第33話 本領発揮
近江屋の敷地内、奥の奥にある離れ。
誰も近づかない小さな個室に行燈を一つだけ灯して、佐平次は頭を抱えていた。
「もう少しだというのにっ」
二代目近江屋佐平次の計画は実に周到であった。
『慈善の景舎』として名高く通人にも名を連ねる近江屋に狙いを定め、まず丁稚として奉公に入った。
こつこつと実直に仕事をこなして先代の信頼を得、手代になり店を仕切るまでに、思った以上の時は掛からなかった。
いや、掛けてはいけなかったのだ。
近江屋を継承するため外に奉公に出ている一人息子の惣治郎が戻ってからでは遅い。
彼が幼いうちに先代を病死に見立て殺し、遺言として中継ぎの二代目を継承する。
実直な息子の惣治郎も手代の時から知った顔だ。
信頼を得るのは容易かった。
「早く店を譲りたい」と言いながら、毒でも使って徐々に弱らせ殺してしまえば、近江屋は自分のものになる。
その間に、手に入れられるものは総て手に入れる。
あの村の開拓も、小川の源流にある金山も、そのための足掛かりに過ぎない。
「やっと田沼様にまで手が届いたのだ」
天領である芽吹村。
江戸開府以前からあるあの村を、幕府は実際の所、持て余していた。
飢饉が続き、ろくに年貢の取り立ても出来ない貧乏村を私財を投じて開拓し再建する。
これ以上の賄賂は他にない。近江屋は幕府に多大な恩を売ることに成功したのだ。
しかも、あの金山。
札差である近江屋が大量の金を個人で保有することに成功すれば、両替商としての方面でこれ以上にない財を築ける。
「だというのに、あの馬鹿息子めっ」
金山の存在は幕府に上申していない。
こっそりこっそりと、ひた隠しに隠して何とかあの場所に近江屋固有の蔵を作る許可まで得たというのに。
「突然、植林をしたいなどと抜かしおって」
植樹などしてしまったら、金山の存在が幕府に露呈してしまう。
上申しなかった理由などいくらでも誤魔化すことは出来る。
だが、金山の存在が幕府に漏れれば村ごと総て持っていかれてしまう。
それでは今までの苦労が総て水の泡になってしまうのだ。
文机に置いた汗ばむ拳を、佐平次はぐっと握った。
「少し早いが、殺るか」
とはいえ、多少の不安はある。
今まで対談方として協力してくれていた妖鬼が三人、突然姿を消してしまった。
そもそもが、いつ消えても文句は付けない、という契約だったが、今まさにその力を欲するところ、と言う時に居ないというのは気に食わない。
「どいつもこいつも、使い物にならん」
そう吐き捨てた時、行燈の灯がゆらりと揺れて、佐平次の影が歪んだ。
「?」
窓も障子もないこの部屋に風が流れることはない。
不思議に思いながら、真後ろにある行燈を振り返る。
「なっ!」
火皿に浮いた灯心の火がやけに大きくなっている。
油がバチバチと音を立てて跳ね、火はどんどんと大きくなりやがて炎になると行燈そのものを包み込んだ。
「ひぃっ!」
火を消そうと着ていた羽織を脱いで行燈を叩く。
『にゃ~ぉ』
どこからともなく猫の鳴き声がする。
ぴちゃぴちゃと油を舐めるような音が聞こえた。
声も出せずに行燈に被せた羽織の下を、恐る恐る覗く。
長い尻尾が二本、にょろりと伸びてきた。
「ね、猫の悪戯か? どこから入った!」
ばっと羽織を退けると、確かに猫がいた。
かっと頭に血が上ったが、その尾を見てすっと血の気が引いた。
尾が二股に分かれていたからだ。
青い顔の佐平次に向かい、猫は胴をにゅるりと伸ばし天井に頭が届くまでに大きくなって、ぎょろりと佐平次を見下ろした。
『火事はあんたの十八番でしょ。ほぅら、大好きな火を放ってあげるわよ』
猫の前足が行燈を畳に叩きつける。
火皿から零れた油が畳に染みて引火し、火はあっという間に小さな個室を覆いつくした。
「よ、よせ! やめろ!」
部屋から出ようと襖に駆け寄る佐平次の目の前を、銀糸の毛並が塞ぐ。
見上げると、美しい狐が恐ろしい形相で出口を塞ぎ、佐平次を見下ろしていた。
「ひっ、ぅあっ」
