エピローグ
女を見送る男に残されたもの
俺はアパートの敷地で引っ越し業者を眺めていた。2人しかいないが荷物を運搬する手際の良さはさすがプロだ。その2人に横から口を差し挟む女、ようやくあの女との縁も切れる、そう思うだけで心が晴れる。
「どうしたの。あたしとお別れするのが寂しい?」
「冗談だろ。嬉しくて祝杯でもあげたい気分だ」
女は俺の客、数年来の付き合いだ。
金にルーズな女は金貸し屋にとっては格好のカモ。借金はあっと言う間に膨れ上がる。普通の客ならここから地獄が始まるのだがこの女は違った。金のありそうな男を引っ掛け自分の借金を肩代わりさせるのだ。
用済みになった男とはすぐ別れ、また新しい借金を作り出す。俺と知り合う前からそんな生き方をしてきたんだろうな。金を借りるのも男を捨てるのも息をするように平然とやってのける。トンデモナイ悪女だ。
「いい話があるの。すぐに返済できると思うわ」
そう持ち掛けられたのは今年に入ってすぐのことだ。女はFX会社のコールセンターでサポート業務を担当していた。顧客の口座や住所といった個人情報は丸わかりだったようだ。
「独身、アラサー、着実な資産形成。住所はこの街。次のターゲットはこいつにするわ。ねえ、あんたの部屋をあたしにちょうだい」
女が狙いをつけた男は俺と同じ街に住んでいた。新しくアパートを借りると金がかかるので俺の部屋を明け渡せと要求してきたのだ。
「俺はどこに住むんだよ。同居じゃダメなのか」
「どうしてあたしみたいなイイ女があんたみたいな男と一緒に暮らさないといけないの。隣町に借り上げ社宅があるでしょう。そこに住めばいいのではなくて」
社宅といっても会社が借り入れたボロアパートだ。しかもワンルーム。女の言い成りになるのは癪だったが受け入れざるを得なかった。女の借金が膨れ上がってそろそろ返済してもらわないと俺のクビが危なかったからだ。
「この街のファミレスで働くことにしたわ」
それもターゲットに近づくための作戦だった。まもなく始まるGoToイートキャンペーン。時間に縛られない投資家なら必ずひんぱんに飲食店を利用するはず。店員と客という関係を利用して一気にターゲットに接近する、その目論見は見事に当たった。
配布が終了したクーポンを渡して気を引き、わざと水をこぼしてデートの機会を作り、指輪を見せつけて男の嫉妬心を煽る。あの女のいつものパターンだ。
「俺もずいぶん協力させられたからな」
恋人のふりをしてファミレスで仲良くしてみたり、わざとアパートまで尾行させたり、喧嘩している場面を見せて俺と借金の話をさせたり、全て女に頼まれてやったことだ。男は面白いように女の手のひらで踊らされていた。挙句の果てに借金の肩代わりだ。
「あいつも気の毒にな。おまえに会わなければ真っ当な人生を送れただろうに」
「人を疫病神みたいに言わないでちょうだい。借金はあたしが頼んだのではなく向こうが言い出したのよ」
そう仕向けたのはおまえじゃないか。やはりこの女は魔性だな。目を付けられた男は哀れなもんだ。公園でもファミレスでも思い直せと忠告してやったのに、あいつは聞く耳を持たなかった。これまでの男たちと同じだ。この女に魅入られてしまうと正常な判断ができなくなるようだ。
「しかも借金は200万なのに100万上乗せするとは、たいした
「金額はあたしが言ったのではないわ。向こうが勝手に思い込んだのよ」
そう思い込ませたのはおまえだろう。悪いのはいつも相手で自分じゃないってか。自虐的になれとは言わんが自己愛が強すぎるのもウンザリだな。
「それに100万ぽっちでは頑張った意味がないわ。せっかく婚約証書まで作って結婚をちらつかせてあげたのに投資に失敗するなんて、最低よ。どうせ死ぬにしてもガッポリ稼いでからにしてほしかったわ」
死者にまで鞭打ってやがる。この女の自己中は果てがないな。
「それよりも死亡保険金はちゃんと支払われるのでしょうね。そちらが心配だわ」
「たぶん大丈夫だ。まず自殺を疑うだろうが動機が薄い。確かに投資に失敗しているし借金もあるが、口座に金は残っているし実家には資産もある。母親に泣きつけば返済可能な額だ。それに加入させたのはうちと同じグループの保険会社だ。200万は借金の返済ということで書類の処理だけで済み、実際の持ち出しはおまえに渡す100万だけ。それくらいなら渋ったりもしないだろう。あそこはもともと危険な場所で今年に入って2件事故が起きている。警察も今回は事故だと判断しているし、よほどのことがない限り支払われるだろう」
