寝返りと祈り

県昭政

全話 寝返りと祈り

第一章 太閤の死


 太閤が死んだ。喜んでいる者がいる。慶長三年(一五九八)十一月十九日、脇坂淡路守安治(わきさかあわじのかみやすはる)は、朝鮮の釜山(プサン)の港に立っていた。朝鮮攻めでの撤退の日本軍の最後の船が出るのを待っている。日本海の向こうの見えぬ日の本の方を鋭く見つめていた。そこに藤堂高虎が歩いてきた。その顔には朝鮮での戦いの苦労がうかがわれる。高虎は安治の右隣に来て、同じく日の本の方を見つめていた。高虎は溜息をついた。

「甚内よ、ようやく国元に帰ることができるな」

 高虎が別名甚内こと安治に語りかけてきた。

「与右衛門よ。そうだな。長かったな。俺はこの戦の意味が何かを毎日考えている」

 別名与右衛門の高虎の言葉に対して安治は話しかけた。

「意味などない戦だ。ただ多くの命が戦よりも病で無駄に失われたことであった。わしは、このような戦は二度としたくはない」

「そうだな。このような戦は不毛だ。さて俺も軍の船に乗って帰るとするか。与右衛門よ、日の本で再び会おう」

「おう、そうだな。また酒を酌み交わそうぞ」

 二人は別れてそれぞれの船団に向かっていった。


 しばらくして安治は安宅船(あたけぶね)の上にいた。周りの海には関船五艘、小早(こばや)船十艘が安宅船を守るように付いてきている。

 波は激しく荒かった。だが安治は少しも酔いもせずに、甲板(かんぱん)に真っ直ぐに立っている。安治の鋭い目が上に吊り上がり、日の本の方の海を眺めていた。船は計十六艘で対馬、壱岐を越えて、玄界灘に向かった。。

「早くゆっくりと寝たい」

 ところで、安治にとって朝鮮攻めは本当に疲れた戦いだったのだ。虚しい戦いとすら感じていた。

 そして戦が終わり、安治は気鬱(きうつ)の病にかかってしまった。なにもかもが虚しくなり、やる気がなくなってしまった。安治は淡路島水軍千五百の将兵を率いて、朝鮮水軍と戦ってきた。せっかく豊臣秀吉が長い年月の戦乱で疲弊していた日の本をまとめて立て直した。惣無事令、刀狩令、海上賊船禁止令、喧嘩停止令などを発し、検地を行なった。安治は、戦のない世がやっと来たと喜んでいた。

 しかし、幾つもの戦で民が家を焼かれたり、将兵に殺されたり、連れ去られたりして苦しんでいる様子を見た。武勇でのし上がってきた荒くれ者の安治ですらも、つくづく戦が嫌になっていった。民が作り上げた美しく耕された水田や畑は、足軽たちが走って行って踏みつぶされた。そして無残にも荒らされてしまったのだ。美しい花々も酷く踏みにじられていった。安治はその様子を見て悲しくなった。そして、敵の軍と戦って、負けそうになり何とか耐えながらも、とても苦しい思いをした。

 安治は太閤の子飼いの家臣と言われている。しかし、太閤の死を聞いておおいに喜んだ。諸大名が太閤殿下と読んでいるのに、この男は秀吉の前ではともかく、人目もはばからずに「太閤」と呼んでいた。むろん、周りの者は驚愕した。船上で安治は、この湧き上がる喜びを押さえつけることができなかった。

「太閤の死に乾杯!」

 船の中で、堺で手に入れていた大好きな南蛮の葡萄酒で祝杯をあげたほどである。その時は慌てて、家老の大塚勘兵衛が止めに入ったほどである。勘兵衛は太い白い眉毛の持ち主である。

「と、殿、そのようなことはお止めくだされ。太閤殿下に対して不謹慎でございますぞ」

「なーに、構わんさ。今まで無駄に苦労してきたのも全て太閤のせいだ。大事な家臣や領民や朝鮮の将兵や民たちの命が落ちたのも太閤のせいだ。まだまだ飲み足りんぞ。おらっ、もっと飲ませろ」

 安治は勘兵衛が止めるのを振り切って、日中飲み続けていた。しかし、酒にはかなり強いので全く酔わない。家臣に絡んだりもしない。ともに苦労してきた家臣たちは、安治の気持ちが痛いほどよく分かるので何も言わなかった。そしてやっと博多の港に着いたのである。安治は安堵した


 安治の乗っていた安宅船は、室町時代の遣明(けんみん)船でも使われた二形(ふたなり)船を軍用に艤装(ぎそう)したものだ。千石積の規模を誇っていた。

 船首の上面が角ばった形をしている。矢倉と呼ばれる甲板状の建物も方形の箱造りとなっているのが特徴である。建物は船体の全ての長さに及ぶため、総矢倉と呼ばれた。この形によって占めた広い船の上に、木製の楯板を方形の前後左右に張って、敵の矢玉から乗り組の者たちを守ったのである。

 もともと速度の出ない大型船であるため船の速さは犠牲にされており、楯板は厚く張られてぶ厚い備えとなった。楯板には狭間(はざま)と呼ばれる銃眼(じゆうがん)が設けられている。その銃眼の隙間から弓や鉄砲によって敵船を攻撃した。敵の船に乗り移って攻撃を行う時のため、敵船と接っした時には楯板が外れて前に倒れる。そして橋渡しができるようになっている。楯板で囲われた総矢倉のさらに上部には屋形が重なっている。外から見るとまるで城のようだ。安治の安宅船には四層の楼閣があげられていた。その造りとぶ厚さから、安治の安宅船は朝鮮の水軍からおおいに恐れられていた。

 当時の日本の船に共通する船の組み合わせとして、板材を縫(ぬ)い釘と、かすがいによって繋いで建てられていた。南蛮や中国の船のように骨組みとしての竜骨はない。軽い組み合わせの船である。従って、衝突や座礁などの衝撃で水が密閉され、漏水に弱いという弱点もあった。これは戦のための船としては、体当たり攻めができないのである。大きな欠点である。また南蛮の船と違い、国内での沿岸での戦いのための船であった。日の本の外の海に出るための力は限られている。従って、朝鮮攻めでの兵や物資を運ぶ船や、朝鮮南部の沿岸での水軍としての船としては、元々の力が出せなかった。そのような中で安治は苦戦していた。

 安治の船を進めるには帆も用いた。しかし戦の時には帆柱を倒して、艪(ろ)だけで進んだ。艪の数は一五〇挺以上に及び、二百人の漕ぎ手が乗った。将兵は漕ぎ手と別に乗り組み、五百人にのぼる。

 特に大砲や鉄砲を使った戦に対して、楯板に薄い鉄板が張られていた。陸上の持ち運びに適さない大鉄砲や大砲(おおづつ)が配備され、強い力の火力で敵を圧倒した。


第二章 安治の気鬱


 安治は細い髭と鷲鼻の容貌で憂いた顔をしながら、考え事をしていた。帰国してからのことである。これで長かった戦は終わって平和な世に戻り一安心だ。しかし、懸念することがあった。朝鮮攻めで、戦の進め方をめぐって武将たちの間で仲間割れが起きた。加藤清正、黒田長政たちが厳罰となり諸将に不満が高まったのである。それから太閤に見切りをつけ、豊臣家への忠誠心も低くなった者たちもいた。もちろん安治もそうである。今までは、太閤がいたから表沙汰にならなかった。しかし太閤が亡くなった今は朝鮮から帰国した者たちが、国内で内輪揉めを起こすのが必定だと、安治にはよく考えられた。特に、石田治部少輔(じぶしようゆう)三成たち文治派と福島侍従正則、加藤肥後守清正たち武断派が衝突するのは避けられないと思っていた。

 このように安治は強く考えていた。今、太閤が幼い我が子秀頼を託すのは、太閤にとって信頼できない徳川内大臣家康と太閤の無二の友の前田権大納言(ごんだいなごん)利家しかいなくなっていた。

(他の大大名では、毛利参議輝元殿は優れた毛利一族の中では、坊ちゃん育ちで凡庸過ぎる。宇喜多権中納言(ごんちゆうなごん)秀家殿は、太閤から幼き頃より可愛がられ、豊臣家への忠誠は強いものがあるが何せ若すぎる。上杉参議景勝殿は器が大きく武勇に優れ家臣に慕われているが、いつも黙っていて周囲との付き合いが少ない。この三人は豊臣家の柱となるには荷が重すぎるな)

そのように安治は深く相手の器量を見て考えていた。何せ、次の天下人にふさわしくない者がつけば、天下は再び騒乱の渦に巻き込まれるのだ。また無駄に大事な命が落ちることになる。それだけは決して避けねばならんと安治は、戦国の世や朝鮮での戦いを考えて、必死に願っていたことなのだ。安治は、やはり徳川内大臣家康こと内府(だいふ)殿、あのお方しかこの国を戦のない世にまとめることができる人物はいないと信じていた。器の大きさ、軍の采配の上手(うま)さ、知略に長けていること、幼少の時から苦労してきて凄みがあり、家臣からの人望も篤い。家臣たちも優れた者が多い。諸大名からの信頼も高い。このお方しか次の天下人はいないであろうと安治は信じ切っていた。

 安治は太閤の生前から、内府に朝鮮の陣から書状を書いていた。それを送り続け近づいて行った。そして安治は内府と懇意となっていたのである。

 太閤も内府を事に当たって少しも慌てることなく軽率を避けて、自然の理(ことわり)や人情の動きを察して物事を考え、人の和を本として天の理に沿って動くことは、まさに天下の主(あるじ)となる人だけのことはあると、家康の力、偉大さを認めていた。内府はそれを知って誇らしく思いつつ、警戒し韜晦(とうかい)をますます強くしていった。

 この年の五月から秀吉は病に伏せるようになった。そして日を追うごとにその病状は悪化していったのである。五月十五日には徳川家康、前田利家、前田利長、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元たち五大老及びその嫡男たちと五奉行のうちの前田玄以、長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出させ、これを受けた五大老、五奉行たちは起請文を書きそれに血判を押して返答した。

 太閤は徐々に痩せていった。目がくぼんでいき、声も満足に出ないようになった。それでも、秀頼よ、秀頼よと我が子のことが心配である。繰り返しその我が愛する子の名を呼んでいった。死の間際に苦しみながらも、我が子のことが気がかりでたまらなかったのだ。そして最も警戒している内府に何度も秀頼を頼むと言い続けた。内府のことは全く信じていなかった。しかし、この男に秀頼をつぶされてはたまらないのだ。内府の領土の周りには、太閤が信頼している大名を置いた。内府包囲網を築いていたのだ。だが、、それでも不安で内府その者相手に情に訴えるしか術(すべ)がなかったのである。そして若き頃からの親友前田権大納言利家に内府の暴走を止める役目を期待した。そして諸大名にも秀頼への忠節を誓う誓詞を書かせたのだ。しかし、今までの朝鮮攻めなどで、諸大名の太閤への信望は地に落ちてしまった。太閤は内府を疑いながらも病が重くなり、体がますます痩せていき呻(うめ)いていったのである。稀代の英雄豊臣秀吉は遂に亡くなった。

 

 脇坂安治は帰国してから、一旦淡路島の居城洲本(すもと)城に戻っていた。この城は今天守を造っている。石垣も大きく改修している。本丸と天守は見晴らしがよい。そして守りの要となる小高い山に建てられた。兵が住んでいるところは海に近い平地にあった。そこで敵の攻め入った場合、それを防ぐために、本丸と港を取り囲むように山腹の両側に日本式の石垣を築いている。安治は庭から瀬戸内の海が見える本丸でくつろいでいた。瀬戸内の海は穏やかである。

「いやー、さすがに我が屋敷は落ち着くな。およそ二年ぶりだな。何もしなくても良い気分だな」

 しかし、帰国して体の疲れは取れても、心の疲れは全く取れなかった。朝鮮での惨澹(さんたん)たる戦を行っていった。そして大義のない戦に虚しさを強く感じ、安治は心が晴れなかった。

 洲本の城下には、永平寺で修行していた禅師を迎えていた。禅師は永平寺で修行を修めた。そして安治が生まれた近江の寺の住職となったのである。大元禅師(だいげんぜんじ)と言う。そして洲本城のすぐ側の曹洞宗の南明(なんみよう)寺の開山となってもらった。安治は禅師から教えを授かっていた。安治は禅師から厳しい参禅の指導をしてもらったのである。ただの猪武者から、冷静沈着な武将へと成長していった。この日も早朝に禅師の元を訪れた。そして一刻ほど参禅した。足のしびれなどない。朝鮮への渡海の前には、座禅を組んで気の迷いなどをなくしていた。しかし、今度の座禅では気鬱が全く晴れなかった。安治は驚きを隠せなかった。

「大元禅師様、座禅を組んでも、今までと違い少しも気鬱が取れません。何が元でこのようになったのでございますか。そして今後俺は一体どのようにしたらいいのでしょうか」

 禅師は穏やかに話し出した。

「それは脇坂殿もお気づきのとおり、朝鮮で無意味な戦をしたとご自分を追い詰められているからです。脇坂殿のお考えは間違ってはおりませぬ。そのお気持ちをそのまま受け入れなされ。従って、今まで楽しまれてきたことを思い出して、それらを行ってみなされ。そのようにすれば、気鬱も少しは晴れるでしょう。しかし、少しはですぞ。長い時間をかけて治すしか手立てはありません」

 安治は大元禅師の言うことを聞いて、今まで楽しんでいたことを行なおうとした。洲本城には、安宅船二艘分が入る広い港が城の前面に石垣で造られている。大船を止めるための大きな板も、石垣に置かれていた。そして港のはずれに石垣を組んで直角の堤防を造った。それは釣り場も兼ねていた。これは安治が好んでいる釣りをするために、城が改築された時に造られたのである。安治は少しでも気が晴れるように、摂津で獲った竹で作った釣り竿三本と魚を入れる木箱を持って、釣り場に一人で出かけた。家臣たちを連れて行くと、気をつかい面倒と感じたからである。

 堤防の上に立って安治は考えていた。

(内府殿にお味方しても結局は戦が起きるのか。できることなら、内府殿が外交や調略を使われ豊臣家の専権を握る。そして関白に変わる政事を務められるのが一番良いのだが。そのようにすれば戦は起こらずに平和なうちに天下人は変わるのだ。それにはどうすれば良いのだろうか)

 安治はしばらく必死になって考えていた。

(おお、そうだ。征夷大将軍があるではないか。武家の棟梁である。豊臣家に従わない別の公儀としての名目を確かなものにできる。それに足利幕府は既に滅んでいる。征夷大将軍なら関白を抑え、徳川の天下にすることができるぞ。そして秀頼様を関白に継がせず、摂関家に関白の座を戻す。これで平和なうちに新しい治政が始まる。このようなことを考える俺はやはり凄いな。俺は、政事も知略も優れた男なのだよ)

 安治は自分で勝手に喜んでいた。

 三刻程経って瀬戸内名物の赤メバルがやっと三匹釣れた。太公望を自負している安治としては、三刻での三匹はかなり少ない方である。安治は少し不満気味だ。赤メバルは身は脂が乗っている割には身の締まっている白身がある。特に瀬戸内産は美味である。頭が大きくて身は少なめだ。特に頬の身は美味(おい)しい。岩礁の辺りに住み、岸から近いところにも生息しているために釣りやすい。だから、釣り人に人気がある。安治は溜息をついて諦めた。釣り竿を右肩に担いだ。そして水の入った木箱に魚を入れ、城に帰っていった。城で包丁の腕に優れていた料理番に赤メバルを渡したのだ。料理番に好きなように料理を任せて夕餉を待った。安治は居間で待っている。そして赤メバルの煮付けと味噌汁が出された。安治は味噌汁から手をつけた。

「やはりこれだな、これ。味噌と赤メバルの身が上手く混ざっている」

 次には煮付けを食した。

「うむ、身が締まっていて食べ甲斐がある。相変わらずの美味だな。でかしたぞ」

 安治は笑顔になった。廊下で畏まっていた料理番は頭を深く下げた。しかし、せっかくの美味な料理を食べても、心は相変わらず晴れないのである。

(ううむ、これは一体どうしたものであろう。もうすぐ伏見城に帰国の挨拶に行かねばならないのに、これではいかんぞ。何とかしないと)

 安治は困惑した。

 翌日、安治は洲本城の港の傍に作った白浜に、また一人で行った。脇坂家では泳ぎが達者な漁師上がりの家臣や安宅水軍出身の家臣がいた。水練はその者たちよりも、安治が一番上手であった。この白浜は伊予板島の大名である藤堂高虎に頼んで、伊予の海浜から取り寄せた。白くて光輝く美しい砂で埋められていた。安治自慢の浜である。そこから安治は袴(はかま)などを畳みもせずに次々と脱ぎ捨てた。褌(ふんどし)一丁になったのだ。そして浜からゆっくりと歩いて海の中に入っていった。首の下まで海水で浸かるようになった時に泳ぎ始めたのである。水はかなり冷たかった。しかし長年鍛えていた安治は困らなかった。安治は水軍の采配だけでなく、水練も得意としていた。だから、海のことが、他の水軍の大将よりも良く分かっていたのである。およそ一刻、衣服を右手で水の上に掲げ、濡れないように立ち泳ぎをしていた。海の中で横になり足を掻いていた。そして足の動きを徐々に速くしていった。

 安治は織田信長が若き頃に水練を得意としていたと聞いた。そして自分が水軍を率いるようになってから水練を徹底して修行した。水練は武術としての起源や発展の歴史を持つ物が多い。常の泳ぎのみでなく、視界を保ったまま飛び込んだり、甲冑を着たままの着衣水泳という泳ぎ方や、立ち泳ぎの姿で鉄砲を撃つなどの水中での戦さの術、さらに船を操る術もある。自分が敵に捕えられることを考えて、縄で縛ったありさまで前に進む奥義の泳ぎ方の全身がらめと言った危険な技もある。水練は武士のたしなみとして重んじられた。海や河での戦い、あるいは護身のための泳ぎもあった。安治はこの水練の名人にまでになり、習熟したのである。以前は、水練で気持ちが高ぶっていたが、今や気鬱は晴れない。体も逆にただ疲れてしまっただけである。安治はまたがっかりした。なぜ気持ちが高ぶらないと苛立った

(そうだな。皮肉なことに、日の本での戦いの時には、よく行なっていた水練であるが、朝鮮では敵がいつどこに潜んでいるか分からない。従って長年していなかったな。体がなまっているのだ。また修練せなばならん)

 安治は重い足取りで城へ帰っていった。

 五日後に安治は、これまた大好きな相撲会を開いた。そして力士の戦いぶりを見ることにした。京、大坂、堺、播磨、摂津、淡路などから強豪の力士たちを多く呼び寄せた。重い体と体のぶつかり合い、大きな体の力士を奇策で驚かせ打ち負かす小兵の力士の見事な技、俊敏な動きの力士など様々な取り口を見ることができた。数々の力士たちを打ち負かし、二人の力士が残った。東龍丸(とうりゆうまる)と栃王(とちおう)である。どちらとも五尺五分を越える巨体の力士であった。ただし、客席の前の真ん中に居座る脇坂安治が五尺八分も背丈があったから、周りの者は特段には驚かなかった。安治は二人の力士の勝負に期待した。東龍丸と栃王は拳をついた状態からお互いに鋭く目を合わせ、両者が同時に立ち上がった。しかし、間が悪くてやり直した。次も気合を入れて立ち上がったのだ。またも間が悪かった。安治は、その様子を見て苛ついている。

「おい! お前らは何をやっておるんだ。しっかりせんか!」

「は、はっ、申しわけございません」

 両力士は安治から鋭い目つきで叱責されてすこぶる緊張した。二人は息が荒くなっていた。そしてまた拳をついた状態から互いに目を合わせ、両者同時に立ち上がって激しくぶつかった。汗が飛んだ。東龍丸がすぐに右に回り込んだ。栃王はそれを後ろから捕まえようとした。しかし、東龍丸の動きが素早い。そして栃王の顔を拳で殴った。栃王は一瞬後ろにのけぞりよろめいた。しかし血を流しながらもすぐに姿勢を立て直した。がら空きの東龍丸の腰をしっかりと握ったのである。そして東龍丸の廻しを強く掴んだ。遂に勝負が決まったかと思われた。しかし栃王は押そうとするがしばらくの間、両者とも動かなくなった。お互いに押して少しは揺れていた。遂に東龍丸が力尽きて、土俵の外に押し出されたのである。長い勝負はやっと決まった。

 普通相撲は正面からぶつかり合うものである。しかし、必ずしもそうしなくても良いのである。この戦いの始まりを立合いという。立合いは世界では見られない日本独特のやり方であった。その始めは両力士の暗黙の合意のみで決まる。仕切りを繰り返すうちに両者の気合いが乗り、ともにその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形である。行司は始めを言うのではなく確かめるだけであった。相撲会は武士だけでなく町人、農民や漁師たちも見に来ていて大いに盛り上がった。しかし、安治はまたしても気鬱のままであった。


 三日後、安治は勘兵衛と数人の家臣とともに、洲本城から小早船で堺の港に入り、伏見へ入った。洲本城の留守は跡取りの安元に任せている。最初に徳川家康の屋敷を訪れた。

「と、殿! 初めは当然主君の秀頼様に帰国のご挨拶をせねばならぬと思いますぞ」

 勘兵衛が慌てて口を開いた。

「内府殿殿の方が先だ」

 安治は眼光鋭く、急いで道を歩いていた。そして徳川屋敷の門に辿り着いた。表情を急に変えている。笑みを浮かべて門の守兵に話しかけた。

「私、朝鮮から帰国いたしました脇坂淡路守安治と申します。帰国のご挨拶を内府殿にしたいと存じまかりこしました。どうかよしなに内府殿にお取次ぎ下され」

「はっ、分かり申した」

 屋敷内に兵の一人が戻っていった。そして内府の家臣を引き連れてすぐにやって来た。

「これは淡路守様。朝鮮での戦い、まことにご苦労にございました。主(あるじ)から客間へすぐにお通しするようにと言われております。私がご案内奉ります」

 安治たちは客間に通された。天井は檜(ひのき)で造られていた。襖(ふすま)にも葵の紋が一つ真ん中に描かれているだけであった。豊臣家筆頭の大名としては、意外にも質素な造りであった。

(三河者は質素なのだろうか)

「これは、これは淡路守殿。朝鮮での長陣、まことにご苦労様でした。さぞやお疲れでございましょう」

 内府がすぐに客間に訪れた。上機嫌の表情であった。

「ありがたきお言葉、痛み入ります。異国の地での戦いは確かに苦労しました。内府殿のお手配のおかげで無事に帰国することができました」

「いやいや、私の力など微々たるものでございますよ。帰国できたことも、淡路守殿などの現場で戦ってきた方々の力によるものです。確かに太閤殿下がみまかられた後は、その死を隠しました。そして私がまとめて朝鮮にいる諸将を引き上げさせました。しかし、殿下の死が諸将が帰国する前に朝鮮に知られてしまいました。撤退している豊臣軍が襲撃されたと聞いております。さぞや難儀でしたでしょう」

「私どもは無事に帰国できましたが、小西行長殿が敵に囲まれてしまい、諸将で助けました。また、私どもをおおいに苦しめていた敵の水軍の総大将が追撃してきました。しかし、島津義弘公が鉄砲で狙い撃ちをされ、総大将を討ち果たしたのには驚いたのです。さすがは鬼島津でございます」

 安治は凄みのある顔に似合わず、微笑んで答えた。

「それは何よりですな。淡路守殿からは朝鮮におられた頃から、現地のありさまなどをたびたび書状にして寄こしていただきました。大いに参考になりました。しかし、太閤様に現地のありさまを申しても、一切聞き入れて下されませんでした。それが残念です。そして貴殿の水軍での戦いぶりは実に見事なものだと、藤堂和泉守殿より書状でよく伝えられました」

 内府は鷹揚な態度で話した。

(ふん、内府殿もよく言うよ。太閤に一言も諫言なされていないであろう。豊臣家が朝鮮で苦しめば苦しむほど弱くなる。内府殿のためになる。しかも内府殿は名護屋城に在城しただけだ。朝鮮へは家臣一人も行っていないのだからな。喰えないご仁だ。それと‎与右衛門も内府殿に近づいているのか。奴らしいな。さすがに次の天下を見通しているな)

 安治は‎与右衛門こと藤堂高虎の早い動きに感心した。


 太閤秀吉は表では徳川家康と友好を結んでいた。しかし、本心では実に警戒していた。生前秀頼が幼く政務を取ることができないため、秀頼元服までの繋ぎとして、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の五人の有力大名に政治をまとめさせ五大老とした。

 また石田三成、前田玄以、長束正家などの五人の奉行に、実務を任せる制を設けていた。秀吉は家康を警戒し続けていた。利家を優遇し秀頼の傅(もり)役とさせたのである。家康への牽制役となるように期待していた。また、兵の采配、治政に優れている猛将上杉景勝を家康や伊達政宗のような豊臣家に仇なす恐れがある大名を牽制するために、家康の領地の北隣の会津に越後九十一万余石から百二十万石に加増転封させたのである。そして関東から畿内へ上っていく東海道に置いた子飼いの大名たちに、内府にはくれぐれも用心せよと厳しく命じていたのである。安治や高虎は、有力大名たちをじっくりと見て次の天下を考えていた。そして内府こと徳川家康に早くから近づいていったのである。

「博多港に続々と豊臣軍が帰国しておりますな。迎えるのは石田治部少輔(じぶしようゆう)三成殿でございます」

「内府殿もお人が悪いですな。現地で戦い苦労して疲労困憊(こんぱい)で帰国してくる者たちは、福島正則殿や加藤清正殿など治部殿に反感を持っている輩が多く、大揉めしたと聞きましたぞ」

「いやいや、このたびは帰国する諸大名を上手く迎える才のある者を選びました。治部少輔殿は、博多での帰国してきた大名を手厚く迎えることができるのですからな。あのお方の優れた才に期待しただけで、決して他意はござりません」

(内府殿も狸爺だな。敢えて揉めさせたのか。豊臣家に内紛が起きれば、お家にまとまりがなくなり内府殿が喜ぶだけだからな)

 安治は心の中で笑いながら、内府の黒い瞳を見つめていた。そして、朝鮮現地での戦いの話、その間の日の本での出来事をお互いに話し、旧交を温めていた。長い時が過ぎた。夕暮れになり、内府より夕餉をもてなされたのである。安治が食したことのない質素ではあるが、美味な食べ物ばかりであった。安治は内府に礼を言い徳川屋敷を後にした。その後、伏見城へ登城し、豊臣秀頼に拝謁をした。

(これが八歳の幼子か。太閤が高齢になって生まれた。世に出てきた年が遅かったな。これではたやすく内府殿に天下を奪われてしまうな。しかし、平和なうちに天下が内府殿に移ればそれでよいのだ)

 肌が雪のように白く目が無垢な感じの秀頼に対して、安治は気の毒には思った。しかし、次の天下人になるには幼過ぎて不安がある。安治は野心のある者が絡んできて、これからの天下の騒乱が起きることをかなり懸念していた。秀頼の側近が秀頼からの金百貫を安治に渡した。安治は礼を申し上げた。

(おお、やっと褒美をもらえたな。朝鮮攻めは失敗に終わった。従って石高の増封は期待できないのは分かっていた。だから、これは意外だったな。この百貫で軍の備えを強くしようか。おっと会計方には内緒だ。またやかましく言われるからな)

 安治は、まだ気鬱は治らない。しかし。百貫をもらい少しは機嫌が良くなり屋敷に帰っていった。

翌日、脇坂安治は、伏見城内の屋敷で戦の疲れを取っていたところだ。伏見城は太閤が考えに考えて造った堅城である。そう言えば、今は神無月だったなと安治はふと思い出した。全国の神々が出雲大社に集まり、各地の神々が留守になる月である。安治も今出雲大社に詣でてみたいと思った。しかし、天下の情勢を見ると何が起こるか分からない。今は伏見を離れるわけにはいけない。かなり残念であった。

(そうだ。天下の趨勢が決まってから詣でても良いではないか。これからの戦乱で失われるかもしれん多くの命を慰撫(いぶ)するためにもだ。俺がやらなければならん)

 安治は戦乱の世の頃は、そのようなことを考える余裕もなかった。そして元々花や月を愛でることすらしない無骨な気性の持ち主であった。今は庭の菊や紅葉を優しい眼差しで、よく眺めている。庭の手入れをする職人とも、しばしば話をするようになった。穏やかな日々が続いていた。