何とか襖に手を伸ばそうと銀の毛を掻き分ける。
佐平次の手に、妖狐が思い切り火を吹いた。
「あぁああ、熱い!」
その場に転がった佐平次に、狐は首を傾げた。
『火は大好きなんだよね? 足りなかったかな? じゃあ、もっとあげるね』
そうして口から大量の火を吹く。佐平次の着物が炎に包まれた。
「あぁあああ、あ、つい……」
気道が焼けるように痛み、呼吸が出来ない。
肌の焦げる痛みと異臭が鼻に付く。
火達磨になってもがく佐平次の耳元で、見慣れない洋装姿の見知らぬ男が囁いた。
『おやおや、大変そうですね。今、楽にして差し上げますよ』
訳も分からず只々頷く佐平次に向かい、男が銃を向ける。
「ひっ!」
小さく悲鳴を上げた佐平次の眉間を、男のピストルが打ち抜いた。
頭の中を硬い鉛玉が通過していくのを感じた直後、信じられない程の激痛が走る。
「っ!!!!」
火に焼かれたまま痛みだけを感じて声も出せない佐平次に、男が再度、囁いた。
『これは、失礼。死ななければ、痛いだけでしたね』
くすり、と不穏な笑みを残して男が消えると、また知らない男が現れた。
『熱いのなら、火を消そう』
こくこくと頷く佐平次の視界が突然歪んだ。
水の中に居るのだと気が付いたら、急に息が出来なくなった。
部屋の中全体が水で満たされ逃げ場がない。
焼けた肌に水が染みて尋常でない痛みが襲う。
体中の皮膚が水圧に押されてべりべりと剥がれる度に、体中に激痛が走る。
「ごふ……っ、ごぼっ」
大量の水を飲み込んで息が止まり、佐平次は意識を失い、目を閉じた。
「はっ!」
気が付くと、いつもの離れの部屋の中。
慌てて辺りを見回すが、行燈もいつもの通りに灯っている。
焼け焦げた後も、水の入り込んだ様子もない。
「夢か……」
嫌な夢だと胸を悪くしたところに、視界がざっと変化した。
『夢なんかじゃない』
少年のような声だけが部屋に響いて、部屋は再び炎にまかれ黒く焼け焦げた。
体中に痛みが走る。激しい頭痛が走り額に触れると、小指程の穴が開いていた。
「ぁ……ぁ……」
今さっき起きた惨事が幻影ではないと悟り、へたり込む。
いつの間にか部屋にまた水が溢れ、佐平次の腰までが水に浸かっている。
その水を蹴りながら、大きな黒い羽を背中に持つ少年が歩み寄り、佐平次の前に立った。
「おまっ……ぇ、はっ……」
声を絞り出したせいで喉に激痛が走る。
指一本動かすだけでも体中に激痛が走り、意識を保つのすら危うい。
『あれは、本当に起きた火事だ。あの里山に生きていた木も、草も花も、鳥も兎もみんな、皆こんな風に苦しんで、消えて行ったんだ。同じ痛みを感じてもらう』
ふるふると怯えながら、佐平次は首を振る。
「あれ、は……お前、のな、かま、の……」
激痛に耐えて吐く言い訳に、別の男が豪快に笑った。
『がはは、そんだけ苦しくても言い訳できる気力は流石だぜ、小悪党の旦那よ』
突然目の前に現れた大男は、額に二本の角を持つ鬼だ。
色違いの瞳が、苦しむ佐平次の逃げる目を捕えた。
『あんたは人に住処を宛がった。惜しみなく私財も投じた。大したもんだ。なかなかできることじゃぁねぇ』
涙目の佐平次がこくりと頷きにやりと笑う。
鬼は髷を掴まえて、佐平次の顔に迫った。
『だがなぁ、その為に他のもんを奪い過ぎた。この世ってぇのは、人の為だけにあるんじゃぁねぇんだ。人も自然の一片。人以外にも生きているもんは、たぁくさん、いるのよ』
鬼は掴んだ髷を離し、その手を佐平次の前に出した。
『お前さんが犠牲にしたもん総てに、お前さんが差し出せる代償は、さぁ、何だろうなぁ』
翳した掌の上に、すぅと薄ら青い小さな火が灯った。
火は徐々に大きさを増し人魂のようなそれは心の臓ほどの大きさになって、ゆらゆら揺れた。
『ほぅ、これがあんたの差し出す代償かぃ。確かに、いただいていくぜ』
ふるふると泣きながら佐平次が首を振る。
にやりとした笑みを残して鬼は、すぅっと姿を消した。
一人残された闇の奥で笑い声が響いた気がした。
それは佐平次に、すっかり忘れていた古い言葉を思い出させた。