「そう良かったわ。ところであいつの借用書ってある?」
「あるけど」
「いただけないかしら」
「どうするんだ」
「あいつの母親に会って払わせるの。息子さんはこんなに借金をしていました。婚約者のあたしひとりでは払いきれません。お母さんも少し出してくださいって」
「おい、待てよ。あいつの借金は死亡保険金でチャラになるんだぜ。あの借用書は無効だ」
「わかっているわ。でも母親はそんなこと知らないでしょう。こんなに手間ひまかけて100万ポッチでは満足できないもの。大丈夫よ、バレやしないわ。借金のことは母親には内緒のはずだから」
呆れた。この女、どこまで欲の皮が突っ張っているんだ。あの男もこれでは死んでも死に切れんだろう。
「最後のサイクリングくらい一緒に行ってやればよかったんじゃないのか。いくらなんでも冷たすぎるぞ」
「冗談はやめて。投資に失敗して婚約解消を申し込んできた男のお願いなんてどうして聞いてあげないといけないの。死んでくれてせいせいしたわ」
あの時はさすがの俺も凍り付いた。せめてこれだけでも受け取ってほしいとあの男が差し出した弁当の包みを、この女は地に投げ捨て足で踏みにじったんだからな。
居たたまれなくなった俺はあいつを公園へ連れていきしばらく話をした。あの女は全てがウソだ。清楚で上品で優しく見えてもその内側は打算と高慢に満ちあふれている。何もかもが芝居だ。仕草も言葉もそして文章さえも、あの女の全てが虚構なのだ。
あいつは力なくうなずくとロードバイクに乗って去って行った。それが最後の遠出になるとは思ってもいなかっただろう。
「ここを出て次はどこへ行くんだ」
「高級マンション。こんなボロアパートではいい男は引っ掛からないもの。金持ちを捕まえるにはあたしも金持ちにならないとね」
「そうか。次の借金は俺の会社ではなく別のところにしてくれ。おまえの面倒を見るのはもうこりごりだ」
「いいわよ。金貸しなんて掃いて捨てるほどあるもの。長い間ありがとう」
礼を言われたのは初めてだ。少しも嬉しくはないが。
「すみません、自転車の前カゴにこんなものが置いてありました」
引っ越し業者が女に話し掛けてきた。手にはニッパを持っている。
「あら、いけない。置き忘れたままだったのね。返すわ。あなたの工具箱から借りたの」
「ニッパを? 何のために……あっ」
不吉な考えが俺をとらえた。話しが済んであいつと一緒に公園から戻ってきたとき、この女はしゃがみこんで駐輪場にとめていたあいつの自転車を眺めていた。手に何か持っていたような気がする。それがニッパだったとしたら。
「あの事故……まさか、おまえ、ブレーキワイヤーに……」
「ふふふ」
女の口元には微笑が浮かんでいた。まるで獲物の首を刎ねて喜ぶ死神のようだ。事故現場はずっと下り坂が続いた後の左カーブ。ブレーキもかけっ放しになるだろう。ブレーキワイヤーの小さな傷でも命取りになりかねない。
「そうか、婚約証書はそのために取ったのか。赤の他人なら保険金殺人を疑われる。しかし婚約者ならば相手に保険をかけていても不自然ではない」
「だとしても、それが何だと言うの。何の証拠もないでしょう」
「それは、そうだが」
「あなたも余計な詮索はしないほうがいいわよ。せっかく貸金を回収できたのですもの。ふふふ」
「荷物の積み込み、終わりました」
女の自転車をトラックに運び終わった引っ越し業者が確認を求めてきた。サインする女。走り出すトラック。女が会釈する。
「それではあたしも出発します。ああ、そうそう。これを返しておきますね」
女が渡したのは俺のスマホだ。連絡用に貸していたサブのスマホ。アパートの家賃同様、スマホの料金も俺が支払っていた。
「長らくお世話になりました。さようなら」
「ああ、元気でな」
女はアパートの敷地を出ていく。二度と会うことはないだろう。これまでの疲れを吐き出すようにため息をついた俺は返してもらったスマホを見た。大量のメール着信。そのほとんどがあいつからだ。俺はあいつが発信した最後のメールを見た。本文はなかった。添付された画像にもあいつの姿はなかった。ただ哀しいまでに鮮やかな山々の紅葉が写っているだけだった。
ふたりの日記 沢田和早 @123456789
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