 安治は髪は総髪で後ろにまとめていた。屋敷は書院造りだ。襖(ふすま)には水墨画で大きな龍と虎が激しく対峙している姿が襖全体に大きく描かれて、躍動している感じを受けた。かの高名な狩野孝信作である。三万三千石の小大名にしては豪勢なものであった。安治は龍や虎が大好きなのだ。会計方に無理を言って狩野孝信に頼んで作ってもらった。安治は穏やかな生活には戻った。だが過酷な朝鮮攻めで受けた心の傷はいまだに治っていなかった。脇坂家一番の家宝である貂(てん)の皮の槍鞘(やりざや)を握っていた。しかし、この大事な槍鞘を触ってみても気力が全く沸かない。

「あら、旦那様はまたお休みになっていらっしゃる」

 妻の代子(よこ)が安治を見つめて優しく微笑んでいた。そして廊下をゆっくり通り過ぎていった。

「ええい、うるさいぞ。俺は本当に疲れが取れぬのだ。美しき花々や月を見ても、全く心が晴れん」

「それなら、日の本中の名医中の名医を探して回って見つけましょうよ。そのお方に治していただきましょうよ」

「あっ、その手があったか」

「旦那様でもお気づきにならないことがございましたか」

「代子よ、教えてくれて助かったぞ。礼を言う」

「いえいえ、どういたしまして。我が旦那様のためですもの」

 代子は立ち止まって悪戯(いたずら)っぽく笑って話しかけた。安治は若い頃から、いつもその笑顔を見て落ち着いてしまった。しかし、今は代子の笑顔を見ても心が全く晴れない。

 代子は、四十を越えても愛らしく可愛げがあって見事な美しき女である。髪は黒くて艶だっている。元結掛け垂髪(もつといかけすいはつ)であった。この明るい性分の妻がいるから、安治は何度も危うきところを救われてきた。代子は長年ともに暮らしてきて、安治の心の中をよく分かっている。

 代子は、公家の西洞院(さいのとういん)家二十五代当主の時当(ときまさ)の娘であった。安治のような羽柴秀吉の一家臣に過ぎない身分低き者に嫁いだのにはわけがある。幼いころ時当が亡くなり、西洞院家は一時断絶していた。そして代子たちの暮らしは困窮していた。その後、他家から時慶(ときよし)を養子に迎えお家はやっと復活した。西洞院家は近衛家などの摂関家に比べれば、家格は低いが二十五代も続いた名門である。

 京と伏見をつなぐ道を安治が一人で歩いていた時、代子とその女官二人が野伏せり七人に囲まれていた。その時、安治が野伏せりの頭領を斬り倒し、代子を助けたのである。その時、安治は代子を見て惚れ込んだのだ。是非お礼をと代子に懇望され、西洞院家に着いた。そのお家は財が逼迫していた。そのため門が崩れ、屋敷に入っても、襖、天井、畳が崩れていた。時慶がすぐにやって来て、安治に礼を言い、これからも来て下されと言った。安治は惚れた代子のことを思い、毎日時慶の元へ訪れた。代子とも談笑した。そして時慶から代子はいかがですかと言われ、安治は代子を褒めたたえた。時慶は安治の将来を見込んで代子を安治の嫁にしたいと言ったのだ。それから婚儀の話になり、長浜城で二人は夫婦となったのである。


 日の本中の名医を探して直してみようと思い、名医を探してみた。そうして、まず最初に思い浮かんだのが曲直瀬道三であった。

(あっ、数々の大名、武将などを治してきた名医が近くにいるではないか)

 安治はすぐに気づいて喜んだ。家臣に道三を召し出すように命令した。

「殿、道三殿は四年前に亡くなられています」

 それを聞いて安治は肩を落とした。

「ああ、何ということだ。もっと長生きしてほしかった」

「殿、お忘れなく。道三殿の一番弟子施薬院全宗(せやくいんぜんそう)殿がいらっしゃいますぞ。豊臣家番医の筆頭でございますよ」

「ああ、全宗か。そうだった。全宗がいた。丁重にお呼びしろ」

「はっ」

 翌日から施薬院全宗がやって来て、安治の病状を診た。

「うむ、体には異変は見られませぬな。鉄砲や槍などの傷もございません。心の病とは、体よりも治癒が難しい場合もあります。淡路守様のお好きな釣り、水練、相撲などは心身に良いものでございます。花や月を愛でることも良きことでございます。それでも治らないとは難しゅうございますな。朝鮮での戦の間には、気鬱はございましたか」

「いや、一度もなかった。帰国する頃に気鬱が始まったのだ」

「そうなると、また騒動の一つや二つが起きてそれを収めようとする時に、治るしか道はありませぬ」

 全宗は安治の目をしっかりと捉えて述べた。

「な、なんと。また乱世に戻ればよいというのか。俺は朝鮮攻めで戦の虚しさ、恐ろしさ

を骨の髄まで身に染みてしまったのだ。もう戦の世は訪れて欲しくないわ」

「しかし、太閤殿下がみまかれて、日の本は再びまとまりがなくなっております。いずれ戦が起きるのは必定ですぞ」

「むむ」

 安治は、全宗の言葉に言い返せなかった。朝鮮攻めのために、豊臣家臣団は分裂している。そして、そこを狙って徳川内府が天下獲りに必ず動く。そのように安治は考えていた。だからこそ、いち早く内府に通じていたのである。

(乱世が起きて俺の心の傷が治るのか。皮肉なことだ。もう命が無駄に消えるのはうんざりなのに)

 安治は嘆息した。

「全宗よ、お主の言うことはもっともだ。治る方法があることが分かった。今後どうすればよいかが、よく見えてきた。礼を言うぞ。さすがは曲直瀬道三の一番弟子だ。治療代は、太閤殿下を診た時の二倍はずむ。他の貧しき病んでいる者たちのために使ってくれ」

「何と二倍とは恐れ入りました。それでは、必ずや貧しき者たちへの治癒に使わせていただきます」

「うむ、それは良きことだ。それで多くの命が救われるならな」

「はい、ありがたき幸せでございます」

 そのように言って施薬院全宗は下がっていった。

「と、殿。これから本当に騒動が起きますでしょうか」

 家臣が心配そうにしながら近づいてきた。

「ああ、必ずや起こるとも。悲しいことだがな。その乱の種を蒔いたのは、他の誰でもなく太閤自身だ」

 安治は、太閤豊臣秀吉には、今は何の恩も感じていなかった。そこが、同じ朝鮮攻めで現地での戦で苦労した加藤清正や福島正則と違うところだ。

 しばらくすると、代子が微笑みながら入ってきた。

「殿、日の本一の名医様から診ていただき、いかがでしたか。もう治りそうですか」

「代子よ、それもだめだったわ。再び戦が始まらんと治らんそうだ。それまでは心の疲れは一切取れん。俺も辛いのだ。これも太閤の朝鮮攻めのせいだ」

「名医の施薬院全宗様から戦で治ると言われたのですか。私は人々が苦しむ恐ろしさは、再び起きて欲しくはないのですが。困りましたね」

 それまで微笑んでいた代子が憂鬱な顔に珍しくなっていた。

「仕方がない。太閤が亡くなった後には必ず戦乱が起きる。俺も戦は嫌になったのだ。民のことを考えると心が痛む」


 第三章 安治動く。


 翌日、安治は茶の湯の師匠、古田織部重然(おりべしげなり)を訪ねた。

「これは淡路守殿、無事に帰国されて何よりだ」

 織部は月代(さかやき)で細い目でおおらかに微笑んでいた。この頃の織部は茶の湯を通じて、朝廷、公家、寺社、商人と様々なつながりを持ち、日の本の大名に大きなな影響を与える者になっていた。そして生前の太閤の筆頭茶堂(さどう)であったのである。

「淡路守殿は朝鮮では茶の湯の修練はしておらぬな。まあ、過酷な戦場であり、そのような場ではなかったであろう」

「はい、そのようにございます。人の命が軽くなることは、うんざりにございます」

「武勇一本の淡路守殿がそのように言うとは、よほどひどい現場であったのだな。大変であったな。心中お察し申す。ご苦労であった」

 織部が安治の目を見つめ、気の毒そうに見ていた

「師匠、ありがたきお言葉でございます」

「ところで、世の中が再び騒がしくなったな」

「そうですな。私としては静かな世であってほしいのですが」

 安治は溜息をついた。

「そうもいかんようだな。そなたは、これからどのように動く」

「私は、太閤の生前から内府殿に気脈を通じておりました。天下を安寧に導くのは内府殿しかおられません」

 安治は毅然と言い放った。

「私も内府殿にお味方する所存だ。太閤は我が師匠利休様を死に追いやった。今でも許せん。そして治部では天下は収まらない」

「師匠が同じく内府殿に付いてくだされて嬉しゅうございます」

「私も若い頃なら得意の調略を使う。そして内府殿のために力を尽くしてお味方を増やす気だがな。しかし、今や私の出番はない。黒田如水、長政親子や藤堂高虎などの私の力が及ばぬ知恵者がいる。時代は変わっていった」

 織部が寂しげな顔で述べた。安治は何も言うことができずにいたのである。織部の茶の点前を受けて話をしばらく続けた。その後安治は帰って行った。


 第四章 平和の歌


 翌日、安治は屋敷の外に出てみた。伏見城下の街の賑わいを確かめたいと思ったのである。街では、野菜、魚、酒、木材、南蛮からの品物などが売られていた。火を吹く芸人もいた。安治は、伏見の街がますます栄えていることに満足していた。この繁盛ぶりが戦乱で荒らされないようにと心から願った。

 そして、大きく賑やかな声がする方に向かっていった。いわゆる風流踊りである。華やかな紫、赤、黄、青、白などの衣装で美しき女が着飾り、または仮装を身につけて、鉦(かね)、太鼓、笛などで囃(はや)して歌っている。そして大人数で踊っていた。実に美しいきらびやかな踊りであると安治は感じた。風流踊りは後には、華麗な山車(だし)の行列となった。疫神祭や、念仏、田楽などに起源をもつ芸能である。


 その時、耳慣れぬ声が聞こえてきた。街の一角で若い女性が、美しい声で高らかに唱っているのである。大勢の者が集まって聴いていた。今様などではなかった。日の本の歌でもなく、朝鮮、明の歌でもない。一度、切支丹大名の高山右近から聴かされた音曲(おんぎよく)に似ていた。それで分かったのである。どうやら南蛮の切支丹の歌のようである。安治はその二十歳くらいの女性の歌をじっと聴いていた。日の本の唄と違うこころに響く荘厳さがあった。


 いざ平和よ、訪れん。いざ平和よ、訪れん。こころ穏やかな素晴らしき世よ。身分高き者や低き者のために。命を大事にせよ。この国に永遠(とわ)の平和を。


(おお、これは何だ。今までの唄と全く違うぞ。しかも箏(そう)や尺八はともかく、南蛮の音曲を奏でる道具も使わずにただ一人で唱っておる。平和な世か。俺もそれを望む。この歌は気に入った)

 安治は感銘を受けていた。心に温かいものができていた。

「おい、そこの女性(によしよう)、そなたの唄は実に素晴らしい。どこでものにしたのか」

「はい、肥前の長崎で宣教師様の教えを受け、イスパニアの音曲を学びました」 

 安治に突然話しかけられた若い娘は、うろたえることもなく、穏やかに微笑んで返事をした。髪は当時主な髪形であった元結掛け垂髪で、肌は白い。安治は娘に利発さを感じた。そして胸元に十字架があることに気付いた。

「そなた、切支丹ではないか。このような人の多いところで唱っては危ういぞ。なぜここで唱うのか」

 安治はおおいに疑問を持った。

「前は長崎で唱っておりました。しかし太閤殿下の切支丹弾圧が厳しくなってしまいました。そこで伏見の親戚を頼ってきたのでございます。また危うくなったら、別のところに移って唱います」

 娘の顔は小さく細面である。目は大きく瞳が黒くて、髪はめずらしく生まれつきの茶色である。

「私は戦乱のない平和な世になることを願い唱っております。命は惜しくはございません。しかし、平和な世にするためにまだ死ねませぬ」

 娘は臆せずに答えた。

「おい、切支丹というだけでなく、その髪色で目立ってしまうぞ。唱いたい気持ちは分かるが、ともかく、我が屋敷に一旦隠れよ。俺は淡路の大名の脇坂安治だ」

「洲本のお殿様ですね。淡路守様。私はお和と申します。ありがたき幸せにございます」

 安治は娘を連れて屋敷に急いで帰っていった。門兵は茶色の髪を見て驚いていた。安治は屋敷の客間に娘を待たせた。

「あら、若い娘さんですね。旦那様の側室になられるお方ですの?」

 安治が自分の居間にいた時、代子が驚きもせずに笑って尋ねた。

「お前は側室とかでも驚かんのか。図太いな。あの娘は切支丹だ。街で平和を祈る思いを唱っておった。弾圧が危ういのでここに連れてきた」

「切支丹ですか。初めて見ますわ。まあ、髪が珍しい色だこと。平和の歌を唱うなど素晴らしきことではないですか」

 代子が客間を覗いていた。

「まあ、そうだな。歌は素晴らしい。今、面会してくる」

 安治は客間にゆっくりと入ってきた。

「そなたはお和という名であったな」

「はい、そうでございます。両親が平和な世になるように、和と言う名をつけてくれました」

「そうか。俺も昔と違い今は戦乱の世が嫌いだ。そして不毛な戦を続けた。武士だけでなく民も多くの死体が横たわっている。小鳥のさえずりは恐怖の悲鳴と変わった。その美しかった村がまさに阿鼻叫喚の地獄絵図に変わったのを今でもよく覚えている。そのありさまを見て、虚しくなった」

「淡路守様のようなおこころのお方は、お武家様では珍しいのではないですか」

「いや、お和よ。あのような不毛な戦の後に、多くの大名が平和な世が訪れるのを願っていることを俺は知っている。だから、そなたの歌声に心が響いたのだ」

「そうでございましたか。戦を再び起こしたくない大名方は小西アウグスティヌ様だけと思っておりました。あのお方も、太閤殿下と明、朝鮮の和睦の交渉で板挟みになって苦しんでおられたとお聞きしました」

「アウグスティヌとは誰だ?」

「小西摂津守行長様です」

「ああ、そうだったな。あの者も熱心な切支丹であったな」

 安治は、これから敵となる石田治部の味方である行長の名を聞いて、複雑な気分となった。「淡路守様はどうして私をお助けいただいたのですか」

「それは平和を祈る歌を唱っていたからだ。あの美声には感動した。こころをうたれた」

「ありがとうございます。あの歌の名は和と申します」

「和か。良き歌の名だ。太閤も切支丹を弾圧していたが、徹底して罰してはいなかった。宣教師を追放した。そして切支丹であった大名の多くが信仰をやめたくらいだ。後は一年前に二十六聖人の殉教と言われる弾圧がひどかった。あの時、石田治部が高山右近を逃してやり、なるべく弾圧を避けていた。太閤が亡くなった今は、弾圧も緩んでいると聞く」

「し、しかし、あの時より昔の太閤殿下の伴天連追放令に絡み、切支丹の私の両親が磔(はりつけ)の刑に処せられて亡くなっております。石田様には感謝しております。しかし太閤殿下は両親の仇で許せません。しかし、既に亡くなられました。それに復讐という気持ちは信仰に反するので持ってはいけません。生き残った幼い私は、長崎の宣教師のフランシスコ・ソテロ様に助け出されて育てられました」

 今まで穏やかであったお和が激しく怒っていた。

「そうか。すまぬ。そなたも苦しかったのだな」

 安治が優しくなだめた。

「いいえ、こちらこそ取り乱して申しわけございません。ところで淡路守様は太閤殿下を呼び捨てになさるのですね」

「ああ、そうだ。朝鮮攻めなどの戦で、太閤にはひどい目にあったからな。奴への忠誠はもう持っておらん。だから殿下などと口が裂けても呼べん。さて、今は豊臣家は二つに分かれて、切支丹弾圧どころではない。お和よ。平和を願うために、これからどのようにするのか」

「はい、伏見は人が多き街でございます。多くの人々に平和を求める心を伝えます。戦乱のない世にするために、まだ伏見で唱います」

「そうか。しかし、人も多いと言うことは、それこそ危うきこともあるのだぞ」

「命をかけて唱います。私の目指す平和な世にするために」

「悪いが石田治部や小西行長たちが天下を握っても、乱世を好み領土を拡大する大名への抑えがきかないだろう。奴らでは無理だ。戦乱の世がますますひどくなってしまうぞ。俺は徳川家康殿のお味方をしている」

「なにゆえ、徳川様のお味方をするのですか」

「徳川様は、器量が大きく政事、知略、武勇も優れていらっしゃる。このようなお方は他にはいらっしゃらない。天下に睨みがきいて、戦乱の世を鎮めるお方は徳川家康様しかいないのだ」

「そうでございますか。石田様、小西様では天下は治められないということですか。それは悲しく思われます。しかし、戦乱の世を鎮めることが一番です。淡路守様のおっしゃることを信じます」

「お和よ、分かってくれたか。今日はこの城で一日泊っていけ。俺の家族に是非紹介したい」

「あ、そのようなお世話をおかけすることは、ご無礼になるのでいけません」

「お和よ、妻の代子もそなたに興味を持っているのだ。また息子の安元や家老の大塚勘兵衛も戦はもう嫌だと申している。そなたの話とその歌声を我らに聞かせてくれ」

「はい、それではお言葉に甘えて、泊らせていただきます」

 安治は、代子、安元、勘兵衛を呼んで、お和とともに夕餉を食した。お和は久しぶりにまともな食事がとれたのか、かなりおいしいと喜んでいた。そして皆で最近の世の話をした。お和が夕餉の返礼として、美しい声で和を歌い始めたのである。


 いざ平和よ、訪れん。いざ平和よ、訪れん。こころ穏やかな素晴らしき世よ。身分高き者や低き者のために。命を大事にせよ。この国に永遠の平和を。


 この節を何度も繰り返した。

「素晴らしいお声ですこと。南蛮の歌とはこのような重き落ち着きがあるのですね」

 代子は目を細めて喜んでいた。安元、勘兵衛もこころにお和の歌が響いたようだ。

「皆々様、ありがとうございます。私は信念を負けずに、平和を祈り唱っていきたいと存じます」

 お和はこころから嬉しげであった。翌日、安治、代子、安元、勘兵衛から見送られ、脇坂屋敷を出た。

「達者でな」

 安治は、お和の伏見での無事を願わずにはいられなかった。


 第五章 動乱の前触れ


 慶長四年(一五九九)元旦に、伏見城で秀頼への諸大名の年頭の礼が行われたのである。上座には秀頼の傅(もり)役である前田権(ごん)大納言利家が、秀頼を抱いて座っていた。もちろん安治も参加していた。利家の顔色が黒ずんで苦しそうである。そして秀頼は十日に大坂城に移り、以後大坂城が豊臣家の本拠となったのである。内府は伏見城に留め置かれた。これも、太閤が生前から考えていた策だ。大坂城が本拠で、内府を伏見城に置き去りにしようとするのである。大坂城は惣構(そうがまえ)の城である。武家だけでなく町民の屋敷、も石垣の中に入れている希にみる大きな城だ。

(さて内府殿がおられる伏見城で何が起きるかだ)

 安治は思案に暮れていた。


 戦乱の前触れは早くも起きていた。内府が、あまりにも太閤が生前、諸大名に誓わせた決め事を次々と破っていた。そのため前田利家が内府を糾弾し、あわや決戦というありさまとなったのだ。伏見は緊張した様子となった。お和もこの様子を見て、和を唱いながらも悲しくなった。

 徳川、前田、それぞれに味方する大名たちが駆け付けて守ったのである。一触即発のありさまとなった。この時安治は安元を引き連れ、一番早く内府の元に付いていたのである。内府は屋敷の客間に安治と安元を招き入れた。そして丁寧に安治への感謝の念を伝えていた。安治は太閤からは滅多に褒められたことがなかった。そのような態度で接してくれた内府に、安治はこのお方についていこうと改めて考えを固めたのである。

 前田利家の側には、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家たち有力大名の大老たちや奉行の石田治部三成だけではなく、皮肉にも治部と犬猿の仲の加藤清正、細川忠興、浅野幸長たちが駆け付け、内府の屋敷には、福島正則、藤堂高虎、黒田長政たちが守っていた。

 特に与右衛門こと藤堂和泉守高虎は、‎朝鮮攻めでともに戦った。国も同じ近江の生まれである。異国の地での苦しい時を一緒に過ごした。だからより親近感があるのだ。

(そう言えば奴だけは朝鮮で花を愛でていたな。そのような心の余裕があったのか。奴は仕える主君をたびたび変えてきた。それを蝙蝠(こうもり)野郎と苦々しく言う輩もいる。しかし、俺はそのようには決して思わなかった。主君が仕えるに足りぬ者と思えば、すぐに主を変える。戦国の世とはそのようなものだ。高虎はこの乱世で、とても眼力が優れているのだ)

 安治はそのように思った。高虎が辞していった大名や土豪たちは、その後は滅んで行ったり、行方知らずとなっていたのだ。まさに高虎の目が確かだったことの証(あかし)である。高虎は築城の名人でもあり、安治の洲本城も高虎の助言を受け築城した。高虎の城のように洲本城に船がすぐ着くように港を城の石垣の隣に造った。そして高虎は家臣も領民も大事にした。若い頃から苦労しているからこそ、人の心をよく読み取ったのである。凄みもあり知恵にも秀でていた。安治は高虎を敬うべき者と思った。そして何度も酒を酌み交わしたのである。篝(かがり)火が燃えさかり緊張感が漂う内府の屋敷の庭で安治は腕を組んで、これから内府と利家との間でどのような動きになっていくかを考えていた。

 その時、藤堂高虎が安治に近づいてきた。この男は両手を広げて口を開け、おおいに喜んでいた。

「よう、甚内」

 高虎は安治の左肩を軽く叩いた。

「おう、与右衛門。釜山での別れた時以来だな。およそ一年ぶりだ。お互いに無事に帰ることができて良かったな。やはりお主も内府殿のところに来ておったのか」

 安治は両手で力強く高虎の右手を握った。高虎も同じく力を込めて両手で握り返した。そして安治の目を見て、力強くうなずいていた。

「わしたちはこの乱世の中で、今まで何とかして生きてきたな」

 高虎が息を吐いた。

「そうだな。これも天運としか言えんな」

「やはり甚内もわしと同じく内府様に付いたか。さすがは水軍の名将よ。潮の目を読む力があるな」

 高虎が今までの安治を見てきて、その豪胆さ、体から自然と湧き出てくる凄み、家臣からの人望の篤さ、水軍の大将としての采配の上手さ、太閤に昔から仕えてきたことを考えてみて、なぜこのようなお主が太閤殿下の家臣としてたった三万三千石の小大名なのか、とても不思議である、もっと石高が増えてもおかしくはない、太閤の考えはよく分からんと嘆きながら囁(ささや)いた。

 

 安治が太閤に小大名にさせられているのは、安治自身にはよく見当がついていた。与右衛門よりも太閤には長年仕えてはいる。だが、頑固者で毒舌家の安治はよく太閤と喧嘩をしていた。

 安治は太閤を憎々し気に思っていた。大坂城内の待合の間で諸大名と待ち合わせていた時には、周りの者はお前は何か太閤殿下のご不興でも買ったのかと、訝(いぶか)し気によく話しかけてきた。それはただの好奇心であった。この野次馬野郎たちめと安治は苦々しく思っていた。それでも安治は黙っていたのである。話せば長くなるので面倒だからだ。それに、そのようなことをいちいち諸大名に話していたら、その話を聞いて、話が面白おかしく膨らんで、また太閤に睨まれ処罰を受けるかもしれない。世の中とはそのようなものだと思っていたのであった。従って安治はかなり自重していたのである。

 安治より若造の加藤清正は肥後国半石、福島正則は尾張国清洲に二十四万石も封じられている。大大名である。安治より太閤の軍に参陣したのが遅く、しかも武功は変わらないほど高いのにかかわらずだ。奴らは太閤の縁者だから石高が高いのかと疑った。事実、太閤は成り上がりの身なので、代々仕えてきた家臣を持たなく。だから数少ない縁者を頼りにして抜擢していった。それを知った安治は、つくづく太閤の家臣であるのが嫌になった。

 仕える主君を転々とし、太閤に仕えたのが最近であった藤堂高虎ですらも、伊予国板島で七万石を与えられていた。黒田長政も豊前国中津で十二万五千石もあった。

 石田三成も天下を治めることに貢献したとして、太閤は大領の石高を与えようとした。しかし治部三成自身は、諸大名から横柄者と恨まれていることをはばかっていた。従って最初は太閤に遠慮して、近江国水口(みなぐち)四万石の少石でいいと言い張っていた。その石高でいた。しかし、その後太閤から遠慮はするなと強く言われ、結局折れた。治部は同じ近江の佐和山二十万三千二百余石に移封された。

 太閤生前の早い時期から家康に近づいていた高虎は、安治の境遇に同情すると話しかけてきた。

「甚内よ。内府様ならそなたの武功を必ず高く評されるであろう。太閤殿下と内府様はご気性が全く違うぞ。内府様は律儀で味方には手厚いお方だ。お主のためにも、内府様に必ずお味方せよ」

 高虎は、そのように小声で話してかけてきた。

「おう、もちろんだ。これからは内府殿の時代が来る。天下を目指される内府殿を必ずやお守りいたす」

 安治は高虎に対して力強く答えた。そのように言った時の安治の目は、細く眼光が鋭かった。もう気鬱で弱った脇坂淡路守安治ではなかった。施薬院全宗の言ったことが本当になったのである。そのことを思い出すと、戦乱の世を憂い平和な世を望む安治は、複雑な気持ちとなった。

 すると、安治が高虎と話をしている目の隅に、顔に白頭巾を着けて床几に座っている者が見えた。安治は驚愕した。前田利家の屋敷に駆けつけて守っている石田治部三成と無二の友であるはずの大谷刑部少輔吉継が静かに座っていたのである。

(な、なぜだ。刑部殿は治部とは一緒ではないのか)

 安治は高虎に別れの挨拶をして、刑部の方に歩いて行った。

「これは大谷刑部殿ではございませんか。石田治部殿や他の奉行衆は前田権大納言様のお屋敷に向かわれたとお聞きしました。しかし、治部殿の無二の友とも言われる貴殿が内府殿の側にいらっしゃるとは、さすがに驚きましたぞ」

 安治はともすると大声になりがちな声を潜めて、気をつけて小声で話しかけた。

「これは淡路守殿。貴殿が内府殿にお付きになるのは、太閤殿下がお亡くなりになる前から分かっておりましたよ。私は治部には申しわけない思っております。しかし、淡路守殿と同じで太閤殿下が亡くなられる前に、これから天下をまとめることができるお方は、熟慮の末に内府殿しかいないと思っておりました。太閤殿下ご存命中の頃から、内府殿とは何度もお会いして昵懇(じつこん)になっております」

 刑部は目の病が進み、より悪化して小姓に介添えされていた。しかし、微笑んで穏やかに話してきた。今は白布で見ることができないが、病がひどくなかった頃は口と顎に豊かな髭を生やしていた。刑部は太閤の死後に内府の意向を受け、宇喜多家、島津家などの大名に内紛が起きた時、介入して主君側と敵対している家臣たちの調停を行っている。

(やはり、刑部殿は秀頼様をお守りしていくという治部の考えには同調されないのだ。天下の安寧を第一義に考えておられるのであろう。まさしく理より実を取るお方だな。さすがは太閤が刑部殿に大軍を指揮させてみたいと褒めたたえられた男であるな)

 この争いはすぐに決着がついた。利家を含む四大老と石田治部などの五奉行の九人と家康が誓紙を交換した。さらに利家が家康の伏見屋敷を訪問した。家康も利家と対立することは不利と悟り向島へ退去することなどで和解したのである。伏見は一旦は静かになった。


 安治は大阪へ戻っていった。大坂の城下町を歩いていた。木材屋と茶道具店の間にある縦と横がそれぞれ一間ある空き地から、聴き慣れた美しい透き通るような歌声が聞こえてきたのである。


いざ平和よ、訪れん。いざ平和よ、訪れん。こころ穏やかな素晴らしき世よ。身分高き者や低き者のために。命を大事にせよ。この国に永遠の平和を。


 お和が唱っていた。その歌を立ち止まって聴いていた民たちは、お和の美声を惚れ惚れするような感じで受け取っていた。皆こころが震えているようである。お和は、和を何度も歌い続けた。そのたびに周りには大勢の民たちや武士が集まって静かに、お和の歌を聴いていた。そしてお和は歌を止め、皆に語りかけた。

「皆様、お聴き下さってまことにありがとうございます。この歌は和と言います。そして私はお和と申します。戦乱のない世が再び訪れるように、祈りながら唱っております。皆様方のこころに少しでも響いていただいたならば、これこそ幸せにございます」

「ほんまにええ歌だったで」

「そうやそうや。こころに響いたで」

「わたしも死ぬのは嫌じゃ。戦乱のない世に再び戻ってほしいものじゃ」

 歌を聴いていた者たちからは拍手が大きく聞こえてきた。安治もこれほどの聴衆が集まるとは、さすが日の本の中心である大坂だと思った。

「おい、お和よ」

 相変わらずの大声で安治は民たちの後ろから叫んだ。背丈が高いので背伸びせずに、そのままで声をかけることができた。

「あっ、淡路守様。今は大坂におられたのですね」

 お和が声を弾ませて走ってきた。

「相変わらずのこころうつ歌だな。しかし何度も言うが、このような大きな街で切支丹が唱うとなると心配だぞ」

「おこころづかいありがとうございます。しかし、戦のない世を目指します。命をかけて唱っておりますから」

「分かった。しかし気をつけろよ。いくら太閤が亡くなって、切支丹弾圧が緩くなったと言え。決して油断するなよ」

「はい、分かりました」

 その時、お和を囲む民たちの集まりの外から、武士が五人駆けてきた。

「そなたか。民を惑わす歌を唱っている女とは」

「いいえ、私は大坂の皆様方に、戦乱のない世を祈って唱っているだけでございます」

 どうやらこの武士たちは大坂の治安を取り締まる者のようである。武士の筆頭と思われる者が後ろから現れた。

「偽りを申すな。戦を悪と決めつけることが、人のこころを惑わす所業だ。戦は世をまとめるために必要なのだ。それに十字架を胸に付けておるではないか。お前は切支丹だな」

 月代に目が鋭く斜め上に上がっている筆頭の男が、そのように言い放った。

「いいえ、こころを惑わしているわけではありません。ただひたすらに平和を願っておるのです」

 お和は取り乱したりはしない。凛として筆頭の武士の目をしっかりと捉えた。

「それがいかんのだ。武士はお家を守るため、こころならずとも戦をせねばならぬ時があるのだ」

「戦をせずに、世の中を治めることはできないのでしょうか。いや、できると思います。かの太閤殿下も天下を取る前は、人がなるべく死なないような戦をしておられたと聞いております」

「う、うるさい。屁理屈を述べおって。実にけしからん。引っ捕らえよ」

「ははっ」

 配下の武士がお和を引っ捕らえようとしていた。その時、安治が止めに入った。

「この女子(おなご)は何も悪いことはしておらん。美しい声で命の大事さ、平和のありがたさを唱っていただけだ。それの何が悪いのだ」

「貴殿はどこの大名の家臣か。邪魔立てすると貴殿も武士と言えども、捕縛されますぞ」

 筆頭の取り締まり役が安治の目を見ながら強い口調で言った。

「俺は大名の家臣ではない。脇坂淡路守安治だ」

 安治は相手を睨んだ。取り締まりの筆頭は一瞬怯んだが、しかしすぐに立て直した。

「ふん、小大名の淡路守様でございますか。それは失礼いたしました。私は石田治部少輔三成様の元で、大坂を守っている者でございます。例え大名であろうとも、治部少輔様が怪しき者は取り締まれとの仰せなので、お話を聞くことはできません」

 そのように言って治部の家臣はお和を引っ立てようとした。

「石田治部殿のお仲間の小西摂津守殿も切支丹ではないか。それに小西殿も石田殿も朝鮮攻めでの和睦に必死になっておられたのは、不毛な戦を避けるためではないか」

「し、知り申さぬ。この娘を引っ立てよ」

 お和は治部の家臣たちから捕らえられ、大坂城の本丸へ向かっていった。

(これはまずいぞ。何とかせねば)

 安治は焦った。そして屋敷に戻って。じっくりとお和を助ける策を考えていて思いついた。翌日、安治は伏見の徳川内府の屋敷に馬に乗り、急いで赴いた。門の兵は顔なじみなのですぐに通してくれた。安治は待たされることなく、内府が客間にやってきた。内府は相変わらず笑みを浮かべていた。

「これは淡路守殿、いかがなされましたか。額に汗をかかれておられますな。何かお急ぎのことでも起こりましたかな」

「内府殿にはさしたることではないと思われますが、私の知っている者が石田治部殿の取り締まりの家臣に捕まってしまいました」

「何と。それは怪しからぬことですな」

「若い娘なのですが、戦乱のない世を祈っての南蛮の歌を大坂城下で唱っていたことに目を付けられました。しかもその娘は切支丹なのです。従って余計にまずいことになり申した」

「私も朝鮮攻めは無意味な戦いと思っております。若き頃から戦乱の渦にのみ込まれて育った私は余計にそのように思います。しかし、切支丹ということがまずいですな。いくら太閤殿下がお亡くなりになって、取り調べも緩くなったとはいえ」

「そうなのです。娘の歌の素晴らしさに聴き惚れた私としては、何とか助けたいと思っております」

「それは難しい話ですな。しかし悪しきことをしていない者を圧するのは、好ましくありません」

「そこで私めからのお願いがございます。その娘はお和という長崎から来た娘なのですが、内府殿のお力で治部殿から解放していただけないかと思いまして、今ここに急いで参った所存でございます。内府殿から、治部殿に近い切支丹の小西摂津守殿を通して、お願いするということも考えたのですが。戦乱で荒れていた日の本を再びまとめることのできるお方は、内府殿しかいらっしゃらないと私は考えております。天下をまとめるためには、切支丹も保護に置き、小西殿の領国での民が内府殿を慕うことでしょう。小西領が二つに割れることもあり得ると考えました。宇喜多家も秀家様のご正室が切支丹で、民も切支丹が多いと聞いております。宇喜多家も狙うことができます。そして内府殿が南蛮との貿易も続け、天下を豊かにすることができると思います」

「確かに淡路守殿のおっしゃる通りですな。よくお考えになられました。前田権大納言殿の客分には元大名の高山右近殿もおられます。あのお方も切支丹ですな。器量が大きく前田家での影響力も高いと聞きます。その力で前田家に揺さぶりをかけることも、できるやもしれません」

「さすがは内府殿、ご慧眼(けいがん)でございますな」

「いやいや、それほどではありませぬ。しかし、切支丹のこともよく考えねばなりませぬな。私は明日治部殿に書状を急いで送りましょう。お和という娘を解放させることをお願いしてみます」

「内府殿、ありがたき幸せにございます」

「とんでもない。吉報をお待ちくだされ」

 お和は翌々日の夕方、大坂の脇坂家屋敷に石田治部の家臣に守られてやって来た。治部の家臣は無愛想に安治に告げた。

「内府殿が治部少輔様に小西殿のお仲間をどうするおつもりかとしつこく言われました。従って仕方なく釈放したまでで。ただし、治部少輔様が好んで、切支丹を弾圧しているということは誤った話ですぞ。太閤殿下の生前に切支丹弾圧が行われた時も、なるべく切支丹を生き残らせようとしたのです。しかし、なかなか上手くいきませんでした。高山右近様など、ごくわずかの切支丹を助けただけでした。治部少輔様はとても残念がっておられました」

「そのような話でしたか。石田殿も情け深きご仁ですな。淡路守から大変お世話になり申したと礼を言ったとお伝えくだされ」

「分かり申した」

 治部の家臣は帰っていった。

「おお、お和よ。何か拷問など酷い目にあわなかったか」

「いいえ拷問など一切ございませんでした。それどころか、石田三成様の書院に招かれました。石田様は、なにゆえ戦乱の世をなくす歌を命をはって唱い続けているのかと、熱心にお聞きになられました。そして戦によって多くの命が失われることが悲しいからですと、答えたのです。そのように申し上げたら、石田様は目を伏せられました。自分も戦のない世を目指している。太閤殿下に付き従ってきたが、朝鮮攻めで多くの大名、武士、民が命を失ったのを目の当たりにしのだ。戦の無意味さを思い知った、そこで明との早い和睦を目指していたのだ。しかし太閤殿下がお人が変わったように傲慢になられた。そして和睦をなかなか受け入れてくだされないことが辛かったとおっしゃいました。そして明からの和睦の条件を見て、受け入れられない太閤殿下がお怒りになられ、再び朝鮮攻めが始まった時は自分の無力を感じたと悲しげにおっしゃっていました。淡路守様、徳川様だけではなく、石田様も平和な世を望んでいらっしゃいます。石田様や小西様に天下をお任せになることも、よろしいのではないでしょうか」

「お和よ。石田治部の言うことは正しい。そのことに感ずることもよく分かる。しかし、徳川家康殿と石田三成殿では器量が大きく違うのだ。石田殿は正しいと思ったことを守る。そして不義の輩には厳しく臨まれる。その石田殿の深きお考えを分からない凡人や愚か者の大名たちは恨むのだ。それに石田殿や小西殿が豊臣家の中心となっても、戦乱の世を望み、領土をより多く持ちたいと思う者を抑えることはかなり難しい。石田殿に今味方するであろう毛利輝元殿、上杉景勝殿も、まことに石田殿の政事におとなしく従っているか怪しいものだ。また黒田如水殿は器が大きく知略も政事も秀でていらっしゃる。このお方も天下人にふさわしい方だ。しかも元切支丹のお方だ。そなたと異なり乱世を歓迎されておられる。如水殿は乱世になったなら、混乱にまぎれて天下を狙うおつもりだと俺は見ている」

「そうでございますか。それは残念でございます」

 お和は肩を落とし小声になっていた。お和は脇坂屋敷で一夜泊まり代子と今日まで起こったできごとの話を夜更けまでしていた。そして翌日に朝餉を食した。

「お和よ。大坂でも万が一危うきことがあったら、徳川内府殿がお助けいただける。また唱って見るか」

「はい、分かりました。淡路守様のお言葉に甘えさせていただきます。戦のない民が安心して暮らすことができる世にするための歌を大坂で歌い続けます」

「そうだ。それでよい。大坂の民に戦のない世の素晴らしさを伝えてくれ。それがお前が生き残った定めである。そなたの信仰で言うと、神がお前に行うべきことを与えるために生き残らさせたとのことだろう」

「はい、そうでございます。淡路守様からのお力添えをいただいて感謝いたします。これからも歌い続けます」

 お和はそのように言って、伏見で歌い続けた。二月ほど経ってから、お和が脇坂屋敷にやって来た。

「お和よ。何か事が起こったか」

「はい、今も街で唱っております。しかし石田様の家臣の見張りが日中続いております。また、淡路守様、徳川様のご迷惑をおかけすることになります。大坂で唱うことは止めたいと思います。それに、大坂では、地下の教会も信者が少ないのです。大勢の信徒に歌を通して平和な世を求めることは難しいと思いました。また、最初は物珍しさに聴いて下さった街の方々も、飽きられたのか、今では聴いて下される方は少なくなりました。淡路守様たちには大変お世話になりました。そこで切支丹を棄教せずに大名の座を降ろされて、加賀にいらっしゃる高山右近様の元へ向かいたいと思います。かの地では教会も右近様がしっかりとまとめていらっしゃるそうです。そして金沢の街で再び唱いたいと思います」

 お和は顔を下に向けて覇気のない顔をしていた。

「そうか。それは残念だな。しかし、決して諦めるではないぞ。そなたの美しい声は、人のこころをうつ。ただ残念なことに、こころに響く者は戦乱の世に苦しめられた者だけだ。大坂では、そのような者が少ないのであろう。金沢は前田家が朝鮮攻めで渡海していないので、戦の恐ろしさ、悲しさを知る者は残念ながらもっと少ないぞ」

「そうでございますね。しかし、教会で唱い、せめて同胞の者たちのこころをうつことはしてみたいと思います」

「そうか。いずれまた会おう。お和よ、俺も必ず生き残る。そなたもくれぐれも命を大事にしろ」

「淡路守様、今までのこと、まことに感謝いたします」

 お和は金沢に向かって旅立った。

 

 第六章 小大名で何が悪い?

 

 その後、この年の閏(うるう)三月三日に重石が取れてしまった。内府に睨みをきかせていた前田利家が亡くなってしまったのである。その後、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、蜂須賀家政、それに以前は利家側に付いていた加藤清正、細川忠興、浅野幸長たち七将が、大坂の石田三成の屋敷を夜に襲撃した。安治は七将よりもいち早く襲撃したのだが、小大名ゆえか、七将には入れられずにいた。豊臣家、諸大名、禁裏、民などにはあまり知られなかったのである。

(七将だと? ふざけるな。八将だ!)

 それが安治の大きな不満となっている。以前の利家と家康との争いの時も同じく、安治の襲撃は世間にはあまり知られなかった。安治は不満が火山の吹溜りのように充満している。

「なぜ、俺の名が広まらんのか! 小大名だと思って馬鹿にするな! 小さき領主としても俺にも、もののふとしての意地がある」

 安治は心の中で張り裂けんばかりに怒りながら叫んだ。

 石田屋敷の門は静かに閉ざされていた。その前で八将は篝(かがり)火をたきそれぞれ陣を構えた。福島正則が得意の大声で叫び治部を脅しのだ。それでも屋敷で何の反応も見られなかったのである。正則、清正などは苛ついていた。

(さて治部は今回はどのように出てくるかな。あちらにも上杉景勝殿、毛利輝元殿、佐竹義宣殿や奉行衆たちなどの味方がついているはずだ。屋敷を抜け出すのか、それとも俺たちと戦うのか。あはあ、これは見物だな)

 安治は大事を楽しむように、敵味方ともに眺めて深く考えていた。その時、福島正則、加藤清正が脇坂安治に近づいてきた。

「おお、これは甚内殿。やはり太閤殿下嫌いで有名な貴殿は内府殿に付いたか。だがわしらは太閤殿下のために、そして秀頼様をお守りするために内府殿にお味方するのじゃ。そこが貴殿と違うところじゃ。あはは」

 福島正則がにやついて話しかけてきた。正則は、五尺を越える安治と比べると小さく見える。安治は内府に味方している同じ身とは言っても、この二人が昔から大嫌いであった。同じように武功をあげても、太閤の血縁者だから褒賞の扱いが大きく違うという嫉妬心があったからである。

「おい市松よ。お前は相変わらず物事を深く考えるということができんようだな。内府殿をお守りし治部を討つということは、後(のち)に内府殿を天下人にさせて秀頼様を一大名に貶(おとし)めるということだぞ」

 安治は腕を組み、正則たちを冷ややかに見つめて鼻で笑った。

「な、何じゃと。内府殿は太閤殿下から秀頼様を頼むと何度も頼まれたお方じゃぞ。そして今まで律儀な行いをされてきたお方じゃ。そのようなお方が秀頼様を貶めて天下を狙うわけがない。なあ、虎之助よ」

「おお、そうだ。内府殿は信ずるに足るお方だ。治部の方が今まで太閤殿下の元で、権威を笠に着いた。おおいに天下を動かした君側(くんそく)の奸(かん)であるぞ。わしたちも治部にはひどい目にあってきた。奴は武勇もないくせに威張りおった。実にけしからん輩だ。このままでは幼き秀頼様が治部に操られてしまう。治部を早く討たねば、取り返しがつかなくなるぞ(やれやれ、こいつらとは付き合っておられんわ。話していて疲れてしまうぞ。今の天下のありさまが全く見えておらんわ。単なる阿呆だな。城造りは上手くても、知略は優れておらんようだ。太閤は内府殿が豊臣家に敵対する際には、家を守るためにこいつらを出世させた。しかし、逆に内府殿の急先鋒の役目をしておる。福島正則を尾張清洲に置いたのは、内府殿の上方への侵攻を迎え討つためであろう。こいつは、そのことを少しも分かっておらんのか。これは滑稽でおかしゅうてたまらんわ。あはは)

 安治は腹の底から笑ってしまった。

「何じゃお主は! なぜ笑う」

 福島正則は、安治に激しく怒った。正則は猛将だが短気で有名である。安治はそのことをもちろん知っていた。挑発してからかったのだ。加藤清正が安治に怒りながらも、努めて自分を落ち着かせた。そして必死に福島正則を抑えにいった。急いで背中から両手を回した。羽交い締めにして正則を止めにかかったのである。しかし、正則も怪力で動こうとした。安治はそれを見て、また正則を指さして平気で笑い続けた。正則は挑発され、ますます怒り狂ったのである。清正も落ち着きを保ちながら、何とか正則を止めた。必死に力を込めてた清正は激しく息を吐いている。安治は正則が自分にかかってきても、楽に投げ飛ばす余裕があった。

「内府殿は律儀な仮面を長年かぶっておられた。今が牙を剥き出しにされている時だ」

「む、むむっ、律儀な内府殿に限ってそのようなことはない。もし謀反を内府殿が起こされても、我ら七将が止めに入るのじゃ」

 正則は自信ありげに言い放った。

「七将だと。笑わせるな。黒田長政、藤堂高虎は太閤殿下の生前から、既に内府殿に近づいている。豊臣家の行く末に見切りをつけたのだ。それにお主の養子も虎之助も長政も、内府殿から養女を嫁にもらっておるではないか。結局これはお主たちも、やはり次の天下人が内府殿と見越してのことだろう」

「お、おのれ! 甚内のいつもの悪ふざけよ。しかし決して許さんぞ。わしらは豊臣家と内府殿を結びつけて、秀頼様の元服されるまで争いごとがないようにと婚姻を結んだのだ」

 痛いところを突かれ、正則は安治に返事をした。しかし、あまり的を得た答えにならなかった。そこでかなり悔しがっていたのである。安治を激しく睨(にら)み歯を強く噛んでいた。

「市松よ、甚内はわしらを僻んでおるのだ。内府殿とわしらが姻戚(いんせき)で強き間柄であることをな」

 そうやって清正が前に行こうとする正則を羽交い締めにして、まだ必死に止めていた。

「あはは、俺は僻んでなどいないぞ。お主たちは太閤亡き後に内府殿と昵懇になっただけではないか。長政、高虎や俺とは内府殿との付き合いの年月が違う。お主たちよりも、大谷吉継殿が遙かに物事がよく見えておられるからな」

 安治は大声で笑いながら、悔しがっている正則、清正を後ろに放っておいて自陣へゆっくりと戻っていった。

(俺はこのたび石田屋敷を襲撃したが、治部を本気で討つつもりは全くなかった。市松たちが暴発しそうだと放っていた忍びから聞いた。従って自分も仕方なくお付き合いでやったまでよ。治部が危うくなりそうになったら、市松たちを邪魔するつもりであった。無駄な血が流れるのは良くない。治部がいなくなれば、もう内府殿に刃向かう者はいなくなるだろう。前田殿、毛利殿、宇喜多殿、上杉殿に一体何ができるのか。正則、清正たちは治部憎さだけの考えで動いているからな。相変わらずの視野の狭さよ。それに治部を生かしておけば、必ず内府殿に戦を挑んでくる。だから生かしておこうと考えたのだ。治部が挙兵する時が、我が脇坂家の出世の時よ。しかし戦で決着は避けるのが賢明だ。できるだけ内府殿への天下の移りは平和なうちにすむとよいのだがな。すると治部がこのたび討たれたほうが良かったのか。しまったな。戦はもうけっこうだ。お和の歌のとおりだ)

 安治は自陣に戻っても、相変わらず笑いが止まらなかった。福島正則、加藤清正たちのような愚昧な奴ら如きが、安治より遥かに石高が高いことへの嫉妬の念はかなり強かったのである。安治は若い頃から嫉妬心で生きてきた。安治は、これほど太閤の日の本をまとめるための戦に武功をあげてきた。しかし、太閤からの評は厳しく、諸大名の石高とつい比べてしまう。他人と比べるのは、参禅している身として、修行不足である。器量が小さいことであるから、なるべく避けたいのだ。しかし、嫉妬心を起こしてしまう。いけないことだ。まだまだ安治も自分は将としての鍛錬が足りないと深く反省した。

 

 八将の襲撃を受けた石田治部三成は大坂城の屋敷を抜け出した。、伏見城の治部少丸に逃げ込んだ。治部を襲撃した七将たち、いや安治を含めた八将たちは、治部が内府の伏見屋敷に逃げ込んだとの偽の知らせを聞いた。急いで内府の屋敷に向かい門の前に陣を敷いた。恐らく治部が蒔いた偽の伝聞に見事にひっかかったのであろう。福島正則が内府に治部を渡すように屋敷の門の前に立った。軍勢を並び大声で叫んだ。安治を除いた七将たちは激しくいきり立っていた。あの冷静沈着な藤堂高虎もである。内府の屋敷の門がゆっくりと開けられた。月が丸く明るい。内府の家臣が門の後ろで静かに立っていて、ゆっくりと手招きをした。八将たちはそれぞれの軍勢を外に置いて屋敷の中に入っていったのだ。屋敷の中から出てくる何か分からない圧に押された。そしてゆっくりと進んでいったのである。内府が屋敷の奥からゆるりと出てきた。八将を屋敷の前に招き入れた。静かにたたずんでいた。そして目を大きく見開いて大音声(だいおんじよう)で叫んだ。

「各々方よ、静まれよ! 石田治部殿は我が屋敷には逃げ込んではおりませんぞ。そなたたち知恵者が偽の知らせにかかってどうするのです」

(あら、俺という者が治部に騙されたか。やられた。あはは)

 安治は苦笑いをしていた。

「うっ、治部めはここにはおらぬのか。おのれ知恵者の俺ですら騙されたぞ。おい、高虎、長政がいるのになぜひっかかったのじゃ」

 福島正則は大きく喚いた。黒田長政と藤堂高虎も苦笑いをしていた。

(正則よ、お前は知恵者には入っておらんであろう。お前は全く自覚がないのか)

 安治は含み笑いをしていた。

(皆々様お分かりか。太閤殿下亡き後の世を決して乱してはなりませぬ。私が太閤殿下から秀頼様をくれぐれも頼むと何度も手を握りながら言われたのです。世を乱すということは秀頼様に弓を引くということですぞ。それでも納得がいかぬのであれば、先ずこの家康を倒してから治部少輔殿を討たれよ」

 そのように叫んだ内府の凄まじい圧に押され、安治を除く武勇高き七将は怯んで急いで軍を撤退させた。あの勇猛な福島正則なども顔面蒼白で震えていた。内府の迫力は、誰にも真似ができないものである。

(太閤殿下亡き後の世を決して乱してはならぬとは、内府殿もよく言えるものだな。内府殿が先ずはこの世を乱すだろうに。やはり狸爺(たぬきじじい)だな。そしてやがて治部にも圧をかけてきて、つぶしにかかるだろう。その時に治部はどう出るか)

 安治はゆっくりと軍を撤退していった。内府の圧には決して怯まずにいた。心の中でにやついていた。安治の器量や眼力は、他の七将より遥かにあると自分で思っているようだ。あの人物を見る目が高い‎与右衛門よりも、自分の方が高いと強く思っている。


 第七章 安治、動く。


 一方治部は、内府、毛利輝元、上杉景勝、秀吉の正室北政所たちによる仲裁の結果、五奉行の職を辞して、そして居城佐和山城で隠居謹慎されよと申しつけられた。そして内府の家臣の護衛の元、佐和山城へと帰っていった。

(これで、内府殿の敵はいなくなったのである。内府殿は豊臣家で専権を握った。自分に都合のよい政事を次々と行っていっている。それでも正則や清正は一切政情を分かっておらぬ。まことの阿呆たちじゃ。そして大老、奉行を押さえ込み、戦を起こさずに内府殿の天下となれば万々歳だ)

 安治はかすかな望みを持っていた。正則や清正のことは天下のことに比べたら大したことではない。安治は自分を変えることはできても、人を変えることはできないということはよく分かっていた。だから正則たちを変えようとは思っていない。ただ、内府を天下人にするためには、正則や清正が東軍に付いていたほうが勢力が増えて都合がよい。あの太閤を慕う縁者の二人が内府の味方になっている。そのように思えば、他の豊臣家の大名も次々と内府に付くからだ。

 

 三成が失脚してから三日後の閏三月十三日、内府は伏見城へ城主として入城した。これをもって世の人々は内府を天下人と捉(とら)えた。伏見城は豊臣家の京での政事を行うところである。り、その城主は天下人であった。従って、そこに入城した内府を新たな天下人と見なしたのである。二十一日には、毛利輝元との間で起請文を交換した。輝元に対して格上ということを明らかにしたのである。前田利家が亡くなったのは、豊臣家としては痛かった。

 

 内府は九月七日に伏見城から大坂城に登城して、秀頼に重陽(ちようよう)の節句を祝った。

(内府殿は、太閤の死後、自分も含めた有力大名の五大老、政事を実際に執り行う役人の五奉行を中心にまとめた太閤との約束や規則を次々と破っている前田権大納言利家殿が亡くなった後は、跡を継いだ五大老の一人の前田利長などに内府殿暗殺の濡れ衣を着せた。前田家への討伐軍を起こそうとした。利長は見事に慌てまくっていたな。お父上の利家公とは器量が大違いだ。内府殿は利長に討伐の中止の条件を示した。利長は仕方なくそれを呑んだ。その条件の中の一つで、利長の実母を江戸に人質に出させることがある。それを受け入れさせて屈服させた。これは豊臣家筆頭大老徳川家康殿への暗殺容疑で、公のことである。それにもかかわらず、人質の預け先は公儀の豊臣家の本拠地の大坂ではない。内府殿の拠点の江戸である。これは前田家とのことを徳川家の私事(わたくしごと)に収めている。内府殿が豊臣家をろにしている証であろう。毛利輝元殿、宇喜多秀家殿にお家騒動が起きた時は、内府殿は素早く介入した。自分の天下取りに邪魔であったこの二つの大大名と家臣の絆を断ち切ったのである。そして毛利、宇喜多の大名としての力を弱くさせ、輝元殿を屈服させた。宇喜多家は秀家殿やその妻の散財ぶりに家臣たちが反発していた。また、妻の実家から連れてきた家臣と宇喜多家譜代の家臣たちの確執があった。そして、代々お家に仕えていた武勇に秀でている多くの家臣たちが秀家殿を見限って辞めていった。その者たちの中には、内府殿の家臣となった者も多い。豊臣家に敵が現れた時に守ってくれると、太閤が期待していた宇喜多家を骨抜きにしたのだ。自分以外の四大老のうち三大老がこれでつぶされた。自分の思うままになり、さぞや内府殿は大喜びであろう。残る大老は上杉景勝殿だ。これまでの大老と違い、軍神と言われた上杉謙信公の跡継ぎは、戦上手で器量がある。かなりの気骨があるぞ。さてどうなることやら。戦にはなって欲しくはないがな。前田家と同じで外交により、上杉家を屈服させてほしい)

 内府の屋敷での七将に向かってのあの底知れぬ凄みを治部が去った後の前田玄以、長束正家などの奉行衆にも見せつけた。するとその者たちは何も言い出せなかった。治部以外の奉行衆は肝が据わっていない。安治は、しょせんは戦の経験が浅い役人どもよと嘲笑った。

(しかし、治部は全く違っていたな。敵ながら豊臣家を命をかけて守るという気骨があるな。それなのに横柄者だ。よって要らぬ敵を作ってしまう。実にもったいないものだ。豊臣家を守るという志があるのなら、我慢すべき時は我慢しなければならないのだが)

 内府は自分への暗殺の疑いが起こったため、用心して伏見城には帰らずにそのまま大坂城に留まった。そして十八日には大坂城内の秀頼の家臣から、秀頼のために内府が大坂城にいるので今後は内府に忠節を尽くす旨の起請文を出させた。二十七日に北政所が大坂城西の丸を退いて内府に明け渡した。そして京の新しく築城していた城に移った。大坂城内に常に居住できたのは、豊臣家当主に限られたことである。従って、内府は秀頼と同じ豊臣家からの政事のまとめ役となったのだ。暗殺容疑事件を利用したわけである。

 慶長五年(一六○○)の二月になると、内府は独断で諸大名に対して知行宛行(あてがい)を行うようになってしまった。それまでは諸大名に対して、知行宛行はほとんど行われていない。行われたとしても前の年の十月以降は、内府、宇喜多秀家、毛利輝元の三大老の連署で行われていたのである。知行宛行は、主従関係に基づくものであった。従ってここで知行を受けた大名は、内府の家臣となったことに等しいものになるのだ。


 安治はできるだけ戦乱は避けたい。しかし、念のために備えることを考えた。堺の大商人の長井常順(じようじゆん)を訪ねた。客間で安治は待たされた。すぐに常順は現れたのである。大男で日に焼けている男だった。歯が白い。安治を見た時、その口を開け歯を見せて破顔した。

「これは淡路守様、長い異国での戦い、まことにご苦労にございます。よくぞ生きてこられました」

 常順は深く礼をした。

「ああ、あの戦は本当に疲れたぞ。ところで今回は頼みたいことがある」

「何でございましょう」

 それまで微笑んでいた長井常順の目が、右上にあがり鋭くなった。

「鉄砲五百丁を頼む」

「えっ、今何とおっしゃいましたか」

 常順の目が大きく見開いていた。

「だから、鉄砲五百丁を頼むと言ったのだ」

「あ、淡路守様、これほどの鉄砲が要る大戦(おおいくさ)が起きるのですか」

 常順は分かっているくせに、かなり慌てたふりをした。

「常順よ。五百丁、いつ頃にできるか」

 常順は安治を見てにやりと笑った。

「はい、今でもご用立てできます」

「ふむ、実によいぞ。さすがは天下の長井常順」

 安治は大声で他人の屋敷で平気で笑った。しかし、人の死を引き起こす武器を陽気に売る商人に対して、安治は複雑な気持ちでいたのである。

 今まで着けていた鎧兜は朝鮮攻めで大きく壊れてしまったのだ。そこで新しい物が必要になった。これは京の甲冑造りの名人谷川道信(どうしん)に頼みに行った。

「おい、道信はいるか」

 安治は谷川家の鍛冶の工房に遠慮なく入っていった。工房はかなり蒸し暑かった。

「ああ、相変わらずここは暑いな。息苦しくてかなわんぞ」

「暑いのはあたりめーだ。おう、脇坂の旦那、朝鮮でくたばっていなかったか。運がいいな」

 大名相手にふてぶてしい態度であり、愛想もなかった。無精髭を長く生やしている。頭は僧侶のように綺麗に剃っている。人らしくかなりの頑固者である。

「朝鮮での長陣で鎧兜が壊れてしまったのだ。そこで新しい鎧兜が欲しいのだ。是非造ってくれ」

「また、戦かい。お武家さんも相変わらず懲りないね。戦などせずに、鎧兜は美しい飾り物として眺めるのが一番だぜ」

「まあ、そう言うな。俺も朝鮮攻めで戦は懲り懲りだ。しかし、戦乱が起きるのは防ぎようがない。これも万が一に備えてだ」

 安治は、この頑固者と話すと疲れてくる。

「おい、今度は早く作ってくれよ。戦はおそらく早く始まるのだ」

「そうは言っても、こっちの都合もあるんだよ。再び戦乱の世が始まり、大名や武将たちが俺様に大勢注文してきていやがる。だから、とにかく俺は忙しいんだ。かなりの時間待っていてくれねーか」

「金子を百貫出す。これで俺の鎧兜を一番早く造ってくれ」

「あんたも相変わらずわがままなことを言うね。百貫積まれても、できねーものはできねーんだよ」

「それなら、お前が博打(ばくち)で負けた一千貫を立て替えた分、今すぐここで返してもらおうか」

「うっ、そのことをすっかり忘れていたぜ。まずいなあ。ああ、分かったよ。はいはい、淡路守様の鎧兜を一番早く造ればいいんだろう」

 道信は仕方なく安治の注文を受け入れた。何か小さな声で不満を呟いていたが。

「それで旦那の注文の中身は?」

「とにかく大きな平野の中で一番目立つ鎧兜を造ってくれ」

「な、何だと。それじゃあ、こちらで勝手に造らせてもらうぜ」

「うむ、任せたぞ」

「おう」

「ただし条件がある。鎧の方は、中央にある紋は脇坂家の家紋である輪違(わちが)い紋にしろ。胴の表面は黒漆(くろうるし)塗りだ。前面に布袋(ほてい)、背面に菖蒲(しようぶ)を施せ。絵は狩野孝信に任せる」

「何だと、任せると言っときながら、結局細かすぎる注文じゃねーか。俺の勝手に造らせろよ。それに狩野孝信は俺は作風が好きじゃねーんだ。嫌なこった」

「おい、一千貫の借金を忘れていないか」

「また、それを言うんか。わ、分かったよ。造ればいいんだろ。人使いが荒いな、この男は。朝鮮で野垂れブツブツ」

 道信は、まだ不満げに呟いているようであった。

「早く造ってくれれば、それで良しだ」

 安治はにやつきながら軽い足取りで店を出た。


 安治は屋敷に帰って安元と勘兵衛を呼んだ。安治が亭主となって二人に茶を点てるというのだ。安治は意外にも茶の湯を嗜(たしな)んでいた。これは多くの武将がそうであったが、戦の前に緊張する心を安らかにするためでもある。安治は千利休の愛弟子古田織部から茶の湯を学んだ。朝鮮攻めの間は、なかなか茶の湯を開く余裕がなかった。だが、帰国してから織部に挨拶をして再び茶の湯を学んだ。そこで今回、織部から学んだ力量を試そうとしたのである。

 時は閏三月であったため、茶釜を沸かすのには季節柄、炉を使った。茶釜は芦屋釜の風月釜である。茶碗は豊六(ほうろく)天目茶碗である。脇坂安治は茶の湯の道では、まだ駆け出しと言ってよい。従って持っている茶道具も高価(たかね)が付く天下に轟(とどろ)く品はなかった。堺で安い値で買ったものばかりである。

 茶釜の下で火をおこす炭点前(すみでまえ)に使う炭は、道具炭と枝炭に分けられる。道具炭は茶の湯で使う炭の中でも主な炭である。釜の下に上にのせる胴炭、輪炭、割炭、毬打(ぎつちよ)炭、管(くだ)炭などの色形の物がある。これらの炭の名称や寸法などは茶道の流派でそれぞれ異なる。それに合わせて切り揃える。安治の道具炭の原木はクヌギである。炭窯で作っていた。

 枝炭は火を炭に付けるために使う。枝炭の原木はツツジ、ツバキ、クヌギ、コナラなどの小枝を原料とした黒炭である。枝炭は、黒炭に胡粉という貝殻を焼いて作った白色の顔料を塗り、白色にしたものである。

 今回の茶は濃茶である。茶には薄茶と濃茶があるのであった。薄茶は茶杓(ちやしやく)という木製の匙(さじ)のようなものから二杯ほど抹茶を茶碗に入れて、茶釜で沸騰した湯を釜から柄杓に入れて茶碗に注ぐ。そして茶筅(ちやせん)という箒のようなもので素早くかき混ぜる。そして一人に一椀飲ませるものである。あっさりとして甘い抹茶である。濃茶は茶杓に三杯ほど入れる。同じくお湯を入れて茶筅で縦に急いで練るものだ。粘った感じの濃い緑の茶である。味は苦くて重い感じがする。数人分のお茶なので、回し飲みをするのであった。一つの茶碗を皆で飲むことで、飲んだ者のこころをひとつにしようとする考えがある。薄茶も濃茶も茶筅でかき混ぜていくうちに、泡が立ってしまったら味が落ちてしまうのである。今回は濃茶なので、茶碗一椀に安元、勘兵衛の二人分を入れて飲むことにした。

 茶釜が炭により沸騰してきた。抹茶を入れていた茶碗に柄杓でお湯を一杯分入れる。茶筅で大きく前後に振り、急いで動かした。練りに練って濃茶が十分にかき混ざった時、茶筅の動きを止める。茶碗を安元の点前に渡す。安元は茶碗の元ににじり寄る。そして茶碗を自分の膝の前の畳のへりの向こうに置いた。

 先ず、お点前頂戴いたしますと言って正客(一番目の客)の安元が飲む。そう言って安元がゆっくりと飲み終えた。その後、茶碗は懐に入れてある紙の懐紙というものの一枚を事前に二つ折りにして、折った部分を下にしておく。そして飲み口を手で拭いく。上の懐紙一枚の角の部分で拭いた手を拭くのである。そして右の懐に戻すのだ。そして次客(二番目の客)の勘兵衛に残っている濃茶の茶碗を渡す。

 安治も最初は世の流行りにつられて茶の湯を始めた。最初はいろいろと行う所作が多く、面倒くさいなと嫌な気持ちになった。だが、織部から励まされ続けていくうちに、こころが清められていった。落ち着いていくことを快く感じたのである。そして安治は、今は熱心に学んでいる。勘兵衛が残りの濃茶をすすって飲み終わった。茶碗は安治の前に置かれた。安治がにじり寄って手に取る。そして自分の手元に戻した。

「良きお茶にございました」

 勘兵衛が頭をゆっくりと下げる。

「父上、茶の湯とは久しぶりでございますな」

「殿の茶は古田織部様から学ばれたまことの茶でございますからな」

「織部様は千利休様ご切腹の前に、太閤の勘気に触れるのを、恐れて、利休様を避けた弟子たちと違う。細川忠興殿とともに太閤に睨まれるのを覚悟して利休様をお送りした反骨の方だからな。だから俺と気が合うのだよ」

 安治は自慢げに話した。

「織部様もこのたびは内府殿にお味方なされるそうだ。しかし、交渉ごとは得手な師匠だが、戦の采配はちと不安があるな。武勇はからっきしだめなお方だ。しかも南山城の瓶原(みかのはら)と東大和の井戸堂を治めておられる。八千石であり大名にもなられていない。俺より少数の兵を率いている師匠のお命が心配だ。どうか織部様が戦の前線に出ませんように」

「ところで、今回茶の湯を開いたのは、言うまでもないことだ。脇坂軍の要となるお前たちにこれから始まる戦の前に気を静めて不安を少なくし、戦に向かってもらうためである」

「はい、分かっております」

 安元がはっきりとした口調で返事をした。

「今回は長井常順に鉄砲五百丁を頼んだ」

「えっ、ご、五百丁にございますか。脇坂家の財は傾きますぞ。会計方に渋られるでしょう」

 勘兵衛が顔を真っ赤にして大きな口を開けて驚愕した。

「確かに朝鮮攻めで脇坂家の財が逼迫しているのは分かっておる。しかし今回は最後の戦いと思え。今回の戦で大きな手柄を立てねば、いつまでも我が家は小大名のままで辛酸をなめることになる。内府殿に味方する諸大名で、これほどの鉄砲を備えている者はおるまい」

「そ、そうでございますが。大博打(ばくち)でしかありませぬぞ」

 勘兵衛が額から汗を流して、手で拭きながら述べた。

「安元、勘兵衛も気を抜かず、これから懸命に励め」

「は、はあ」

「安元よ、何だ。気のない答えだな」

「ははっ」

「それで良い」

 安治は腕を組んで満足げな顔であった。

「それと、鎧兜は無残にも壊れている。そのため、造り直してもらいに長谷川道信に頼んできた。鎧の絵は狩野孝信に頼んだぞ」

「えっ、あの京随一の鎧兜の職人と日の本一と言われる絵師にお頼みされたのでございますか。ああ、また財が足りませぬぞ。殿のせいで頭が痛うございます」

 勘兵衛は倒れそうになった。

「勘兵衛よ、気をしっかり持て。これは脇坂家の財とは別だ。安心しろ。俺が秀頼様に朝鮮から帰国した時の挨拶をした際にいただいた百貫だ」

「そ、それこそ脇坂家の帳簿につけておくべきですぞ。会計方が驚きます。ああ、殿は何ということをしでかしたのです」

 勘兵衛が口を開けて呆れていた。

「戦で大手柄を立てれば元は取れる。心配いたすな」

「お父上は何か勝算があるのでございますか」

 安元は青ざめたまま恐る恐る尋ねてきた。

「内府殿に付く大名の方は多い。しかもよくまとまっている。そして治部に付く者はまとまりを欠いている。そして流れに乗って潮の目をよく読む。そして内府殿に付いて治部と戦うまでだ」

 安元、勘兵衛も安治の鋭い目を見て、何も言わずに頷いていた。


 第八章 戦が始まる。


 ところで二月頃から、五大老の一人で、会津に帰国していた上杉景勝と内府との対決が噂されるようになった。内府は、同じ五大老の毛利輝元、前田利長、宇喜多秀家、上杉景勝を帰国させて、罠をかけて謀略を仕組み追い落とそうとした。現に、毛利、前田、宇喜多は、徳川家康にはめられている。しかし、景勝は一切屈しなかった。

(さすがは軍神謙信公の跡継ぎの信念の方、上杉景勝殿よ。一切内府殿に怯んでおられないぞ)

 安治は、敵ながら天晴れと思った。実際、景勝は神指(こうざし)城を築き始め広い道を作っている。浪人たちも雇っている。そして居城の会津の鶴ヶ城が手狭で、新しく広い拠点を探して見つけた。そこに神指城を築いている。越後からの移封に伴って石高がかなり増えたので、人手不足になり浪人を雇っただけだった。しかし内府はそこに難癖をつけた。上杉景勝が謀反を企てていると言いがかりをつけたのである。しかも、上杉家内で政争に敗れ浮いた身となっていた重臣が、上杉家を抜け出した。そして内府を頼り江戸城に逃げてきた。景勝が謀反を企てていると内府に讒言をしたのだ。

 内府は、豊臣家の筆頭大老として使者を中納言景勝の元に送った。そして謀反のことを問いただしたのだ。景勝は謀反など一切考えていないと怯まずに返書を出した。そして内府がまた、景勝に弁明のための上洛を求めるた。だが、景勝は断固拒否した。しかし内府は納得せずに上杉つぶしの絶好の時と喜んだ。そして六月初めに会津の上杉討伐を決めた。内府は諸大名に対して大坂城に参陣するように号令を発した。六月十六日に大坂城から豊臣家公儀での上杉討伐軍の総大将と内府はなったのである。そして謀反人上杉景勝を討つという大義名分を持って出陣した。内府は上杉に必ず勝つと考えていた。できれば前田家の時のように血を流さずに、外交で上杉景勝を屈服させたかったのである。そして、上杉家への行軍中に石田治部が必ずや挙兵すると考えていた。これで上杉景勝を抑えれば、自分以外の有力大名四人の四大老を全て自分の支配下に置くということになる。内府の天下取りが決まるのだ。豊臣家としての上杉討伐なので、多くの大名が従わざるを得なかった。

 今回は内府は急いで出陣したのである。上杉景勝が軍備を固める前に攻めるつもりであった。大坂城での出陣式に間に合わない大名は、急いで上杉討伐軍に合流しようとした。脇坂家も同様である。内府は同日に伏見城に入城した。そして、自分以外の四大老つぶしの最後の仕上げだ、とほくそ笑んでいた。内府は六月十八日に伏見城を発った。卵の花が咲き始めていた頃である。大坂の屋敷にいた安治は山が動いたと感じた。緊張して気を引き締めたのである。

 安治は大坂城に残っていて、明日上杉討伐軍に加わわる数少ない家臣たちを呼んだ。そして酒宴を開いた。大広間で家臣の一人一人を呼んで、おおいに励ましていた。

「よいか。命を大事にするのだぞ。決して討ち死には許さん。俺はお前たちが必要なのだ。必ず生きて帰ってこいよ」

 家臣たちは涙を流しながら安治の話を聞いた。深く礼をしていった。そして、安元を自分の居間に呼び出し、酒をゆっくりと酌み交わした。

「明日には洲本城から堺へ我が本軍がやって来るから、そこで出陣式を行う。安元よ、お前には初陣だ。脇坂家の総大将として恥ずかしくないように立派に振る舞うのだぞ。内府殿の本隊に遅れてしまった。なぜあのように急がれたのか。上杉殿の備えが固まらないうちに、会津に攻め入るおつもりなのだろうな。もう一つは治部の動きも急がせて、ほころびを起こすことを考えられておられるのだろう。お前も急いで内府殿に追いつくのだ」

「はっ、分かり申した。脇坂家の大将として恥ずかしくない戦ぶりを行います」

「いや、しかし本音で言うと、今回も上杉軍が内府殿の外交に屈服して、平和になると思うのだ。もう民たちが兵どもに食べ物を奪われたり、殺されたり、連れ去られて売られたり、女子が乱暴されることは悲惨で嫌気がする。決して戦は再び起こってはならん。それはできるだけ防がねばならんのだ」

「そうですね。私も戦のない世になることを願っております」

「これは播磨で随一の酒だ。値はかなりかかったぞ。これを今日は飲もう。そなたと酒をともに飲むのは、これが初めてだな」 

 安治は微笑んで細い目を下に垂らして笑顔で話しかけた。

「はい、そうでございますね。父上とご一緒に酒を酌み交わすことができて、私は本当に幸せ者にございます」

 安元も酒を飲んで顔が赤くなりながら、嬉しい心持ちのようであった。

「よし。もっと飲めや。残りはだいぶあるぞ」

「い、いや、そんなには私は飲めませぬ」

「よいではないか。酒をともに飲めるのも、これで最後になるかもしれぬぞ。お互いどのようになるのか分からんのだからな。それにこのような上等な酒を残すとは、実にもったいないではないか」

「いや、私は下戸でそれ以上飲めません」

「何だと」

 その時に襖が素早く開いた。普段は柔和に微笑んでいる代子が両手を真横にしている。そして、顔を真っ赤にし仁王立ちしていた。明らかに怒っていた。

「安治様、いい加減になさい! 飲めない安元に無理強いをしてはなりませぬぞ!」

「い、いや。出陣前で安元にとっては初陣だからな。それでこころを落ち着かせようと飲ませておったのよ」

「だからと言って飲めない者に酒を飲ませては体に毒です。初陣すらできなくなるかもしれませんよ。そのような失態を犯したなら、脇坂家は天下の笑い者になります」

「わ、分かったよ。無理強いはこれからは決してしないぞ」

「それならよろしい」

 襖が勢いよく閉まった。大きな音が屋敷内に響いた。家臣たちも何が起きたのかと驚いていた。そして騒動になっていた。安治にとって女房がこの世で一番恐ろしい。

「安元よ。明日はいよいよ堺だな。俺も代子も勘兵衛も見送りにいくぞ」

「はっ」

 安元は気力を込めて返事をした。


 安治は、内府への忠誠の証として、脇坂本軍を淡路島の洲本城から出陣させた。堺で本軍を迎え嫡男安元を総大将にした。安治が大坂に残ったのは、謹慎している石田治部の動きを調べて、内府に知らせるためであったのである。安元は、髪は月代(さかやき)で肌は白い。顔は小さく細面であった。代子によく似ている。いつも微笑んでいて人からよく好かれていた。安治とは似ているところが全くない。

 安元は歌道の名手として、大名、公家、学者たちなどの間でもよく名が知られていた。安治は、安元に初陣も兼ねて戦の経験を積ませ、他所の大名に負けない、いや遙かに優れている立派な武将として鍛えさせるつもりであった。安治は、武勇で成り上がってきた身であるから、安元の歌道への傾倒ぶりがよく分からない。

 安治も、もう正直休みたかった。洲本城を出陣した脇坂軍は正午に堺の港に着いた。それを大坂から急いで出て、安治、代子、勘兵衛は安元を送りに行った。

「安元よ。脇坂家の総大将として初陣を堂々と飾れ。脇坂家のためにも必ずや大手柄を立てるのだぞ。しかし命あってのものだぞ。危うきときはすぐに逃げよ。先ず戦はなく外交で決着がつくと思うが」

 安治は、長年海で生きてきたせいで、皺枯れになった大声で安元を励ました。

「分かり申した。私は脇坂家の跡取りとして恥ずかしくないように振る舞す。立派に大将を務めます」

 普段は雪のように白い顔の安元が頬を赤くしながら、大声で答えた。

「うむ、それでよろしい。気構えが良い。期待しているぞ」

 安治は安元の勇敢な態度を見て、安元の両手を強く握っていった。しかし、代子の方は心配でならなかった。

「安元よ、旦那様のおっしゃる通り、お命あっての人生ですよ。決して無理をしないようにしてください。特にあなたはまだ初陣も済ませていないのですからね。大将としての心構えなど要りません。武士の誇りなど役にも立たぬことにこだわってはなりませぬ」

「え、えっ」

 まだ髭のない安元は驚いていたが、しばらくしてゆっくりと頷いた。安元も本音は戦が嫌いだったのである。代子は緊張している安元の黒い瞳を見つめている。そしてゆっくりと念を押していた。隣にいた口、顎に細い髭を生やしている安治は強くうなずいていた。

 安治は、先に述べたように、内府がいない上方で必ずや石田治部少輔三成が兵を挙げると考えていたのである。大坂に留まり甲賀の忍びを使い、治部や他の奉行衆などの周辺を探らせることにした。治部が上杉討伐軍に従軍している諸大名を味方にするため、その妻子を人質に取るに違いないと予想していた。代子に大坂城屋敷からの逃げ方を教えていた。西軍に脇坂家の屋敷を囲まれる前に、日ごろから親しい堺の商人長井常順に、脇坂家の屋敷に荷車を運んで入ってもらうのだ。大きな米袋に代子を入れて抜け出させた。そして堺の港から洲本城に帰らせる。

 上杉討伐軍には豊臣家の子飼いの武将たちも大勢従軍していた。主な武将としては福島正則、黒田長政、加藤嘉明(よしあきら)などだ。加藤清正は薩摩の島津家内での主君に対する重臣の反乱が起きた時に、反乱軍に力添えしていたと内府から糾弾された。内府が清正に激怒した。上杉討伐軍には参陣させずに熊本城に謹慎させられていたのである。

 

 天下が再び回ってきた。七月二日から治部が挙兵に向けて動き始めた。治部は佐和山城を出て大坂城へ入った。そして他の奉行衆や大谷吉継、宇喜多秀家、安国寺恵瓊、小西行長と今後の作戦を話し合った。

 治部が毛利輝元に、西軍の総大将に付いてもらうように懇願したのである。総大将を毛利輝元が引き受ける際には、毛利家の外交僧も兼ねている伊予国和(わけ)気郡の三万三千石の大名である安国寺恵瓊が輝元を説得した。西軍の勝利の暁には、九州や四国の地を大増封するとの治部からの約定を恵瓊は輝元に示した。折衝が上手な恵瓊は輝元の心を見通し動かそうとした。毛利家は元々九州や四国に領土を狙っていた過去がある。まだ輝元にその野望があると恵瓊は考えていた。東軍の黒田長政と通じていた輝元の従弟の吉川広家は毛利家の軍をまとめる役である。今回は内府殿に必ず付くようにと輝元に猛反対した。しかし、結局輝元は今まで失敗してこなかった恵瓊の意見を受け入れたのである。そして西軍の総大将を引き受けた。優柔不断と世間ではよく言われていた輝元だが、、七月十五日に輝元が国元の安芸国広島城から強行軍で七月十九日に大坂に着いた。わずか四日で六万の大軍で着いたのである。そして大坂城に入り、約定通りに西軍の総大将となった。副大将は宇喜多秀家である。このたびの輝元の早い動きは、安治の予想外であった。

(これは早過ぎるぞ。安国寺恵瓊の説得の前から、輝元殿はこの戦いを企てていて備えをしていたのだろう。凡庸と思っていたが、意外と喰えない野心家のご仁だな)

 安治は思わずにやついていた。その一連の西軍の動きを内府に逐一伝えていたのである。そして輝元は、大坂城西の丸にいた内府の留守を守っている家臣を素早く追い出した。そして、そこに居座った。これにはまた安治も驚いた。あの凡庸なお殿様が、なにゆえにこのような果断ぶりを見せたのか。誰か裏にいるのか。いるとしても、安国寺恵瓊しか思い浮かばない。さすがは恵瓊である。そして、奉行たちが内府に対して、内府ちがいひの条々を出し、内府を弾劾した。内府は図らずも豊臣家の総大将から逆賊に陥ってしまった。

 安治は西軍から命じられ、摂津の川口を守るように言われた。

(なにゆえ、俺は勝手に西軍にされたのだ。内府殿にお味方するために、これはまずいではないか。内府殿の心証を悪くしてしまうぞ。実につまらん)

 安治は目をしかめ苦々しげに思った。しかし、別の考え方を思いついた。

(おい、これは天佑かもしれんぞ。代子を屋敷から抜け出させ、堺に行く代わりに行き先を変える。川口に向かわせる。そして関所で監視役の目をごまかして荷車を抜け出さればよい。そして兵庫津に行って、そこから洲本の港に送ることができるぞ。よい機会だ。治部よ感謝するぞ。あはは。急いで、屋敷の者に書状を送らねばならん)

 西軍から諸大名に対して、秀頼への忠義と内府追討への参陣が諸大名に呼びかけられた。同時に大坂城内の屋敷に住んでいる諸大名の妻子たちを人質とする動きが始まったのである。黒田長政、加藤清正などの妻などは幸い脱出できた。代子も、長井常順に頼んでいたように米俵に入れられ、荷車で屋敷を急いで出た。そして安治が守っている川口の関所に辿り着いたのである。安治は何も言わず、他の大名たちが厳しく調べようとするのを邪魔をした。そして簡単な調べをしただけで荷車を通させた。兵庫津に向かい、そこに備えていた小早船に乗り洲本城に代子は無事に戻ったのである。他の大名の妻子は捕まる者たちもいた。治部はこれで、内府に従軍している豊臣恩顧の大名の中から、こちらに寝返ってくる者が続々と出てくると考えていた。上杉景勝の背後に領土があった最上義光(よしあき)も人質を捕らえている。従って、味方になるであろうと考えていたのである。しかし、それで上杉討伐軍の中から寝返る者は現れなかった。最上義光も同様である。細川忠興の妻が西軍が捕縛する前に命を絶った。そして屋敷に火を放った件を受け、治部は愕然とした。それで大名の妻子をこれ以上捕まえることは、逆にまずいと考えた。即刻止めたのである。安治の元に洲本城から書状がもたらされた。書状は代子自身が書いた。無事に洲本城に着いたそうである。安治は書状を見て安堵した。

 

 内府が率いる上杉討伐軍が七月二十五日に内府の領国である下野国(しもつけのくに)に着いた。内府は豊臣家から自分への弾劾状が出されたことに焦っていたのである。そこで大博打をした。内府が下野国の小山(おやま)で軍議を開いた際に、前夜に内府が黒田長政に福島正則への説得を頼んでいた。豊臣恩顧の大名の筆頭と目されている正則が味方に付けば、他の大名も続きやすいからである。

 翌朝、内府が軍議を開いた時に凄みのある声で言い放った。

「上方で石田治部少輔たちが私を討つため挙兵しました。大坂には皆様方のご妻子が人質に取られていらっしゃるでしょう。ご家族が心配なのは私もよく分かります。心配なお方は今すぐに大坂城にお戻りなされ。この家康、決して恨みもいたしません。追っ手を仕掛けたりはしませぬ。

 この時、福島正則がこの朝の軍議の最初に立ち上がった。

「わしは内府殿に付いて、必ずや憎っくき治部を討つ。治部こそが秀頼様を取り込んでいる君側の奸である。皆も必ずや続こうではないか」

 そのように正則は生まれつきの大声で叫んだ。その勢いにつられて諸大名たちは皆内府になびいたのである。内府に東海道にある自分の城を明け渡す者たちが、次々と現れた。太閤が生前、家康が上方に攻め込むことを懸念していた。そして秀吉に忠節であり、実直な性分の子飼いの武将たちを選んだ。それらを東海道の各城に置いていたのだ。しかし、皮肉にもそれらの者が皆々内府に一斉に味方した。そして東海道は、内府の上方へ攻め込む大事な道となってしまった。

(何が忠節だよ、実直だよ。正則の勢いに飲み込まれ、簡単に寝返る小者たちばかりではないか。自分のお家を守るために内府殿に簡単に付いたな。人の心と言うものは、戦の経験が多い俺でもよく分からんものだな。結局太閤の目が狂っていたということだ)


 第八章 止むなく西軍に付く。


 安治は、関東の情勢を忍びから聞いた時、皮肉交じりに心の中で呟いた。安元の軍は近江を進軍していたが、西軍の設けた関所で止められ、やむなく西軍に付かざるを得なかった。安治は屋敷で今後のことを考えていた。そこに安元からの急使がやって来た。安治は急いで居間で急使を迎えた。安治は急使の激しい息づかいを見て緊張した。

「安元からの危急の用とは何だ。まさか」

 安治は嫌な予感がしていた。

「安元様の軍が近江の西軍の関所に捕まりました。そして西軍に付かざるを得なくなりました」

「な、何」

 安治は知らせを聞いて愕然とした。

「何ということだ。まさか脇坂家が西軍に付かされるとは。これでは脇坂家は内府殿の敵となってしまうではないか」

 家老の大塚勘兵衛も驚いていた。

「た、大変でございますな。何か手を打ちませぬと。脇坂家は内府様の敵になってしまいますぞ」

「勘兵衛よ、落ち着け。わしは内府殿の傍に同行しておられる山岡道阿弥殿とは、同じ近江の出ということもあって親しい。山岡殿は甲賀忍者の頭領である。そして内府殿からかなり重用されておられる。山岡殿に、脇坂軍は仕方なく西軍に関所で捕まって味方に付かざるを得なかっただけで、決して本心で治部方に付いたわけではないのでございます、後で必ずや内府殿にお味方いたしますとの書状を書く。それを急いで山岡殿に届けてくれ。その書状を山岡殿は必ずや内府殿にお見せすることであろう」

 安治は勘兵衛を見つめて、ゆっくりと伝えた。

「はっ、分かり申した。これはお家の大事でございますからな。家老の私が直に山岡様に書状を届けないとなりませぬ」

 安治は書院で書状を急いで書いた。そして勘兵衛に渡した。

「いいか、勘兵衛。近江を通ると西軍の関所があるゆえにそこは通らない。逆に堺の港に火急のことのために用意していた脇坂家の小早船が、一艘置いてある。それに乗り南下して紀伊方面を回れ。そして伊勢の安濃津の港に着いたら、そこから値は、はってでも駿馬を見つけて買うのだ。陸路で清州を通って東海道を下り、急いで内府殿の軍の山岡殿に追いつけ。これが駿馬を買う金子五十貫だ。決して失ってはならんぞ」

 海を船で渡ったほうが陸路より速く進む場合もあるのだ。

「はっ、分かり申した。勘兵衛の命に代えましても、この書状を必ずや山岡様に届けまする」

「うむ、勘兵衛よ、任せたぞ。脇坂家の存亡がかかった書状じゃ。途中に野伏せりなどが襲ってきたりなどの危険が迫ったら、相手にせずにすぐに逃げろ。今は戦う場合ではないからな」

「ははっ」

 勘兵衛は書状を恭しく受け取って、常順に借りた商人の服に着替えて馬に素早く乗った。そして急いで屋敷の門から出て駆け去った。その後には焦げ茶色の土煙が高く立ちのぼっていたのである。安治は高い鷲鼻で息をしながら、鋭く勘兵衛を見ていた。そして急いで屋敷内に戻って行ったのだ。

 翌日、大坂城から使者がやって来た。使者は門の守備兵を鋭く睨みつけた。兵が槍を持って使者が門を入るのを止めたのだ。しかし、使者は両手の強い力で押し払って、強引に入ってきた。拙者は石田治部少輔三成様の家臣である、豊臣家の使者として、危急な用で参ったと屋敷の前で大声で怒鳴ったのだ。その声を聞いていた安治は面倒くさくなり、屋敷でわざと三刻も待たせた。そして、ゆっくりと歩いてきてやっと使者に会った。単なる嫌がらせだ。残らせている使者を下座に置かせた。安治は上座から細い目で鋭く睨んだ。使者も不機嫌になったが、そこは黙っていて逆に睨み返した。お互いの睨み合いがしばらく続いた。外は昼にもかかわらず、鳥の鳴き声もせずに静かであった。

「石田治部少輔様からのお達しです。淡路守様は明日軍勢を率いて、城内の三の丸前に集まられよとのことでございますぞ」

 治部の家臣らしく横柄な言いようである。安治は治部のありさまは長年見て慣れているのである。別にいまさら腹を立てたりはしなかった。

(うーむ、西軍が意外と早く出て来たな。まだ安元の軍は戻って来ぬぞ。安元は一体何をしているのだ。困ったぞ)

「使者殿よ、そうしたいところは山々ではある。しかし、何せ息子が率いている本隊が、近江からまだ戻って来ないので今は無理ですな」

 安治は相変わらず鋭い目で使者を差しながら、軽く返答した。

「仕方ないですな。分かり申した。脇坂家の本隊が着き次第、治部少輔様に軍の到着をお伝えくだされ。必ずや急いでですぞ」

「はい、伝えておきますよ」

 安治は使者が出て行った後に、家臣に門に塩を撒いておけと怒り気味に伝えた。家臣は口を開けて驚いていた。脇坂本隊は、それから二日後に大坂に戻ってきた。安元も将兵もかなり疲れているようだ。安治は、将兵を一旦それぞれの屋敷に帰らせた。疲れを取るようにと伝えたのだ。そして明日の巳(み)の刻に、また脇坂屋敷に集まるように言いつけた。安元も屋敷に上がらせ、薄茶を点てて飲ませて休ませた。

「ああ、お父上の点てたお茶は、やはり心が安らぎますな」

「そんな悠長なようでは困るぞ。それで安元よ。やっと帰ってきおった。なにゆえ、このように遅かったのだ」

「わ、若、勘兵衛は若がご無事に戻ってきていただき、とても嬉しゅうございますぞ」

 既に山岡道阿弥からの返書をもらい、道阿弥から、淡路守殿ご安心なされよ、内府様は脇坂殿の御事情は十分にお分かりになられている、いずれは機を見てお味方して下されという返書を持って帰ってきた勘兵衛は、大泣きに泣いていた。

「父上、まことに申しわけございませぬ。実は、近江の西軍の関所で止められました。そこを避けて、鈴鹿峠に回り上杉討伐軍に追いつこうとしました。しかし鈴鹿峠の方も、西軍の関所が設けられていたのです。従って上杉討伐軍に追い着くことを諦めて帰っていくうちに日にちが、かかってしまいました。勘兵衛よ、お主を心配させてすまぬな」

 安元は疲れながらも涼やかな笑顔で答えた。

「そうか。また、呑気にどこかの野原で花を愛でたり、歌会でも開いていたと思っていたぞ」

「そ、そんな、父上、私はこのようなお家の大事の時に、決して過ちをいたしたりはしませぬぞ」

「ああ、それならよい。山岡道阿弥殿には、この戦は我が軍は必ずや内府殿にお味方し、治部方と戦うという文を送ったぞ」

「ええっ、これは、豊臣家としての公儀の上杉家への討伐軍でありますね。なにゆえ同じ秀頼様の家臣同士の内府様と治部少輔様が争うのですか。まさか、内府様が豊臣家へ弓を引かれるとのことですか。」

 安元は驚き目を見開いていた。

「内府殿が秀頼様に弓を引く。それがまことのことだな。内府殿は太閤との約束などさらさら守られる気はないようだ。内府殿しか、これからの日の本を任せられる天下人になるお方はおられぬ。秀頼様はまだ幼く、そこをつけ狙う輩が出てきても決して不思議ではないぞ。西軍が勝てば、また戦乱が各地で起きる乱世に戻ってしまうぞ。しかし、奉行衆から連名の書状で内府殿は弾劾された。豊臣家の大将として出陣されたのに、今度は豊臣家への逆賊とされた。これは意外である。内府殿の危機だ。俺の寝返りの約定も危うくなったぞ」

 安治が細い目で、庭から見えている鴉(からす)を見て睨んでいた。

「さ、左様にございますか」

 安元は体中が震えていた。

「ともかく、周りは西軍の軍ばかりだ。この中で脇坂家が内府殿に通じていると知られたら、我が家はおしまいだ。すぐにつぶされるぞ。しかも豊臣家への逆賊という汚名を被らせられてだ。そして脇坂家の滅亡という悲惨な最期を迎えてしまう。今日中に治部に本軍が戻ったと使いを送る。明日には西軍の軍が集まっている大坂城の三の丸の前に行かねばならん。こちらは内府殿にお味方するつもりなのにな。ああ面倒くさくなったぞ」


 第九章 名将大谷刑部吉継


 日が変わり、安治、安元、勘兵衛たちは大坂城内で大勢の軍がひしめく中、脇坂屋敷で集めた千五百の少数の兵で参陣した。朝鮮攻めで、ともに苦労しながら戦ってきた精鋭の軍である。五百の鉄砲を持ったこの小大名の軍に諸大名は驚いていた。毛利家、宇喜多家、小早川家以外は、意外と中小の大名が多いことに安治は気がついた。三の丸の書院で、安治は石田治部少輔三成と面会した。襖の絵は小さな鯉(こい)が墨絵として描かれている。質素な感じがする。権威を持ち横柄者の治部とは合わない地味な絵だと安治は思った。安治と治部は同じ近江の出だが、交流は少ない。治部は目が狐目で瞳が黒い。武勇に秀でてもいないのにかなりの凄みがある。悪事や隠しごとを成す輩には厳しく接する。横柄な面があって敵が多い。しかし、家臣には、自分の石高を少なくしても、功に見合った扶持を十分に与え満足させた。領民には農作業や商いに治部が工夫をさせ発展させた。満足な生活をさせて、民からはかなり慕われている。

「淡路守殿、かなり貴殿の軍の到着が遅かったようですな」

 治部は冷ややかに述べた。

「治部少輔殿、いろいろ手間取り遅れて申しわけない」

「前田権大納言殿の死後、真っ先に私を襲撃したのは貴殿でしたな。淡路守殿らしい素早い動きですな」

 安治は痛いところを突かれた。

「あはは、あれはまことに申しわけない。治部少輔殿を君側の奸と見誤っていたようですな」

 そのように言いつつ、安治は少しも悪びれていなかった。安治は治部のその才は認めている。しかし、気性が好きではない治部に頭を下げるのがとても苦痛であった。

(我が軍が関所で捕まったりせずにいたら、このような扱いを受けなかった。そして内府殿のお味方として堂々とやっていけたものを。とても無念だ)

「今回は、大谷刑部少輔が北陸口を守ります。内府が関東から美濃、尾張方面に戻って来る前に、秀頼様をお守りする五大老の一人だったくせに内府に安易に屈服して、徳川の犬に成り下がった前田利長めが加賀を出て、越前へ攻め寄せて来ます。それを迎え撃つ刑部の軍の下に付いて下され。利家様と器量が大違いの愚か者の利長には、天誅を下さねばなりませぬ。北陸での戦いは大事なことです。淡路守殿、くれぐれも刑部への補佐を頼みますぞ。こたびの淡路守殿の十分な戦の経験が役に立ちます。しかし、利家様が御存命中なら、内府の輩と戦って頼りになってくれる前田の大軍が敵に回るとは皮肉なことです。甚だ苦しいことですな。これも前田家を貶めた内府の奴の卑劣な策略のせいです。あのような奴は決して許せません。必ずや捕まえて首を叩っ切ります。そして六条河原に晒してやらねばなりません」

(治部は横柄だが、かなり義の心が強いようだな。しかし、義だけでは戦には決して勝てはせぬ。天下を治めることもできぬ、治部は、仁のこころが領国以外ではあまりないようだ)

 安治は治部を見つめながら、この男の気性を細かく調べていた。結局は敵の実際の総大将だからである。西軍を倒すために、治部の強きところ、弱きところを見つけていった。そして、やはり内府との器の大きさの違いがある。従って、西軍が勝つのは難しいだろうと考えたのである。

 安治は大谷刑部を思い出した。刑部は目は病で失明していた。既にほとんど見えない状態である。介添え人が必要であった。瞳が灰色で、近くに寄ると穏やかな風を受けている感じがする。諸大名からの人望も篤い。親友の治部とはそこが大違いであった。あの若造か。越前の敦賀(つるが)郡の五万七千石持ちであったな。安治は思い出した。安治は、自分より若造の下に付くのは不満ではあった。しかし、大谷刑部のような優れた采配と知略に優れ器の大きい者なら、仕方あるまいと思った。同時になにゆえ、文武両道に優れた大谷刑部吉継が、わずか五万七千石の扶持なのかが不思議でならなかった。秀吉子飼いの武将として、昔から家臣として忠節を尽くしている。刑部の戦場での凄まじい槍働きを安治は長年見てきた。役人としても政務を順調にこなしてきた。軍の采配も瞠目するほどに見事であったのである。太閤の覚えもめでたかったのだ。親友の治部だけでなく、内府とも親交があるほどの男である。安治は自分の石高が低いのは、太閤の命令を無視したり、諫言したりして睨まれることがあったからだと分かっていた。しかし、大谷吉継が小大名に甘んじているのは、さっぱり分からなかった。子飼いの家臣が一人でも多く欲しい太閤が、福島正則や加藤清正たちと違って、正則たちよりも遙かに文武で才のある大谷吉継を優遇していないことが謎であると、安治は考えていた。

 大谷刑部は秀吉子飼いで石田三成の無二の友だ。それにもかかわらず、太閤死後は内府に近づいて行った。やはり、これからは内府の天下だと見抜いていたのであろう。刑部も秀吉子飼いの大名とである。しかしやはり現実をよく見ている。宇喜多家のお家騒動にも、徳川家とともに介入した。そして秀家と家臣の間を取り持ち解決に導いた。内府と前田利家との争いの時も、内府側に付いていた。

 しかし、このたびは結局石田治部方に付いている。上杉討伐軍が大坂城を発した時、軍を追って刑部が北陸の敦賀城を出発して南に上った。そして東に向かおうとした。治部が八将襲撃の件の裁きの結果、謹慎していた近江の佐和山城の近くを進軍していた。そして美濃国垂井(たるい)に陣を敷いたのだ。その時刑部は佐和山城に、事前に治部との約束通り治部の息子を引き取りに行った。治部の息子を上杉討伐軍に参加させようとしている。そのことで内府の心証をよくしようとした。内府と治部との仲を取り持とうとした。無益な争いを避けようとしたのである。刑部の賢明さに安治は感心していた。

 そして刑部が佐和山城に着いた時に、治部は内府を討つ決心を刑部に明かした。それを聞いて刑部は猛反対した。お主では内府殿に対して器量が違いすぎて、必ず勝てない、天下の趨勢は内府殿に動いていると何度も言って、挙兵を止めるように強く言ったのだ。しかし治部は、頑なに聞き入れなかった。そして、逆に刑部に秀頼様をお守りするために、是非味方になってくれるように何度も懇願したのである。豊臣家の今後の運命を左右する大事であるから、その後十日ほど垂井の陣と佐和山の三成とのやりとりを行ったのである。七月十一日に刑部は、治部の豊臣家への忠誠心に動かされ、遂に治部に付くことを承知した。刑部は、治部が横柄者として多くの人に恨まれているから決して表には出るなと言った。毛利輝元殿を総大将に立て、宇喜多秀家殿を副大将にして、治部は裏方として作戦を行っていくしかないと述べた。それを聞いて治部は強く納得して、刑部と力強く両手で握手をしたのである。徳川家康が上杉景勝への討伐で上方を留守にして関東北部に着いた頃、大坂で挙兵すると治部は刑部に打ち明けた。刑部もそれしかないと述べた。

 

 三の丸に集まった西軍の前に、毛利輝元、宇喜多秀家が現れた。輝元は覇気のない膨れた顔に薄く髭を生やしていた。宇喜多秀家は、目が活き活きとして背筋が真っ直ぐに伸びていた。

「皆様方、よくぞ大坂城へ参集された。私から礼を言います。逆賊の内府は実にけしからん奴ですな」

 輝元が口を開いた。

「私からも礼を申し上げます。豊臣家の仇敵徳川内府めを必ずや討ち果たしましょうぞ」

 秀家が大きく張りのある声で叫んだ。城内にその声は響いた。

「それでは憎っくき内府めを討ちましょうぞ。エイエイオー!」

 輝元が秀家につられたのか珍しく覇気を出した。

「エイエイオー! エイエイオー!」

 諸将が輝元に応じて掛け声を出した。その大音声は大坂城外にまで響き渡った。

(つまらん。茶番だ、茶番)

 安治はそのように思いながら、適当に掛け声を出した。そして軍全体のの気が高まり次々に出陣していった。西軍は伏見城、田辺城へ向かっていったのである。

 大谷刑部は前田利長に対して、こちらにお味方されれば北国七カ国を増封させるという秀頼が発給した印判状、実際は治部たちが勝手に発給したものを送った。しかし利長は拒否した。利長は七月下旬に東軍に付くことを家臣に明らかにしたのである。


「もう金沢で戦のない世を祈る歌は唱えないのでしょうか」

 お和は高山右近に尋ねた。

「前田利長様は江戸で人質になっていらっしゃる母上を守るためにも、内府殿側に付くとはっきりと言われた。もう、そなたの歌を金沢の街で唱うのは危うい。教会で唱うしかない。ああ、私も戦は嫌になった。武士だけでなく、民も苦しむのだ。平和を破る者は、この戦いで敵将の首を獲って手柄を立てようと、張り切っている浅ましき連中だろう。このような者たちのために戦乱が起こってしまう。前田家でも武勇に秀でている連中が、そのように思っているであろう。悲しきことだ。しかし結局私も、この戦に参陣せねばならないようだ。私はデウス様の命(めい)を守り、切支丹も安心して暮らすことができる平和な世を強く望んでいるのに、とても嘆かわしいことだ。このたびの敵は大谷刑部殿だ。大軍を率いる利長様は油断しておられる。しかし、少数の軍を率いているとしても、刑部殿の器量、知略、武勇には、利長様は遙かに及ばない。実に苦しい戦いとなるであろう。神のご加護をおかけしても難しいことだ」

 右近は曇った空を見つめ、苦しそうな顔をしていた。

「右近様、石田様方と徳川様方の大軍が戦うとすれば、どの辺りになりそうですか」

「それは美濃か尾張であろうな」

「私は美濃に参ります。そこで戦乱のない世を祈り、歌を唱い続けます」

 お和が凛とした目で右近を見ていた。

「な、何と。お和よ、気は確かか。美濃は戦場となりうる危うきところだぞ。女人(によにん)のそなた一人で行くところではない」

 普段は冷静な右近がおおいに慌てていた。

「いえ、そのようなところだからこそ参ります。天下の静謐を願わずにはおられません。戦は決して起こってはなりません」

「私はそなたの性分は昔からよく分かっておる。一度決めたことは必ず行なってきたな」

「はい、必ずや唱います。ところで美濃で大きな山はございますか。それも、西軍、東軍が現れそうな所を選びたいと思います。その頂上で大声で唱います」

「そうか。それでは引き留めはせぬ。美濃で、戦場になりそうなところに近い大きな山か。ならば、岐阜城を頂いている稲葉山、松尾山、南宮山くらいか」

「稲葉山は既に城がある山ですね。松尾山は、北陸や近江に向かう道に近く、ここに軍が通りそうなので、この山に登って唱います」

「よく分かった。そなたの祈りが通じるように、私も一切支丹として皆とともに祈り続けるぞ」

「ありがとうございます」

 そしてお和は長い間暮らしていた金沢を後にした。


 前田利長は七月二十六日に西軍の上方方面を攻めるため、金沢城から出陣した。高山右近も参陣していた。十字架を胸にしまい込んで。利長は上杉討伐の時には、越後から会津に攻め入るように内府から命じられていた。しかし、そのようにしたら領国が留守の間、西軍が南から攻めてくると利長がおおいに恐れた。そして、内府の許しを得て北陸を南に上ったのである。

 刑部は、治部から説得されて西軍の味方になった後、大坂城へ着いた。治部、奉行衆、小西行長たち西軍の中心人物の軍議に参加した。そして治部の要請通り大坂城を出発し、北陸口へ向かった。その配下には、脇坂安治、京極高次(近江国大津で六万国)、平塚為広(美濃国垂井で一万二千石)、小川祐忠(伊予国今治(いまばる)で七万石)、朽木(くちき)元網(近江国朽木で二万石)の五大名を付けた。大谷吉継も小大名ではあるが、その下に付く大名たちも、いずれも小大名であった。おのずと、兵数は少なくなる。しかし、刑部の采配と知略の前には、内府にあっさり屈した前田利長など敵ではないと、治部は考えていたようだ。

 平塚為広が軍の先頭に立って皆を鼓舞し、士気は高まったのである。

(うむ、戦は声が大事だ。俺の大声も十分に効くぞ。平塚為広のような若き大声の持ち主が先陣でよいのだ)

 安治は馬に揺られながらそのように考えていた。そして軍は大谷刑部の居城敦賀城に辿り着いた。この城の近くに有名な敦賀の港があり、かなり繁盛していた。蝦夷地から日本海を回って馬関で曲がる。そして瀬戸内に入り堺に船が通っていた。その途中に敦賀港があった。琵琶湖を通り京への物資を運んでいたのである。街の繁盛ぶりは刑部の政事が上手くいっているからである。城は川と川の間に築城されていた。その川を天然の堀としたのである。大谷軍の配下の小大名たちは、敦賀の町の賑やかさに驚いていた。

「見事な街だのう」

 安治は刑部に対しての尊敬の念を高めた。皆は一日城内で泊ったのである。翌朝、安治は城内の庭で周りに人がいないことを確かめた。家宝の貂の皮の槍鞘から出した短槍を持った。そして上下左右斜めに振り回した。鋭く真っ直ぐに突いた。それを何度も繰り返したのである。安治は少し汗をかいていた。

「さすがは賤ヶ岳の七本槍のお方ですな。今、槍の動きが全く乱れてないのは見事です。私は目が見えませんが、音で良く分かるのです」

 刑部が介添人から支えられていた。後ろで見ていて笑みを浮かべて近づいてきた。

「これは刑部殿、お恥ずかしいところをお見せしました。刑部殿も槍の名手ではないですか」

「いえいえ、淡路守殿の槍さばきにはかないません。しかも今の目のありさまでは槍も振るうことさえできなくなりました。まことに残念です」

 安治は刑部の目のことが話になり、刑部を傷つけたと思いこころの中で謝った。

「淡路守殿は、私がなにゆえ五万七千石の小大名であるかを不審に思われているでしょう。私も治部と同じように太閤殿下の側近として多大な領土をもらってしまうと、要らぬ批判を招き差し障りがあると思っておりました。それで長年この禄高で我慢しておりました。しかし、朝鮮攻めで少数の軍でいると、采配を見事に行なっていても、戦い方が限られてきます。そこで二十六万石を太閤殿下からいただくことになっておりました。しかし、殿下がすぐにお亡くなりになられたので、増封の話は立ち消えとなりました」

「そうだったのですか。初めて聞きました。刑部殿が大大名であったならば、どのような采配をされたのか見てみたかったですな」

「いえいえ、少数の軍でも大軍に勝つことをこたびの前田攻めで、お見せいたします」

 刑部は自信ありげに述べた。そして望みを持ったこころを抱いたまま、大谷軍は敦賀城を発して越前を進んでいったのである。


 第十章 関ヶ原の戦いの前哨戦。


 内府が江戸に残って上杉景勝の動向を伺っているその間、七月二十六日に正則たちは大軍で西に向かった。八月一日に西軍の伏見城攻めが始まった。東軍の拠点の伏見城に将兵が八百人ほど立て籠もっていた。少数ではあるが良く守っていたのである。伏見城は太閤が精魂傾けて造った堅城である。なかなか落城しなかった。しかし、西軍が甲賀忍者を使い謀略により、やっと陥落したのである。八月四日、石田治部少輔三成、宇喜多権中納言秀家、小西摂津守行長、島津参議義弘たちの軍は美濃へ出てきた。そして大垣城に入っていった。そこで治部たちは軍議を開いた。これからの作戦を練ったのである。治部は岐阜城城主織田秀信と相談して尾張に軍勢を出した。西軍は、大垣城、岐阜城、尾張の清州城を押えて、東軍を迎え撃つつもりだ。治部たちは尾張を押さえるため、清洲城の城主福島正則に豊臣秀頼様への御奉公を考えて是非味方してくれ、そなたは豊臣家の縁者ではないか、勝利した暁には美濃一国を加えると書状を送った。内府から疎まれている加藤清正にも調略のため、勝利の暁には筑後一国を加えると書状を送った。しかし、どちらも治部憎しの気持ちには変わらず、すぐに断られたのである。福島正則、加藤清正からの拒否の返答が来た。従って治部は伊勢を攻めている宇喜多秀家などの軍とともに、清洲城を攻め取るつもりであった。

 安治の元には、藤堂高虎から密使が来た。内府様への寝返りを取り持つと書かれてあった。

「甚内よ。内府殿は、そなたを悪いようにはしないとおっしゃっている。寧ろ、西軍に捕まり気の毒に思っていらっしゃるくらいだ。寝返るには時を待て。それまでは、西軍にどんなに隙があっても我慢するのだ。東軍と西軍がいずれ美濃か尾張でぶつかり合う時が来るから、その時を逃さず狙え」

 密使は、そのような内容を安治に伝えた。

(さすがは‎与右衛門だ。奴らしく時勢をよく読んでおる。そうだな、時を待つしかないな)

 安治はその時を楽しみにしている。船を操っていると、潮の目が変わる時がある。安治は、その時を見過ごさず、采配を振り船の舵を水子(かこ)に素早く切らせた。それを誤った時は一度もない。安治は内府殿へ必ずお味方いたすと密使に伝えた。密使はすぐに消え失せた。


 第十一章 愚かな踊る踊る軍議。


 大谷軍は、相変わらず北陸路を北に下っていった。刑部は、調略を使い北陸の諸大名を次々と西軍に付かせていく。当初、東軍に付いていた者も、すぐに寝返らせたのである。

(ほう、刑部殿の調略は大したものだな。相手の欲しいものを即座に見抜いて、交渉されている。太閤譲りだろうな)

 安治は心から感服していた。その中で越前国足羽(あすわ)郡安居(あご)二万石の戸田武蔵守勝成(かつしげ)、同じく越前国今庄(いまじよう)二万石の赤座備後守(びんごのかみ)直保が大谷軍に参陣した。二人とも越前の地勢に明るいから参陣を刑部が頼んだのだ。戸田勝成は、大谷吉継を尊敬してやまないそうである。冷静沈着且つ勇猛で高名な武将であった。そして前田利長の弟である能登の大名利政が利長と離反した。利政は病気と称し軍を出さなかった。これも刑部の調略によるものである。

 渇ききった越前の平野を強風が吹いていて、行軍が遅れていた。

(何だか、このありさまは俺の心の中みたいだな。これからの自分の運命がどのようになるかがとても気がかりだ。心は渇ききっている。困難が待ち受けて、逆風の中を進んでいるようだ。潮の目を見定めなければならない。しかし、一体いつになるやら分からない不安が常に付きまとっている。ああ、これからどうなるのだろうか)

 安治は珍しく溜息をついた。大谷軍はその中を無理して、少し急ぎ気味に進軍した。周りの百姓の家には、人がほとんどいなかった。強風で倒れている空き家もいくつかあった。柱が折れ、斜めに傾いているのである。どうやら民たちが、戦がこちらで始まることをどこからか嗅ぎつけてきたのであろう。戦のたびに被害を受けるのは、いつも百姓たちだ。こたびの戦で百姓の田畑が決して荒らされないようにと、安治は心から願った。領国を治めるにあたって忘れていけないのは、百姓の年貢あっての大名であるということだ。このことを忘れている大名が最近増えてきていることが至極残念だと、安治は心を痛めている。

 刑部は西軍に組する越前の北庄(きたのしよう)城近くで軍議を開いた。集まったのは、いずれも小大名の脇坂淡路守安治、平塚因幡守(いなばのかみ)為広、戸田武蔵守勝成、赤座備後守直保、小川左近太夫(さこんたゆう)祐忠、朽木河内守(かわちのかみ)元網、京極参議高次である。大谷刑部は、白頭巾をしていて口も白布で隠していた。いつものように目も瞳が灰色で物が見えない。二人の小姓が両側から支えて介添えをして、床几にやっと座ることができた。病がかなり進んでいるのだろう。安治は毒舌家で気性も歪(ゆが)んでいる。しかし、不治の病で苦しみながら戦っている刑部にはかなり同情している。その病状では、いくら刑部に優れた采配の才があっても、大将を務めるのはさぞかし辛いだろうと安治は思った。刑部の手となり足となって采配を務めている者は、平塚為広である。刑部ほどではないが、なかなかの采配ぶりである。小人を許せずよく喧嘩をするという気性であった。しかし、刑部からそこは我慢するようにと釘をさされている。

「おい、この少数の六千の軍だけで、本当に前田利長の二万五千の大軍に勝てるのかね」

 赤座直保が叫んだ。奴はぎょろ目で有名である。女好きで酒癖が悪く家臣によく絡んで、酒を無理強いをして飲ませていた。赤座はその時の家臣が嫌がる様子を見て楽しんでいた。当然家臣たちからの人望は全くない。それにもかかわらず赤座は人望の無さを自覚していない。この軍に、このような者が加わっているのは邪魔に過ぎない。しかし、越前の生まれで領主でもあったから、地形や民の情勢に詳しいので刑部が参陣を頼んだのであろう。

「おい赤座よ、お前酒臭いぞ。また早朝飲んできやがったな」

 安治が鼻をつまみながら、怒ってたまらず文句を言った。

「う、うるせー。この大戦の前に飲まずにいられるかよ」

 皆も赤座の酒癖の悪さは知ってはいた。だが、まさか天下の大事な軍議の前に飲んでくるとは思ってもいなかった。皆当然呆れていた。本音は戦が怖くて逃げたいのだと安治は見抜いた。赤座の酒の件は別にして、前田軍相手に少数の軍で戦うのは難しいだろうと、小川祐忠、朽木元綱も同じ意見だ。

「しかし、ふふふ、赤座は相変わらず落ち着きがないな」

 小川祐忠が薄い顎髭を撫でながら、赤座直保を冷たい目で笑いながら見ていた。

(そのように偉そうに、にやついている小川も人のことは言えないぞ。きょろきょろしている時がよくあるな。赤座と同じただの小心者だ。しかし、自分を知略に優れた者だと勘違いしているようだ。こいつも酒癖が悪い。赤座のことをとやかく言える立場の奴ではない。領内で高い年貢をかけて悪政を行っている。そして民を苦しめているのである。そして民から搾取した年貢を金に換えている。女を傍にはべらせたりして贅沢三昧をしていやがるのだ。何という奴だ。俺はこいつにはとてつもなく怒りがこみ上げてくる。今回は同じ近江の出で治部とは懇意にしているから西軍に付いたらしい。しかし、治部はこの者の悪政を知っているのだろうか。知っているならば、奴の気性だから、たとえ懇意な者でも厳格に罰すると思うのだ。しかし、そこはよく分からない。治部は知らないのかもしれない。まあ、小川は運がいいのは確かだ。取柄と言ったら、ただそれだけだろう)

 小川祐忠が付いた大名は次々と滅んでいった。そして祐忠は、そのたびに所領安堵されている。そして小川祐忠は運よく秀吉の直臣となった。よく主君を変えるが、その主君は太閤を除いていずれも負けてばかりいる。時勢を見抜く力はない癖に、なぜか小川祐忠は生き残ってきていた。戦は守るのは手堅く、敵を寄せ付けない強さはあった。

「ふふふ、やはり英雄には見る目があるから、わしを生き残らせているのだよ」

 大坂城で豊臣家の大名になっても相変わらず、小川はこのような自慢話をしている。

「おいおい、勘違いするなよ、この愚物め。お前が戦が少しはましなだけで、才に優れているからではない。勝った方が単にいちいちお前などの小者を滅ぼすのが面倒だっただけだ。他の滅ぼされた奴たちを思い出せ。お前より身分が高かったり、信長や太閤に最後まで抵抗した者たちだろうが。お前はすぐに怯えて降伏していただけだろうに」

 安治は祐忠に向かって、けたたましく笑いながら毒づいた。その後は、もちろん大喧嘩の始まりである。安治は、このような根拠のない誇りを持つ輩をからかうのが、とても愉快で面白かった。安治の悪い癖である。

「ち、ちびの祐忠よ。お前なんぞが偉そうに言うな」

 軍議の最中、小川祐忠に文句を言われた赤座直保が、酒で酔った顔をますます真っ赤にした。そして怒りながら言い返してきた。小川の前まで走って行った。

「な、何だと! もう一度言って見ろ」

 背丈が人より低いことを気にしている祐忠は怒り狂った。

(また、こいつらは喧嘩か。はあ。背丈など、どうでもよいことをなあ)

 安治は自分を棚に上げ呆れていた。

 京極高次は黙っていた。

「さあ、私にはこれからの戦のことはよく分かりません」

 刑部が高次に意見を聞いても、このようにしか述べなかった。高次も仕えていた者たちが次々と滅んでいた。佐々木源氏の流れをくむ名門の京極家も終わりかと思われていた。しかし高次の姉がまれにみる美貌の持ち主であった。その姉に秀吉が惚れて側室となり高次は助かった。そして、秀吉の寵愛深き淀殿の妹を嫁にもらい、蛍大名と揶揄されながらも近江国大津の大名となっていたのである。畿内の大事な拠点である大津を任せられるとは、評価が高い。これも姉や嫁のおかげだろう。この男も時勢をよく見誤るのである。しかし、周りの女性のおかげで運がいいのは確かだ。

(ははは、これが蛍大名か。なるほど覇気のない青白い顔をしておるな。公家のような顔だ。しかも武勇や知略も大したことはなさそうだな。なぜ、このような戦に役に立たない男を連れて行くのか。これもよく分からないことだ。刑部殿は人を見る目は確かにあるのにだ。なぜだ。まさか、この男を西軍に付かせて、義姉の淀殿を西軍に巻き込み秀頼様を西軍への明らかな公儀の大将として認めてもらう算段か。それが実際に行なわれるならば、この上ない上策だが、どうであろうか)

 朽木元網は人をよく睨めつけている。戦いに次ぐ戦いで睨み癖がついたのかもしれない。 また、過去の自慢話をよくしていた。そのような話をまだまだ長く続けている。一度は周囲からもう話を止めておけと言われる。その場では止める。しかし、すぐにまた同じ話をしでかす。かなりのやっかいな者だ。周囲の大名たちは呆れて注意するのも、馬鹿らしくなった。そして相手にするのを止めていた。奴は何かの病かもしれない。朽木はその自慢話しかできない。戦も地元の谷での合戦なら地の利を生かして上手い。しかし、野戦や城攻めは大の苦手だ。兵を引く時に引かず、押すときには押さないのだ。そのせいで朽木軍は兵の被害が大きかった。しかもなぜ被害が出たのかを考えないのだ。そのせいで、また次の戦では、同じことの繰り返しになるのである。安治はこのような戦下手を初めて見て驚愕した。

(こいつには潮の目が全く読めんようだな。どこをどのようにしたら、そのような戦下手になるのだ。そちらの方が逆に難しいぞ)

 安治はそのように思った。朽木のその才の低い割には、自尊心がやたらと高いのが安治に言わせればとても滑稽である。

(今度の前田軍との戦いはこのままでは野戦になるだろう。何で戦に弱い朽木など、大谷軍に配したのかがよく分からん。また刑部殿はなぜ赤座直保を陣に入れたのか。越前の情勢に明るい者なら戸田勝成がいるではないか。奴の方が気性も良く武勇にも秀でている。赤座直保はただ大谷軍の和を乱す厄介者だぞ。そしてなにゆえに刑部殿が、俺と平塚為広と戸田勝成以外のこのような四人のようなつまらん役にも立たん奴らを配したのか。しかも俺を含めて小大名たちばかりを自軍に付けたのか。俺にはとても分からない。いつも思うが、刑部殿が人を見る目がないとはとても思えない。これは、治部の判断だな。しかも北陸での戦いは、本戦の前の重大な戦いだ。大谷軍が負けたならば、越前から前田軍が近江に突入してくる。治部の内府殿を討つ戦いための算段は、大きく狂うのにもかかわらずにである。先ず美濃、尾張、伊勢への侵攻ができなくなる。そして、東軍が近江から、京、大坂へと進軍し、石田治部は大坂城に籠るしか戦い方がなくなるのだ。考えても、伊勢や美濃を攻めることに宇喜多秀家殿などの大軍の大名を配した。そのせいで北陸方面での戦いには、小大名を配するしか余裕がなかったのであろう。丹後の細川家の田辺城攻めにも、小大名しか配することができなかったようだな)

 安治は、潮の目が思っていたよりも早く変わることを恐れていた。

「赤座直保よ。そのようなことは決してないぞ! 刑部様は天下に轟(とどろ)く知恵者だ。利長は、ご立派だったお父上利家様のご遺言を破りおった。利家様は利長に対して、三年は大坂城から離れるな。弟の孫四郎利政を金沢へ帰らせ金沢城の留守居役にせよ、利長、利政兄弟の下に兵力は一万六千ほどあるだろうから、そのうち八千は大坂に詰めさせ、後の八千は金沢にいる利政の命で動くようにせよ、大坂にいざこざが生じ秀頼様へ謀叛する者が現れた場合は、利政は国元の八千の兵を連れて上洛し、まとまって働くようにしろとご遺言を残された。しかし利長は結局ご遺言を守れなかった。そして逆賊内府が利長に帰国されよと言った言葉にまんまと騙され国元に帰り、帰った途端に内府暗殺の容疑を着せられてしまったのである。豊臣家の敵である内府に簡単に屈した前田利長のような愚か者など、いともたやすく討ち倒されるのだ!」

 隣で赤座たち三人の乱痴気話を聞いていた平塚為広が、我慢できずに興奮して大声で叫んだ。

(う、うるさい。また為広か。声が大きすぎるぞ)

 安治は耳鳴りがした。平塚為広は五尺三分の大男だ。安治と同じ背丈である。大坂城内でも、よく大声が聞こえていた。ああ、平塚の若造が来ているのかとよく分かったものだ。しかし、平塚為広は性分が素直で、年上の言うことをよく聞くので諸大名から好かれていた。髭は口、顎に濃く生えている。勇猛ではあり義の心が強く、義に反する者とはよく喧嘩しがちである。

「お、おい若造よ、何を根拠にそのようなことを喚いておるのか」

 赤座直保が狼狽(うろた)えて尋ねた。歯が音をたてて震えていた。相変わらず顔を真っ赤にして目を伏せている。

(くくっ、直保が若造の為広の迫力に負けておるわ、この小心者め)

 安治は心の中で笑いが止まらなかった。思わず笑い声が出そうだった。それを抑えるのに必死である。

「まだ分からぬのか? 大軍と言えども、利長のような大将では暗愚で謀略に簡単にかかってしまうということだ」

 為広が分厚い胸を張って答えた。

「私も、そのように思います」

 為広の隣にいて耳も塞いでいなかった戸田勝成が、静かにゆっくりと顔を上げて答えた。戸田も五尺を越える大男である。戸田は怒らせると怖いが、いつもはよく静かに笑っている。戦では勇猛だが普段は穏やかな感じだ。その雰囲気は、人から好かれそうな感じであった。安治も、この者にはよい感じを抱いていた。

「相変わらず私には、どのようにすればよいかよく分かりません。刑部殿の命に従うまでです」

 京極高次は相変わらず同じ答えであった。高次の気の抜けた声に、安治はがっかりした。

(年寄り四人衆より、この若武者二人の方が言っていることが正しいではないか)

 安治は思わず頷いていた。

「赤座殿、小川殿、朽木殿には申しわけございませんが、平塚、戸田の言うことが理にかなっております」

 刑部が微笑みながら答えた。

「前田軍は大軍です。しかし二つの派閥に割れています。利長殿は必死に仲裁をしております。しかし、この二つをまとめ上げることがなかなかできませぬ。修羅場をくぐってきたお父上と違い、利長殿の器が小さいのです。それに利長殿は武功は世に多く伝えられております。しかし、実際の武勇はあまり秀でておられません。お人好しで謀略にかかりやすいのは明らかです。このままですと、野戦で直接大軍と激突することになります。こちらは小勢で前田軍との直接の戦いにはかなわないので、謀略を仕掛けます」

「さすがは刑部少輔殿」

 滅多に人を褒めない安治が、ついそのように言ってしまった。

(あっ、俺としたことが人を褒めるなんてすべきではないことだな。人に毒づくのは大好きだ。しかし、褒めるのは性に合わないのだ)

 安治は思わず口をつぐんだ。

(しかし、赤座、小川、朽木、京極の愚物四人衆は何とかならんかね。大事な軍議でも醜態を晒して実に情けないことだ。俺は、いずれ内府殿にお味方する。だが、まだその機ではないのだ。今前田軍との戦いで、足を引っ張ってもらっては実に困るのだよ。この戦いで西軍が負けるのは実に困る。美濃か尾張で勝負をつける時が恐らく潮の目の時だろう)

「では、これにて軍議は終了いたします。長い間、皆さま方お疲れ様でございます」

 大谷刑部が穏やかに口を開いた。そして小姓に支えながら陣幕の裏に歩いていった。

 

 安治は疲れて自陣に戻っていった。大男の背中が前に曲がって、足が重く感じられていた。自陣では白輪違紋入りの旗も、強風が止まって下に垂れ下がり、脇坂軍の気力が衰えたように感じられた。安治は大事な宝の貂の皮の槍鞘を取り出した。そして眺めながら気力を取り戻すように願った。しかし、相変わらず力が沸かない。安治は、これから戦だというのに困ってしまった。

(しかし、赤座直保、小川祐忠、朽木元網、京極高次の四名はまさしく愚か者だ。あのような者たちが一緒だと、これからの戦がどのようになるか心配だぞ。軍議は結局この四名のため、愚か者の乱痴気騒ぎとなってしまった。頼りは刑部殿の知略のみだ。ああ俺はかなり疲れてしまった。もうこの軍での軍議は嫌だな。二度と軍議は開いてほしくないぞ)

「ところで殿、徳川様方との交渉はうまくいっておられますか」

 勘兵衛が尋ねた。

「ああ、藤堂高虎と頻繁に密使の遣り取りをしておる。内府殿も我々が仕方なく西軍に着いたことの事情はご承諾だとのことだ。俺は戦は本来は望まないが、起きた場合は仕方がない。寝返る時を見計らって、素早く西軍を討つ。そして小大名から抜け出して、せめて二十万石より多い領地は欲しいぞ。早く大大名になりたいものだ。太閤が吝嗇(りんしよく)だったからな。今まで少ない石高で散々苦労したぞ。俺についてきた勘兵衛たち家臣にも報いてやりたいからな」

「そのように簡単にいただけるものでしょうか」

「それは脇坂軍の働き次第だ。大軍の小早川金吾の軍が寝返る時に一、緒に裏切る算段だ。だが、小早川軍より奮戦し金吾の邪魔をする。そして脇坂軍が大きな武功を挙げねばならん。五百丁の鉄砲で、できるだけ多くの西軍の将兵を討ち取る必要がある。そのために百貫で買ったのだからな。恩賞のためには、多くの西軍の高名な武将たちを討ち取らねばならぬ。一千五百の小勢で、このような戦をするのは難儀だな。これがなかなかやりにくいことだな。戦乱のない世と恩賞目当て、矛盾することだが、どちらも必死に取り組まねばならん」

「あの島津様などがいらっしゃったら、殿はどうなされますか」

「おいおい、島津軍は強兵の塊だ。たとえ少数の軍でも決して攻め込んではならんぞ。鬼じゃ、義弘公は。内府殿と同じ大軍を与えたら、内府殿ですら危ういぞ。あの軍と戦うと、こちらに大きな犠牲が出てしまう。くわばらくわばら」

「左様にございますか」

「この戦、西軍は、毛利殿、上杉殿、奉行衆などは、本気で東軍と戦うか分からない。まとまりを欠いている。しかもあちこちに無駄に出兵しておる。田辺城などは小勢なのだ。相手にせずにしておけばよいものを。なぜ兵を出すのだ。治部などの首脳たちは、まことに戦下手だな。主な戦場となるであろう美濃、尾張に兵を集めておらぬわ。まあ言いすぎたな。こちらは内府殿にお味方するのだからな。西軍が美濃か尾張に大軍を催したら、寝返りの時に困るだけだぞ。その点、内府殿の軍は、豊臣恩顧の大名たちが大勢いるにもかかわらずに、よくまとまっている。逆に奴らは治部憎しとの気持ちが強い。治部は義を重んじて不正を許さないのは分かる。しかし、その気性のせいで諸大名に厳しく接してきた。そのため、今まで多くの敵を作りすぎたからな。一部の大名には国を治める新しい工夫を教えて、豊かにして治部に恩義を感じている者もいるがな。従って生き残るには、戦の潮の目をよく見て東軍に付くしかないのだ。そして戦いは一度で決着をつけねばならん。長く続くと、民たちの苦しみが増えるだけだ。それだけは必ずや避けねばならんのだ」

「分かり申した」

 利長の方は先ず、南加賀の西軍の大名丹羽長重が小勢で立て籠る小松城を攻めようとした。そして三堂山に布陣した。利長はその頃また、毛利輝元、宇喜多秀家から西軍に是非付くように熱心に誘いを受けた。しかし、母親が江戸に人質となっているためにまた拒否した。小松城は周りが湿地で覆われていて、かなり攻めにくい。また城が堅固で有名であるのだ。そこで利長は攻めるのを一旦避けて、城の側に留守隊を置いた。そして南に上がっていった。これも小勢の山口宗永(むねなが)が籠る大聖寺(だいせいじ)城に降伏勧告をした。しかしすぐに宗永に拒否された。そして大聖寺城を攻め落とし宗永を討ち死にさせたのだ。

 越前の今庄にいた西軍の戸田武蔵守勝成は、大谷刑部の命により利長に使者を遣わして、以下のように述べさせた。

「前田中納言様はご存じだとは思われますが、私たちは石田治部の一味では決してないのです。仮に味方に付く振りをしただけでございます。我が一族の一人が、石田治部とは昵懇の仲でございます。このたびは西軍に味方してくれと何度も頼まれてました。その者を見捨てるのは人にあらずと思いました。従って、折りを見てまた東軍にお味方したいと存じます。また長年の豊臣家からのご恩を忘れたわけではありませぬ。さらに北陸には大坂からの西軍の大軍が向かっております。内府様が未だにご出陣されてもいないのに、前田中納言様は加賀と越前の国境(くにざかい)にご出陣されておられます。前には大谷刑部率いる大軍、後ろには小松城の丹羽長重の軍勢もあります。これほどの軍を無傷で遠く上方へ進むことができますでしょうか。ここは内府様と策を練り直し、一旦金沢城に戻られて、再びご出陣されるのが賢明ではございませんか」

 このように信頼していた戸田勝成が伝えてきたため、利家は越前攻めを一時取り止めた。そして陣を張って状況を見定めていた。刑部は安堵した。刑部は、利長が東軍に付くのは必至と読んでいた。刑部は、利長が南に進んで近江に入り、美濃に展開している西軍の主軍が、東海道を進んでくる内府の軍と挟み撃ちになることは、必ず避けねばならないと考えていた。

 大谷軍は北に下っていった。刑部は堂々と且つ、戦に勝って油断している前田中納言に対して謀略を次々と仕掛けていった。

「上杉景勝が越後を全て抑えて加賀をうかがっている」

「西軍が上方を全て支配した」、

「大谷刑部が大軍を率いて、越前北部に援軍に向かっている」

「大谷刑部の別働隊が、金沢城を急襲するために大船団で海路を北に下っている」

 刑部はこのように流言を流したのである。この流言に、やはり愚かな前田利長は動揺した。さらに刑部は、西軍挙兵の際に捕えていた利長の妹婿の中川宗半(そうはん)を脅した。そして、利長宛に偽書を作らせ、それを利長の陣へと届けさせた。

「今回、中納言様が加賀から大軍を擁した。そして、近隣を打ち倒したと上方でお聞きしました。これに困って、大坂より大谷刑部率いる四万の大軍が敦賀表ヘと出陣しました。一万七千人は越前を進みんでおります。刑部は敦賀より三万人を乗せた兵船を揃えて、中納言様の出陣の後の加賀に乱入しようとしております。素早い動きで出発して、越前と加賀の海から挟み撃ちにあって敵の攻撃を受ける。このことは混乱の極みでございます。よくよくご思案下さい」

 このような内容であった。これら一連の刑部の謀略から、利長は自分の留守中に金沢城が刑部に海路から襲われることが必ずや起こると思い込んだ。そして、そのことをおおいに恐れた。

「利長様、これは大谷刑部の策略かもしれませんぞ。一度お確かめになったほうがよろしいのでは」

 従軍していた高山右近が利長に忠告した。

「い、いや、このような話になっているならば、まことのことだろう。あの戦の名手大谷刑部に金沢を落とされたら、取り返しがつかなくなるぞ」

 利長は怯えていた。八月八日、利長は軍勢を金沢に戻すことにしたのである。やはり利長は策略にすぐにかかったのである。金沢への帰路の同日には、まだ攻めていなかった小松城の丹羽長重軍に背後を襲われた。そしてからくも撃退した。利長は戦下手であったのである。後日の話になるが、九月十一日、利長は刑部の調略にかかっていた弟利政の出陣放棄に悩まされながらも、再び西上した。しかし、刑部の調略のせいで、前田利長の大軍は九月十五日の関ヶ原の本戦には間に合わなかった。

「ああ、良かった。これで無駄な血が流れないですんだ。戦が起きずにまことにけっこうである」

 大谷刑部は見えぬ目から涙を流し続け、ほっとした様子である。そして両手を上に向けて力強く握った。脇坂安治はその様子を見て疑問に思った。刑部がこの戦いで治部と同じ考えで戦っているようには思えなかったのである。

 

 第十二章 三成の焦り。


 八月二十三日、尾張国清州城にいた福島正則たちなどの豊臣恩顧の大名たちが多くを占めている東軍の軍は、内府の命により織田信長の嫡孫の秀信(美濃国岐阜城十三万石)が治めている岐阜城をたった一日で落とした。秀信が九千の兵で迎え撃ち、福島正則たち東軍が一万八千人と織田の二倍の数で圧倒したのだ。秀信は備えは十分にしており激戦となった。しかし、数に劣り、兵を分散させて戦った。そのために秀信は降伏するに至ったのである。攻めた側の諸将の中には、織田信長の家臣だった者や、その子たちがいた。秀信は信長の孫ということで一命を助けられ、剃髪して高野山に身を預けられた。西軍の美濃の一大拠点である岐阜城を失った治部の算段は大きく狂ってしまったのである。

(なにゆえ、治部は大垣城まで来ていながら、岐阜城にも援兵を出さなかったのか。岐阜城は堅城として昔から有名だが、手持ちの兵が少なく織田秀信殿も戦の経験が少ない。そして決して采配が上手いとは言えない。この失策は西軍にはかなり痛いぞ)

 そのように、安治が不思議に思う西軍の戦ぶりが見られた。岐阜城が落城したことを受けて、治部は焦り出した。そして北陸の大谷刑部や伊勢の城を落としていった宇喜多秀家や安国寺恵瓊たちに急いで美濃大垣城へ集まってくれるように使いを出した。この時点では、まだ内府は江戸を動いていない。正則たちは、なかなか動かない内府に苛立ちを感じた。そして早く清洲に来てくれるように、使者を出し続けた。九月一日、内府は上杉軍が関東には入らずに反転して、北の最上義光攻めを始めて領土拡大に励んでいる様子を見た。そして下野に上杉家への抑えの軍を置いて内府がやっと江戸を出立したのである。

 

 大谷刑部が越前で軍議を開いていた時、早馬で使者がやって来た。治部の家臣だと言う。

「うっ、何ということだ」

 書状を読んだ。いつもは冷静な刑部が思わず呻(うめ)いた。

「刑部殿、治部殿の書状には何が書かれてありましたか」

 安治が隣に来て険しい顔で尋ねた。

「堅城の岐阜城がわずか一日で落城したそうです。治部からの話では今後の算段を練り直す。そのためにも、大垣城に兵を集めなければならないとのことです。そこで、諸将は急いで来てほしいと述べております。これは由々しき事です。しかも内府殿が江戸を出立されたそうです。内府殿の軍と尾張の先鋒の軍が合流したならば、かなりの大軍となりますぞ。皆様方、一刻も早く大垣城へ向かいましょう」

「はっ」

 九月二日に越前の東野にいた大谷隊は、治部の懇願に応えるため、北陸から急いで美濃にやってきた。強行軍であった。その道中、勝手に京極高次だけが軍を抜け大津城へ帰っていったのである。大谷刑部に高次からの伝言の使者が来た。

「我が主、京極高次は病のために大津へ戻ります」

 その一言だけであった。

「高次殿は大坂城に人質を取られています。しかし、以前から内府殿と通じていたようですな。弟の高知殿は東軍でありますからな」

 刑部が動じずゆっくりと話をした。

「刑部様、急いで追いかけて裏切り者の高次めを討ち取りましょう。あのような戦下手な輩などすぐさまに私が首を獲ってみせます」

 平塚為広が叫んだが、刑部は手を上げて止めた。

「今は、岐阜城が落ちた美濃に兵を集める。そして、清州城と対峙することが第一に行うべきことです。京極殿のことなど、大勢には影響しません。しかし、治部が義のこころのあまりに京極を討つと言って大津城へ兵を出さねばよいのですが。私から念のため言っておきましょう」

 そのように刑部は述べた。

 高次は海津を経て、船で琵琶湖を渡り大津城へと戻った。九月三日に城に兵を集め兵糧を運び込んだ。そして籠城し西軍を抑える旨を、内府の重臣である井伊直政に伝えた。高次の寝返りはすぐに大坂へと伝えられ、石田治部が大津城近くの逢坂(おうさか)関にいた西軍の諸将に、大津城を攻めるように命じた。

(あーあ、せっかく美濃に向かう軍を、守りが十分でない大津城などを攻めさせるのか。実にもったいない。美濃の方が大事だ。放っておけばよいのにな。なぜあのようなどうでもよい城を攻めさせるのだ。治部は頭は確かか)

 安治は東軍に通じている身ながらも、またもやも治部の戦下手には呆れかえった。いや戦下手というのはその場の戦が下手なことである。治部もそのことには当てはまる。しかし、大きな視野で軍を動かすことも不得手なようだ。周りに島津義弘などの戦の全てを見通すことが得意な者がいる。それなのに、なぜ治部は下手な戦の進め方をするのか。安治には全く分からなかった。まさか義弘に対しても意見に耳を貸さず横柄な態度で接しているのか。これから島津も反目するかもしれない。治部は命というものを何と考えているのか。安治は激しい怒りを炎のように燃え上がらせた。

 さすがに刑部が治部に大津城攻めを止めるように、強く何度も書状で伝えたそうだ。しかし、治部は頑なに京極高次の寝返りに怒っていた。まことの友の刑部の意見も退けると聞いた。安治は呆れてしまったのだ。治部はこの大戦を義戦と考えている。太閤の側室の弟であり、淀殿の義弟である高次の裏切りは身内の者が裏切ったと感じたそして激しくいきどおった。豊臣秀頼に仇なす卑劣な徳川家康に付く者は、全て逆賊と考えているようだ。

(そのような凝り固まった考えでは、戦には決して勝てぬ。内府殿に通じている俺としては助かるな。しかし、時勢が混乱してきたぞ)

 安治は潮の目が出てくることすら心配になってきた。

 

 九月三日に、大谷吉継、戸田重政、平塚為広、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、そして脇坂安治が、前田利長軍がまた上方に向かい攻めて来る時に備えて北国口を抑える為に、美濃の関ヶ原南西の山中村に布陣した。村は台地の上に立った守りやすい地形である。ここでも百姓たちは家を捨てていたのである。安治は百姓たちの苦労を考え、溜息をついた。安治は野原を歩いて回っていた。しゃがみ込んで路傍の菊を長い時間眺めていた。そして匂いを嗅いだ。穏やかな香りがした。

(このような美しい花々が、戦で踏みつぶされないようにしなければならん。そして百姓たちが苦労して耕している田畑を、荒らされないようにすることも俺たちの務めだ)

 武勇一筋の安治がこのような思いにいたっていた。生きとし生けるものの命の大事さを感じるようになっていたのである。

(人も獣も魚も虫も木も花も、命は全て大事であるのだ。例え戦であろうと。命を必ずや大切にせねばならん。この争いは長引くと損なわれる命も多くなる。もう既に外交で決着はつけられなくなってしまったのだ。かなり残念だ)

 安治は堅く心に決めていた。そのように思っていた時、遠くから聴き慣れた歌声が響いてきた。お和の歌である。


 いざ平和よ、訪れん。いざ平和よ、訪れん。こころ穏やかな素晴らしき世。身分高き者や低き者のために。命を大事にせよ。この国に永遠の平和を。


 その歌が何度も繰り返えされた。聴いていた大谷軍の将兵も驚き、ざわついていた。安治は驚いた。お和の歌声が聞こえる向きを探したのだ。松尾山の頂上である。

(な、なにゆえ、お和が松尾山にいるのだ。あの娘は金沢の高山右近殿のところにいるはずだ)

 安治は驚いて、すぐに松尾山に登った。そこには城がある。だが、伊藤盛正というおとなしい小大名が守っているので、お和には何も危害はなかった。

「お和よ。なにゆえ、このような所におるのだ。この辺りはもうすぐ戦が起きるぞ」

 山に登ってきて少し息が荒くなった安治が、お和に話しかけた。

「はい、よく存知あげております。東軍、西軍の皆様方に戦乱のない世を目指していただきたいと思いました。ここで皆様方によく聞こえるように唱っております。高山右近様にはご承諾いただきました」

 お和は、はつらつとして安治に答えた。

「そなたの気持ちはよく分かるが、もはや戦乱は収まらない。東軍と西軍の戦は避けられんのだ」

「それでも唱っていきます」

「いや、この松尾山は城があるので、戦場となるやもしれん。南宮山も毛利軍などが占拠しているのだ。せめて伊吹山に逃れて、そこで唱ってはくれんか。あの山なら、まだ無事に唱うことができる」

「そうですか。残念でございます。結局私の祈りの声が、皆様方に伝わらなかったのでございますね」

 お和は珍しく涙を流していた。

「そなたの悔しさもよく分かるぞ。武功を立てたい者もいまだにいる。しかし、多くの者は戦は懲り懲りだと思っているはずだ。そなたの祈りの歌は今まで、武士や民たちのこころに深く根付いてきたと俺は思っている。そなたは世のためになったのだ。落ち込むことではないぞ。しかし、戦は止められなくなった。どちらの軍も思惑がある。結局、戦で勝負を決めざるを得なくなったのだぞ。俺は戦が長引くと、死者が多く出ることを憂いている。必ずやこの戦は一度で決着がつく。さあ、伊吹山で思い切り唱うがよい。そして、そこでも危うい目に遭いそうになったら、すぐに逃げるのだ。俺の家臣を三名付けて、そなたを守らせる」

「ありがたきお言葉でございます。淡路守様のおっしゃる通りにいたします。伏見の時から、淡路守様にはいつもお世話になりました。このご恩をいつかお返ししたいと思います」

「お返しはそなたが生き残る。ただそれだけでいいのだ」

「淡路守様・・・」

 お和は安治の家臣に守られて伊吹山に向かった。そして翌日の朝、伊吹山の方から美しき伸びのある歌声が聞こえてきた。山中村の大谷軍や大垣城の西軍の将兵も耳を澄ましている。そして、じっくりとその歌声を聞いていたのである。

「よき歌だ。目が見えない分、余計に耳が澄んでいる。この美しい声は、私のこころによく響いている。あの言葉どおりに、戦乱のない世にまことにしたいものだ。だが、その時私は生きていない」

 そのように呟いたのは大谷刑部であった。刑部はお和の歌声を聴いて、涙を流し震えていた。

 

 第十三章 関ヶ原。


 九月十一日、内府がようやく清州城へ到着した。十四日の正午には、内府は美濃の長良(ながら)川を越えて、赤坂に陣を敷いた。そして同日、小早川金吾秀秋が関ヶ原の南西にある松尾山城に突如現れて登ってきた。いきなり城の守将の伊藤盛正を追い出して入城したのだ。松尾山城には、多くの小早川家の家紋である丸に違い鎌紋の旗が、勢いよくたなびいていた。

(やはり金吾は噂通り内府殿に寝返る気だな。しかし盛正も気の毒であるな。元々大垣城主の小大名だ。大垣城に治部たち西軍の主たる諸将が入ってきた時、大垣城を本陣にしたいと治部より要請があった。盛正は一旦は拒絶をした。しかし結局城を明け渡した。そして松尾山城にやっと辿り着いたのにな。いつも小さな所領の者は損をする)

 安治は自分に盛正を重ねて目をつぶっていた。

(しかし、松尾山城と南宮山は大事な拠点である。南宮山は毛利が既に押さえているが、なぜ肝心の松尾山城に小大名の伊藤盛正をほったらかしの状態で置いていたのか。有力な大名を事前に置いておくべきだぞ。そこがまた治部の戦の分かりがたいところである。岐阜城と松尾山の二つの大事な拠点を治部は失ってしまった。さて、西軍の裏の大将治部がどう出ることやら)

 石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家の各勢は、同日の夜に大垣城の外曲輪(くるわ)を焼き払った。そして関ヶ原へ出陣していったのである。

 

 その日に刑部が本陣に、小早川秀秋の家老平岡頼勝、脇坂安治、戸田重政、平塚為広、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱に使者を向かわせ丁重に呼び出した。刑部は、目が見えない中で、星が瞬く空の方を眺めながら微笑んでいた。そして小姓に支えられて床几に座り。穏やかに話し出した。

「皆様方にわざわざ来ていただいて大変申しわけございませぬ。皆様たちに是非お伝えしたいことがございまして」

 安治は何のことだろうかと訝(いぶか)しがった。また、北陸での前田攻めの時のような醜態が軍議で繰り返されなければよいのだがと、とても憂鬱になっていた。

「これから関ヶ原辺りで、西軍と東軍の大きな合戦が起きることでしょう。その時は、皆様方は東軍に一刻も早く寝返って下され。私は三成との友誼があるため、どうしても三成を裏切るわけにはいきませぬ。この一命をかけて東軍相手に最後まで戦い抜きます。しかし、西軍が勝てば、戦乱の世が再び起こることでしょう。私の見立てでは、毛利輝元様は、一見とても凡庸に見えますが、実は野望剥(む)き出しのお方です。このたびも戦乱に乗じて、上杉征伐軍に従っている大名たちの留守を狙って動き出されました。留守部隊が少ない空き家同然の豊後、伊予、讃岐(さぬき)、阿波に兵を繰り出されました。讃岐の生駒一正殿の丸亀城、阿波の蜂須賀家政殿の一宮(いちのみや)城を占領して領土拡大を行っておられます。黒田如水殿も、東軍への味方のふりをされておられます。九州の西軍の城を次々と落としておられます。加藤清正殿などと協力し、先ず九州を勢力下に置かれるつもりでしょう。その後に毛利殿を破って故郷の播磨(はりま)を通り上方を狙う気でおられます。やはり太閤殿下のご明察通りです。あのお方は天下を狙われるのでしょう。最期の大博打なのでしょうな。上杉景勝殿も、このたびの戦は内府殿との義の戦いと称しされておられます。しかし、最上義光殿などを攻めて、領土拡大を狙っておられます。上杉殿の戦いは、噂される治部との連携での戦ではありませぬ。他にも油断のならない大名たちがいます。平和な世ではなくなります。そのような乱世を三成たち奉行衆が勝っても、あの者たちでは器量があまりなく抑えが全く効きませぬ。私もあまり諸大名を抑えることはできませぬ。しかも、勝敗がどのようになっても内府殿は生き残られます。負けても一旦は江戸に軍を戻されるでしょう。そして西軍と東軍の戦は長引きます。秀頼様はまだ幼く、治部も諸大名からの人望がないどころか、恨まれてもおります。従ってまた日の本中に戦乱が続きます。そのようになれば武士だけではなく、民たちの多くの無垢な命が失われるのです。しかしその点、内府殿が勝てば、このたびの戦で西軍は壊滅するでしょう。内府殿のその器の大きさ、武勇、知略、政事で敵方を叩きつぶすことができます。そして日の本中に抑えがききます。そして戦乱の世は必ずや避けられるでしょう。皆様方よ、この大戦では、是非内府殿にお味方なされ。それが無意味な朝鮮攻めの後、疲弊した大名、領民たちのためでございます。そして天下のためになるのです。これこそが実はまことの大義の戦いなのです」

「ぎ、刑部様、太閤殿下への忠節高きあなた様が何をおっしゃるのですか。内府の奴めが勝てば、幼い秀頼様はどうなるのですか。内府が実権を握り、秀頼様は傀儡になってしまうか、一大名に貶められるかもしれませんぞ。そして秀頼様のお命すら狙うかもしれません。内府の奴は腹黒き男ですぞ。今までの所業を見ればまさに卑劣な輩です。決して許してはならぬ奴でございます」

 平塚為広が、大きな顔を真っ赤にさせた。そして大谷刑部に急いで詰め寄っていった。

「為広殿、それでよろしいのです。岐阜城が落ち、今は高野山に蟄居されておられますが、信長様のお孫の織田秀信様のように一大名として生き残る。そのように豊臣家の血は、これからも続くのです。一大名となれば、内府殿も秀頼様に危害は決して加えられませぬ」

 刑部は微笑みながら話をした。

「私も為広と同じ意見です。尊敬する治部少輔様、刑部少輔様を裏切ることなど、決してできませぬ。西軍が勝利した後には、治部様と刑部様が力を合わせて諸大名を抑えるのです。前田利家様の代わりに秀頼様をお守りなされば、天下は静謐となります。私めも微力ながらも敵である諸大名を討ち果たします」

 戸田勝成も相変わらず静かに、そのように述べた。小川祐忠、朽木元網、赤座直保は最初は黙ったままであった。しかし、やがて大谷刑部少輔殿をお助けいたしますと気力なく口を開いた。

「皆よ。俺はすまないが、刑部殿の言われる通りに裏切らせてもらうぜ」

 その皺枯れた大きな声を聞いて、皆が驚いて後ろの方を振り返った。その声は、もちろん脇坂安治だった。腕と足を組んで、顎髭を撫でながら細い目で皆の方を鋭く見つめていた。

「まさしく、内府殿がこの戦は必ず勝つ。刑部殿のおっしゃる通り、西軍は、治部殿、毛利殿、上杉殿、奉行衆などがまとまりを欠いている。しかも、田辺城、大津城などあちこちに軍を無駄に出している。そして兵を肝心な美濃に満足に集中できていない。田辺城などは細川忠興殿が内府殿を大将にした、国の乱れを図った者として、治部殿が天誅を加えると言っていたそうだ。だから忠興殿が留守の小城をむきになって攻めている。そう言っても、忠興殿一人が、内府殿を導いて戦乱を起こしたわけではないのだがな。治部殿は義に固執して判断を誤られている。内府殿と治部殿が中心となって戦いが始まったのだ。しかし、治部殿は戦のやりとりが実に不得手である。大津城の京極高次殿にも裏切られた。不義の輩に見えたのであろう。治部殿にとっては義の戦いのようだがな。しかし、大津城ごときは放っておいていいものを。これは愚策だ。いくら義の戦いと治部殿が言われても、実際に勝たねばどうしようもない。それに内府殿に味方した方が、後々恩賞も期待できるからな。俺は小大名から大大名への出世も目論んでいるのだ」

 安治は飄々として言い放った。

「お、おのれ、お主は太閤殿下の子飼いの大名だろうが。その深きご恩を忘れてしまったのか」

 平塚為広が安治の前に素早く迫った。そして右腕を力強く握ってきた。

「い、痛い、痛い。何だ、この力は。早く離せよ」

(新しく作った鎧の上なのに、本当に痛かったぞ。為広は恐ろしい奴だ)

 安治は為広の凄まじく強い力に改めて驚いた。後で鎧を外して見てみた。かなり腕が赤く腫れていた。正に平塚為広は怪力の持ち主である。

「為広殿、乱暴はお止めなされ。脇坂殿が困っていらっしゃるぞ。私の言ったことが、天下のためなのです。もう、嫌になるほど朝鮮攻めで、戦の虚しさを思い知ったのです。戦乱の世を再び起こしてはなりませぬ。これからは、民が笑顔で安心して暮らすことができる世にしなくてはならぬのです。数日前に、伊吹山から歌声が聞こえてきたでしょう。あのように戦乱のない世にせねばなりませぬ。それが政事を行ってきた者の務めなのです」

 刑部は今度は、平塚為広を灰色の目で鋭く睨んだ。

「は、はい」

 為広は納得していない様子だったが黙ってしまった。戸田勝成も、もう何も言い返さなかった。小川祐忠、朽木元網、赤座直保はお互いを見ていた。目を開けたり閉めたりして落ち着かず複雑な顔をしていたのである。

(あはは、これはまた滑稽な光景だな。この三人は豊臣家への忠義の心など微塵もないぞ。石高も少なく太閤におおいに不満を持っているのであろう。まあ俺もそこは同じだがな)

 安治は、せせら笑いながらその様子を見ていた。しかし、刑部に対しては同情の念を抱いていたのである。

(刑部殿は治部との友としての義を貫こうとされておられる。俺は、このような立派な考えの男と戦わなければならぬのか。乱世とは言え、やはり悲しいぞ)

 安治は背骨が曲がり力が入らなかった。

「金吾様はいかがなされるおつもりですか」

 刑部が、今まで沈黙していた平岡頼勝に尋ねた。

「は、はい、主は、黒田長政殿を通して東軍に付きます。既に決まっております」

 朴訥そうな老人は刑部の顔を見ることができずに、大汗をかいていた。この場で寝返りのことを言うことは、かなりの勇気が要ったようだ。小早川金吾秀秋は北政所の甥で、かつて太閤の養子でもあった。その豊臣家の連枝が東軍に付くことを聞いて、平塚をはじめ諸将は衝撃を受けた。前から分かっていた安治と刑部は全く驚いていなかった。

「お、おのれ金吾め。太閤殿下や北政所様から可愛がられた男だ。しかも豊臣家の連枝なのに豊臣家当主の秀頼様を裏切るとは。何という愚かで浅はかな男か」

 平塚為広はまた激昂した。

「まあ、金吾殿の今までの西軍へのやる気のない力添えを見ていてました。私も治部も既に分かっておりましたよ。伏見城を落とす時も何か躊躇(ちゆうちよ)しておられましたからな。あれは内府殿にお味方すると伝えておられましたな。しかし治部に強引に迫られたのですな。そして、周囲を西軍に固められているので仕方なく西軍に付いたのですからな。伏見城を落としてからは、すぐに進軍されませんでした。近江の中で行ったり来たりしておられました。鷹狩などを悠長にされておられたのです。そして、今日の松尾山城への突然の入城です。それを見て多くの者が見ても、寝返りが明らかでしたからな。秀秋殿は東軍に必ず付くと思っておりましたよ。治部や秀家殿も、近江での金吾殿の動きから見透かしておりました。治部たちは何らかの手を打って、西軍での宇喜多家に次ぐ大軍を率いている金吾殿を西軍に付くようにせねばならないと焦っております。多大な恩賞を示して、金吾殿を引き留めにかかるでしょうな。治部には気の毒ですが、黒田長政殿を通して、金吾殿は東軍に寝返ることが決まっているのです。金吾殿を説得しても、もう無駄なわけなのです。私は金吾殿に討たれるわけですな。大いにけっこうです」

 大谷刑部だけが涼しい顔をしていた。

(これほど肝の据わった人物が討ち死にすることは実に惜しいことだ。刑部殿を失うのは、天下にとっても実にもったいないことだ。何とかしてこのご仁を助けられないものか。この男を決して死なせてはならん)

 安治はその場で考えに考え抜いた。そして一つの策を思いついた。

「刑部殿、治部殿との深い友誼はよく分かっております。我らが寝返っても、大谷隊には攻め込まずにいます。そして東軍の先鋒を迂回します。刑部殿の隣の宇喜多軍に攻め込むつもりです。その間に急いで逃げては下さらんか。目が見えずに伊吹山の山中を輿で逃げるのは、お辛いとは思いますが」

 安治は懸命に刑部に話しかけた。

「脇坂殿、御厚情まことに痛み入ります。しかし、私は重い病を抱えている身です。もう疲れ申した。これでよろしいのです。それに宇喜多秀家様の軍勢に迂回して攻め込むには、恐らく先鋒の福島正則殿、黒田長政殿、藤堂高虎殿などの軍勢を通らなければならないでしょう。あのお方たちは頑固者です。しかも恩賞が大事です。従って、皆様方寝返り組を素直に通してはくれないでしょう」

 安治は愕然としていた。

(そ、そうであったな。俺としたことが。戦での当たり前の軍勢の動きをすっかり忘れていた)

 安治は大谷刑部との戦いの覚悟を決めた。続いて同日夜に大谷刑部たちが関ヶ原に移動した。治部は、刑部の考えを全く知らずに信頼していた。敵の先鋒側ではなく金吾が裏切った時に備えて、刑部たち諸将を松尾山に向けて配置したのだ。大谷刑部軍は平塚為広に先陣を任せた。平塚も死を覚悟して軍勢を構えた。そして大谷軍に大声をかけて鼓舞した。

 安治は歓喜した。裏切るつもりの西軍第二の大軍を率いる小早川金吾と隣り合わせなら、寝返りがしやすくなる。

 そして、戦いの前に治部が刑部、平塚為広、戸田勝成、脇坂安治を連れて直々に金吾に会いに松尾山城を訪れた。安治は、自分で松尾山城に連れてもらうように刑部に頼んだのだ。安治が松尾山城を訪れるわけは、金吾が今どのようなありさまか自分が寝返る時のために確かめたかったのだ。平塚為広は金吾が裏切る前に差し違えて殺すつもりであった。為広は気を張り詰めていた。刑部は無駄だと分かりつつも、治部に付き合った。松尾山城で金吾は治部たちを出迎えた。金吾の表情は晴れやかで引き締まっていた。安治は一種の驚きを持った。

(この男が世で愚劣と言われている金吾か。まるで別人のようだ)

「これは治部殿。このような高き山城まで登られてご苦労様です。私に何かお話でもございますか」

「おお、これは金吾様。覇気があり西軍には頼もしきお方ですな」

「いえいえ、とんでもないことにございます」

「金吾様、西軍の勝利の暁には、秀頼様が元服されるまで関白になっていただきたいと存じあげます。石高も畿内の近くに大幅に増封させていただきます」

「おお、それは嬉しきことですな。よろしくお願いいたします」

 治部たちは金吾が裏切らないように、このように約束をした。金吾には隙が全くなかった。平塚為広は金吾を斬る機を逸した。そして、かなり残念がっていた。金吾はおおいにうなずいていたのだ。そして内府は十五日の午前七時ごろ、赤坂から桃配(ももくばり)山に本陣を移動した。西軍も内府の動きを調べ、備えを固めていた。

 

 十五日の朝は、濃い霧がかかっていた。そしてお互いに敵の様子が全く見えなかったのである。そして安治はかなり高揚していた。この戦の潮の目を読むこと次第で、脇坂家の運命は決まるのだ。最初で最後だ。安治の鎧兜は、他の諸将に負けないほど際だっていた。兜は縹糸威布袋菖蒲蒔絵仏胴(はなだいとおどしほていしようぶまきえほとけどう)である。金色(こんじき)のお札のようなものが反り返って立っている。このお札のようなものは立嬰(りゆうえい)という冠の後部飾りだ。鎧は、中央にある紋は脇坂家の家紋である輪違い紋だ。胴の表面は黒漆(くろうるし)塗りで、前面に布袋(ほてい)、背面に菖蒲(しようぶ)が施されており、大胆な作風だった。華麗な当時の最高級品である。絵はかの高名な狩野孝信作だ。鎧はこのたび、谷川道旬が作ったものだ。かなり周りを圧倒する鎧兜であった。赤座、小川、朽木たちも安治の鎧兜を見て驚愕していた。安治が、道旬に無理を言って造らせたものである。小大名にしては驚くべき傑作である。安治は太閤が大嫌いなのだ。しかし、もらった家紋は気に入って大事にしていた。

(今日で俺の運命もいよいよ決まるぞ。金吾が寝返るのと同時に俺も寝返る。そして、西軍の諸将を多く討ち取って手柄を立てるぞ。やっと石高を大幅に増やすのだ。赤座軍、小川軍、朽木軍は大将が大したことがない奴らばかりだ。討ち取っても大した手柄にはならぬ。無視しておこう。しかし、あの金吾のことだから東軍と西軍がお互いに勝負がつかない場合、迷いに迷うだろう。それが俺はとても気がかりなところだ)

 安治は眉間に皺を寄せて、鋭く松尾山城の方を見つめていた。

 ようやく霧が晴れて先手の井伊直政軍、福島正則軍が西軍の宇喜多秀家軍に急いで攻めかかった。宇喜多軍は、西軍随一の大軍である。戦前のお家騒動で武勇の高い譜代の武将の多くが、宇喜多家を辞した。そして内府側に付いてしまった。皮肉にも、宇喜多家を辞していった者たちを内府の家臣に斡旋したのは、徳川家だけでない。ともに宇喜多家に調停に入っていた大谷刑部その人である。譜代の将を失った宇喜多軍は急いで浪人を集めて大軍を催した。そのため、寄せ集めの軍になった。そのため、二万五千の大軍の宇喜多軍が半数にも満たない福島軍六千に苦戦していた。福島正則の采配での掛け声は西軍にも届くほど大きかったのである。この大声が東軍の士気を大いに高め、戦いを有利に導いたのである。そして東軍の各軍が続いて石田三成、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘の陣に攻め掛かった。お互いの兵が地面に伏せて鉄砲を構えていた。そして多くの鉄砲が両軍から放たれ銃声が響き渡った。その後には、煙が充満していたのである。前にいた兵たちが血を流しながら、次々と倒れていった。今までの静けさが遂に破れてしまった。次に槍隊が急いで駆けて行く。激しくぶつかり長槍を叩きつけあった。叩き合いながら、大勢の足軽たちが倒れていったのである。そして騎馬がいなないて騎馬武者たちが足軽たちに向かって突入して相手を倒していった。次々と死者が野原に横たわっていたのだ。

 大谷刑部は、山中村から藤川に進んで陣取っていた。刑部は輿に乗っておよそ千五百の軍勢を率いていた。目が見えないため、いつもの通り平塚為広に軍の采配を任せている。大谷軍は自軍の二倍ほどの藤堂高虎軍、京極高知軍と互角に戦っていた。脇坂軍、赤座軍、小川軍、朽木軍は、小早川軍を迎え撃つために、松尾山に向けられ関ヶ原の本戦には参加していない。戦いは長く続くと、西軍も東軍の諸大名も思っていた。その時、松尾山から小早川金吾秀秋が躊躇(ちゆうちよ)なく下ってきたのである。両軍の将は松尾山を降りてくる小早川軍を見て驚愕した者もあり、予想していた通りで笑っている者もいた。そして小早川軍は大谷軍を大波のように襲った。

(よし、遂に金吾が動いたか。あいつはあの気性だからな。寝返るのを迷って遅くなると思っていた。しかし、意外に決断が早かったな。昨日の顔つきが本当の姿だったのだな。小大名の我らは小早川家のような大軍が寝返らねば、続いて寝返りができない。小勢の情けなさよ。しかし、そのことも、もう考えまい。これでやっと俺たちも動くことができる。しかし刑部殿を攻めるのか。戦国の世の常としてもとても辛いぞ)

 脇阪安治は鋭く小早川勢を見つめながら、黒い板で回りの線に金箔を塗った軍配を大きく振った。

「よし、皆の者よ、よく聞け! 我らも大谷軍に攻め込むぞ。俺は以前から、徳川内府殿に付いていた。しかし西軍の邪魔のせいで東軍に付くことができなかった。そして内府殿に前から寝返りを伝えていたのだ。皆の者よ、黙っていてすまぬ。これも内応が漏れることを防ぐためだ。部隊を大谷軍へ素早く反転させろ。西軍の高名な将の首をできるだけ多く討ち取れ! 左の軍は小早川軍が通るのを邪魔しろ。そして金吾に手柄を立たせるな。皆々、これからが武功を打ち立てる時よ! ここが脇坂家の踏ん張り所だぞ」

 安治は大声で叫び続けた。安元、勘兵衛以外の家臣たちは一瞬大いに驚いた。しかし、我に返り急いで軍を右に向けて回転した。そして大谷軍へ急いで攻め寄せていったのだ。すると続いて、赤座直保、小川祐忠、朽木元網たちが慌てた。そして大谷軍に向きを変えて、寝返り攻め寄せた。

(こいつらは、山中村での軍議では刑部殿にお味方すると言っておる。しかし結局は寝返ったのか。おい俺は知らないぞ。俺は与右衛門を通して、寝返りを内府殿に事前に伝えていた。しかしこいつらは、いきなり寝返りしてしまった。事前に寝返りを伝えていないと戦の後、内府殿からどのように処遇されるか。これはかなりの楽しみだな。おっと人の心配をしている場合ではないな。大谷軍を攻めて攻めまくるのだ。しかし、赤座、小川、朽木の軍が邪魔だな。愚か者どもよ、そこをどけ! そしてせめて、刑部殿のお首は俺が獲ってやろう。立派な墓を敦賀に立てて、心を込めて供養するのだ」

 小早川軍、脇坂軍ばかりではなく、小川軍、朽木軍、赤座軍の相次ぐ裏切りで、大谷軍は総崩れとなったのである。元々覚悟していた平塚為広、戸田勝成は奮戦した。平塚為広は薙刀(なぎなた)を使っていた。怪力で敵を次々と斬り打ち払っていった。戸田勝成は槍で裏切者を怒涛の如く突いて討ち倒していったのである。だが二人とも東軍、寝返り組に囲まれ、大軍相手に力尽いて遂に討ち死にしてしまった。勝成は東軍にも親しい友が多く、その討ち死にを聞くと皆おおいに泣いたと言う。為広は辞世の句を刑部に送っていた。

「名のために捨つる命は惜しからじ。つひにとまらぬ浮世と思へば」

 そのような句であった。

「契りあらば、六の巷にまてしばしおくれ先立つ事はありとも」

 為広の辞世の句を読んだ大谷刑部少輔吉継は、そのように返書した

しかし平塚為広は既に討ち死にしている。結局刑部の返書は届かなかった。刑部は迫りくる金吾たちの大軍の音を目は見えない。しかし、馬の蹄の音が聞こえる方を見つめながら、柔らかに微笑んだ。

「よし、これで良いのだ。赤座殿たちの寝返りも、越前で軍議を開いた時から既に分かっていたのだ。秀頼様のことをお守りするために豊臣家のことを一途に思う三成には悪いと思う。しかし天下の安寧を導くには、内府殿に天下を治めていただくしかないのだ。分かってくれ、三成よ。あの世で再び会おう。ああ、病にはかなり苦しめられた。しかし、楽しき愉快な人生であったな。真の友の佐吉こと三成とも出会えたからだ。心残りと言えば、一度は大軍を動かしてみたかった。そのようにしたら必ず勝てたと思う。さらばだ皆の衆! 残る者たちは命を大事にしなされ。すぐに逃げるのです」

 安治は、敵味方の将兵たちが怒鳴りあいながら、斬り結んだり戦って走っている中、刑部の姿を冷静に見つめていたのである。大谷刑部少輔吉継は、家臣から短刀を持って渡してもらった。落ち着いて鎧を脱ぎ捨てて具足下着を開く。両手で小刀を引き締まった筋がある腹に当てた。ゆっくりと息を吸いながら吐いた。その時、力を込めて短刀を突き刺したのである。そして腹の中を縦と横に落ち着いて切り裂いた。腹から血が次々と流れてくる。刑部はますます両手に力を込めていった。

「うぐっ」

「ご免!」

 刑部の家臣が後ろから刀を振って下ろした。刑部の首は前に落ちた。そして希代の名将大谷刑部は遂に果てたのである。安治は、その姿を見つめて両手を合わせて合掌した。安治は不覚にも涙を流してしまったのである。その涙は顎髭を伝わって、下に滴り落ちて行った。刑部は、自分の首は事前に家臣に言いつけていた。決して見つからないような場所に隠させた。、結局東軍に見つかることはなかったのである。介錯した家臣も、藤堂高虎の軍に突入して討ち死にした。安治はその様子を見ていた。刑部の首がどこにあるかは分かっていたのだ。しかし敢えて黙っていた。決して誰にも言うまいと決心していたのである。

(これは俺と刑部殿の男同士の約束だ)

 安治は、関ヶ原の戦いの大物の刑部の首を内府に差し出せば、大きな手柄となり、多大な恩賞がもらえると分かっていた。しかしそのようなことを行なったら、刑部の今回の大きな天下安寧のための策と壮絶な死に対して、無礼になると思ったのである。大谷の将兵は一部は逃れていった。しかし大部分は、主君に殉じて藤堂高虎の軍に突っ込んでいった。そして、次々と討ち死にしていった。大谷軍が崩れた後、その隣で福島軍と戦っていた宇喜多軍も、総崩れとなったのである。石田軍、小西軍も続いて壊滅し、宇喜多秀家、石田三成、小西行長たちは急いで逃走した。

 安治は、乱戦で多くの死体が横たわっている様子を見ていた。一度の戦いでけりがついた。とは言え、多くの命が失われてしまったのだ。草の匂いは死臭で濁っていた。関ヶ原にある村々の田畑も踏み荒らされていた。安治は、戦の前は美しかった田畑を、その変わり果てたありさまを見て、おおいに嘆いたのである。

 そして西軍が壊滅した戦場の中に、まだ残っている軍を見つけた。島津参議義弘軍であった。義弘は開戦から一度も動かない。そして戦に加わっていなかった。静かで不気味な軍である。味方であろうと敵であろうと、島津の陣に近づいてくる者にはかまわず、銃弾を浴びせていた。治部が自ら島津の陣に行って、何度も必死に出陣を促した。しかし、そのたびに無視されていたようだ。何か治部に不満を持っていて、このようにしたのか。それは分からない。

(やはり義弘公の献策を治部が取り上げなかったのだろうか。夜襲とかだな。俺にはそれしか思いつかない)

 安治は遠くにいる島津義弘を見て、これからどう動くか心配になった。

(島津は少数の兵だが、日の本でも指折りの強兵だ。下手に近づくと、我が軍に死傷者が出るぞ。我が家臣の命を守らねばならん。石高は増やしてもらいたいのは山々だ。しかし、そのままにしておこう)

 安治はそのように考えた。安治は高名な武将の首をあまり討ち取ることができなかった。残念に思っていた。

(石高を増やす絶好の機会だったが、結局上手くいかなかったか。鉄砲五百丁が無駄になった。ああ、絶好の機を逃してしまった。しかし、寝返りの功で内府殿より石高を今までよりは、大きく増やしてもらえるであろう)

 安治はとても疲れながら、既にまとまって止まっている自軍とともに周りを見ていた。しばらくしたら島津軍が動き出した。静かな関ヶ原の中、一糸乱れずに突如内府の本陣に向かって行った。この様子を見て安治はおおいに驚いた。

(小勢で内府殿を討つおつもりか。鬼の島津公なら、やりかねぬな)

 しかし、内府の本陣の前で島津軍は急に止まった。

「内府よ、やっと勝てたな。さぞや嬉しかろう。太閤殿下が亡くなった後から、わしはお前に味方すると約定していたではないか。しかし伏見城の戦いでは、お前の家臣である城主がそのようなことは聞いておらぬと突っぱねた。そしてわしの軍を城に入れさせなかった。周りは西軍ばかりで、仕方なく伏見城を攻めるしかなかったのである。わしが西軍に付いたのは、お前が城主にわしのことを正しく伝えていなかったからじゃ。わしがこのような目に遭ったのはお前のせいじゃ、この馬鹿者めが! 勇気があるなら薩摩まで攻めてこい。仕返しに痛い目に合わせてやるぞ。勇気がなければ謝罪の使者を寄越せ。さらばじゃ! あはは」

 義弘は顎髭を撫でながらおおいに笑っていた。その場から馬を反転させ急いで立ち去った。内府は一瞬呆れていた。だが、我に戻ると爪を噛みながら大いに怒ったのである。そして激しく息を吐いていた。

「おい、島津を追いかけろ! 奴はこのわしを愚弄しおった。決して許せん!」

「ははっ」

(なるほど、義弘公も東軍に最初から付かれるおつもりだったのか。それでこの戦での参戦しなかったわけが分かったぞ)

 内府は島津義弘からの挑発を受け、冷静さを欠いていた。側にいた山岡道阿弥が、島津が何か策を立てているかもしれません、ここはご自重をと諫言した。しかし、内府は聞く耳を持たなかった。徳川軍は島津軍を急いで追いかけた。しかし、軍を率いていた井伊直政や、その娘婿である内府の四男松平忠吉に鉄砲を放ち、肩に大怪我を負わせたのである。それで徳川軍の追撃が一旦遅くなった。そして、義弘本軍が撤退する際に、殿(しんがり)の兵の中から小部隊をその場に留まらせた。追ってくる敵軍に対し鉄砲を放ち、死ぬまで戦い足止めした。そうして小部隊が全滅する。また新しい足止め部隊を退路に残した。これを繰り返して時間稼ぎをしている間に義弘本軍を逃げ切らせたのである。最初にいた島津軍の多くが、この策で討ち死にしたのである。

(これが、あの有名な捨て奸(がまり)というものか。何という恐ろしい策だ。我らにはとても真似ができん。それに、いかに主君を逃げさせるためとは言っても、決して命を捨てるような策はしたくはない。これは下策だ。島津は命の大事さが分かっていない)

 安治は愕然として、島津の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。

(ともかく予想と違い、戦はあっという間に終わってしまった。内府殿は大谷刑部小輔吉継殿に感謝しなければならないぞ。しかし、このことは必ず伏せたままにしなければならん。ああ、そうだ。金吾、赤座、小川、朽木たち小人どもがいたぞ。口が軽い小人の奴らが東軍に刑部殿の策のことを話してしまうのを恐れる。敵味方に知られてしまうではないか。それが実に心配だ。刑部殿が、西軍への裏切者として世に悪しく言われてしまうぞ)

 安治は心が次第に重くなっていった。

 

 第十四章 大戦の後。


 戦の後、勝者の内府の陣に諸将が集まってきた。内府がにこやかに立っていた。目は大きく、瞳が黒い。長い間強敵と戦って培った凄みがある。豊かな髭には白いものが混じっていた。藤堂高虎、黒田長政、福島正則、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、京極高知たちは、髪が乱れ、顔に血や汗が流れていた。埃だらけでもある。皆、鎧兜は壊れていた。諸将は疲れながらも、勝って満足そうであった。その前に多くの西軍の将の首が、板に乗って並べられていた。その中には高名な将の首もあったのだ。誰が誰の首を獲ったと、次々と内府の家臣が述べていった。諸将は恩賞をさぞや期待していることであろう。そこへ小早川金吾中納言秀秋がやってきた。諸将たちからは、おどおどして入ってくると思われていた。だが、意外にも胸を張って来た。そして内府をしっかりと捉えて見つめていたのである。

「おお、金吾中納言殿、よくぞ家康めにお味方していただきました。この大戦の勝ちは金吾殿のおかげです。このとおり感謝いたしますぞ」

 内府は恭しく礼を述べ、金吾の両手を力強く握った。

「内府殿にお味方するのは、全て天下安寧のためでございます。内府殿が日の本を抑えてくだされば、これから無駄な戦乱は起きずにすむでしょう。そして多くの命が救われます。大名や領民も安心して暮らすことができます。一安心でございます」

 金吾は内府の目を見つめ、堂々と言っ放った。

(こいつ、かなりの暗愚だと思っていた。しかし、だいぶ成長したのか。述べていることは刑部殿の考えそのものでないか。奴め、刑部殿の死をかけた策を盗みやがって。油断ならん若造だな。あの平岡っていう家老が朴訥そうだった。しかし、刑部殿の言われたことを金吾に伝えたのだな。見かけでは分からん狸爺だったのだ。このことを公に話したから、刑部殿が策を立てて勝負を決めたことは、口外されないようになったな。これで一安心だ)

 金吾の変貌ぶりは安治には分かりかねた。この戦の前には、皆から金吾は愚鈍な者と見られていた。ところが迷わず開戦と同時に、東軍に寝返ったのは意外であった。安治はこのことに混乱していた。

「脇坂淡路守殿よ。藤堂和泉守殿から、お話はよく聞いておりますぞ。前田中納言殿への攻めは、むろん不問に処します。あの時は、周りを西軍に囲まれて仕方なかったのですからな」

  内府は安治へ穏やかに目を向けた。

「いえ、もっと早く上杉討伐に向かえばよかったと、いまさらながらも悔いております」

 安治は内府の目をしっかりと捉え伝えた。

「頂上至極。淡路守殿よ。追って沙汰を待たれよ」

 内府は、笑みをたたえながら答えた。そして、赤座直保、小川祐忠、朽木元網を一瞥(いちべつ)したなり、眉間に皺を寄せて何も言わずに床几に座った。朽木元網と親しい細川忠興が気を利かせた。元綱を内府に拝謁させた。元綱が最初に西軍に加担したことを詫びた。

「その方などは小身であるから、草がなびくように揺れ動くのも無理はない。所領を安堵いたす」

 内府はそのように笑いながら許した。しかし、安治など他の者と違う乱雑な対応をされた。しかも並びいる諸将の前でそのように言われたのである。朽木元網は大きな屈辱を味わった。

「さて、石田治部少輔殿、宇喜多権中納言殿、小西摂津守殿、安国寺瑶甫(ようほ)恵瓊殿、島津参議殿たちは逃げられました。皆さま、早くこれらの謀反人たちを見つけて捕らえてくだされ。そして、治部少輔殿が佐和山城や大坂城に辿り着くと、また戦乱が続きますぞ。伏見城と大坂城は私が必ずや急いで押えます。早く佐和山城を落として下されるお方は、どなたですかな」

 小早川金吾が、凛とした顔で素早く手を挙げた。

「おお、さすが金吾殿ですな。かたじけない」

 そして続いて、赤座直保、小川祐忠、朽木元網が慌てて手を挙げた。寝返り者として肩身が狭い。従って空き城同然の城を攻めるのであろう。安治も面倒くさいと思っていた。老人や女子(おなご)が守っている城を攻めるのは武士として不本意ではあった。しかし同じ寝返り組が揃って手を挙げた。そこで仕方なく安治も手を挙げたのである。

「よし、皆様方にお任せいたしましたぞ。よろしくお願い申します」

 内府は上機嫌のようであった。

 すぐに裏切り者どもの行軍が始まった。軍は急いで佐和山城へたどり着いた。どうやら治部はまだ戻ってきていないようだ。金吾の指揮で、すぐに城攻めが始まった。当然少数の兵しか、佐和山城には残っていなかった。治部の老いた父、兄、妻や女中たちが奮戦した。しかし、皆は次々と討ち取られていったのである。安治は将兵に事前にに命じて戦うふりをさせた。西軍の将兵、女子たちを見逃して、早く城外に逃げるように囁かせた。安治にとってこの城攻めは、とてもやる気のでない虚しい戦であったからだ。

(金吾は女子に対しても容赦せぬのか。かなり残虐だな。このようなところは朝鮮攻めの時と少しも変わらん)

 佐和山城はすぐに落ちた。裏切り者どもは、火は決してつけなかった。諸将目当ての蔵を残すためである。結局欲得にまみれた戦であったのだ。五奉行の筆頭として強い権力を握っていた治部は、金銀を倉にかなり貯めていると皆が考えていた。賄賂をもらっていると思っていた者もいるようだ。金吾、赤座、小川、朽木たちは、蔵の中をおおいに期待していた。そして急いで覗きに行った。しかし何もなかったのである。倉の底が見えて諸将は愕然とした。降伏した兵から聞いた話では、普段から治部は贅沢もせずに質素に暮らしていたそうだ。金銀は、家臣や貧困に苦しむ領民に与えていたとのことだ。そして手持ちの金銀は、この戦いのために全て使いきったとのことである。治部は態度は横柄者で大名たちからの評判はかなり悪かった。だが私利私欲がないのである。家臣や民のことを思いやる立派な武将だったと、安治は思わずにはいられなかった。

「ちっ、せっかく佐和山城には金銀財宝がたんまりあると聞いて、狙ってきたのに全くないじゃねーか。つまらんな、治部の野郎はよ」

 赤座直保が、地面の討ち死にした兵の横腹を強く蹴りながら喚いていた。安治は、その様子を見て実に情けなく思い肩を落とした。安治は、赤座は治部の深い考えが分からぬ愚かな奴だと思い、残念に思ったのである。

 大坂城も総大将毛利輝元が西の丸にいた。まだまだ戦えると輝元に駆け寄っていった武将たちがいる。大津城攻めで関ヶ原の戦いの日に城を落とした。しかし、関ヶ原の本戦に間に合わなかった諸将たちだ。

「大坂城に籠城いたせば、内府の奴とまだまだ十分に戦えまする。こちらには秀頼様がおられます。従って、福島正則たち豊臣恩顧の大名たちも必ず手が出せません。輝元様、まだこちらに分があり戦えますぞ」

 そのように諸将は輝元に強く詰め寄ったのである。しかし、実は何と本戦の前日に毛利と徳川は和睦していたのだ。吉川広家と黒田長政の話し合いで決まっていた。従って、関ヶ原の戦いでは南宮山の毛利軍は動かなかった。輝元は諸将に対して聞く耳を全く持たたなかったのだ。大坂城を東軍にあっさり渡した。自身は軍を率いて広島城へ帰っていったのだ。

 安治は輝元の帰国の話を聞いて驚いた。刑部が生前の軍議の時に、毛利は豊後、伊予、讃岐、阿波に兵を動かしていると言っていた。このことがもし内府に知られたならば、あの老人は激怒し和睦は破棄されるに決まっている。そして毛利家に厳しい沙汰が来るのは、明らかである。安治は、西軍の挙兵時に素早い動きで大兵を大坂城に入れた時は、輝元殿も意外とやるなと思い敬っていた。しかし結局、時勢が見えぬ愚か者であったかと納得した。まあ、その方が戦乱が収まって平和な世に戻る。だから、脇坂安治としても都合がいいと思ったのである。

 関ヶ原の戦いの後、逃げて隠れていた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の西軍の中心人物三人が次々と捕まった。

 石田三成は近江の伊吹山地を越えた。そして密かに自分の領地の洞窟に隠れていた。 九月二十一日、家康の命を受けて、田中吉政の捜索隊が三成を探していた。三成と吉政は同じ近江出身で懇意だった。そして三成は田中吉政の捜索隊に捕縛されたのである。

 恵瓊は一旦は毛利本家の陣に赴き、吉川広家に諭(さと)され逃亡した。鞍馬寺、本願寺と匿(かくま)われ京の六条辺に潜んでいた。だが、徳川家の家臣に捕縛された。そして大津にいた家康の陣所に送られたのである。

 小西行長も伊吹山中に逃れた。行長はキリシタンだったので自害はできなかった。九月十九日、関ヶ原の庄屋に匿(かくま)われた。行長は自らを捕縛して褒美をもらうように、庄屋に薦めたのである。しかし、庄屋はこれを受けずにいた。そして行長の命で、関ヶ原の大名の家臣に事情を話した。庄屋と大名がともどもに行長を護衛して、草津の内府の家臣の陣に連れて行ったのだ。宇喜多秀家はまだ見つかっていない。


 石田治部少輔三成は九月二十日に大津城に護送された。城の門前で生き曝(さら)しにされた。福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、小早川秀秋などの諸大名と顔をあわせた。特に正則は治部に対して激しく罵ったのだ。しかし、三成は正則の目を見て冷ややかに笑っていた。正則は三成に逆に圧せられ怯えていた。その後、三成は家康と会見したのである。家康は、これも時の運だといい、三成の奮戦を褒めたたえた。確かに、内府家康が天下を取ることができたのは、治部三成が動いて、関ヶ原で決戦したからである。その意味では、内府は治部に感謝しなければならない。治部は九月二十七日に大坂に送られた。九月二十八日には小西行長、安国寺恵瓊らとともに大坂、堺を罪人として引き回されたのである。九月二十九日、三人は京に護送され、京都所司代の監視下に置かれた。


 第十五章 戦の虚しさ。


 お和は関ヶ原の戦いの後、死体が転がる戦場をしばらく見つめて虚しくなった。自分の歌の祈りの力は、何も役に立たなかったと自分を責めた。そしてお和を守っていた脇坂家の三人の家臣とともに、伊吹山を東近江方面に下りていったのだ。金沢に帰り高山右近の元に戻ったのである。右近もこれで戦乱の世は終わると喜んでいた。しかし戦勝に沸く前田家を見て冷めていた。

「お和よ、脇坂淡路守殿のところにともに向かおうか。今、あのお方が戦が終わってどのように思われているか、是非お聞きしたい」

「そうでございますね。寝返りをされた淡路守様のお気持ちを確かめたいですね。そして小西様、石田様、安国寺様の最期をこの目でしっかりと見届けたいと思います」

 右近とお和は、伏見の脇坂屋敷を目指した。そして七日後屋敷の門の前に辿りついたのである。門兵に、高山右近とお和が参ったと伝えた。すぐに二人は屋敷の客間に通された。安治は急いで客間に入ってきた。

「右近殿、お久しぶりです。越前では敵として戦いましたな。お和よ。よくぞ無事でいてくれた。心配しておったぞ」

「淡路守殿、あの戦の時は、刑部殿の金沢奇襲を利長様に、刑部殿の策略ではないかと諫言いたしました。しかし、結局聞き入れてくださいませんでした。そしてお和をお守りいただき、ありがとうございました」

「右近殿の諫言を利長殿が聞き入れていれば、大谷軍は壊滅していましたな。危ういことでした」

「淡路守様、伊吹山では家臣の方々をお付けいただき助かりました。ありがとうございます」

「しかし、結局お和の祈りが叶わず無念であったな」

「そこで淡路守様にお尋ねしたきことがございます」

 お和の温和な目が急に険しくなった。

「うむ、何だ」

 安治は、お和の急な変わりように一瞬戸惑った。

「なにゆえ、淡路守様は石田治部少輔様を裏切られましたか。そしてなぜ徳川内府様に付かれたのでございますか」

「元々、俺は内府殿にお味方するつもりであった。しかし、近江の関所で我が軍が西軍に捕まり、西軍に付くしかなかったのだ。しかし、それでも東軍の大名へ、内府殿にお味方すると書状を送り続けた。しかも石田治部少輔殿の無二の友の大谷刑部少輔殿が、この国がこれから戦乱が起きぬために、内府殿にお味方するようにとおっしゃったのだ。俺は刑部殿の言葉が正しいと思ったのだ」

「なぜ、淡路守様は内府様を選ばれたのですか」

「内府殿は戦乱の世を収め、天下に平和をもたらすことができるお方だと信じたのだ。その器量、采配、知略、家臣団のまとまりと才の高さ。それを熟考しお味方することにしたのだ。西軍が勝てば、美濃での戦いのどさくさにまぎれて、地方で戦を行なっている大名たちを抑えることは難しい。また乱世が続くのだ。もう俺も戦続きの世は嫌である。富める者も富めない者も安らかに暮らすことができる世を望んでいるのだぞ」

「そうでございましたか。そのような深きお考えとも知らず、淡路守様が私利私欲で寝返られたと思い込んでおりました。考え違いをしてしまい、まことに申しわけございません」

「いや、お和が申す通りだ。俺も寝返りはこころ苦しかった。しかもまことの友の石田殿よりも、日の本の安らぎを考えて、東軍に付くようにおっしゃった刑部殿の軍に向かって戦ったのは」

 そう言った安治は頭を抱えて下を向いていた。

「これからは徳川様が戦乱のない世にしてくださいますね」

 険しかったお和の顔が柔和になっていた。

「そうだとも。内府殿のお力で必ずや安寧をもたらす世にしてくださる」

 安治、お和と右近は長い時を笑いながら過ごしていた。


 東軍に捕まった石田三成は、志を遂げず食欲もなかった。小早川秀秋が内府が勝てば、天下はまとまり戦のない世にすることができると言ったのを徳川家の家臣から聞いた。しかし治部も、また戦乱の世に再び戻ることは必ず避けたいと考えていた。毛利輝元、上杉景勝、黒田如水などの怪しい動きは既に分かっていたのだ。そして刑部とともにそのことを抑えることは考えていたのである。自分の領地でも行ったように、武士も民も平和で豊かな暮らしができる策を決めていた。そして秀頼に立派な教え受けさせる。将来は元服し聡明な関白になってもらうことを期待していた。しかし、そのことができないことがこころ残りである。しかし、内府が日の本をまとめて戦乱のない世に戻すことができるならば、自分のしてきたことも意味があり、そしてよき最期を迎えたいと決心したのである。

 脇坂安治、お和、高山右近は京に上り、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊たちの最期を見届けようとした。お和と右近にとってアウグスティヌス行長は、朝鮮での戦乱を止めようとした切支丹として尊敬する者であった。


 十月一日、家康の命により三成、行長、恵瓊の三人は六条河原で斬首された。お和はそのありさまを見て激しく泣いたのである。三成は享年四十一歳、行長は四十三歳、恵瓊は六十二歳であった。

「筑摩江や 芦間に灯す かがり火とともに消えゆく 我が身なりけり」

 これが治部の辞世の句である。首は三人とも三条河原に晒された。治部が内府を討ち、その首を晒したいと思っていた場所である。皮肉なことであった。

 大坂城に徳川内大臣家康が遂に入城した。安治はこれでよしと思った。そして安治は西国の船の出入りの押さえとして、また川口の地に陣を立てて見張った。やっと安寧の世が来る、命を粗末にしない世が迎えられると喜んでいたのだ。

 そして内府は、秀頼や豊臣家の残った奉行衆や家臣などに一切相談もせずに、次々と諸大名への論功行賞と処断を決めていったのである。東軍の黒田長政、福島正則、加藤清正たちは大幅に石高を増やしてもらった。あのひ弱な京極高次も事前に内府に通じており大津城は落城してしまった。しかし高次が城を守り、その時に攻めていた西軍の士気が高い優れた軍を、関ヶ原の本戦に間に合わせなかったことを賞された。そして高次は、若狭国小浜八万八千石を与えられたのだ。石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長、安国寺恵瓊などの西軍の所領は没収となった。安治の予想通り、毛利は和睦と同時に領土拡大を行なっていたことが判明した。内府はそのことを激怒した。そして一度は改易となり、全ての領国を没収された。しかし東軍に最初から味方していた吉川広家が必死の嘆願をしたのである。そして広家の領国にする予定であった長門、周防の二国の大名に毛利家は陥った。吉川広家のおかげで毛利は残った。それにもかかわらず、広家は毛利家から裏切り者として冷たく遇されていた。

 上杉景勝も改易であったのだ。だが、したたかな交渉で何とか生き残ったのである。会津百二十万石から米沢三十万石に大幅に石高を減らされた。どちらとも厳しい沙汰である。

 島津との交渉は捗っていなかった。誰も島津と直接戦うことを恐れた。そして島津を改易しても、その独特の風土、武士、領民たちを治めることは、かなり難しいと思われていたのである。島津軍と黒田如水の薩摩国境での睨み合いが続いていた。内府は、東軍の味方のふりをしている如水の九州での勢力拡大を恐れた。如水に軍を撤退させた。義弘が言っていたように、内府はしてやられたのである。


 第十六章 小大名の悲哀。


 安治の友の藤堂高虎は今治城主で大きく加増された。二十万石となった。しかし、安治は所領安堵のままである。戦前と変わらず三万三千石のままだ。またもや、小大名から抜け出すことができなかった。安治は激怒し居間で暴れ回った。大事な狩野孝信作の襖が無残にも、いくつもの箇所で破れてしまった。そしてその怒りを持ったまま、勘兵衛の制止を振りきって藤堂高虎の屋敷を訪れたのである。門を守っていた兵に、甚内が来たと取り次げと激しい大声で伝えた。兵たちは動揺し躊躇した。

「おい、早く入れろ。それとも俺を入れないわけでもあるのか」

 安治は門兵に激しく怒鳴った。兵たちはその大声に驚愕し青ざめた。兵の一人が、屋敷によろめきながら入っていった。そして安治は、かなりの時を待たされたのだ。凄まじく苛ついていた。門の兵の一人を鋭い目で睨み続けていた。そして門兵がやっと戻ってきて、お入りくだされと小声で震えながら安治に伝えたのである。安治は屋敷に早足で入った。玄関を無言で大きな音を立てて上がっていった。そして室内で長く待たされたのだ。与右衛門よと親しく接していた高虎が、このように安治を長く待たせるのは初めてのことだった。高虎はゆっくりと室内に入ってきた。その顔には憂鬱な表情が見受けられた。常に冷静沈着な勇将藤堂高虎らしくもない。額に汗をかいていたのである。

「‎与右衛門よ、かなり遅かったな。随分待たされたぞ」

 安治は不機嫌に言い放った。

「ああ、甚内よ。すまぬな」

 高虎らしくもない、か細く弱々しい声であった。そして安治は高虎の顔の前まで、突然迫ってきた。激しく鋭い目で高虎を見つめていた。

「な、なぜ、俺が石高がそのままなのか。与右衛門ほどの石高は望まぬ。しかし、俺も太閤の生前から内府殿に近づいていたのだ。福島正則たちよりも、ずっと早くにだ。そしてこれほどの手柄を立てたのにだ。石高はそのままでまだ小大名では全く納得がいかぬわ。寝返りの時、皆々、これからが武功を打ち立てる時よ! ここが脇坂家の踏ん張り所だぞと家臣を鼓舞した。俺のために必死に戦ってくれた家臣たちにも面目が立たぬわ」

 高虎は気まずい感じであった。

「甚内よ。内府様がおっしゃるには、前田中納言利長殿のことがかかわっているそうだ。前田利長殿が大谷刑部殿から越前で策で騙された。そして大恥をかいてしまったことを激しく怒っているそうだ。刑部殿亡き後文句が言えないため、その配下で生き残っている甚内、赤座直保、小川祐忠、朽木元網に、怒りを向けておられるとのことだ。

 中納言殿は策略に簡単にかかり、世に恥を晒した。そして弟利政殿が離反した恨みもあるとのことであった。中納言殿は器量が狭いため、実に執念深いお方だ。内府様も大軍を率いる前田中納言殿には気を遣わねばならないのだ。それに、最初から、東軍に付いていた豊臣恩顧の大名たちの石高を増やすことを先にしている。奴らに不満を持たせると、また戦乱の火種ができる。そなたたち寝返り者たちにまで、所領を増やす分が足りないとの仰せだ。事前に通じていた甚内にはせめて所領安堵ですましてもらう。そして他の大名に失態が起きればそこを改易する。必ず淡路守殿に石高を増やすつもりであるとの仰せであった」

「前田利長が邪魔立てをしているのか。実に陰湿な奴だ。大大名とはとても思えない器量のなさだ。実に情けない。それに前田利長との戦いは気にしていないと内府殿は、関ヶ原の本陣で言われたではないか。利長ごときに気を遣わんでもいいのではないか。山岡道阿弥殿も大丈夫だと、そのようにおっしゃっていた」

 安治は珍しく冷静さを欠いていた。

「甚内よ。それはそうだが、赤座、小川、朽木の三名は、本領安堵も許されていないのだぞ」

 高虎は落ち着いて、安治の両手をしっかりと押えた。

「それは分かる、それはな。奴らは事前に寝返りを東軍に伝えていなかったからな。そこが俺と違うところだ」

「赤座直保は事前に通款を明らかにしていなかったこと、酒癖が悪く家臣へ粗暴な扱いだったことの理由で戦後内府殿に激怒された。寝返りの功を認められずに所領を没収されたぞ」

「うむ、そうだな。奴は愚か者だからそれでよい」

「そして小川祐忠も通款を明らかにしなかったことを逆に咎められて、改易にされた。身柄は東軍の親族に預けられた。その親族の嘆願により死一等を減じられたぞ。寝返ったのに死罪になるとは驚きだ。死罪になるまでの理由としては、本人の性分の悪辣さと家臣への虐待と領内での悪政を上げられた」

「まあ、あいつは一緒に戦っていても、その傲慢さや礼儀知らずだった。明らかに小人であったからな。しかも赤座と小川は民を痛めつけている。このような奴らは俺も許せん」

「朽木元網も、戦前に通款を明らかにしなかったとの理由により二万石から九千五百九十石に減封された。寝返りを明らかにしていなかったことは同じである。しかし減封ですんだわけは、領内をよく治めていて、民の暮らしが豊かであることだ。それらを内府様は深く考慮され、朽木元網は減封で済んだのだ」

「‎与右衛門よ。俺への扱いがやはりよく分からんのだ。俺は石高が増えて当たり前だ。、金吾などは、備前、美作、備中東半にまたがる宇喜多秀家殿の旧領の岡山五十五万石に加増、移封されたぞ」

「それは元々金吾殿は、戦前から筑前名島の大大名であり、今度の戦いで東軍の勝ちを一番に決めた者だからだ」

「俺たちは佐和山城をも落としたぞ。それなのに内府殿は小大名には、このように厳しいのか」

「すまぬ甚内。わしの力不足じゃ。すまぬ、すまぬ」

 高虎は頭を深く下げた。白髪が混じった後ろの頭が見えた。安治にとって長い時が経ったように感じられた。

「赤座たち三人のことは自業自得だ。しかし俺のことは決して納得ができぬ。前田中納言が何だ。あのような者は関ヶ原の本戦に間に合わなかったではないか」

「しかし、これから内府様が天下を治めるためには、百万石の大大名になった前田殿に用心し且つ懇意にせねばならん。甚内よ、今から内府様に弓がひけるか」

「むむっ、それはとてもできぬことだ。それこそ脇坂家の滅亡だ。何のために今まで苦労して寝返って戦ってきたのか分からん。仕方がない。前田利長は狭量ではある。しかし、内府殿のこれからの戦乱のない世にするためには、大事にせねばならん大名だからな」

 激怒していた安治は次第に落ち着いていった。

(刑部殿よ。このような仕儀になってしまいました。しかし、貴殿の望みは果たせそうですぞ。あの世で喜んでくだされ)

 大谷刑部の笑顔が浮かんできた。

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寝返りと祈り 県昭政 @kazkaz1868

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