、光君は必死に呼吸を取り戻す。そして動揺しているばかりの女性の方を見て、出来る限り穏やかな声で、問いかけた。
「あなたは、どなたと私を間違えたのでしょうか」
「あ、あ、あ……」
自分が行った事が、どちらにせよ大変失礼だ、という事はすぐに分かったのだろう女性が、震えた声でそれ以上の事を言えない。
惟光は仕方がない、とその場を仕切る事にした。こう言った事は、誰かが割って入った方が間違いがないのだ。それを惟光はよく知っている。
「美しいお方、あなた様はこちらの方を、どなただと見誤ったのでしょうか」
「わ、わたしの、私の思う方です……お声が、似ていらして」
声が似ている。惟光は光君に似た声を持っている人を、数人知っていた。
第一候補は、父親であらせられる桐壷帝である。
だが桐壷帝が、この女性と関係があるとは思えない。藤壺を溺愛し、彼女ばかり見ているあの方が、この女性と関係を持つ可能性は限りなく低い。
次の候補は、光君の腹違いの弟である、蛍宮だ。彼は誰からもいい声であると褒められる美声の持ち主で、そして光君もよく似た声を持っている。
だが、蛍宮と見間違えたとも、考えにくい気がしたのだ。それはあの、娘である可愛らしい少女の年齢からである。どんなに見積もっても、あの子は三歳以上である。そして光君は現在十七歳。
異母弟である蛍宮はそれよりもっと年下なので、計算が間違わなければ、蛍宮の子供の場合元服前の子供になり、そんな不埒すぎる振る舞いは、あってはならない事なので、蛍宮も違う。
そうなると。
色々な事を考えた惟光に対して、光君はすぐに誰かを思い付いたらしい。
「あなたは、私の義理の兄である、頭中将の恋人だった、常夏の女性か……?」
「あの方は、よく私を常夏の花のようにたとえておいででした……あの方の弟君? ということは……申し訳ありません!! あなたさまはあの有名な光君!! ご無礼をお許しください!!」
確かに、頭中将なら計算があう。そして声も、光君といとこ同士だから似ている。
見事な勘違いの結果だったのか、と惟光は納得し、ひれ伏さんばかりに涙ながらに謝罪する可哀想な女性に、光君は優しい。
「大丈夫ですよ、そんな嘆かないでください。……頭中将は、あなたを一生懸命に探しておりますよ。可愛らしい娘もいたのに、と全く忘れられない様子です」
「あの方が……ああ、忘れないでいてくださったのですね……」
彼女がぼろぼろと涙を流しているのが、伝わってきたので、惟光は涙をぬぐう懐紙を彼女に差し出した。彼女がそれを受け取らずに、衣の袖で目を覆って、こらえている。
「申し訳ありません、あの方への恋しさのあまり、大変に失礼な事を。本当に」
「いいんですよ。……そうだ、あなた、私の義理の兄に、会っていただけませんか? きっと喜びます」
「しかし、あの方の嫡妻である、右大臣様の御娘君がいいお顔をしないでしょう……」
「いえ、あなたは会うべきです。……会話に割って入ってしまいまことにぶしつけだとは思いますが、言わせていただきたいのです」
探し求める女性に再会できたら、頭中将はさぞ喜ぶだろう、という光君に、もともといなくなった理由の大きなものである、頭中将の嫡妻の事を言う彼女に、惟光は言った。
「あなた様にはあのように可愛らしい娘君がいるのです。それも、頭中将の娘君です。そしてあの方の嫡妻であられる方は、いまだ子供に恵まれておりません。このままいくと、左大臣家の血が絶えてしまうかもしれません。そんな時に、あなた様が娘君とともに現れれば、頭中将様も、その嫡妻様も、あなたを無碍には扱えません。やんごとない身の上の方にとって、娘というものがどれだけ大事なものか、わからないわけでもありますまい」
「……!!」
女性が目を見開いているのが伝わってくる。惟光はさらに続けた。
「嫡妻様が、賢いお方ならば、きっとあなたを無碍に扱う事は出来ません。やんごとない身の上の方でありますから。もしかしたら、娘君は、嫡妻様の養女になるかもしれませんが……あなたが身を隠し日陰者になる要因は限りなく減るかと」
「……そうですね。私は、あの子にずっと申し訳なく思っていたのです。あんなに素晴らしい父君を持っているのに、こんな所で、庶民のように育てていいものかどうか、ずっと……!!」
「ならばこの、惟光の助言を聞いてくださいな。光君がうまくやってくださいますよ、そうでしょう、光君」
「もちろんだ! 親友のために一肌脱ぐ事はやぶさかじゃない!」
力強い声に、女性はこらえきれずうれし涙を流している。
その後、これからの事でいくつかの話し合いが行われた後に、本当に彼女は娘とともに、もっといい屋敷に移り、頭中将と感動の再会をはたし、娘は彼の本邸に養女として迎え入れられたのであった。
寂しくなるものの、手紙をやりとりし、娘の希望でいつでも母に会いに行けるとなったので、これは限りない好待遇といってよかった。
そして、左大臣家の直系の娘を見つけ出した事で、光君は左大臣からいっそう素晴らしい婿であると絶賛されたのだった。
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