『因果とは巡るものだ。総ての行いは余さず己に返ってくる。忘れてはいけないよ』
今際の際にあった先代佐平次の言葉だ。
あの時の先代の目は、まるで自分の瞳の奥まで見透かしているようだった。
恐くなり、目を逸らしたのを今でも覚えている。
(先代は、気付いていたのか。これが、因果が巡るということ、か……)
ぼんやりと思いながら、薄れゆく意識の中で目だけを動かす。
部屋の中は何事もなかったように綺麗なままで、行燈の灯だけが消えていた。
真っ暗な空間は、がらんと空気が乾いて、一面が闇に飲まれたようだ。
必死に開いていた眼は抗いきれず、ゾッとする程、黒い闇に誘われるままに、瞼が落ちた。
ぱたりと倒れ込んだ佐平次は、もう二度と目覚めることのない深い深い眠りへと落ちていった。
〇●〇●〇
闇色の空には月も星もない。
朔の夜の下、一仕事終えたあやし亭の面々は近江屋の屋根の上に居た。
「みんな、ありがとう」
睦樹がぺこりと頭を下げる。
紫苑の指が睦樹の顎に指をひっかけて、くぃと持ち上げた。
「零が言ったでしょ、これは仲間の弔い合戦だって。そういうのは、いいのよぉ」
紫苑の笑みに微笑み返す。
睦樹の中にはまだ、複雑な思いが沈殿していた。
「でも、佐平次の言った通りだ。あの火事には巌たちも加担している。悪いのは佐平次だけじゃない」
「それを差し引いても、結構な悪事を働いていると思うけどね、あの旦那」
双実がくいと指さしたのは、零の掌の上でゆらゆらと揺れる人魂だ。
「咎を犯した者から、その分の代償をもらう。それが零の力なのよ」
双実の言葉に、睦樹は只々唖然とする。
「鬼って、そんなことも出来るのか」
「鬼っていうか、零の特殊能力みたいなものねぇ」
ふふっと微笑む紫苑の隣で、一葉がからっと笑う。
「あれだけ魂を抜かれちゃうってことは、火事の他にも沢山悪い事していそうだね」
「あれは、魂なのか」
ごくりと唾を飲んで、零の手の上で揺れる人魂を見詰める。
薄らと青みがかった灯は儚くも美しく見えた。
青い灯火を、零が夜の闇に掲げる。
人魂は、ゆらゆらと揺れて、自ら空の高い方に向かい昇って行った。
「あれは、どこに行くの?」
睦樹の問いに、零は昇っていく魂から目を逸らさずに答える。
「さぁなぁ。自然に還るんだろうよ。間違っても輪廻に入るのは、無理だろうなぁ」
睦樹は零と同じように、空の彼方に向かい小さくなっていく魂を見詰めた。
「自然に還るなら、少しは罪を償うことに、なるのかな」
消えてしまった里山の友たちへの弔いにもなるのだろうか。
そう願った言葉に、零はしんみりと小さく白い息を吐いた。
「どうだろうなぁ。そもそも咎を持たねぇ生きもんなんて、果たしてこの世に居るのかねぇ」
見上げた零の横顔を、ちゃんと見ることは出来なかった。
けれどその声は、とても静かで少しの憂いを含んで響いた。
「寒くなってきましたし、そろそろ戻りましょうか」
空気を変えるように、参太が皆を促す。
「きっと志念さんが美味しいものを作って待ってくれている筈ですよ」
「俺、鍋がいいな~」
一葉が参太に習い、歩き出す。
「私、参太のプディング、忘れてないからね」
じろっと見上げる双実の視線に、参太がぎくりと肩を揺らした。
「それは零が勝手に言ったことでしょう」
困り顔の参太の肩にもたれて、紫苑が双実を揶揄う。
「双実ちゃんたら、執念深いわねぇ」
「双実は猫だしね!」
あっけらかんと紫苑に便乗した一葉を、ぎろりと睨みつける。
皆のやり取りを微笑ましく眺めていた五浦が振り返る。
睦樹に手を差し伸べた。
「睦樹も帰ろう、俺たちの隠れ家に」
「うん」
いつかのように五浦の手を取って、睦樹は歩き出す。
その様子を眺めていた零が、柔らかい瞳で、ふっと微笑んだ。
「あやし亭もまぁた、騒がしくなりそうだなぁ」
睦樹のあやし亭での物語はここから、始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます